耳に残るは

石濱ウミ

・・・



 ……雨だ。


 玄関を開けたら雨が降っていた。

 細かい霧のように烟る雨は、音がない。

 傘を広げて一歩外へ踏み出せば道路を行き交う乗り物の、水飛沫を撥ねらせる音が遠く聞こえてくる。

 そして、まるでそれが何かの合図だったかのように突然、音が溢れ出す。

 水に濡れた地面を靴底がたたく。

 呼吸する音、動くことによる衣擦れ。

 傘が小さな音を集めて、僕に届ける。

 


『お元気ですか? 今、何をしていますか』



 その手紙を読んだのは、昨日。

 帰宅した僕に届いたそれは、過去からの手紙。

 管理教育を受けていたあの頃、僕たちは課程を終えた記念に未来に向けて何かを残すことにしたんだ。

 クラスで決まったのは、過去に習って各々で手紙を書き、今の自分の気持ちを未来にそれぞれに直接届けることだった。


 手紙……!


 歴史の授業で習ったばかりのその通信制度の仕組システムみは、端末以外のやり取りをしたことのない僕たちから見ると、あまりにも非現実的で信用のならないものだった。

 紙に直接字を書いたものが、場所も時さえ隔てても、手元に届くというその何と不思議なことか。

 廃れかけたコミュニケーション手段だったが、として今も僅かに残されているこの不可解な仕組システムみを、僕たちは使ってみることにしたんだ。

 懐疑的な気持ちと憧れを込め半信半疑で。

 二十歳になる節目にきちんと届くように投函した予約設定やくそくは、あの頃は遥か未来のようで覚束ない気持ちがしたものだが、こうして果たされた今となっては、昔の方が遠い。



『大人になって、世界は変わりましたか?

 どんな未来を送っていますか?

 楽しい毎日ですか?』



 あの日、僕たちは小さな悪戯をした。

 未来の自分に向けて書くはずだった手紙を、友人同士で書いて送りあったのだ。

 書くように指導されたにも関わらず、僕たちは目配せあって封筒に細工をした。

 何しろ自分に向けて何を書いたら良いのか分からないし、あの頃は未来の自分のことを考えるのは恥ずかしい事のように思えて、仲の良かった僕たちは他の人には内緒でお互いに手紙を書くことにしたんだ。

 そこにちょっとした駆け引きがあったのは否めない。なぜなら誰が誰を好きなのか、なんていうのは言葉にはしなくても、いつも一緒に居ればそれは周知の事実で、だけどそのままの関係を崩したくなかった僕たちは、幼い恋心を秘めたままにしていたから。

 


『今でも、わたし達は仲良くしていると信じています。

 まもなく初めての適応検査がありますね。

 同じところに行けたら良いんだけど、どうだったかな?』

 


 濡れて重くなった傘を少し持ち上げ、黄味がかった灰色の空を少し眺めてまた歩き出す。

 以前、僕が暮らしていた街に向かって。

 上空には何台もの偵察ドローンが、我が物顔で飛び交っていた。

 外出規制が解除されたばかりのこの時間、外に出ている人は少ない。

 

 

 適応検査。


 僕たちが大人になる前に、必ず受けなくてはいけないその理由を、その意味を、あの頃は知る由も無かった。

 なぜ手紙は書かなければならなかったのかも。



『覚えていますか?

 この手紙を読んだ次の日に、いつもの場所で待ち合わせる約束をしたこと』

 


 大人になれば自由があると思っていたあの頃の僕たち。

 居住区を離れるたびに許可が必要なことさえ、知らなかったあの日。

 僕の耳に残るあの子の声は、読み慣れない手書きの文字の向こうから語りかけてくる。

 上空のドローンが傘に隠れる僕に、虹彩認証を求めて警告音を鳴らす。

 僕は気づかない振りをして、足を速める。



『それにしても文字を手で書くのが、こんなにも恥ずかしいなんて知りませんでした。

 書いた文字から想いが浮かび上がるようで、きっと昔の人は特別な相手にしか手紙を出さなかったんでしょうね』

 


 ドローンの発する警告音が、少しずつ大きくなる。

 僕は逃げるように、先を急ぐ。

 もうすぐ。

 約束の場所までは、あともう少しなんだ。



『またすぐに会えると分かっていても、言葉を文字にして、ここで伝えても良いでしょうか?』



 ツベルクリン反応のようなものだと、指導教官が言った適応検査の注射は、簡単なワクチンの接種の筈だった。そのワクチンに適応出来るか否かで、居住区を決められることになっていると信じていたから。

 同じ居住区だと良いね、なんて軽口を叩きながら僕たちは笑い合っていた。

 まさか、それが増えすぎた人類を管理するための優秀な遺伝子だけを残す選別だとは思わずに。真の目的はだとは知らずに、僕たちは素直に腕を差し出したんだ。

 今も、あの子の白い肌を覚えている。

 誰かに初めて触れたいと思ったのは、その時だったから。僕の目の前に、白くとろみを帯びて輝く柔らかくしなやかな甘い香りのするあの子の腕が、あったんだ。

 


『あなたが、好きです。

 あの場所で会えたら、あなたの気持ちを聞かせてください』



 いまや頭上から発せられる警告音は最大になり、傘のすぐ上には何台ものドローンが集まって来ているようだった。

 僕の言葉に出来なかった想いは、静かに降り続くこの雨に似ている。

 僕は柔らかな雨の中、ぎゅっと目を閉じ、旋回するそれらを散らすようにして傘を放り出した。

 すぐそこにはあの、約束の場所。


 走る。

  

 走る走るはしる……。

 靴が濡れた地面を踏みしめ、蹴り上げ水飛沫を撥ね飛ばす。

 目を閉じたまま。

 あの場所に向かって。


 それから僕はようやく目を開けた。

 

 ……待つ人の、誰もいないあの場所で。


「僕も、ずっと好きだったんだ」


 小さく声に出してみる。

 あの子に届かなかった僕の手紙に書かれている文字は、どこに消えたんだろう。

 未来にあるはずだった僕たちの自由は、どこにあるんだろう。

 あの子の臓器は何に使われたのだろう。



 虹彩認証を終えたドローンは、一台を残して離れてゆく。そしてこの機械は、僕の疑問に答える術を持たない。




ココハ、管理区域内デス。

アナタニハ、立チ入リガ認メラレテイマセン。

許可ノナイ立チ入リハ、認メラレマセン。

直チニ退去シナサイ。


ココハ、管理区域内デス……。

アナタニハ、立チ入リガ認メラレテイマセン……。

許可ノナイ……。









《了》




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