第一幕
第一幕
日本列島の南西、東シナ海。しとしととそぼ降る雨の中、一艘の漁船が波間を漂い、厚い雲に覆われた空の向こうに垣間見える漁港を目指しながら航行し続けていた。
「おい姉ちゃん、そろそろフォルモサに到着するよ」
漁船の船長と思しき初老の男性はそう言うが、舳先に立ったトレンチコートの大女は無言のまま振り返りもせず、船の進行方向をジッと睨み据え続けている。浅黒い肌に分厚い唇、それに短く刈り揃えられた縮れた頭髪と言ったアフリカンニグロの特徴を受け継ぐ彼女こそ、音に聞こえた始末屋その人に相違無い。
「さあ、着いた」
やがて初老の船長がそう言った通り、彼らが乗る漁船は漁港へと辿り着いた。そしてもやい結びにしたロープを使ってその漁船を埠頭に係留させると、舳先に立っていた始末屋はコンクリートで補強された岸壁に降り立つ。
「ご苦労だった。これは約束の報酬だ」
やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、トレンチコートのポケットから取り出した
「へへへ、ありがとさん。縁があったらまた利用してくれよ、黒んぼの姉ちゃん」
投げ渡された札束を受け取ると同時に、にやにやとほくそ笑みながらそう言った船長に別れも告げず、始末屋は埠頭を後にした。
「さて、と……」
早朝の雨空を見上げながら、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋が上陸したこの地こそ、常雨都市フォルモサ。一年365日のほぼ毎日雨が降り続けると言った不遇な気象条件にもかかわらず、主にハイテク産業と観光によって外貨を獲得する事を至上命題とする、東シナ海有数の大都市である。そしてその繁栄ぶりを象徴するかのように、未だ夜も明け切らぬ早朝でありながら、始末屋が降り立った漁港は採れたての海産物を陸揚げする漁師達やそれらを買い付けに来た仲買人達で賑わっていた。売れ残って腐った魚と磯の匂いが潮風に乗って漁港内を漂い、ぷんと鼻を突く。
「……」
しかしながら漁師達や仲買人達の賑わいぶりには眼もくれず、ゆうに2mを超える長身の始末屋はその長くしなやかな脚でもってずかずかと歩きながら漁港内を縦断すると、無言のまま市街地の方角へと姿を消した。そしてフォルモサの街の中心部へと至る途中、観光客向けのホテルや公共機関の建造物が立ち並ぶ一角に差し掛かった彼女は、一軒の店舗の前で足を止める。
「……朝飯か」
その店舗は、これから通勤通学するフォルモサの市民達に調理したての朝食を提供する、どこにでもあるような小さな食堂であった。ちなみに店舗の正面入り口前に掲げられた大きな看板には、ド派手な色彩でもって『
「おい店主、大盛りの
さほど広くもない店舗に入店するなり空いていた座席にどっかと腰を下ろした始末屋は、メニューも確認せずに威圧的な口調でもって注文し終えると、ぐるりと視線を巡らせて周囲の様子を窺う。
「はいよ、お待ちどうさま」
ものの数分と経たない内に、始末屋が注文した料理の数々が、この店を切り盛りする店主の妻と思しき熟年女性の手によってテーブルの上に並べられた。始末屋が威圧的な態度であるにもかかわらず、女性の愛想は良い。
「いただきます」
意外にも行儀良くそう言うと、始末屋は眼の前に並べられた料理の数々に箸を付け始めた。小海老で出汁を取ったスープで白米と豚肉を煮たフォルモサ式のお粥である
「げぷ」
やがて全ての料理をぺろりと平らげ終えた始末屋は「ごちそうさま」と言ってからげっぷを漏らし、ぱんぱんに膨れた腹をトレンチコートの上から擦ると、厨房で鍋を振るう禿げ頭の店主に向かって追加注文する。
「おい店主、テイクアウト用の
やはり威圧的な口調でもってそう言うと、始末屋は腰を上げ、会計を終えて
「……早く来過ぎたな」
そぼ降る雨の中を傘も差さずに歩き続け、フォルモサの街の中心部に建つドームスタジアムの前まで辿り着いた始末屋は、トレンチコートの内ポケットから取り出したスマートフォンでもって現在の時刻を確認しながら呟いた。彼女らの様な裏稼業のならず者達を統率する非合法組織『
やがて時は流れ、公園の中央の噴水に据え付けられたアナログ時計が午後四時四十五分を指し示すのとほぼ同時に、眠りから覚めた始末屋はかっと眼を見開いた。そして身を横たえていた東屋のベンチから腰を上げて立ち上がると、凝り固まった全身の関節を揉みほぐす。
「時間か」
スマートフォンでもって現在の時刻を確認した始末屋はそう呟くと、再びドームスタジアム目指して歩き始めた。分厚い雨雲の向こうの太陽は西に傾き、見上げた空には宵闇が迫りつつある。そしてそんな夕暮れ空の下、トレンチコートをそぼ降る雨で濡らしながら、始末屋はドームスタジアムの建屋内へと足を踏み入れた。
「……」
足を踏み入れたドームスタジアムでは、今夜はプロ野球や草野球の試合も練習も行われてはいない。それ故に広大な敷地内は閑散としており、始末屋が歩く通路の照明も落とされ、その建造物としての大きさがむしろうら寂しさ助長させる。しかしながら、始末屋は気付いていた。このドームスタジアムの随所に、彼女と同じく並々ならぬ気配を漂わせる裏稼業のならず者達が息を殺しながら身を潜め、それぞれの出番を今か今かと待ち構えている事に。
「!」
薄暗い通路を渡り終えた始末屋がドームスタジアムの観客席に足を踏み入れたが、やはりそこにも観客や清掃員などの人影は無く、マウンドを照らすべき照明もまた落とされていた。そこで始末屋は、一歩また一歩とマウンド目指して歩を進めつつ、いつ如何なる事態に巻き込まれても対処出来るように警戒を怠らない。すると不意に、ドーム屋根に設置された照明が煌々と灯されたかと思えば、いつの間にやらマウンドの中央に立っていた何者かを照らし出す。
「レディース&ジェントルメン! 世はまさに、大殺し屋時代! 我が『
ドームスタジアム内のスピーカーに接続されたマイクに向かって声を張り上げながらそう言ったのは、黒光りする高価そうなタキシードに身を包んだオールバックの髪の一人の男、つまりマウンド上に立つ『
「皆様?」
始末屋はそう呟きながら、ぐるりと首を巡らせ、周囲の様子を確認した。ドーム屋根の照明が灯されたおかげでLEDモジュールの光が乱反射し、真っ暗だった観客席も、今はある程度視界が確保出来ている。すると収容人数五万人ほどの規模のドームスタジアム内のそこかしこに、やはり先程から漂っていた気配の主の姿が見て取れた。
「あれは……」
ざっと見渡してみただけでも『
「それではお集まりの皆様、さっそくですが、スタジアム後方のオーロラビジョンにご注目ください!」
ドームスタジアムの各所に備え付けられたスピーカー越しに、声高らかにそう言った
「皆様、こちらの方こそが今回の依頼者であられる、
妙にテンションの高い
「
オーロラビジョンの向こうの白髪の老人はベッドに横たわったまま、ややもすれば声を出すのも苦しそうにそう言うと、言葉を切った。
「以上です、皆様!
マウンド上でマイクを握る
「さあさあ、
最後に
「よう、始末屋」
ドームスタジアムから退出するべく薄暗い通路を歩いていると、不意に何者かが始末屋を呼び止めた。そこでトレンチコートの裾を翻しながら振り返ってみれば、肌と言う肌に真っ黒な
「久し振りじゃねえか、始末屋」
「……誰かと思えば、グレイブキーパーか」
駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋はぶっきらぼうにそう言って、眼の前のグレイブキーパーにはさほどの興味を示さない。
「なあ、始末屋。物は相談なんだが、ちょっと耳を貸してくれよ。いいだろう?」
しかしながら百万の爆発物を自在に操ると言われたグレイブキーパーはこちらへと歩み寄り、馴れ馴れしく始末屋の肩を抱き寄せたかと思えば、勿体ぶった口調でもって彼女に提言する。
「今回の依頼、俺様とあんたとで、力を合わせながら共闘しないか? そうすれば互いのリスクは半分で済むし、報酬の百万ドルは二人で仲良く山分けだ」
そう言ったグレイブキーパーはカーゴパンツのポケットから自身のスマートフォンを取り出し、始末屋の眼前でその電源を入れた。電源が入れられたスマートフォンの液晶画面には、殺し屋評価サイト『ヘッドショット』の月間獲得報酬ランキングページが表示されている。
「今現在の総合ランキング一位は『這い寄る
グレイブキーパーはにやにやとほくそ笑みながらそう言うが、冷静沈着を旨とする始末屋は顔色一つ変えず、この提案にも応じない。
「悪いが、あたしはその案には応じられないし、どこの誰が決めたとも知れないランキングなどには興味はない。あたしはあたしで一人の女として自分の意思を尊重しながら、好き勝手に行動する。もし仮に、お前があたしの自由意思に干渉すると言うのならば、その時はお前の命は無いものと思え」
トレンチコートの懐から取り出した手斧の切っ先を誇示しつつそう言った始末屋は、馴れ馴れしく彼女の肩を抱くグレイブキーパーをジッと睨み据える。
「おお、おお、怖い怖い。さすがは音に聞こえた始末屋、俺が見込んだ女だけあって一筋縄じゃ行かないぜ。だがしかし、あんたは俺の提案を呑まなかった事を、必ずや後悔するだろう。その事実を決して忘れずに、心に留めておきな。じゃあな、始末屋。生きていたらまた会おう。アディオス!」
最後にそう言い残したグレイブキーパーは馴れ馴れしく始末屋の肩を抱いていた手を離し、青白く輝く蓄光塗料でもって描かれた骸骨模様を闇夜に浮かび上がらせながら、照明が落とされたドームスタジアムの通路の向こうへとその姿を消した。そして周囲から人の気配が消え去ったのを確認すると、トレンチコートに身を包んだ始末屋は、再びドームスタジアムの外へと足を向ける。
「さて、と」
薄暗い通路を渡り切り、ドームスタジアムの敷地の外へと足を踏み出した始末屋は、深く嘆息しながら頭上を振り仰いだ。すっかり陽が落ちた夜空は相変わらずの雨雲に覆われ、常雨都市フォルモサを象徴するしとしととそぼ降る雨は、一向に止む気配が無い。
「まずは、グエン・チ・ホアに頼るか」
分厚い雨雲が垂れ込める曇天の夜空を見上げながらそう言った始末屋はくるりと踵を返し、傘も差さずに夜市の方角へと足を向けると、黒光りする革靴の踵をこつこつと打ち鳴らしつつ歩き始めた。ここフォルモサの夜市は東アジア有数の繁華街として有名であると同時に、夕食を買い求める地元民だけでなく世界各地からこの地を訪れた観光客がどっと押し寄せ、今宵もまた足の踏み場も無いほどの黒山の人だかりでもって賑わっている。そしてそんな夜市の大通りから一歩奥に入った裏通りの、おそらくは太平洋戦争以前から存在すると思しき由緒正しいビルディングに足を踏み入れた始末屋は、しっかりと磨き込まれて飴色に光る手摺に手を添えながら階段を駆け上がった。
「チ・ホア! グエン・チ・ホアは居るか?」
やがて階段を駆け上り切った始末屋は、ビルディングの二階に入居する『Hoa's Library』と書かれた看板が掲げられたテナントの扉を蹴り開けると同時にそう言って、店内をきょろきょろと見渡す。
「あら? あたしを呼ぶのは誰かしら?」
古びた書物やアンティークの家具や調度品が所狭しと陳列された店の奥からそう言って姿を現したのは、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包んだ、一人の若い女性であった。そして彼女の姿を確認した始末屋は、雨に濡れた頭髪を掻き上げながら店内を縦断する。
「チ・ホア、そこに居たのか」
店の奥から姿を現し、始末屋を出迎えたのは、何とも表現の仕様が無いほど不思議な雰囲気の女性だった。始末屋ほどではないがそれなりに背が高く、やけに華奢で線が細いものの、血色が良いせいか病弱や不健康と言った印象は無い。鴉の濡れ羽色の黒髪は長く艶やかで、その身を包んでいるアオザイの白さとは鮮やかな対比を成す。また端正かつ清楚な、いかにも生粋のアジア人らしい美人でもあったが、何故か左眼には医療用の眼帯を当てており、外見からだけでは実年齢が計り知れない。それでも無理に年齢を推測するならば、おそらくは二十代後半から三十代前半と考えるのが妥当だろう。
「あらあらあら、こんな時間に誰かと思えば、始末屋じゃないの? あなたがこの店に姿を現すだなんて、何年ぶりの事かしら?」
グエン・チ・ホアと呼ばれたアオザイ姿の女性は語尾の音程が上擦ってしまう少しばかり訛った日本語でもってそう言うと、アジアンビューティーとでも評すべき美しいその顔に、妖艶でありながら穏やかな笑みを浮かべた。そして彼女の手招きに応じ、駱駝色のトレンチコートを濡らす雨水をぱっぱと手で払い落とした始末屋は、店の奥に整然と並べられたスツールの一つにどっかと腰を下ろす。
「それにしても、本当に久し振りじゃないかしら? 外は寒かったでしょう? 今日は摘みたての美味しいジャスミン茶を入荷したばかりですから、それを飲んで温まって行きなさいね?」
そう言ったグエン・チ・ホアはさっそく店の奥の厨房でもって湯を沸かし、微細で繊細な幾何学模様が彫り込まれた二人分のティーグラスにジャスミンの蕾状の茶葉を一つずつ放り込むと、沸かしたての湯をそこに注いだ。そしてもうもうと湯気が湧き立つ熱湯の中でジャスミンの花が咲くのを横目に、スツールに腰を下ろした始末屋は、
「相変わらず、この店は閑古鳥が鳴いているな」
始末屋はそう言うと差し出されたティーグラスを手に取り、未だ花が咲き切らないそれに口を付け、熱いジャスミン茶を啜った。ここ『Hoa's Library』はベトナムからの移民であるグエン・チ・ホアが経営するカフェが併設されたアンティークショップだが、ざっと見渡したところ店内に彼女ら二人以外の客の姿は無く、あまり繁盛しているようには見受けられない。
「そうねえ、こんな裏通りの小さなお店ですもの、どうしたって足を運んでくださるお客様の数も限られるじゃない? ですからあなたの言う通り、いつだって閑古鳥が鳴いているんでしょうから、正直言って経営は火の車よ? それでも最近は、この辺りの学校の学生さん達なんかもお茶を飲みに来店してくださるし、そこそこ繁盛するようになって来たんじゃないかしら?」
「そうか。まあ、励めよ」
やはり顔色一つ変えず、ぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、ティーグラスの底に残ったジャスミン茶をぐっと茶葉ごと飲み干した。そしてそんな彼女に向かって、カウンターの向こうのグエン・チ・ホアは改めて尋ねる。
「それで、あなた、今日は一体、どんな用件でもってここを訪れたのかしら? まさかあの女丈夫で知られたあなたが、このあたしの様子を見に来ただなんて殊勝な事は言わないでしょうね?」
純白のアオザイ姿のグエン・チ・ホアはカウンターから身を乗り出しながらそう言うと、医療用の眼帯を当てていない右の眼でもって始末屋の瞳をジッと凝視し、まるでその内心までをも見透かすかのような表情でもって悪戯っぽくほくそ笑んだ。
「実は、頼みがある。次の依頼の
不愛想な始末屋に請われたグエン・チ・ホアは、やはり悪戯っぽくほくそ笑みながら眼を輝かせる。
「ええ、ええ、そうでしょうそうでしょう、そう来なくっちゃねえ?」
眼を輝かせたグエン・チ・ホアはそう言うと、飴色に光る年代物のカウンターの下から『プランシェット』と呼ばれる真ん中に丸い穴が開いたハート形の駒と、アルファベットと数字、それに幾つかの記号が書かれた一枚の薄い文字盤を取り出した。この駒と文字盤を一組にして『ウィジャ盤』と呼ばれ、
「さあ、あなたもプランシェットの上に指を乗せてちょうだい?」
カウンターの上に文字盤を置いたグエン・チ・ホアはプランシェットに指を乗せ、向かいに座る始末屋にも指を乗せるよう促した。そして二人が同時にプランシェットに指を乗せると、ウィジャ盤による占いの準備が整う。
「それじゃあ始末屋、そろそろいいかしら? その居所が知りたいと言う、次の依頼の
「
始末屋はそう言うと、言葉を切った。
「あら、たったのそれだけ? もうちょっとこう、性格はどうだとか、どんな人柄だとか言った個人的な情報は無いのかしら?」
グエン・チ・ホアは呆れながらそう言うが、依頼主である
「だったらそれで占ってみてあげなくもないけど、結果が間違っていたとしても恨みっこ無しよ?」
そう言ったグエン・チ・ホアは気を取り直して意識を集中し、始末屋の知らない言語でもって、何事かをぶつぶつと呟く。それはどうやら、ウィジャ盤による占いを成立させるための霊を降ろす、呪文か何かの一種らしい。そして彼女の呟きがその声量を増すに従って、二人が指を乗せたプランシェットがかたかたと振動したかと思えば、ゆっくりと文字盤の上を移動し始めた。
「さあ、どんな結果が待ち受けているのかしら?」
呪文を唱え終えたグエン・チ・ホアは心の底から愉快そうにほくそ笑み、まるで他人事のようにそう言って、興奮を隠そうともしない。そして彼女らが指を乗せたプランシェットは、その中央に開いた丸い穴でもって覗き見る格好で、文字盤に書かれたアルファベットを順番に指し示す。
「H-A-O-J-I-A-N-G? どうやらあなたが探し求めている
「なるほど、ハオジアンか。しかし出来ればもう少し、詳しい場所が知りたい」
始末屋はそう言って、ウィジャ盤を操るグエン・チ・ホアに、より詳細な情報を要求した。すると彼女は再び何事かをぶつぶつと呟き、プランシェットは新たな文字列を指し示す。
「H-O-T-E-L-M-A-G-O-K? ホテル
グエン・チ・ホアが首を傾げながらそう言うと、彼女の占いの結果に満足したらしい始末屋はプランシェットから指を離し、スツールを蹴り飛ばすかのような勢いでもって立ち上がった。
「助かったぞ、グエン・チ・ホア。礼を言う。これは約束の報酬だ」
やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋はトレンチコートのポケットから丸めて輪ゴムで結わえた一万円札の束を五つばかり取り出し、それらをカウンターの上に並べ、くるりと踵を返す。
「あら? もう行っちゃうの? 新しいお茶を淹れてあげるから、もう少しゆっくりして行けばいいのに?」
カウンターの向こうのグエン・チ・ホアが名残惜しそうにそう言うと、始末屋はちらりと彼女の方を振り返った。そして駱駝色のトレンチコートの襟越しに、別れの言葉を口にする。
「悪いが、今回の依頼は合同コンペティションだ。複数の同業者達が虎視眈々と一番乗りを狙っているからには、あたしも急がなければならない。じゃあな。また会おう」
「あら、そうなの? だったら確かに、急がなくっちゃならないんじゃないかしら? それじゃあ行ってらっしゃい、お気を付けて?」
そう言って手を振るグエン・チ・ホアに見送られながら、彼女が経営するアンティークショップ、つまり『Hoa's Library』の出入り口の扉を蹴り開けた始末屋は足早に階段を駆け下り、ビルディングを後にした。そしてしとしととそぼ降る雨の中、夜市の裏通りを行き交う人混みを肩で風切って掻き分けつつ、始末屋は漁港へと足を向ける。
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