メイドとご主人様との、離れがたい“しあわせ”時間

 この物語の醍醐味は駄洒落である。いろいろな意味でニンマリしてほしい。 -Fin.-

 でも本当にこれしか書かないのではうら淋しいので、はみ出すようなことを考えてみる。

 思想家ジョルジュ・バタイユは、その思想的根源を「超出(過剰)」に置き、超出した生のエネルギーは「エロティシズム(性)」と「死」に向かうと考えた。超出はエロティシズムに向かい過ぎると、SM行為の果てに死への欲求に突入していく。言い換えると、エロティシズムは超出することによって死に向かっていくのだ。

 物語の語り手であるメイドだが、彼女には名前がなく、生きる理由はご主人様に尽くすことだという。もし身寄りがなければストリートチルドレンとして性的暴行など悲惨な目に逢っていたかもしれないので、それより清潔に生きていられる今のメイドの存在(生)の根源はご主人様由来の、他動的なものだ。
 人間は、生まれ落ちたときから限定された空間に事実上拘束され、さまざまな慣習や地域性といった文化全体に知らず知らず身を委ねていると、そのさらに外側の世界へ出ていこうという発想自体が無くなる。「自分の生活圏=世界」だからだ。さらに、世界から出ないということは「世界の外=完全な他者からの視線」から事象を対象化できない意味をも持つので、「自己=自らの存在」も客観的に対象化できない即自的な自己(ego)しか持てない状態になる。
 となると、メイドに名前が与えられていないという実際はこのことを深刻にさせる。名前とは他者に対する自分の個体を特定する一般的なツールなのに、これが無い。メイドには即自的自己しかないからこそ内面が無い。それは、メイドが物語の語り手であるにもかかわらず、よく読めば遂に自分の周辺の状況についての描写に終始し、優しいとか勤勉だとか自分の性格を一度も表現していないことから解る。メイドが何者かということも他人によって与えられたものを享受しているだけだ。そのうえで、メイドにとって生きがいがご主人様へのご奉仕しかありえず生活圏のさらに外なんて考えもつかないとくれば、表では評判の良いご主人様の持つプライベートでの支配感がなにやら危険な変態みを帯びてくる。

 ご主人様の言動には、どうも人間がそれなりに尊厳をもち生きることに拘りがあるらしい。生きるうえでは、ただ存在するのではなく役割や目的を持っていることが良い生き方と思っているのかもしれない。会社経営のため教育を片手間仕事に出来ないという彼の心情は、自分の仕事の処理の都合という合理的な理由だけでなく、教育される若者たちが質の良い人材に育つために弊害となり得ることはしたくないというウェットな理由もあるのだろう。食後、メイドを膝上に座らせてただの感謝ではなく存在に対する感謝を述べたり、あの時間の前口上でも「生きることに感謝」とわざわざ言っていたりするあたり、メイドと出会う前はさぞかし存在的に死んでいるような生活でも送っていた気分だったのだろうか?

 かくして、ご主人様の方もどうやらメイドという生きがいを得ていたようだ。これによって、メイドとご主人様は共依存のような関係であることが解った。メイドに名前が無いのも合理的だ。名前があると世界の外を知ることになって、自分の元を去る危険が生じるからだ。生きがいが出ていくと、自分は存在が死ぬ破目になる。ご主人様は別れの可能性が生じることさえも恐れている。
 あの時間というのは、ただの身体的行動よりも「自分がかわらずに自分であり続けている」ことの確認という精神的儀式の側面が強い。確認によって共依存の二人は満たされ合い安心し合うのである。互いに生かされ合い超出した生のエネルギーの結果が、あの時間というわけなのだ。

 となると、バタイユによれば次の段階で来るのは「死」である。仏教は様々なものが永遠にある訳ではないからと無常を説くが、二人の共依存に変化をもたらす切っ掛けがないとも限らない。片方が片方を失うことを恐れるあまり、二人は共に……なんてことになりかねない危うさを孕んでいる。ご主人様はメイドに出会って生きがいを得たが、メイドに出会ってしまったために生に関する決意をも恐れない人になっていそうだ。二人は幸せであり、そして死合わせを共にする。

 なら、話はこうだ。「メイドが冥途だったかも。」 -Fin.-