第二幕


第二幕



 男は苦悩し、また同時に後悔してもいた。

「ああ、糞、どうしてこんな事になっちまったんだ……」

 金細工が施された豪奢な造りのソファに腰を下ろし、両手で頭を抱えながらそう言って苦悩し続ける男を、窓辺に立つ女が窘める。

「あんた、いい加減にしな! そんな男らしくもない泣き言なんかを、いつまでもぐちぐちと未練がましくほざいているんじゃないよ! いいかい、よく聞きな? 一度走り始めちまった車は、もう元の道には戻れないんだからね! だからあたしもあんたも潔く覚悟を決めて、最後まで全力で走り続けるしかないんだよ!」

 いらいらと苛立って貧乏揺すりを繰り返しながらそう言った女は全身から香水の匂いをぷんぷんと放ち、やけに趣味の悪い装飾過多なドレスに身を包んだ、まるでルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場するハンプティ・ダンプティの様にぶくぶくと醜く肥え太った中年女性であった。

「そうは言うけどな、お前? あの業突く張りの金龍ジンロンの老いぼれが、俺達なんかの要求を素直に呑むと思うか? いいや、絶対に呑まない! 呑む訳がない! 必ずや俊明ジュンミンの奴を取り戻しに、死に物狂いでもってここに乗り込んで来るに決まってる!」

 投げやりな口調でもってそう言った男もまた、窓辺に立つ中年女性と同じくぶくぶくと醜く太った中年男性であり、加齢による染みだらけのその頭はぴかぴかに光り輝くほど禿げ上がっている。

「ああ、もう! あんたの女々しい泣き言なんて、もうこれ以上聞きたくないよ! その辛気臭い顔を見ているだけで気が滅入るから、下のカジノにでも行って、時間を潰して来な!」

 女に怒鳴り付けられた男は深い溜息を漏らしながら、沈痛な面持ちのままソファから腰を上げた。そしてとぼとぼと覇気の無い足取りでもって彼が縦断したこの部屋は、ホテル媽閣マーコウのロイヤルスイートルームであり、そのホテルが建つこの地こそ快楽と悦楽の街ハオジアンに他ならない。

 ハオジアンはフォルモサから見て1000㎞ばかり西南西に位置する、大陸の河口のデルタ地帯に栄えた、主に合法カジノと観光を主要産業とする近代的な大都市である。一年を通して気候は温暖で、常雨都市フォルモサの様に雨が降り続ける事もなく、地理的に接する大陸や世界各地からの観光客達を分け隔てなく歓迎する事で知られていた。勿論言うまでもない事だが、歓迎するのは善良な市民だけとは限らず、一攫千金を夢見るならず者達もまた跳梁跋扈している。

「はあ……」

 まるで一歩歩く毎に肺の中の空気を吐き出すかのような頻度でもって溜息を漏らしつつ、醜く太った禿げ頭の中年男性、つまり黄冠宇ホァン・グァンユーはホテル媽閣マーコウのロイヤルスイートルームを後にした。彼とその妻である黄美玲ホァン・メイリン、つまり窓辺に立っていた中年女性がこのホテルに身を隠してから、既に一週間余りが経過している。だがしかし、彼の義理の父であり、妻の実の父である黄金龍ホァン・ジンロンとの交渉は難航するばかりで、解決の糸口は一向に見出せずにいた。

「こうなったら、腹を括るしかないか……」

 やはり沈痛な面持ちでもってそう独り言ちた黄冠宇ホァン・グァンユーはホテル媽閣マーコウの最上階の廊下を渡り切り、エレベーターに乗り込むと、階下のホールを目指す。そしてホールが存在する階層に到着したエレベーターの扉が開けば、そこはまさに夢の国、つまり如何なる国の法律も及ばない合法カジノの楽園であった。

「うわぉ!」

 煌びやかな衣装でもって着飾った白人、黒人、アジア人の老若男女が入り乱れ、チップの姿を借りた大金が飛び交うカジノに足を踏み入れた黄冠宇ホァン・グァンユーは思わず歓喜の声を上げてしまい、どうにも興奮を隠せない。そして銀行口座に蓄えられた電子マネーをスマートフォン経由でチップへと換金し、人混みを掻き分けながら自分の立ち位置を確保した彼は、さっそくバカラが営まれるテーブルへと足を運ぶ。

「おい、俺も参加させてくれ!」

 声高にそう言った黄冠宇ホァン・グァンユーはディーラーの手によって配られるカードの点数を予想し、架空の存在であるバンカーとプレイヤーとが対戦するテーブルに高額のチップを次々と投げ入れるが、その予想はことごとく外れてしまってチップを回収されるばかりだ。

「糞! イカサマだ! こんなのイカサマに決まってる!」

 興奮した黄冠宇ホァン・グァンユーは眉間に血管を浮かび上がらせながら抗議するものの、客からのクレームには慣れっこのディーラーは無言のまま首を横に振り、ゲームを続行する。

「良し、いいぞ! そうだ、その調子だ!」

 やがて勝利の女神が微笑み掛けたのか、興奮が最高潮に達した黄冠宇ホァン・グァンユーは周囲の客達を押し退けながらテーブルの上に身を乗り出し、次々と配られるカードの点数から眼が離せない。するとその時、背後から何者かがとんとんと、彼の肩を叩いた。

「今いいところなんだ、黙ってろ!」

 しかしながら黄冠宇ホァン・グァンユーは背後を振り返りもせずにそう言って、彼の肩を叩いた何者かを無視シカトする。するとその何者かは、今度はばんばんとやや強めに黄冠宇ホァン・グァンユーの肩を叩いたので、嫌が応にも彼は振り返らざるを得ない。

「まったく、どこのどいつだ! こんなチャンスに水を差す無粋な輩は!」

 ホールを埋め尽くすほどの観光客達でもって賑わうカジノの片隅で、禿げ頭を真っ赤に紅潮させた黄冠宇ホァン・グァンユーがそう言いながら振り返ってみれば、そこには黒い三つ揃えのスーツと駱駝色のトレンチコートに身を包んだ大女が立っていた。言わずもがな、始末屋である。

「貴様が黄冠宇ホァン・グァンユーだな?」

 始末屋はそう言って最終確認を行うが、当の黄冠宇ホァン・グァンユーはぽかんと呆けるばかりで、彼自身が置かれた状況を理解していない。

「あ? 誰だ、お前は? 俺に何か用か?」

 黄冠宇ホァン・グァンユーがそう言って問い返すと、それを肯定を意味する返答と判断した始末屋は、彼が着ている仕立ての良いスーツの襟首を掴み上げた。そして人並外れた膂力でもって黄冠宇ホァン・グァンユーのぶくぶくに太った身体を持ち上げたかと思えば、そのままバカラが営まれているテーブルの上にその身体を押し付け、トレンチコートの懐から取り出した手斧の切っ先を彼の喉元に突き付ける。

「!」

 突如として繰り広げられた蛮行を発端として、テーブルを囲む女性客の一人が、絹を引き裂くかのような金切り声でもって悲鳴を上げた。するとその悲鳴を合図として恐怖心が伝播し、テーブルの周囲だけでなくその場に居合わせた観光客達全員が突発的なパニック状態に陥ったかと思えば、ホールから避難すべくエレベーターの搭乗口へと殺到する。我先に逃げ延びようとする彼ら彼女らの姿に、ノブレス・オブリージュ、つまり上流階級としての矜持を胸に責務を果たそうとする崇高な者は一人として見受けられない。

「助けて!」

「テロか? テロなのか?」

「助けてくれ、人殺しだ! 斧を持った暴漢が暴れているぞ!」

 無責任な憶測を口々に叫びながら、合法カジノでのギャンブルを楽しんでいた観光客達は悲鳴交じりに退避し始め、まるで沈没船から逃げ延びる鼠の様な素早さでもってホールから人の姿が消えて行く。そしてふと気付けば、殆どの観光客達はエレベーターでもって階下に退避するか遠巻きに見守るばかりで、ホールの床に散らばった高額チップを拾い集める浅ましい守銭奴か乞食を別にすれば、始末屋と黄冠宇ホァン・グァンユーの周囲から人の姿は消え去った。そして先程までの喧騒など嘘の様に静寂を取り戻し、ほぼ無人となったホールの片隅で、彼女は彼に問う。

「貴様らが連れ去った、黄俊明ホァン・ジュンミンはどこに居る?」

「な、ななな何の事だ! 俺は何も知らんぞ!」

 バカラのテーブルに顔面を押さえつけられ、喉元に手斧の切っ先を突き付けられながらも、黄冠宇ホァン・グァンユーは白を切った。しかし当然の事ながら、そんな小手先の言い逃れなど始末屋には通用しない。

「そうか。それなら思い出させてやる」

 何の感慨も覚えないような淡々とした口調でもってそう言った始末屋は、右手に持った手斧の鋭利な刃先を振るい、黄冠宇ホァン・グァンユーの右耳を躊躇無く削ぎ落とした。まるで出来損ないの餃子の様な耳が宙を舞い、緑色のラシャが張られたテーブルの上にぼとりと落下する。

「ぎゃあっ!」

 削ぎ落とされた右耳の断面から真っ赤な鮮血をぽとぽとと滴らせつつ、身動きが取れない黄冠宇ホァン・グァンユーは苦悶の声を上げた。そしてそんな彼に、始末屋は残された左耳に手斧の切っ先をあてがいながら、再度問う。

「貴様らが連れ去った、黄俊明ホァン・ジュンミンはどこに居る?」

「さ、さ、最上階だ! このホテルの最上階の、俺と美玲メイリンが泊まっているロイヤルスイートルームの寝室に奴は居る!」

 痛みに耐えるための訓練など受けてはいないがために、黄冠宇ホァン・グァンユーは片耳を削ぎ落されただけで音を上げ、彼らが誘拐した黄俊明ホァン・ジュンミンの居所をあっさりと白状した。

「本当だな?」

 するとそう言って確認を取りつつ、始末屋は黄冠宇ホァン・グァンユーの残された左耳に手斧の刃を押し付け、刃先を少しだけ食い込ませる。

「ほ、本当だ! 嘘なんかじゃない! 俺と美玲メイリンの手でもって、俊明ジュンミンの奴はそこに監禁している!」

 この黄冠宇ホァン・グァンユーの言葉に嘘は無いと確信した始末屋は顔を上げ、ホテル媽閣マーコウの最上階の方角へと眼を向けた。そして再び、彼女がバカラのテーブルに押さえ付けている黄冠宇ホァン・グァンユーに視線を移すと、右手に握った手斧を振りかぶる。

「その情報さえ入手出来れば、もう貴様に用は無い。死ね」

「そ、そそそそんな薄情な! せっかくの貴重な情報を、惜しげもなく提供してやったんだぞ! 命だけでも助けてくれたっていいじゃないか! なあ、お願いだ! 頼む! 殺さないでくれ!」

 黄冠宇ホァン・グァンユーは身動きが取れないままそう言って、必死で命乞いを繰り返した。しかし当然の事ながら始末屋は耳を貸さず、振りかぶった手斧の照準を眼の前の獲物の脳天に合わせながら、それを振り下ろすべきタイミングを見計らう。ところが次の瞬間、誰も居なかった筈の彼女の足元のテーブルの下から何者かが姿を現し、無防備な始末屋の足首目掛けて刃物を振るった。まずは彼女の四肢を狙い、その動きを封じようと言う魂胆である。

「!」

 足首から先を鋭利な刃物によって切り落とされる寸前、動物的な直感によって危険を察知した始末屋は素早く身を翻し、トレンチコートの裾を靡かせながら飛び退ってこれを回避した。すると彼女の手を離れて自由の身となった黄冠宇ホァン・グァンユーは、切り落とされた右耳の傷口を手で押さえながら、テーブルの下から姿を現した何者かを叱責する。

「遅いぞお前ら! 見ろ! お前らがぐずぐずしてるから、俺の耳が切り落とされちまったじゃないか! 何のために高い金を払って、お前らなんかを雇ってやってると思ってるんだ!」

 怒りと屈辱でもって禿げ頭を真っ赤に紅潮させた黄冠宇ホァン・グァンユーに叱責されながら、バカラが営まれていたテーブルの下、正確にはテーブルが床に落とす影の中から三つの人影が姿を現した。

「それは面目無い、冠宇グァンユー殿。しかしながら、どうかご安心めされよ! 我ら三兄弟が馳せ参じたからには、このような不埒者など瞬きする間も無く切り刻んでご覧に入れましょうぞ!」

 ややもすれば時代掛かった口調でもってそう言ったのは、黒と紫のツートンカラーの忍装束に身を包んだ隻眼の忍者であり、その手には先程始末屋の足首を切り落とさんとした鎖鎌が握られている。

「そうだともそうだとも! このような馬鹿力しか取り柄が無い黒んぼの大女など、我ら三兄弟の敵ではない!」

「まさしく兄者達の言う通りよ! 始末屋だか何だか知らぬが、拙者の鎖鎌の錆にしてくれるわ!」

 残り二人の忍者達もまたそう言って啖呵を切り、全く同じ忍装束に身を包んだ彼ら三人から距離を取った始末屋を小馬鹿にするような口調でもって、かんらかんらと高笑いの声を上げた。

「鎖鎌を得物とする隻眼の三兄弟……さては貴様ら、三つ子の殺し屋『鎌鼬かまいたち』だな?」

 トレンチコートに身を包んだ始末屋がそう言って三人組の正体を看破し、左右の手に一振りずつ握った手斧を構え直しながら臨戦態勢へと移行すると、その正体を看破された三人もまた鎖鎌を構え直す。

「如何にも! 我ら三人揃って『鎌鼬かまいたち』! そしてそう言う貴様こそ、音に聞こえた手斧の使い手、獲得報酬ランキング第四位を誇る女丈夫の『始末屋』とお見受けする! ならば相手にとって不足無し! 個人的な恨みこそ無いものの、こちらに御座す冠宇グァンユー殿に雇われたからには、その身に危害を加えんとする貴様には死んでもらう! 我ら三兄弟が繰り出す三位一体の妙技の前に、為す術も無く切り刻まれるが良い!」

 三つ子の殺し屋『鎌鼬かまいたち』を名乗った忍装束の三人組は、右手に鎌、左手には鎌の柄尻から延びる鎖分銅を構えながら、そのリーダー格らしき先頭の男がそう言って啖呵を切った。すると片耳を削ぎ落とされた黄冠宇ホァン・グァンユーが彼らの背後から、カジノのスロットマシーンの陰に身を隠しつつ、自らが雇ったと言う『鎌鼬かまいたち』の三人に檄を飛ばす。

「いいかお前ら、今すぐその女を殺せ! ぶち殺せ! その女に、この俺の耳を切り落とした事を地獄で後悔させてやれ! 払ってやった報酬分は働いてもらうぞ! さあ、早くしろ!」

「御意!」

 雇い主の命令を了承した『鎌鼬かまいたち』の三人は一旦腰を落として互いの呼吸を合わせ、三つ子ならではの完璧なタイミングでもって一斉に跳躍したかと思えば、一糸乱れぬフォーメーションを維持しながら始末屋に襲い掛かった。

「始末屋、覚悟!」

 三方向から同時に襲い来る鎖鎌に対応するために、冷静沈着を旨とする始末屋は決して心を乱される事無く、得物である手斧を手にして身構える。そして左右からの二挺は手斧の斧頭でもって易々と弾き返し、中央から襲い来る一挺は上体を大きく捻って回避したかと思えば、そのまま重心を移動させながら繰り出した上段回し蹴りを三人の内のリーダー格の男に叩き込んだ。

「ぬうっ!」

 始末屋の常人離れした膂力による上段回し蹴りを、上腕に装着したアームガードによって咄嗟に防いだ『鎌鼬かまいたち』のリーダー格の男は、衝撃を殺すために後方に飛び退りつつも警戒心を隠せない。

「何の変哲も無い回し蹴りでありながら、何と言う凄まじい破壊力! 二朗太に三朗太! この女、只の手斧使いではないぞ! 我らも実力を出し惜しんでいる場合ではない! 最初から全力で行くぞ!」

「心得たぞ、一朗太兄者!」

「忍法だな? 忍法を使うのだな?」

 三者三様にそう言いながら互いに目配せし合った『鎌鼬かまいたち』の三人は、眼の前の敵との間合いを測りつつ、じりじりと後退して始末屋から距離を取った。彼らの会話から推測するに、どうやら三人の内のリーダー格の一人が長男の一朗太、左右の二人がその弟の二朗太と三朗太と言う名前らしい。そして逃げ遅れた観光客達が遠巻きに見守る中、カジノのチップやカードや賽子ダイスが床に散らばるホテル媽閣マーコウのホールの中央で、手斧を手にした始末屋と鎖鎌を手にした『鎌鼬かまいたち』の三人は睨み合う。

「ふんっ!」

 気合一閃、先に仕掛けたのは始末屋であった。三人の『鎌鼬かまいたち』の内の一朗太に狙いを定めた彼女はホールの床を蹴り、やはり常人離れした瞬発力でもって敵との距離を一気に詰めたかと思えば、右手に握る手斧を一朗太の頭部目掛けて横薙ぎに振り払う。

「!」

 しかしながら一朗太の頭部を上下真っ二つに両断する寸前、始末屋が振り払った手斧の切っ先は空を切り、そこに居た筈の一朗太はホール内に散在するテーブルの一つの影の中へと姿を消した。テーブルの陰に身を隠したのではない。ホールの床に落ちるテーブルの影の中へと吸い込まれるような格好でもって、一瞬にしてその姿が消え失せてしまったのだ。

「?」

 必殺の一撃を回避された始末屋は訝しみながらテーブルを蹴り飛ばし、分厚いペルシャ絨毯が敷かれたホールの床を何度も踏み締めてその状態を確認するが、やはりそこに一朗太の姿は無い。

「どこを見ている、始末屋! 拙者はここだぞ!」

 すると姿を消した筈の一朗太の声が背後から聞こえて来たかと思えば、先程とは全く別のテーブルの影の中からこちらに向かって、鎖鎌の柄尻から延びた鎖分銅が不意討ち同然のタイミングでもって飛んで来た。まるで罪人を鞭打ち刑に処す懲罰人の鞭の様にしなりながら、眼にも止まらぬ速さでもって飛び来たる鋼鉄製の鎖分銅。ところが始末屋は間一髪上体を反らし、すんでの所でこれを回避してみせたものの、重く頑丈な分銅が彼女の頬をかすめる。

「ほう、拙者の鎖分銅を回避してみせるとは、さすがは始末屋。獲得報酬ランキング第四位の腕前は伊達ではないらしい。だがしかし、我ら『鎌鼬かまいたち』の三位一体の攻撃を前にしても、果たして無事でいられるかな?」

 背後のテーブルの影の中から姿を現した一朗太はそう言いながら目配せし、彼と同じ忍装束に身を包んだ二人の弟、二朗太と三朗太と共に不敵にほくそ笑んだ。そして三人は鎖鎌を構え直すと、手近なテーブルや椅子がホールの床に落とす影の上まで移動し、やはり影の中へと吸い込まれるような格好でもって姿を消す。

「どうだ始末屋! これぞ我ら『鎌鼬かまいたち』が永き修行の末に体得した妙技にして奥義、忍法『影渡り』なり! 地獄の閻魔への土産話とすべく、その眼にしっかりと焼き付けてから往生せい!」

 影の中へと姿を消した『鎌鼬かまいたち』の三人が、三つ子ならではの息の合った三重奏の掛け声でもって、勝利を確信したかのような高笑いと共にそう言い放った。残念ながら原理や理屈はさっぱり分からないものの、どうやら彼らは周囲の物体の影の中へと身を隠し、しかも近隣の影から影へと自在に移動する事も出来るらしい。

「さあさあさあ! どこから飛んで来るか分からぬ我ら三兄弟の鎖鎌に怯え、平伏し、恐怖せよ!」

 再びの三重奏による不敵な高笑いがどこからともなく聞こえて来たかと思えば、ホテル媽閣マーコウのホール内の全く違う三方向から、三挺の鎖鎌の柄尻から延びる鎖分銅が次々と始末屋に襲い掛かる。影から影へと移動しながら不規則な攻撃を繰り返す『鎌鼬かまいたち』に対して、その規則性が読み切れない始末屋は為す術が無く、どうにも翻弄されるばかりだ。

「ふんっ!」

 三方向から同時に飛び来たる三振りの鎖分銅を、時には手斧でもって弾き返し、時には身を翻して回避しながら、彼ら『鎌鼬かまいたち』に取り囲まれた始末屋はその猛攻を凌ぎ続ける。

「どうしたどうした! そのままではいずれジリ貧に陥るばかりだぞ、始末屋! 少しは反撃し、気骨のあるところを見せるが良い!」

 影の向こうから鎖分銅でもって攻撃しつつ、彼ら『鎌鼬かまいたち』の三兄弟の内の誰かが、嘲笑交じりに始末屋を挑発した。彼女が回避した鎖分銅が、ホールを取り囲む逃げ遅れた観光客の頭部に直撃し、まるで高層ビルの屋上から投げ捨てた腐ったスイカの様に砕け散る。

「我ら三兄弟が猛攻の前に手も足も出ず、命からがらの防戦一方とは、獲得報酬ランキング第四位も所詮はこの程度の腕前か! まったくもって片腹痛い! それでは生き恥を晒し続けるのも不憫であろうから、そろそろとどめを刺してやろうぞ! 二朗太に三朗太! やってしまえ!」

「おう!」

 長男である一朗太の合図に二朗太と三朗太の二人が声を合わせながら応じると、ホールの中央に立つ始末屋の左右から一振りずつの鎖分銅が飛び来たり、彼女の両腕を絡め取ってその動きを封じた。両腕を絡め取られた始末屋は手斧を振るう事も出来ず、その場に立ち尽くす。

「どうだ始末屋、これでもう動けまい! そして手も足も出せぬまま、貴様は我ら『鎌鼬かまいたち』の手によってここで死ぬのだ! 覚悟!」

 その言葉と共に、立ち尽くす始末屋の眼前のテーブルの影の中から、黒と紫のツートンカラーの忍装束に身を包んだ一朗太が鎖鎌を大上段に構えながら姿を現した。そしてホールの床を蹴った彼は頭上高く跳躍し、二朗太と三朗太の二人によって動きを封じられた始末屋の元へと駆け寄る。

「掛かったな!」

 しかしながら、これは始末屋による策略であり、彼ら『鎌鼬かまいたち』の三人は彼女の掌の上で踊らされているのであった。つまり端的に言ってしまえば、忍法『影渡り』によって影の向こうに姿を消した『鎌鼬かまいたち』の三人に手を出せないと判断した始末屋は、彼らがとどめを刺すために姿を現すこの機会を虎視眈々と待ち構えていたのである。

「ふん!」

 気合一閃、左右からの鎖分銅によって両腕を絡み取られた始末屋は、その両腕を常人離れした膂力によって力任せに引き寄せた。すると影の中に姿を消していた二朗太と三朗太の二人が、手にした鎖鎌によって引き摺り出されるような格好でもって、こちらの世界へと姿を現す。

「馬鹿な!」

「しまった!」

 そう言って後悔するも、時既に遅し。迂闊にも影の中から姿を現してしまった二朗太と三朗太の二人に、手斧を手にした始末屋が襲い掛かった。そして二人の忍者達が鎖鎌を構え直す間も無く彼女の手斧が振るわれ、その切っ先によって二朗太と三朗太の脳天があっと言う間に叩き割られたかと思えば、真っ赤な鮮血と薄灰色の脳漿とを撒き散らかしながら絶命したその肢体が始末屋の足元に転がる。

「おのれ、始末屋! よくも我が弟達を亡き者にしてくれたな! 許さぬ! 決して許さぬぞ!」

 怒髪天を突く口調でもってそう言うと、隻眼の眼から血涙を流して慟哭しながら、残された一朗太が始末屋に襲い掛かった。しかしながら近接戦に於いては百戦錬磨の戦績を誇る始末屋と、忍法に頼ってばかりだった一朗太とでは、勝負にならない。

「!」

 次の瞬間、鎖鎌による一撃が空を切った一朗太の喉に、始末屋の手斧の切っ先が突き刺さっていた。

「無念……」

 最後にそう言い残した一朗太の首が、始末屋による手斧の一撃によって両断されたかと思えば、その首が宙を舞う。

「見事であったぞ、三兄弟からなる『鎌鼬かまいたち』よ」

 激闘によって命を落とした敗者を労う言葉を残しつつ、彼ら三兄弟の死体が転がるホールの床に屹立しながら、始末屋は勝利を確信した。そして獲物を始末し終えた手斧をトレンチコートの懐に収納した彼女は呼吸を整え、スロットマシーンの陰に身を隠していた黄冠宇ホァン・グァンユーに、改めて眼を向ける。

「待たせたな」

「ひいっ!」

 まるで毒親から身を隠す被虐待児の様に無防備な尻を見せつつ、恐慌の声を上げた黄冠宇ホァン・グァンユーは、始末屋の警告に従わざるを得ない。

「気が変わった。この場で始末するのではなく、貴様には最上階のロイヤルスイートルームまでの案内を頼もう。立て」

 始末屋に命じられた禿げ頭の黄冠宇ホァン・グァンユーは覚悟を決め、ホールから最上階へと続く螺旋階段を、とぼとぼと歩き始める。

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