第二幕
第二幕
男は苦悩し、また同時に後悔してもいた。
「ああ、糞、どうしてこんな事になっちまったんだ……」
金細工が施された豪奢な造りのソファに腰を下ろし、両手で頭を抱えながらそう言って苦悩し続ける男を、窓辺に立つ女が窘める。
「あんた、いい加減にしな! そんな男らしくもない泣き言なんかを、いつまでもぐちぐちと未練がましくほざいているんじゃないよ! いいかい、よく聞きな? 一度走り始めちまった車は、もう元の道には戻れないんだからね! だからあたしもあんたも潔く覚悟を決めて、最後まで全力で走り続けるしかないんだよ!」
いらいらと苛立って貧乏揺すりを繰り返しながらそう言った女は全身から香水の匂いをぷんぷんと放ち、やけに趣味の悪い装飾過多なドレスに身を包んだ、まるでルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場するハンプティ・ダンプティの様にぶくぶくと醜く肥え太った中年女性であった。
「そうは言うけどな、お前? あの業突く張りの
投げやりな口調でもってそう言った男もまた、窓辺に立つ中年女性と同じくぶくぶくと醜く太った中年男性であり、加齢による染みだらけのその頭はぴかぴかに光り輝くほど禿げ上がっている。
「ああ、もう! あんたの女々しい泣き言なんて、もうこれ以上聞きたくないよ! その辛気臭い顔を見ているだけで気が滅入るから、下のカジノにでも行って、時間を潰して来な!」
女に怒鳴り付けられた男は深い溜息を漏らしながら、沈痛な面持ちのままソファから腰を上げた。そしてとぼとぼと覇気の無い足取りでもって彼が縦断したこの部屋は、ホテル
ハオジアンはフォルモサから見て1000㎞ばかり西南西に位置する、大陸の河口のデルタ地帯に栄えた、主に合法カジノと観光を主要産業とする近代的な大都市である。一年を通して気候は温暖で、常雨都市フォルモサの様に雨が降り続ける事もなく、地理的に接する大陸や世界各地からの観光客達を分け隔てなく歓迎する事で知られていた。勿論言うまでもない事だが、歓迎するのは善良な市民だけとは限らず、一攫千金を夢見るならず者達もまた跳梁跋扈している。
「はあ……」
まるで一歩歩く毎に肺の中の空気を吐き出すかのような頻度でもって溜息を漏らしつつ、醜く太った禿げ頭の中年男性、つまり
「こうなったら、腹を括るしかないか……」
やはり沈痛な面持ちでもってそう独り言ちた
「うわぉ!」
煌びやかな衣装でもって着飾った白人、黒人、アジア人の老若男女が入り乱れ、チップの姿を借りた大金が飛び交うカジノに足を踏み入れた
「おい、俺も参加させてくれ!」
声高にそう言った
「糞! イカサマだ! こんなのイカサマに決まってる!」
興奮した
「良し、いいぞ! そうだ、その調子だ!」
やがて勝利の女神が微笑み掛けたのか、興奮が最高潮に達した
「今いいところなんだ、黙ってろ!」
しかしながら
「まったく、どこのどいつだ! こんなチャンスに水を差す無粋な輩は!」
ホールを埋め尽くすほどの観光客達でもって賑わうカジノの片隅で、禿げ頭を真っ赤に紅潮させた
「貴様が
始末屋はそう言って最終確認を行うが、当の
「あ? 誰だ、お前は? 俺に何か用か?」
「!」
突如として繰り広げられた蛮行を発端として、テーブルを囲む女性客の一人が、絹を引き裂くかのような金切り声でもって悲鳴を上げた。するとその悲鳴を合図として恐怖心が伝播し、テーブルの周囲だけでなくその場に居合わせた観光客達全員が突発的なパニック状態に陥ったかと思えば、ホールから避難すべくエレベーターの搭乗口へと殺到する。我先に逃げ延びようとする彼ら彼女らの姿に、ノブレス・オブリージュ、つまり上流階級としての矜持を胸に責務を果たそうとする崇高な者は一人として見受けられない。
「助けて!」
「テロか? テロなのか?」
「助けてくれ、人殺しだ! 斧を持った暴漢が暴れているぞ!」
無責任な憶測を口々に叫びながら、合法カジノでのギャンブルを楽しんでいた観光客達は悲鳴交じりに退避し始め、まるで沈没船から逃げ延びる鼠の様な素早さでもってホールから人の姿が消えて行く。そしてふと気付けば、殆どの観光客達はエレベーターでもって階下に退避するか遠巻きに見守るばかりで、ホールの床に散らばった高額チップを拾い集める浅ましい守銭奴か乞食を別にすれば、始末屋と
「貴様らが連れ去った、
「な、ななな何の事だ! 俺は何も知らんぞ!」
バカラのテーブルに顔面を押さえつけられ、喉元に手斧の切っ先を突き付けられながらも、
「そうか。それなら思い出させてやる」
何の感慨も覚えないような淡々とした口調でもってそう言った始末屋は、右手に持った手斧の鋭利な刃先を振るい、
「ぎゃあっ!」
削ぎ落とされた右耳の断面から真っ赤な鮮血をぽとぽとと滴らせつつ、身動きが取れない
「貴様らが連れ去った、
「さ、さ、最上階だ! このホテルの最上階の、俺と
痛みに耐えるための訓練など受けてはいないがために、
「本当だな?」
するとそう言って確認を取りつつ、始末屋は
「ほ、本当だ! 嘘なんかじゃない! 俺と
この
「その情報さえ入手出来れば、もう貴様に用は無い。死ね」
「そ、そそそそんな薄情な! せっかくの貴重な情報を、惜しげもなく提供してやったんだぞ! 命だけでも助けてくれたっていいじゃないか! なあ、お願いだ! 頼む! 殺さないでくれ!」
「!」
足首から先を鋭利な刃物によって切り落とされる寸前、動物的な直感によって危険を察知した始末屋は素早く身を翻し、トレンチコートの裾を靡かせながら飛び退ってこれを回避した。すると彼女の手を離れて自由の身となった
「遅いぞお前ら! 見ろ! お前らがぐずぐずしてるから、俺の耳が切り落とされちまったじゃないか! 何のために高い金を払って、お前らなんかを雇ってやってると思ってるんだ!」
怒りと屈辱でもって禿げ頭を真っ赤に紅潮させた
「それは面目無い、
ややもすれば時代掛かった口調でもってそう言ったのは、黒と紫のツートンカラーの忍装束に身を包んだ隻眼の忍者であり、その手には先程始末屋の足首を切り落とさんとした鎖鎌が握られている。
「そうだともそうだとも! このような馬鹿力しか取り柄が無い黒んぼの大女など、我ら三兄弟の敵ではない!」
「まさしく兄者達の言う通りよ! 始末屋だか何だか知らぬが、拙者の鎖鎌の錆にしてくれるわ!」
残り二人の忍者達もまたそう言って啖呵を切り、全く同じ忍装束に身を包んだ彼ら三人から距離を取った始末屋を小馬鹿にするような口調でもって、かんらかんらと高笑いの声を上げた。
「鎖鎌を得物とする隻眼の三兄弟……さては貴様ら、三つ子の殺し屋『
トレンチコートに身を包んだ始末屋がそう言って三人組の正体を看破し、左右の手に一振りずつ握った手斧を構え直しながら臨戦態勢へと移行すると、その正体を看破された三人もまた鎖鎌を構え直す。
「如何にも! 我ら三人揃って『
三つ子の殺し屋『
「いいかお前ら、今すぐその女を殺せ! ぶち殺せ! その女に、この俺の耳を切り落とした事を地獄で後悔させてやれ! 払ってやった報酬分は働いてもらうぞ! さあ、早くしろ!」
「御意!」
雇い主の命令を了承した『
「始末屋、覚悟!」
三方向から同時に襲い来る鎖鎌に対応するために、冷静沈着を旨とする始末屋は決して心を乱される事無く、得物である手斧を手にして身構える。そして左右からの二挺は手斧の斧頭でもって易々と弾き返し、中央から襲い来る一挺は上体を大きく捻って回避したかと思えば、そのまま重心を移動させながら繰り出した上段回し蹴りを三人の内のリーダー格の男に叩き込んだ。
「ぬうっ!」
始末屋の常人離れした膂力による上段回し蹴りを、上腕に装着したアームガードによって咄嗟に防いだ『
「何の変哲も無い回し蹴りでありながら、何と言う凄まじい破壊力! 二朗太に三朗太! この女、只の手斧使いではないぞ! 我らも実力を出し惜しんでいる場合ではない! 最初から全力で行くぞ!」
「心得たぞ、一朗太兄者!」
「忍法だな? 忍法を使うのだな?」
三者三様にそう言いながら互いに目配せし合った『
「ふんっ!」
気合一閃、先に仕掛けたのは始末屋であった。三人の『
「!」
しかしながら一朗太の頭部を上下真っ二つに両断する寸前、始末屋が振り払った手斧の切っ先は空を切り、そこに居た筈の一朗太はホール内に散在するテーブルの一つの影の中へと姿を消した。テーブルの陰に身を隠したのではない。ホールの床に落ちるテーブルの影の中へと吸い込まれるような格好でもって、一瞬にしてその姿が消え失せてしまったのだ。
「?」
必殺の一撃を回避された始末屋は訝しみながらテーブルを蹴り飛ばし、分厚いペルシャ絨毯が敷かれたホールの床を何度も踏み締めてその状態を確認するが、やはりそこに一朗太の姿は無い。
「どこを見ている、始末屋! 拙者はここだぞ!」
すると姿を消した筈の一朗太の声が背後から聞こえて来たかと思えば、先程とは全く別のテーブルの影の中からこちらに向かって、鎖鎌の柄尻から延びた鎖分銅が不意討ち同然のタイミングでもって飛んで来た。まるで罪人を鞭打ち刑に処す懲罰人の鞭の様に
「ほう、拙者の鎖分銅を回避してみせるとは、さすがは始末屋。獲得報酬ランキング第四位の腕前は伊達ではないらしい。だがしかし、我ら『
背後のテーブルの影の中から姿を現した一朗太はそう言いながら目配せし、彼と同じ忍装束に身を包んだ二人の弟、二朗太と三朗太と共に不敵にほくそ笑んだ。そして三人は鎖鎌を構え直すと、手近なテーブルや椅子がホールの床に落とす影の上まで移動し、やはり影の中へと吸い込まれるような格好でもって姿を消す。
「どうだ始末屋! これぞ我ら『
影の中へと姿を消した『
「さあさあさあ! どこから飛んで来るか分からぬ我ら三兄弟の鎖鎌に怯え、平伏し、恐怖せよ!」
再びの三重奏による不敵な高笑いがどこからともなく聞こえて来たかと思えば、ホテル
「ふんっ!」
三方向から同時に飛び来たる三振りの鎖分銅を、時には手斧でもって弾き返し、時には身を翻して回避しながら、彼ら『
「どうしたどうした! そのままではいずれジリ貧に陥るばかりだぞ、始末屋! 少しは反撃し、気骨のあるところを見せるが良い!」
影の向こうから鎖分銅でもって攻撃しつつ、彼ら『
「我ら三兄弟が猛攻の前に手も足も出ず、命からがらの防戦一方とは、獲得報酬ランキング第四位も所詮はこの程度の腕前か! まったくもって片腹痛い! それでは生き恥を晒し続けるのも不憫であろうから、そろそろとどめを刺してやろうぞ! 二朗太に三朗太! やってしまえ!」
「おう!」
長男である一朗太の合図に二朗太と三朗太の二人が声を合わせながら応じると、ホールの中央に立つ始末屋の左右から一振りずつの鎖分銅が飛び来たり、彼女の両腕を絡め取ってその動きを封じた。両腕を絡め取られた始末屋は手斧を振るう事も出来ず、その場に立ち尽くす。
「どうだ始末屋、これでもう動けまい! そして手も足も出せぬまま、貴様は我ら『
その言葉と共に、立ち尽くす始末屋の眼前のテーブルの影の中から、黒と紫のツートンカラーの忍装束に身を包んだ一朗太が鎖鎌を大上段に構えながら姿を現した。そしてホールの床を蹴った彼は頭上高く跳躍し、二朗太と三朗太の二人によって動きを封じられた始末屋の元へと駆け寄る。
「掛かったな!」
しかしながら、これは始末屋による策略であり、彼ら『
「ふん!」
気合一閃、左右からの鎖分銅によって両腕を絡み取られた始末屋は、その両腕を常人離れした膂力によって力任せに引き寄せた。すると影の中に姿を消していた二朗太と三朗太の二人が、手にした鎖鎌によって引き摺り出されるような格好でもって、こちらの世界へと姿を現す。
「馬鹿な!」
「しまった!」
そう言って後悔するも、時既に遅し。迂闊にも影の中から姿を現してしまった二朗太と三朗太の二人に、手斧を手にした始末屋が襲い掛かった。そして二人の忍者達が鎖鎌を構え直す間も無く彼女の手斧が振るわれ、その切っ先によって二朗太と三朗太の脳天があっと言う間に叩き割られたかと思えば、真っ赤な鮮血と薄灰色の脳漿とを撒き散らかしながら絶命したその肢体が始末屋の足元に転がる。
「おのれ、始末屋! よくも我が弟達を亡き者にしてくれたな! 許さぬ! 決して許さぬぞ!」
怒髪天を突く口調でもってそう言うと、隻眼の眼から血涙を流して慟哭しながら、残された一朗太が始末屋に襲い掛かった。しかしながら近接戦に於いては百戦錬磨の戦績を誇る始末屋と、忍法に頼ってばかりだった一朗太とでは、勝負にならない。
「!」
次の瞬間、鎖鎌による一撃が空を切った一朗太の喉に、始末屋の手斧の切っ先が突き刺さっていた。
「無念……」
最後にそう言い残した一朗太の首が、始末屋による手斧の一撃によって両断されたかと思えば、その首が宙を舞う。
「見事であったぞ、三兄弟からなる『
激闘によって命を落とした敗者を労う言葉を残しつつ、彼ら三兄弟の死体が転がるホールの床に屹立しながら、始末屋は勝利を確信した。そして獲物を始末し終えた手斧をトレンチコートの懐に収納した彼女は呼吸を整え、スロットマシーンの陰に身を隠していた
「待たせたな」
「ひいっ!」
まるで毒親から身を隠す被虐待児の様に無防備な尻を見せつつ、恐慌の声を上げた
「気が変わった。この場で始末するのではなく、貴様には最上階のロイヤルスイートルームまでの案内を頼もう。立て」
始末屋に命じられた禿げ頭の
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