第十幕


 第十幕



 今宵もまた西の地平線の彼方へと陽が沈み、常雨都市フォルモサはしとしととそぼ降る雨にけぶっていた。

「ふあぁ……ぁ……」

 高層ビルの正面玄関の脇に立つ制服姿の警備員の一人が、周囲に人が居ない事を確認すると大口を開けながらあくびを漏らし、如何にも眠そうに瞼を擦る。

「おい! 仕事中だぞ!」

 すると自動ドアを挟んだ反対側の脇に立つもう一人の警備員がそう言って、あくびを漏らした警備員を小声でもってたしなめた。

「そんな固い事言わずに、あくびくらい大目に見てくれよ。昨夜ゆうべは寝るのが遅かったから、こうして立っているだけでも眠くて眠くて仕方が無いんだ」

 あくびをたしなめられた警備員は悪びれた様子も無くそう言って釈明すると、眠気覚ましのつもりなのか、たしなめた警備員に語り掛ける。

「なあ、知ってるか? このビル、出るらしいぜ?」

「出る? 何が?」

「決まってるだろ、幽霊だよ、ゆ・う・れ・い。なんでも深夜零時過ぎになると五十階のレセプションホールに空手の道着を着た大男の幽霊が現れて、真っ暗闇の中で一晩中、空手の型の稽古を繰り返し続けるらしいぜ?」

 たしなめられた警備員は興味深げにそう言うが、たしなめた警備員は彼の言葉を信じない。

「おいおい、何をふざけた事言ってんだか。幽霊が出るってだけでも眉唾ものなのに、それが空手の道着を着て稽古をしているだなんて、そんな馬鹿な話があるもんか」

 たしなめた警備員は溜息交じりにそう言ってかぶりを振り、たしなめられた警備員もまた幽霊に関する噂話を信じていないのか、同僚が呆れ返っている姿を見ながらくすくすと含み笑いを漏らした。

「ん?」

 その時不意に、正面玄関前に配備された二人の警備員達は繁華街の方角からこちらへと接近しつつある大柄な人影に気付き、その人影の正体を看破せんと眼を凝らす。

「何だ、あいつは?」

 そう言って訝しむ警備員達の視線の先の人影は、浅黒い肌のトレンチコートの大女、つまり始末屋であった。しかも彼女は左右それぞれの手に一つずつ、容量20ℓの真っ赤な大型ポリタンクを携えている。

「そこのお前、止まれ! 止まるんだ!」

 警備員達はそう言って警告し、こちらへと接近しつつある彼女をその場に押し留めようと試みるが、始末屋はそんな彼らの警告には耳を貸さないし足も止めない。

「止まれと言っているのが聞こえないのか! 止まらないと撃つぞ!」

 再三の警告を無視された二人の警備員達は腰のホルスターから自動拳銃オートピストルを抜き、スライドを引いて初弾を薬室チャンバーに装填すると、始末屋の胸に照準を合わせた。しかしながら始末屋は、大型ポリタンクを携えながら歩き続け、まるで彼らが手にしているのが玩具の拳銃ピストルだとでも言いたげな無警戒ぶりである。

「これが最後の警告だ! 止まれ!」

 オーストリアのグロック社が製造する9㎜口径の自動拳銃オートピストル、つまりグロック17を構えた警備員達が引き金に指を掛けながらそう言うと、始末屋は彼らの十mばかり手前でぴたりと足を止めた。警備員達は彼女が観念したものと判断し、安堵の溜息を漏らすと同時に自動拳銃オートピストルの構えを解く。すると始末屋は両手に携えていた大型ポリタンクを一旦地面に置き、取っ手を掴んでいた手を放したかと思えば、その手をトレンチコートの懐に差し入れた。

「!」

 始末屋がトレンチコートの懐から手を引き抜けば、そこには左右一振りずつの手斧が握られており、丹念に研ぎ上げられた鋭利な切っ先が街灯の光を反射してぎらりと輝く。

「おい、お前! その斧を捨てろ! 今すぐ捨てるんだ!」

そう言った警備員達がグロック17自動拳銃オートピストルを構え直すが早いか、始末屋は素早く振りかぶると、左右の手斧を同時に投擲した。投擲された手斧はくるくると縦方向に回転しながら空を切り、狙いを違える事無く二人の警備員達の顔面に命中したかと思えば、彼らの頭部が真っ二つに叩き割られる。すると当然の事ながら、悲鳴を上げる間も無く絶命した警備員達の死体はまるで糸が切れた操り人形の様な格好でもってその場に崩れ落ち、ぴくりとも動かない。

「……」

 二人の警備員達を一瞬にして絶命せしめた始末屋は容量20ℓの大型ポリタンクを再び手に取ると、眼前にそびえ立つ高層ビル、つまり地上八十八階建てのホァン財閥本社ビルを無言で見上げた。このビルディングの最上階に、依頼主である黄俊明ホァン・ジュンミンが囚われている筈である。

「ふん!」

 大型ポリタンクを手にしながらビルディングの正面玄関前、つまり防弾仕様の強化ガラスで出来た自動ドアの前まで辿り着いた始末屋は、現在は施錠されているその自動ドアを力任せに蹴り飛ばした。しかしながら、そこは防弾仕様の強化ガラス。常人離れした彼女の膂力でもって蹴り飛ばされても蜘蛛の巣状のヒビが入るだけで、そうそう簡単に壊れてはくれない。

「ふん! ふん! ふん!」

 とは言え繰り返し繰り返し、始末屋が何度も何度も力任せに蹴り飛ばし続ければ、遂に自動ドアは粉々に砕け散ってしまった。そして耳障りな破砕音と共に砕け散った自動ドアのドア枠を潜り、ガラス片を踏み締めながらホァン財閥本社ビルの建屋の内部へと始末屋が侵入すれば、今度は凄まじい音量でもって電子的な警報音が鳴り響く。このままでは遠からず、各所に待機していた他の警備員達、更には黄金龍ホァン・ジンロンに雇われた私設軍隊の兵士達までもが姿を現すに違いない。

「……」

 しかしながら始末屋は、慌てた素振りも見せずに無言のまま歩を進めると、ビルディングのエントランスの中央付近でもって両手に携えていた大型ポリタンクを床に置いた。そして自由になった右手をトレンチコートの懐に差し入れてから手斧を取り出し、床に置いた二つの大型ポリタンクを真っ二つにかち割れば、その中身であった大量の薄桃色の液体がごぼごぼと溢れ出て床を濡らす。

「居たぞ、あそこだ!」

 するとエントランスの奥の詰所の方角から数人の警備員達が姿を現し、こちらを指差しながらそう言って駆け寄って来ると、腰のホルスターからグロック17自動拳銃オートピストルを抜いた。

「そこのお前、動くな! 大人しくその場でひざまずき、床に腹這いになって足を広げ、手を頭の後ろで組むんだ!」

 警備員達はマニュアル通りの警告でもって始末屋に投降を促すも、当然の事ながらその警告を無視した彼女は、エントランスの北側に位置するエレベーターホールの方角へと足を向ける。

「動くなと言ってるんだ! 撃つぞ!」

 グロック17自動拳銃オートピストルを構えた警備員達は尚も警告し続けるが、彼らが何度警告しようとも、始末屋は一向に耳を貸さない。そしてエレベーターホールへと足を踏み入れた彼女が操作パネルの上昇ボタンを押すその間も、始末屋や警備員達の足元では大型ポリタンクから漏れ出た薄桃色の液体が床を濡らし続け、その液体から漂う刺激臭が警備員達の鼻を突く。

「ガソリンだ!」

「逃げろ!」

 薄桃色の液体の正体を看破した警備員達は口々にそう言って、泡を食ったように慌てふためきながら、その場から脱兎の如く逃げ出した。いくら彼らが高い職業倫理を兼ね備えたプロの警備員であったとしても、よりにもよって合計40ℓものガソリンが撒かれた現場での火災事故に巻き込まれてしまっては堪らないのだから、至極真っ当な判断であったと言えよう。そして彼ら警備員達の姿がエントランスから消え失せるのとほぼ同時に、一階へと到着したエレベーターに乗り込んだ始末屋はトレンチコートのポケットから取り出した発炎筒を発火させ、今にも閉まり切ろうとする扉の隙間からエントランスへと放り投げた。

「!」

 エレベーターの扉が完全に閉まり切った、まさにその瞬間。発炎筒から噴き出した炎が床一面に広がるガソリンに引火し、ホァン財閥本社ビルのエントランスは業火に包まれる。

「さて」

 業火に包まれるエントランスを他所に、始末屋を乗せたエレベーターはぐんぐん上昇し続け、やがて地上五十階のレセプションホールに到着した。到着と同時に開いた扉から一歩足を踏み出せば、数多の自動小銃の銃口が始末屋に向けられる。

「撃て!」

 正面玄関前やエントランスに居た警備員達とは違って、黄金龍ホァン・ジンロンに雇われた私設軍隊の指揮官が警告も無しにそう言えば、彼の部下である数十人の兵士達は一斉に引き金を引き絞った。すると耳を劈く銃声と眩いマズルフラッシュを伴いつつ、彼らが構えた自動小銃の銃口からおびただしい数の小銃弾の弾頭が射出され、始末屋は一瞬にして蜂の巣となる。

「撃ち方やめ!」

 やがて一通りの斉射を始末屋に浴びせ終えた後に、私設軍隊の指揮官が制止を意味するハンドサインと共にそう言えば、彼の部下である兵士達は引き金から指を離した。彼らの目論見通りならば、エレベーターの扉の前には全身に銃弾を浴びた始末屋の惨たらしい死体が転がっている筈である。

「!」

 しかしながらそこに転がっていたのは、死体ではなかった。いや、それどころか始末屋は、黒光りする革靴を履いた足でもってレセプションホールの床をしっかと踏み締めながら一歩も退いてはいない。高層ビルの八十五階から落下しても死なない常人離れした肉体の頑丈さを誇る彼女は、左右一振りずつの手斧の斧腹でもって急所である頭部と胸部を守りつつ、私設軍隊の兵士達による一斉射撃を耐え抜いてみせたのだ。

「この化け物め……」

 そう言った指揮官が再びの一斉射撃を命令するより早く、ペルシャ絨毯が敷かれたレセプションホールの床を蹴った始末屋は私設軍隊の兵士達に襲い掛かり、左右一振りずつの手斧を振るう。

「ぎゃあああぁぁぁ!」

 最初の悲鳴は、自動小銃を構えた両腕を切断された兵士の喉から漏れた。しかしながらその兵士も、次の瞬間には返す刀の手斧の切っ先によって素っ首を刎ね飛ばされ、宙を舞う生首はそれ以上の悲鳴を上げる事が出来ない。

「糞! 撃て! 撃つんだ!」

「駄目だ、この距離では同士討ちになる!」

 混乱するばかりの兵士達を尻目に、彼らに襲い掛かった始末屋は鬼神の様な獰猛苛烈ぶりを発揮しながら左右の手斧を振るい続け、広壮なレセプションホールは地獄さながらの凄惨無比なる殺戮現場と化した。彼女の手斧が振るわれる度に兵士達の手足や首が宙を舞い、それらの切断面から噴き出した真っ赤な鮮血が絨毯を濡らしたかと思えば、床一面に撒き散らかされた同胞の内臓でもって滑って転ぶ兵士も散見される始末である。

「敵はたった一人だぞ! 囲め囲め! 囲んで一斉に切り掛かるんだ!」

 都市型迷彩服と防弾仕様のタクティカル装備に身を包み、ケブラー製のヘルメットとガスマスクによって頭部を隙間無く覆った指揮官がそう言えば、生き残った兵士達は始末屋を取り囲むと同時にガンベルトに固定されたシースからナイフを抜いた。

「掛かれ!」

 指揮官の命令を合図に、ベンチメイド社製のタクティカルナイフを手にした兵士達が一斉に始末屋に切り掛かる。

「!」

 だがしかし、始末屋の勢いは止まらない。彼女は己を取り囲む兵士達の内の一人に照準を絞ると、その兵士目掛けてラグビー選手さながらの神速のタックルを敢行し、強引に包囲網を突破した。そして包囲網さえ突破出来れば、後はもう始末屋の独壇場である。残された兵士達は彼女の手斧によって次々に切り刻まれ、悲鳴を上げる間も無く蹂躙されたかと思えば、次の瞬間には物言わぬ血と肉の塊と化してしまうのだから堪らない。

「……馬鹿な……こんな馬鹿な事が……」

 ものの数分と経たぬ内に、レセプションホールの中央でひざまずいたままそう言って項垂れる指揮官一人を残して、ホァン財閥の私設軍隊は壊滅した。しかもその指揮官もまた御多分に漏れず、既にその両腕が根元から切断されてしまっている。

「あたしの前に姿を現したのが運の尽きだ。地獄で猛省しろ」

 冷静沈着を旨とする始末屋は淡々とした口調でもってそう言うと、振り下ろした手斧の一撃によって、眼下にひざまずいた指揮官の頭部をヘルメットごと叩き割った。

「ふん」

 始末屋がふんと鼻を鳴らしながらぐるりとこうべを巡らせ、トレンチコートの襟越しに周囲を見渡せば、彼女の手によって鏖殺おうさつの憂き目に遭った兵士達の死体の山が死屍累々の様相を呈す。

「さて、いよいよここからが本番か」

 独り言つようにそう言った始末屋は、さながらばらばら死体の博覧会場と化したレセプションホールを縦断し、高層階へと至るエレベーターへと足を向けた。そして操作パネルの上昇ボタンを押した彼女は籠が到着するまでの時間を利用して、手斧にこびり付いた私設軍隊の兵士達の血と脂を振り払い、来たるべき最終決戦に備える。

「よし」

 手斧にこびり付いた血と脂を振り払った始末屋は、トレンチコートのポケットからセラミックシャープナーを取り出しつつ、レセプションホールに到着したエレベーターに乗り込んだ。そして扉が閉まると同時に上昇を開始した籠の中で、セラミックシャープナーによる手斧の刃先のタッチアップを終えると、遂に運命の八十五階へとエレベーターは辿り着く。

「……」

 無言のままエレベーターを降りた始末屋は、分厚いペルシャ絨毯が敷かれた床を黒光りする革靴の踵でもって踏み締めながら、ホァン財閥の創業者の血縁たる《ホァン》一族が一堂に会するためのリビングの中央付近へと歩み出た。そしてリビングの中央に何故か設置されている噴水の、東洋の昇り龍をかたどった水の噴き出し口を一瞥したかと思えば、虚空に向かって呼び掛ける。

「臆したか黄金龍ホァン・ジンロン! マスター大山! 貴様らの耳にあたしの声が届いているならば、正々堂々とその姿を現すがいい! 」

 虚空に向けてそう言い放った始末屋の言葉がリビングの壁や床を反響するものの、彼女が呼び掛けた二人の仇敵からの返事は無い。しかしながら暫しの静寂の後に、始末屋は凄まじいまでの殺気を纏った何者かが頭上より迫り来る気配を察知し、その場から飛び退いた。

「!」

 すると次の瞬間、噴水の直上から空手の道着に身を包んだ何者かが降って来たかと思えば、昇り龍をかたどった銅像の上に着地するなり始末屋に宣言する。

「侮るなかれ、我が右眼を奪った手斧の黒き御仁よ! 暗黒闇空手の奥義である地獄拳極楽突きをその身に受け、その上ビルから落下したお主の死体が発見出来ぬのでよもやとは思っていたが、やはり生きておったか! そして臆する事無くこのわしの前に再び姿を現すとは、その豪胆不敵ぶりは感嘆に値する! 不肖マスター大山、お主のその心意気に、全力をもってお応えしようぞ!」

 東洋の昇り龍をかたどった銅像の、まさにその昇り龍の頭の上に着地したぼろぼろの空手着の大男こそ、誰あろうマスター大山その人であった。どうやらこの部屋の天井付近に始末屋が知り得ない秘密の出入り口があるらしく、マスター大山はその出入り口を経由する事によって、彼女の頭上から姿を現したに違いない。

「そこに居たか、マスター大山。今日こそ貴様と決着を付け、俊明ジュンミンを取り戻してくれよう」

 噴水から距離を取った始末屋が左右一振りずつの手斧を構えながらそう言えば、前回の激闘で失った右眼に眼帯を当て、空手の道着に身を包んだマスター大山は銅像の上から絨毯敷きの床へと降り立ち、猫足立ちの構えを維持しつつ見得を切る。

「ふはははははは! 遠からん者は音に聞け! 近くば寄って眼にも見よ! 我こそは地上最強として知られる暗黒闇空手の使い手、その名を世に轟かせた『空手百段』と言えばこのわしの事、天下無双のマスター大山様よ! さあ、手斧の黒き御仁よ! いざ尋常に、勝負! 勝負! 勝負!」

「あたしは始末屋! マスター大山よ、たとえ地獄に落ちようとも、貴様に引導を渡す者の名を覚えておくが良い!」

 始末屋もまたそう言って見得を切れば、今ここに、刮目すべき激闘の幕が切って落とされた。

「……」

 ぴんと張り詰めた静寂と緊張感を漂わせつつ、両者は暫し無言のまま睨み合い、じりじりと摺り足でもって近付いたり遠ざかったりを繰り返しながら互いに攻撃を繰り出すべきタイミングと間合いを測り合う。

「ふん!」

 静寂を打ち破り、最初に仕掛けたのは始末屋であった。彼女は素早く振りかぶると、左右一振りずつの手斧をマスター大山の急所目掛けて同時に投擲し、投擲された手斧は高速回転しながら空を切る。

「暗黒闇空手、回し受け!」

 するとマスター大山は丸太の様に野太い両腕を前方に突き出し、その腕を内から外へと回転させる事によって全ての衝撃を相殺する回し受けでもって、始末屋が投擲した二振りの手斧をいとも容易たやすく弾き返した。だがしかし、この投擲された二振りの手斧はデコイでしかない。何故ならマスター大山が投擲された手斧に気を取られた一瞬の隙を突いて、リビングの床を蹴った始末屋は助走をつけて跳躍したのだ。そしてトレンチコートの懐から新たな手斧取り出し、その手斧の切っ先をマスター大山の頭頂部目掛けて振り下ろす。

「ぬう!」

 隙を突かれたマスター大山は最大最高の防御力を誇る三戦さんちんの構えが間に合わず、咄嗟に上体を仰け反らせ、ボクシングで言うところのスウェーバックでもって始末屋の手斧を回避しようと試みた。そして頭頂部目掛けて振り下ろされた手斧を回避する事には成功したものの、着地した始末屋は間髪を容れずにその大柄な身体を回転させ、常人離れした膂力に遠心力を上乗せした手斧の一撃を繰り出し続ける。

「暗黒闇空手、回し受け!」

 この始末屋の連撃に対して、マスター大山は防戦一方であった。暗黒闇空手の神髄である基本に忠実な回し受けでもって手斧の軌道を逸らし、次々と迫り来る鋭利な刃から身を守る事に専念するが、手数の多さでは始末屋に軍配が上がる。そのためおよそ五発に一発程度の割合で彼女が振るう手斧の切っ先がマスター大山の身体を捉え、致命傷とまでは行かずとも、若干ながらの手傷を負わせつつあった。

「ぬう!」

 教科書通りの回し受けと身躱みかわしのすべによって深手を負う事こそ回避しているものの、このまま防戦一方ではいずれジリ貧に陥ると判断したマスター大山は反撃に転じる。

「暗黒闇空手、正拳突き!」

 防御が手薄になる事を覚悟の上で、足を止めたマスター大山は腰を落とし、超音速の正拳突きを放った。衝撃波と断熱圧縮を伴う必殺の一撃が、始末屋を襲う。しかしながら無理な体勢から放った正拳突きは速度も威力も不充分であり、また駆け引き上手な始末屋は狡猾にも、この一撃を事前に予期していたのだ。彼女は間一髪のタイミングでもって正拳突きを回避したかと思えば、こちらに向けて突き出されたマスター大山の右腕目掛けて手斧を振り下ろし、前回の戦いで右眼を失ったマスター大山はこの一撃を回避する事が出来ない。

「ぐぅっ!」

 始末屋の手斧がマスター大山の右腕に深々と突き刺さり、利き腕を負傷した彼は苦悶の声を上げた。いくら暗黒闇空手の使い手たるマスター大山とは言え、最大最高の防御力を誇る三戦さんちんの構えでなければ、常人離れした膂力でもって繰り出される手斧の一撃を無効化し得ない。

「ちょこざいな! 暗黒闇空手、手刀打ち!」

 するとマスター大山は左手でもって手刀打ちを放ち、自らの右腕に深々と突き刺さった手斧の柄を叩き折った。そして突き刺さったままの斧刃を腕から引き抜き、それを放り捨てると、始末屋から距離を取るべく後方へと飛び退った。斧刃が引き抜かれた腕の傷口から、真っ赤な鮮血がぽたぽたと滴り落ちる。

「見事なり、黒き御仁! いやさ、始末屋よ! このわしに深手を負わせる相手と相見あいまみえたのは、実にアマゾン仮面との激闘以来の三年ぶりの事ぞ!」

「御託はいい。何度でも掛かって来い」

 ややもすれば興奮気味に始末屋を称賛するマスター大山とは違って、冷静沈着を旨とする始末屋はぶっきらぼうな口調でもってそう言うと、叩き折られた手斧に代わる新たな手斧をトレンチコートの懐から取り出した。そしてぐっと腰を落としたかと思えば、左右一振りずつの手斧を構えながらマスター大山の出方を窺う。

「暗黒闇空手、前蹴り!」

 地を這う蛇のような摺り足により一気に距離を詰めたマスター大山が、やはり基本に忠実かつ教科書通りで何の変哲も無いながらも、完璧なタイミングでもって放たれる必殺の前蹴りを繰り出した。超音速の中足ちゅうそく、つまり足の指の付け根の部分が衝撃波と断熱圧縮を伴いながら始末屋の鳩尾みぞおちに命中し、横隔膜を蹴り潰される格好になった彼女は苦痛に喘ぐ。

「ぐぅっ!」

 しかしながら必殺必中の前蹴りを喰らってしまった始末屋も、只では起きない。彼女は鳩尾みぞおちに走る激痛を押して手斧を振るい、自らの横隔膜を蹴り潰すマスター大山の右脚を切り付けた。

「なんと!」

 切り付けられたマスター大山は感嘆と驚愕が入り混じったかのような声を上げながら飛び退り、自らの右脚に深々と突き刺さった手斧を凝視する。

「成程成程! 始末屋よ、それがお主の戦略か!」

 始末屋から距離を取ったマスター大山はそう言って得心すると、自身の右脚に深々と突き刺さったままの手斧を強引に引き抜いた。正拳突きを繰り出した右腕に引き続き、手斧の一撃によって負った傷口から滴り落ちた真っ赤な鮮血が一筋の軌跡となって、彼が身に纏った空手の道着を濡らす。

「我が妙技をかわし切れず、また同時に三戦さんちんの構えの前には手も足も出ぬと踏んで、こちらが技を繰り出す瞬間を狙って相討ちを誘うとはな! 肉を切らせて骨を断つとは、まさにこの事よ!」

 マスター大山はそう言って、始末屋の魂胆を看破してみせた。

「だがしかし、果たして骨を断たれるのは、わしとお主のどちらが先かな?」

 そう言ったマスター大山は一段と腰を落とし、日本古来の呼吸法である『息吹』によって肺と筋肉の隅々にまで新鮮な酸素を行き渡らせると、猫足立ちの構えを維持しながら改めて始末屋と相対する。

「さあ、どうしたどうした! 始末屋よ、どこからでも掛かって来るが良い!」

 じりじりと摺り足でもって間合いを測りながら挑発するマスター大山であったが、冷静沈着を旨とする始末屋はトレンチコートの懐から取り出した新たな手斧を構えつつ腰を落とし、彼の挑発に乗る事は無い。

「掛かって来ないのならば、こちらから行くぞ!」

 そう言ったマスター大山は床を蹴り、一気に距離を詰めた。

「暗黒闇空手、下段回し蹴り!」

 距離を詰めたマスター大山は始末屋を間合いに捉えると、超音速の下段回し蹴りを放つ。

「ぐぅっ!」

 放たれた下段回し蹴りが狙いを違えず命中し、マスター大山のタングステン鋼の様に硬い左の背足はいそく、つまり足の甲が始末屋の右太腿に深々とめり込んだ。そして次の瞬間には人智を超えた超音速が生み出す衝撃波と断熱圧縮によって彼女の全身の骨が軋み、筋肉が断裂すると同時に皮膚が焼け、通常の回し蹴りでは考えられない程のダメージを負う事となる。

「ふんっ!」

しかしながら始末屋は、この好機を決して見逃さない。彼女は自らの右太腿に背足はいそくがめり込んだまさにその瞬間を見計らって手斧を振るい、マスター大山の左脚をしたたかに切り付けた。

「ぬうっ!」

 右脚に続いて左脚までをも切り付けられたマスター大山は後方へと飛び退り、始末屋から距離を取る。

「やはり相討ち狙いがお主の戦略か!」

 そう言ったマスター大山が左脚に負った新たな傷口から真っ赤な鮮血が滴り落ち、彼が身に纏う道着に新たな染みが描かれた。しかしながら始末屋もまた下段回し蹴りを喰らった右脚の太腿に激痛が走り、がくりとその場に膝を突いて苦痛に喘ぐ。

「休んでいる暇は無いぞ、始末屋よ! 暗黒闇空手、貫手突き!」

 始末屋の足が止まったのを好機と捉えたマスター大山は再び間合いを詰め、必殺の貫手突き、つまり指をぴんと立てたままの鋭い突き技を放った。

「!」

 マスター大山の貫手突きが始末屋の胸のど真ん中に命中し、皮膚こそ突き破られなかったものの彼女の胸骨と肋骨がぼきぼきと言った鈍い音を立てながらへし折れ、折れた肋骨の一部が肺に突き刺さる。

「がはっ!」

 損傷した肺からの出血が呼気に混じり、始末屋の喉から真っ赤な空咳が漏れた。だがしかし、鮮血交じりの空咳を漏らしながらも彼女は手斧を振るう手を止めず、自らの胸を刺し貫かんとするマスター大山の左腕を手斧でもってしたたかに切り付ける。如何に百戦錬磨のマスター大山と言えども、己が放った攻撃が命中するこの瞬間ばかりは身を守る事が出来ない。そして切り付けられたマスター大山は再び後方へと飛び退りつつ、始末屋から距離を取ったかと思えば、つるつるに禿げ上がった頭と野放図に伸び放題の髭に覆われたその顔にこの上無い歓喜の表情を浮かべる。

「ふはははははは、さすがは始末屋! このわしをここまで追い詰めるとは、まったくもって見事なり! 雑兵相手では決して味わえぬ、この生と死の狭間に立つ者だけが享受出来るひりひりとした緊張感と緊迫感に、お主の心もまた存分に沸き立っている事であろう! だがしかし、お主とて決して無傷ではあるまい! こうなればわしとお主のどちらが先に倒れるか、この我慢比べを存分に楽しもうぞ!」

 高笑いと共にそう言ったマスター大山は、猫足立ちの構えを維持しながらほくそ笑んだかと思えば、次の攻撃の予備動作へと移行した。

「さあ、始末屋よ! いざ尋常に、勝負! 勝負! 勝負!」

 再び見得を切ったマスター大山はペルシャ絨毯が敷かれた床を蹴り、始末屋目掛けて跳躍する。

「暗黒闇空手、飛び足刀蹴り!」

 跳躍したマスター大山は空中で身体を一回転させると、その回転によって生み出された遠心力を上乗せしつつ、始末屋の頭部に照準を合わせながら超音速の飛び足刀蹴りを放った。

「捉えた!」

 だがしかし、冷静沈着を旨とする始末屋は決して慌てない。彼女は四肢に深手を負ったマスター大山の飛び足刀蹴りが本来の速度と威力を発揮出来ていないと判断するや、駱駝色のトレンチコートの裾を靡かせながら身を翻し、これを間一髪のタイミングでもって回避してみせた。そしてこちらへと飛び来たるマスター大山の懐に飛び込むと同時に手斧を放り捨て、空拳となった左右の手でもって空手着の襟を掴みつつ大男の頭上を飛び越えると、素早く身体を反転させてからマスター大山の背後に取り付く。

「ぬうっ!」

 気付けば始末屋がマスター大山の背後に取り付きながら、左右の手で掴んだ空手着の襟でもって、彼の首を締め上げる格好になっていた。

「卑怯なり始末屋! 正々堂々、真正面から正攻法でもって勝負せよ!」

 首を締め上げられたマスター大山はそう言って彼女の行為を咎めるが、始末屋は意に介さない。

「正攻法か否かなど、知った事か。あたしは如何なる手段を講じようとも、依頼を完遂する」

 そう言って反論した始末屋はマスター大山の首をぎりぎりと締め上げ続け、気道と頸動脈を圧迫された彼は思うように呼吸が出来ず、苦痛に歪むその顔は見る間に鬱血する。

「おのれ! おのれ! おのれ!」

 声にならない怨嗟の声を上げながら、マスター大山は始末屋を振り払おうと奮闘するものの、ぴったりと背後に取り付いた相手には手も足も出ない。ゼロ距離で身体を密着させた敵に対して、寝技や投げ技を主体とする柔道やレスリングならともかく、突きや蹴りと言った打撃技を主体とした暗黒闇空手は無力であった。

「おのれ始末屋め……これで勝ったと思うでないぞ……」

 やはり声にならない声でもって怨嗟の言葉を口にしたマスター大山は、もはや形振なりふり構ってはいられない。そんな彼は傷付いた両脚でもって大地を踏み締め、始末屋を背負ったまま移動し始めたかと思えば、リビングの中央に設けられた噴水へと足を向ける。

「こうなれば、お主も道連れにしてくれる……」

 そう言ったマスター大山は背後に取り付いた始末屋ごと、満々と湛えられた噴水の水の中へとその身を投じた。彼ら二人が身を投じた事によって驚いた数尾の錦鯉が、尾びれや背びれを激しくばたつかせながら右へ左へと逃げ惑う。

「ごぼごぼごぼごぼごぼごぼ……」

 半ば捨て鉢気味のマスター大山もろとも、水中へとその身を投じられる格好となった始末屋。彼女の口や鼻の穴からはぶくぶくとあぶくが漏れ出し、如何に高層ビルの八十五階から落下しても死なない始末屋と言えども、呼吸が出来なくなってしまっては堪らない。そして彼女とマスター大山は、どちらが先に窒息するかを競い合うと言った、まさに命を賭けたチキンレースでもって雌雄を決する。

「ごぼ……」

 始末屋とマスター大山が水中へとその身を投じてから数分後、遂に水面からはあぶくが消え失せ、二人の呼吸が完全に止まった。

「……」

 呼吸が止まった二人は満々と湛えられた噴水の水の底に沈んだまま、ぴくりとも動かない。

「ぶはっ!」

 だがしかし、始末屋とマスター大山の呼吸が止まってから更に数分後、二人の内のどちらか一方が水面から顔を上げると同時に激しく呼吸を繰り返す。

「はあっ! はあっ! はあっ! はあっ! はあっ! はあっ!」

 顔を上げたのはトレンチコートの大女、つまり始末屋であった。どちらが先に窒息するかを競い合う命を賭けたチキンレースはここに決着し、軍配は彼女に上がったのである。

「はあっ! はあっ! はあっ……はあっ……」

 始末屋は呼吸を整えながら立ち上がると、まるで土左衛門、つまり水死体の様にうつぶせの体勢でもって水中に没したままのマスター大山をその場に残し、満々と水を湛える噴水の中から退出した。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 やがて呼吸を整え終えた始末屋は姿勢と襟を正し、ずぶ濡れになった全身から可能な限り水滴を掃い終えると、リビングの様子を改めて確認する。

「あれか」

 そう言った始末屋の視線の先には、八十五階から更に上の階層へと続く螺旋階段が垣間見えた。そこで彼女は床に放り捨ててあった手斧を回収すると、その螺旋階段へと足を向ける。

「くっ!」

 螺旋階段の方角へと足を向けた始末屋の胸と右太腿に激痛が走り、彼女はその場にがくりと膝を突いてしまった。そしてげほげほと咳き込めば、その呼気には真っ赤な血が混じり、トレンチコートの襟を濡らす。マスター大山の下段回し蹴りを喰らってしまった右太腿の筋肉は断裂し、貫手突きを喰らってしまった胸は胸骨と肋骨が折れて肺もまた損傷してしまっているのだから、始末屋ほどの女丈夫であったとしてもまともに立ってはいられない。

「あたしは……依頼を完遂する」

 そう独り言ちた始末屋は激痛が走る右太腿に鞭打ち、呼吸に合わせて真っ赤な鮮血がほとばしる口元をトレンチコートの袖でもって拭いながら、螺旋階段の方角へと歩き続ける。

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