第十一幕
第十一幕
ようやく辿り着いた螺旋階段を手摺を頼りに駆け上がれば、遂に始末屋は
「ふん!」
取り敢えず始末屋は、手近な扉の一つを力任せに蹴り開けた。そして蹴り開けられた扉を潜って入室すると、そこには豪奢な造りのダイニングテーブルと数脚のダイニングチェアが整然と並び、人の気配は無い。
「ここは……ダイニングか」
そう言った始末屋の言葉通り、薄暗い部屋の奥にはちょっとしたレストラン程度の規模のキッチンもまた見て取れ、どうやらこの部屋は
「……」
すると始末屋は無言のままダイニングを縦断し、無人のキッチンへと足を踏み入れると業務用冷蔵庫の扉を開け、貯蔵されていた食材を物色する。そして未だ調理されていない丸鶏とジャガイモと真っ赤な完熟トマトを発見するや、生のままのそれらを手に取って口に運び、むしゃむしゃと咀嚼し始めた。どうやら彼女は栄養豊富な鶏肉と生野菜を食べる事によって、マスター大山との死闘で消耗した分のエネルギーを再補給しようとしているらしい。
「げっぷ」
生の丸鶏とジャガイモ、それに完熟トマトを食べ終えた始末屋は盛大なげっぷを漏らすと、今度は飲料が貯蔵された冷蔵庫の扉を開けた。そして1ガロンのプラスチックボトルに入った牛乳を手に取ったかと思えば、いわゆるラッパ飲みの要領でもって、その中身をごくごくと飲み下し始める。
「げっぷ」
1ガロンの牛乳を一気に飲み干し終えた始末屋はようやく腹が膨れたのか、空になったプラスチックボトルを調理台の上に置くと、再び盛大なげっぷを漏らした。一般的な成人女性の胃袋の容量は約2ℓほどなので、1ガロン、つまり約4ℓの牛乳を一気飲み出来る始末屋の健啖家ぶりもかくやと言えよう。そして口元にこびり付いた口髭状の牛乳をトレンチコートの袖でもって拭い取った彼女は来た道を引き返すようにして廊下に戻り、次の扉を蹴り開けた。
「ここも違う」
ダイニングの隣の部屋は人工大理石で出来た大きなバスタブが鎮座するバスルームだったので、退室した始末屋はまた次の部屋の前へと移動し、扉を蹴り開ける。
「違う」
バスルームの隣の部屋がトイレである事を確認すると、始末屋は踵を返し、とっとと退室した。そして更に隣の部屋の扉を蹴り開けてみれば、そこは薄暗かったダイニングやバスルームやトイレとは違って照明が灯されており、広く明るい室内には複数の人の気配も感じ取れる。
「始末屋、危ない!」
扉を蹴り開けた始末屋の姿を認めると同時にそう言って警告したのは、部屋の中央に設置されたベッドの上で半身を起こす平凡な顔立ちの少年、つまり
「死ね!」
ガスマスクのゴーグル越しに殺意に満ちた眼差しをこちらに向けながら、威勢良くそう言った、どうやらこの部屋で
「糞っ!」
すると私設軍隊の兵士はタクティカルナイフの
「遅い!」
しかしながら兵士が
「ぷお!」
喉の奥から頓狂な声を漏らしながら、始末屋によって
「始末屋、大丈夫か?」
「始末屋さん、大丈夫ですか?」
ベッドの上の
「ああ、大丈夫だ。あたしだって、この程度の雑兵相手に苦戦するほど落ちぶれちゃいない。それよりも
「うん、僕も無事だ。怪我一つしてないよ」
「ええ、私も無事です」
始末屋に尋ねられた
「貴様の身体を拘束しているのは、この手錠だけか?」
そう言った始末屋の言葉通り、どうやら
「ふん!」
すると常人離れした膂力を誇る始末屋の指先の力だけでもって、鋼鉄製の手錠は金属が破断する際の耳障りな音と共に、あっけなく引き千切られてしまった。
「よし、行くぞ
手錠を引き千切った始末屋はそう言って、ダブルサイズのベッドから床へと降り立った
「あの……始末屋さん?」
始末屋がくるりと踵を返し、出入り口である扉の方角へと足を向ける一方で、半ばガン無視される格好になった
「出来れば私の方の手錠も壊していただけると助かるのですが……お願い出来ないでしょうか?」
「なんだ
「そりゃ私だって助かりたいですよ! それにこんな所に一人ぼっちで取り残されても困ります!」
「だが今回の依頼内容には、貴様の救出は含まれていない」
しかしながら冷静沈着を旨とする始末屋は
「どうする、
「うーん……そうだな、
「ありがとうございます、始末屋さん。おかげで助かりました」
ぺこぺこと頭を下げながら礼の言葉を述べる
「さあ、急げ。この階が火に呑まれる前に、このビルから脱出するぞ」
「火?」
始末屋の口から発された「火」と言う不穏な単語に反応し、
「ああ、そうだ。一階のエントランスにガソリンを撒いて火を放っておいたから、今頃下層階は火の海の筈だ。だからエレベーターでは逃げられない。屋上のヘリポートからヘリでもって脱出する」
そう言った始末屋が退室すべく扉の方角へと一歩を踏み出したところで、マスター大山の下段回し蹴りによって筋肉が断裂した右太腿に激痛が走り、体勢を崩して彼女は膝を突く。
「おい、どうしたんだ始末屋? お前、どこか怪我をしているのか?」
「問題無い。ほんの
気遣わしげな
「どこが
「心配するな。今はあたしの身体の事よりも、ヘリポートに急ぐ事だけを考えろ」
そう言った始末屋は口元にこびり付いた鮮血をトレンチコートの袖で拭い取り、激痛が走る右脚を引き摺りながら、
「ところで始末屋、僕のお爺様はどこでどうしているんだ? 未だこのビルの中に居るのか?」
「さあ、知らんな。あたしは奴の姿を見ていないから、未だこのビルのどこかに居るのかもしれないし、エントランスに放火された時点でとっととを捲って避難したのかもしれない。それと
始末屋はそう言うが、
「確かにある意味ではそうなのかもしれないけど……でもやっぱり、僕にとって
「そうか。好きにしろ」
やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、ヘリポートに続く階段の方角へと向けていた足を止めた。
「それで
「うん、こっちに来て」
そう言った
「ここだ。ここがお爺様の寝室だよ、始末屋」
廊下の先で足を止めた
「ふん!」
蹴り開けられた扉を踏み越えて室内へと足を踏み入れてみれば、そこは先程までの
「……来たか」
天蓋付きで、尚且つ電動リクライニング機能も備えたベッドの中央に横たわる、人工呼吸器と心電計を装着した白髪の老人。つまり
「お爺様!」
始末屋に続いて入室した
「
人工呼吸器を装着した
「だって……たとえ僕がお爺様のクローンであったとしても、お爺様は僕のお爺様に違いないから……」
「甘いな。この
ベッドの上で半身を起こした
「それにしても、まさかこの
「さあ
始末屋そう言うと、隣に立つ
「お爺様」
一歩前に進み出た
「自分がお爺様のクローンだと知った時、僕はまず最初に、お爺様を恨みました。自分は移植用の内臓を培養するための、つまりはお爺様の延命のために育てられた紛いものの人間に過ぎないと言う事実を突き付けられたのですから、僕にはお爺様を恨む権利があって然るべきです。ですが不思議な事に、恨むと同時に感謝もしていました。お爺様の身体のたった一つの細胞に過ぎなかった僕を一人の人間としてこの世に誕生させ、たとえ内臓が目当てであったとしても何不自由無くここまで育ててくれた事を、感謝しない訳がありません。ですからお爺様、最後に一言だけ、感謝の言葉を述べさせてください。……ありがとうございました」
「甘い。
「だから、お前にもう用は無い」
そう言った
「!」
ライノ200DS
「……あれ?」
しかしながら、いつまで経っても
「無駄だ」
そう言ったのは
「糞っ!」
自らが撃ち放った銃弾が無力化された事を悟った
「!」
始末屋の顔面に着弾した弾頭の行方を、すっかり老眼が進行してしまった両の
「だから、無駄だと言ったんだ」
始末屋はそう言いながら、歯で噛み取ってみせた鉛の弾頭を一旦口に含むと、絨毯敷きの床に向けてぺっと吐き出した。すると
「化け物め……」
「何とでも言え。とにかく貴様のクローンであり孫である
そう言った始末屋は隣に立つ
「会長、もうすぐこのビルは炎に包まれます。このままでは消防の手による鎮火も救助も期待出来ないと言うのに、あなたは逃げないのですか?」
「……貧民街でのゴミ
「そいつはまた、随分と殊勝な言い分だな。とてもじゃないが、内臓を奪い取るためのクローンを作らせてまで延命しようとしていた老人の言葉とは思えない」
始末屋がそう言って疑問を呈すると、
「愚問だな。今しがた説明した通り、この
「成程。それが貴様の考えか」
そう言って得心した始末屋は、再び扉の方角へと足を向けた。そして彼女に肩を抱かれた
「今までありがとうございました、お爺様。さようなら」
己のクローンである
「さあ
そう言って急かす始末屋に先導されながら、彼女の背中を追うような恰好でもって
「
内省的な口調でもってそう言った
「なあ始末屋、本当に僕らはこのビルから脱出出来るんだろうな?」
寝室のベッドの上で最期を迎えようとする
「ああ、その点なら問題無い。もしもの時のために、ちゃんと手は打ってある」
やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、螺旋階段の終着点に立ちはだかる観音開きの鉄扉を力任せに蹴り開けると、
「……えっと、その、始末屋さん? それで、その、脱出するためのヘリコプターはどこに在るんでしょうか?」
鉄扉を蹴り開けた始末屋と
「そうだぞ始末屋! ヘリコプターなんてどこにも無いじゃないか!」
「!」
すると次の瞬間、ヘリポートの中央に立つ
「おい、ちょっと待てよ始末屋! これってもしかして、もうすぐそこまで火が迫って来てるんじゃないか? 段々熱くなって来たし、煙くて煙くて仕方無いぞ!」
泡を食ったように慌てふためきながらそう言った
「どうするんだよ始末屋! なんとか言えよ! なあ!」
焦燥感に駆られながらそう言った
「心配無い。上を見ろ」
始末屋がそう言えば、彼女が見上げる夜の雨空を、
「あれは……」
ばらばらと言うローターの駆動音と風切り音を奏でながら降下して来るその物体は、機体全面をオリーブドラブ色に塗られた一機のヘリコプターであった。しかも驚くべき事に、シコルスキー・エアクラフト社が製造するシングルローター式の中型多目的軍用ヘリとして知られるUH-60 ブラックホークだったのだから、
「
「う、うん」
「あら始末屋、ちょっとばかり遅れちゃったかもしれないなと心配したけれど、どうやらちょうど良いタイミングだったみたいね?」
引き開けられたハッチから姿を現すなり始末屋に向けてそう言ったのは、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包んだ黒髪の若い女性、つまり『Hoa's Library』の経営者たるグエン・チ・ホアであった。
「ああ、そうだな。あたし達もつい今しがたここに到着したばかりだから、ナイスタイミングと言ったところだ」
始末屋はそう言うと、ヘリポートに着陸したままエンジンが掛けっ放しのUH-60 ブラックホークへと足を向け、背後で呆気に取られている
「ほら
「あ、ああ、うん」
はっと我に返った
「それじゃあパイロットさん、皆揃ったみたいですし、そろそろ出発していただけるかしら?」
グエン・チ・ホアが語尾の音程を上擦らせながらそう言えば、彼女の要請を承諾したパイロットが操縦桿を握りながらラダーペダルを踏み込み、エンジンの回転数を上昇させたUH-60 ブラックホークはゆっくりと離陸した。すると離陸から程無くして、遂に
「ああ……」
充分な高度を確保すると同時に、ビジネス街から遠ざかりつつあるUH-60 ブラックホーク。そのUH-60 ブラックホークの機体側面の窓から身を乗り出した
「どうした、
始末屋がそう言って尋ねれば、尋ねられた
「全く後悔していないと言えば嘘になるのかもしれないけれど、これが自分にとって最善の選択肢だったと僕は信じているよ。だってこうでもしなければ、つまりお前に助け出してもらわなければ、僕は確実に命を落としていたんだからね」
フォルモサの街の上空を旋回するUH-60 ブラックホークの機内で、やはり物憂げな表情と口調でもってそう言った
「ねえねえ、お取込み中のお二人の仲に水を差すようで申し訳無いけれど、ちょっといいかしら? 初めまして、あなたが
すると機内の空気を読んでか読まないでか、始末屋の向かいの簡易座席に腰を下ろしたグエン・チ・ホアが、如何にも興味深そうにほくそ笑みながらそう言った。
「え? あ、はい、僕が
「あらごめんなさい、どうやら申し遅れちゃったみたいね? あたしはグエン・チ・ホアよ? そうね、自己紹介ついでに素性を明かすなら、ここに居る始末屋の古い友人と言ったところかしら? まあ、いわゆる腐れ縁と言う奴ね?」
愉快そうに眼を細めてくすくすとほくそ笑みながら、グエン・チ・ホアはそう言って自己紹介を終えた。
「それにしてもチ・ホア、確かにあたしはヘリを用意してくれとは言ったが、よくもまあこんな軍用ヘリが用意出来たものだな」
「それって褒めているのかしら? それとも呆れているの? まあどっちにせよ、あたしはフォルモサの軍隊の上層部にちょっとしたコネがあってね? 四人以上が乗れるヘリコプターを用意してほしいって伝えたら、この大きなヘリコプターを貸してくれたって言う訳なのよ?」
「成程」
そう言って得心した始末屋とほくそ笑むグエン・チ・ホア、それに燃え上がる
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