第四幕
第四幕
ホテル
「はぁ……はぁ……ちょっと待てよ……待ってくれってば……」
最後尾を歩いていた
「僕は……お前らみたいな人殺し連中なんかと違って……野蛮な生き方はしていないんだからな……だからもっと……僕に配慮しろってば……」
そう言って呼吸を荒げる
「運動不足だな。若い内からそれでは先が思いやられる、もっと身体を鍛えろ」
地下駐車場の薄暗い照明の下、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋は素っ気無くそう言って、特に
「糞、この大女め!」
そう言って悪態を吐く汗だくの
「いいか
始末屋はそう言いながら
「よし、行くぞ。ついて来い」
しかしながら始末屋はそう言うと、ボニー・パーカーと正体不明の獣を引き連れつつハオジアンの街の繁華街の方角へと歩き始め、
「ここまで来れば、取り敢えず追手は撒けたな」
やがてホテル
「それで、これから一体どうするつもりなのかしら、始末屋?」
極彩色のネオンサインが煌めく夜の繁華街で、街路を埋め尽くす人混みの中で足を止めたボニー・パーカーが振り向きざまに尋ねると、始末屋は答える。
「そうだな、船でもってフォルモサへと向かう前に、とりあえずどこかで飯にしよう。こうも腹が減ってしまっていては、足腰に力が入らなくて仕方が無い」
そう言った始末屋は再び歩き始め、やがてハオジアンの街の中心部から距離を置いた寂れた裏通りの、一軒の食堂の前で足を止めた。
「ここにするぞ」
有無を言わせぬ口調でもってそう言った始末屋に従い、彼女の後に続く二人と一頭もまた、屋号が染め抜かれた暖簾を潜って入店する。
「あら、随分と安っぽい店ね?」
入店したボニーがそう言うと、
「おい、店主」
さほど広くもない店内の壁と言う壁に貼られたメニューの一覧をざっと見渡すと、始末屋は店主を呼びつけ、料理を注文する。
「いいか店主、
始末屋は何を注文すべきか悩む事無く、流暢な広東語でもってそう言って、伝票に注文を書き取った食堂の店主を急かした。するとそんな始末屋に、彼女の向かいの席に腰を下ろしたボニーが尋ねる。
「それで始末屋、重ねてお聞きしますけど、これからの予定は一体どうなっているのかしら?」
「明日の昼過ぎ、漁港からフォルモサへと向かう漁船に乗って密航する手筈を整えてある。だからそれまではここハオジアンのダウンタウンに潜伏し、追手から身を隠すぞ。その間何をするかは、貴様の自由だ」
「なるほどね、理解しましてよ」
始末屋のぶっきらぼうな返答を耳にしたボニーはそう言って、首を縦に振りながら得心した。すると今度は
「おい、大女」
「あたしを大女と呼ぶな。始末屋と呼べ」
「分かった。それで始末屋、お前はお爺様に雇われて僕を助けに来たんだろう? だったらお爺様は、僕の事を何と言っていた?」
「依頼人である
「そうか。そうだよな、僕はお爺様にとっても、そして
「いただきます」
やはり意外にも行儀良くそう言うと、始末屋は眼の前に並べられた料理の数々に箸を付け始めた。勿論ボニー・パーカーと
「あら、なかなか美味しいじゃないの」
炊き立ての
「当たり前だ。ここはあたしが選んだ店だからな」
始末屋はそう言いながら
「!」
その時不意に、始末屋の手が止まった。そして彼女は、隣の席で
「おい、
「ん? 何だ?」
「さっきから見ていれば、貴様、行儀が悪いにも程があるぞ。フォークじゃないんだから、
始末屋はそう言って、隣に座る
「何だよ、いいじゃないか! 僕は僕のやり方でもって、ちゃんとご飯が食べられているんだからな!」
「ふざけるな。食事の作法と言うものは、人間としての最低限の礼儀でもあるし、命を繋ぐために犠牲となった食材への敬意を忘れないために必要不可欠なものだ。それを疎かにしていては、貴様が生きるべき価値そのものを問われかねない」
淡々とした口調でもってそう言いながら、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋は背後から腕を回して
「痛い痛い! ああ、もう、分かったってば、この黒んぼの大女め! ちゃんとお前の言う通りに箸を持つから、その手を離せ!」
苦痛に喘ぐ
「糞、この黒んぼの大女め……」
ややもすれば人種差別的な悪態を吐きつつ、慣れない手つきながらも
「よし、そうだ、それでいい。その調子で毎日毎食、少しずつでいいから必ず練習し続けろ。そうすればその内自然と、正しい箸の持ち方が身につく筈だからな」
「はいはい、分かったよ。毎日練習すりゃいいんだろ、ったく」
他でもない始末屋に忠告されてしまった
「あら、これもなかなか美味しいじゃないの。ねえ、これは何と言う料理でしたっけ、始末屋?」
始末屋とほぼ同時に皿に手を伸ばしたボニーが、レンゲで掬った
「
そう言った彼女の言葉通り、始末屋は炊き立ての
「ごちそうさま」
やがてテーブルの上に並べられていた全ての皿が空になり、安っぽいプラスチック製のコップに注がれた
「おい
「……ごちそうさま」
渋々ながらそう言った
「おい店主、会計だ。現金で頼む。それと、バカリャウを一枚分けてくれ。勿論、その分の料金も払うから安心しろ」
そう言った始末屋は現地通貨での会計を終え、注文した通りにバカリャウ、つまり塩漬けにした鱈の開き一匹分を受け取ると、残る二人と一頭を背後に従えながら食堂を後にする。
「それで始末屋、あなたはこれからダウンタウンに潜伏すると仰ってましたけど、今夜の宿は確保してあるのかしら?」
食堂を後にし、ハオジアンの街の裏通りへと一歩を踏み出したところで、ボニー・パーカーが始末屋に尋ねた。そこで始末屋は、食堂での会計時に受け取ったバカリャウを生のままむしゃむしゃと齧りながら答える。
「宿は確保してある。しかし、予約したのは二人部屋一つだけだ。だからボニー、貴様は貴様で宿を確保しろ」
「成程ね、でしたらあなた方と同じ宿で部屋を探すか、仮に満室でしたら、近くで別の宿を探しましてよ? まあ何にせよ、その確保してある宿とやらに急ぎましょうか。さあ始末屋、案内してちょうだいな」
「勝手にしろ」
そう言った始末屋は
「なあ始末屋、何かここら辺、ちょっと変じゃないか?」
見慣れぬ街の雰囲気に、
「気にするな、只の色街だ。未だ子供の貴様には馴染みが無いだろうが、すぐ慣れる」
やはりぶっきらぼうな口調でもって始末屋がそう言えば、どうやらそれが
「おい始末屋、僕を子供扱いするな! まあ確かに、僕はお前と違って未だ未だ背は低くて身体は小さいが、中身はもう立派な大人だ……」
そこまで言い掛けたところで、不意に
「な……」
言葉を失った
「どうした
特にからかったり小馬鹿にしたりと言った風でもなく、純粋に素朴な疑問と言った塩梅でもって、塩漬けの鱈の切り身であるバカリャウをむしゃむしゃと齧りながら始末屋が尋ねた。
「そ、そんな事あるもんか! おおお女の裸ぐらい見慣れているに決まってんだろ!」
尋ねられた
「ねえねえ、そこの可愛い小さなお客さん、あたし達と遊んで行かない?」
「今ならたっぷりサービスしてあげちゃうんだから!」
すると不意に、けばけばしいネオンサインを掲げた売春宿のショーウインドウの向こうから半裸の売春婦達が
「……」
この誘いに対して頬を赤らめた彼が沈黙しながら眼を逸らすと、声を掛けた売春婦達はきゃあきゃあと黄色い歓声を上げながら愉快そうに笑い合い、
「おい貴様、どうした? 顔が真っ赤だぞ?」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい! 僕を子供扱いするなってば!」
隣を歩く始末屋の執拗な問い掛けに対して、まるで完熟トマトの様に真っ赤な顔の
「なんだ貴様、もしかして、未だ童貞か?」
この一言に、
「ぼ、ぼぼぼぼ僕が童貞だと? そそそそそんな訳無いだろ! ぼぼぼ僕は女に不自由しない、りりり立派な一人前の大人の男だ! 童貞なんかであるもんか!」
「そうか、やっぱり貴様、童貞か。だったら良い機会だ、この際だから今夜これからこの街で、女を知って行け。そうすれば人としても男としても一皮剥けるし、何であれば、ちんこの皮も剥いてもらえるぞ」
「ち……」
始末屋の口から発された下品な
「何をするんだ始末屋! 放せよ、この手を放せってば!」
「いいから黙ってついて来い。これからいい所へ連れて行ってやろう」
「良し、この店でいいだろう」
そうこうしている内に、やがてハオジアンの色街の中でもとりわけ華やかで賑やかな大通り沿いの一角で、そう言った始末屋は足を止めた。けばけばしいネオンサインの光に照らし出された大通りにも客引きの売春婦や酔客がどっと溢れ、行き交う人々のがやがやと言う喧騒と人いきれが街中の至る所を隙間無く埋め尽くし、まさに快楽と悦楽の街ハオジアンの面目躍如と言ったところである。そして彼女に襟首を掴まれたまま、力尽くでもって無理矢理連れ回された
「ここは……?」
足を止めた始末屋と
「おい
「ええぇぇ?」
「うわああああぁぁぁぁ……」
始末屋に襟首を掴まれたまま高級娼館の店内へと足を踏み入れてみれば、そこは淫猥な雰囲気を醸し出すピンク色の照明に照らし出されたランジェリー姿の娼婦達でごった返しており、半ばパニック状態に陥った
「おい、そこの貴様。ここの店主を呼んで来い」
「は、はい!」
始末屋が高級娼館のロビーで客待ちをしていた適当な娼婦の一人を指差し、高圧的かつ威圧的な口調でもって店主を呼んで来るように命じると、その娼婦は店の奥へと姿を消した。すると暫しの間を置いてから、高級娼館『
「あたしを呼んだのは、あんたかい?」
そう言いながら店の奥から姿を現したのは、やはり煽情的なランジェリー姿の、乳も尻も豊満でありながら腰の括れはしっかりと維持した見事なプロポーションの妙齢の女性であった。そしてその妙齢の女性は古めかしい
「それであんた、ここら辺では見ない顔だけれども、あたしに何の用だい? 先に言っておくが、面倒事は御免だよ?」
妙齢の女性はそう言うと、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋の顔に向かってふうっと煙草の煙を吹き掛けた。
「別に、面倒事に巻き込むつもりは無い。これからこいつが、ここで童貞を捨てる。だから、この店で一番若くて気立ての良い娘をあてがってやってくれ。勿論、充分な報酬は払うつもりだ」
煙草の煙を吹き掛けられた始末屋は動じる事無くそう言うと、彼女が着ているトレンチコートのポケットから丸めて輪ゴムで結わえられた札束を数束ばかり取り出し、それを妙齢の女性に手渡してから胸を張る。
「……は、あは、あはははは!」
するとこの高級娼館の店主であるランジェリー姿の妙齢の女性は、この上無いほど愉快そうな表情をその顔に浮かべつつ、華奢でありながら引き締まった喉から高らかな笑い声を漏らし始めた。
「ああ、こいつは傑作だよ! こんなに堂々とした態度でもって童貞を捨てに来た奴なんて、あたしは生まれてこの方聞いた事が無いね! ああ、本当に傑作だ、気に入ったよ! だからあたしに任せておきな、背の高いお嬢さん! あんたの連れのその坊やに、この店でもとびきり最高の娘をあてがってあげるからさ!」
愉快そうにそう言った店主の妙齢の女性は、この高級娼館の番頭らしき男性店員を呼び付けると、高圧的な命令口調でもって命じる。
「おいお前、まことを呼びな! 何? 別の客の相手をしている最中だって? ああ、もう、構わないからさっさと呼び戻すんだよ! 極上で最上級のお客さんが、手ぐすねを引いてお待ちだってな!」
妙齢の女性がそう言って命じると、番頭の男性は店の奥へと姿を消し、後には始末屋と
「あんた、面白い女だね。これから童貞を捨てるその坊やは、あんたの弟か何かかい?」
「いや、違う。ちょっとばかり縁があっただけの、赤の他人だ」
「そんな赤の他人の世話を焼くだなんて、やっぱりあんたは面白い女だ。ああ、申し遅れたけど、あたしはマダム
「それは助かる」
そう言った始末屋は不愛想を絵に描いたようなその表情を崩さなかったが、マダム
「おい、ちょっと待て始末屋! 僕はこんな事をしてくれだなんて頼んでないぞ!」
始末屋に襟首を掴まれたまま、無駄だと分かっていても、じたばたと手足をばたつかせて必死の抵抗を試みる
「いいかい坊や、あんたは本当に幸運な男なんだから、そんな事言わずに楽しんでお行きなさいな? これからあんたの相手をするまことはね、うちの店でも最高に若くて可愛い上に、テクニックの方も抜群の百年に一人の逸材なんだからね? こんないい娘と寝られる機会なんてそうそう無いし、ましてや童貞を捨てさせてもらえるだなんて、光栄に思わなくっちゃ損だよ?」
「な……」
マダム
「マダム、お呼びですか?」
そう言いながら姿を現した少女は布面積の少ない黒いレースのランジェリーだけを身に纏い、短く切り揃えた艶やかな黒髪と真っ赤なセルフレームの眼鏡が特徴的な一人の娼婦であり、レンズの奥のその眼は生きている事が嬉しくて仕方が無いとでも言いたげな生の喜びに満ち溢れている。
「ああ、まこと、待ってたよ。あんたに新しいお客さんだ。久々の上客だから、たっぷりサービスしてやんな」
マダム
「どうも、まことちゃんです! それでこちらの大きなお姉さんが、あたしの新しいお客さんですか?」
「いや、違う。貴様が相手にするのは、あたしじゃない。こっちのこの男の童貞を、貴様のまんこでもって捨てさせてやってくれ」
客と勘違いされた始末屋がそう言えば、彼女が襟首を掴んでいる
「へえ、こっちの可愛らしい坊やが、今夜のあたしのお客さんなんだ?」
そう言ったまことは膝を曲げて身を屈め、始末屋に襟首を掴まれたままの
「うふふ、照れちゃって可愛い! それでキミ、今は未だ童貞なんでしょ?」
「そうだよ、童貞だよ! 童貞で何が悪い!」
開き直った
「うふふ、本当にキミ、可愛いね! それじゃあこれからあたしがキミをたっぷり愛してあげちゃうから、出すものたっぷり出して、腰が抜けるまで楽しんで行ってくれると嬉しいな!」
娼婦のまことはそう言うと、彼女の柔らかくも可愛らしい唇を、
「ああ……」
ねっとりとした舌と舌が絡み合うディープキスの感触によって
「さあ
「う、うん……」
そう言った
「本当にこれで良かったのかい、背の高いお嬢ちゃん?」
「ああ、そうだ。男の童貞なんてものは、若い内にさっさと捨ててしまうに限る。男と言うものは、女の性器に対する幻想を捨て去ってからが本当の人生だ」
「辛辣だねえ。しかし、それもまた道理だ」
「ここは煙草の匂いが充満していて、正直言って不愉快だ。あたしは外で待たせてもらおう」
「ああ、好きにしな」
そう言ったマダム
「どう言うつもりですこと、始末屋?」
「どう言うつもりとは、どう言う意味だ?」
問い質すボニーに、始末屋は事も無げに問い返した。
「保護対象でしかない少年の下の世話にまで気を回すだなんて、
ボニーはそう言うが、始末屋は意に介さない。
「保護対象の処遇は、保護した者に決定権が移譲される。箸の持ち方がおかしければこれを矯正するし、童貞を捨てる必要があると判断すれば、女を世話してやるまでだ。何かおかしな点があるか?」
「ええ、そうね。確かにあなたの言う通り、取り立てておかしな点は無くってよ? だけど女のあなたが男のために娼婦を世話してやるだなんて、始末屋、あなたも相当変な女でしてよ?」
「そうか。まあ、そうかもな」
ボニーの問い掛けに返答した始末屋はそう言うと、裏通りの食堂で分けてもらったバカリャウの残りをむしゃむしゃと齧って腹を満たす。彼女ら二人の連れである
「……ねえ、始末屋」
「何だ?」
「あなたがさっきから召し上がっていらっしゃるその魚、それ、美味しいのかしら?」
ボニーがそう言うと、始末屋は彼女に向かってバカリャウを差し出し、喫食を促す。
「食うか?」
そう言って喫食を促す始末屋に、ボニーは差し出されたバカリャウを手に取ると、少しばかり躊躇してからおもむろに噛り付いた。そしてホオジロザメを髣髴とさせる真っ白なギザ歯でもって噛み切ったそれを二度三度と咀嚼したかと思うと、げえげえとえずきながら、地面に向かってぺっと吐き出す。
「何ですの、これ? 塩っ辛くて生臭くって、とてもじゃありませんけど、人間の食べ物とは思えません事よ?」
「まあ、普通は生のまま食うもんじゃないからな」
やはり事も無げにそう言った始末屋は、口内のバカリャウの破片をぺっぺと地面に吐き出し続けるボニー・パーカーを他所に、残りのバカリャウをむしゃむしゃと食べ切ってしまった。塩漬けにした鱈の開きであるバカリャウは、流水で塩抜きした後に味付けや風味付けのために少量だけ料理に加える物であって、そのままむしゃむしゃと食べる物ではない。
「あなた、やっぱり相当変な女ね」
「その評価は聞き飽きた。次はもっと、気の利いた事を言え」
そんな益体も無い遣り取りを繰り返しながら、ここハオジアンの街きっての高級娼館である
「あら
ボニーがそう言って問い質すが、心ここにあらずと言った様子の
「その様子なら、どうやら順調に事を終えたようだな」
そう言った始末屋は一歩前に進み出ると手を伸ばし、今にも昏倒してしまいそうな
「ねえ坊や、キミもあたしの身体と女の秘密の穴でもって、存分に楽しんで行ってくれたかしら? あたしはキミの童貞喪失の瞬間に立ち会えて、本当に心から嬉しかったんだからね? それじゃあまたこのお店を訪れる機会があったら、次も是非、あたしを指名してちょうだいよ? その時もまた、あたしのテクニックでもって、うんとサービスしてあげちゃうんだから!」
「……うん……」
女体による童貞喪失がよほど衝撃的だったのか、やはり心ここにあらずと言った様子の
「それじゃあまた来てね、坊や」
「また来ておくれよ、坊やも、背の高いお嬢ちゃんも」
笑顔と共にそう言って手を振るまこととマダム
「……凄かった……」
すっかり精気が抜け切った彼は下半身に力が入らず、ふわふわと雲の上を歩いているかのような足取りをなんとか維持しつつ、そう言うのがやっとの状態であった。
「そうか、そんなに凄かったか」
始末屋がそう言うと、興奮冷めやらぬ様子の
「……うん、凄かった。本当に、本当に凄かった。……なあ始末屋、世の中に存在する全ての女はあんなにも柔らかくていい匂いがして、あんなにも温かくて気持ちのいい穴を股に隠し持っているもんなのか?」
「いや、そうとも限らん。世の中にはあたしみたいに身体が固くて臭い女も居るし、まんこが気持ちいいと言う保証も無い。今夜、貴様の相手をしてくれたあのまこととか言う女は、特別だと思え」
「そうなのか……」
ぽおっと熱に浮かされた表情の
「ここが今夜の宿だ」
足を止めた始末屋がそう言いながら見上げるビルディングは、客室のベランダの鉄柵がぼろぼろに錆び、雨水による染みだらけの外壁のコンクリートが何カ所も剥げ落ちているような年代物の安ホテルである。
「ここが今夜の宿ですって? こんなボロ屋に泊まるくらいなら、野宿した方がマシではないかしら?」
「だったら、好きにしろ。あたしは貴様らを引き止める気は無いし、この宿に泊まると言う事実を訂正する気も無い。貴様がここに泊まるか否かは、貴様自身が決める事だ」
「ぐぅ……」
始末屋からの
「ええ、ええ、それでは承知しましてよ! このボロ屋に、泊まってみせてやろうじゃありませんの!」
半ばヤケクソ気味な口調でもってそう言ったボニーは、楽器ケースを背負って正体不明の獣を背後に引き連れながら、先陣切って安ホテルの店舗内へと足を踏み入れた。
「……いらっしゃい」
今時自動ドアですらない扉を押し開けて安ホテルのエントランスに足を踏み入れてみれば、見るからにやる気の無さそうなフロント係の男がぼそぼそとくぐもった声でもってそう言って、始末屋ら一行を出迎える。
「今夜、ツインの部屋を予約した者だ。案内を頼もう」
フロントに歩み寄った始末屋がそう言って、部屋への案内を要請した。すると彼女とフロント係の男との間にボニー・パーカーが割り込み、自らの要望を告げる。
「その前に、このあたくしを要望を聞き入れてくださるかしら?」
「……何だい?」
「このあたくしにも、ツインの部屋を一つ用意してちょうだいな。出来ましたらこの大女と同じ階の、隣の部屋を用意してくださるかしら? それと、この子と一緒に泊まる事を許可しなさい。文句は言わせなくてよ」
フロント係の男に向かってそう言ったボニーは彼女が言うところの『この子』、つまり正体不明の獣の背中をぱんぱんと軽く叩いて、その存在を知らしめた。
「……別に、犬くらい連れ込んでも構わんさ。……さあ、こっちだ」
やはりやる気の無さそうなフロント係の男はそう言うと、鍵を二つ手にしながら階段の方角へと足を向け、始末屋ら一行を上階へと案内する。
「……ほら、この部屋と、隣のその部屋だ。シャワーは深夜零時までに浴びてくれ。それ以降は、ボイラーの火を落とす」
如何にも面倒臭そうにそう言ったフロント係の男は始末屋とボニーのそれぞれに部屋の鍵を手渡すと、ぼそぼそと消え入りそうな声でもって「ごゆっくり」とだけ言い残し、その場から立ち去った。後には只、始末屋を筆頭とした三人と一頭だけがぽつんと取り残される。
「一体何なのかしら、あの態度は? こちらはせっかく泊まりに来てさしあげたお客様だと言うのに、随分のやる気の無いスタッフじゃなくて?」
「そう言うな、ボニー。この辺りの貧民街に暮らしている人間の態度など、概ねあんなものだ」
憤懣遣る方無いボニーとは対照的に、特に不平不満を漏らす事無くそう言った始末屋。彼女はフロント係の男から受け取った鍵でもって解錠した扉を蹴り開け、安ホテルの三階の廊下の突き当たりの部屋へと足を踏み入れると、室内の様子を確認する。
「ふむ」
足を踏み入れた客室は寝室とバスルームのみの簡素な造りで、壁は雨漏りによる染みだらけで黴臭い匂いが充満し、悪い意味で期待を裏切らない安普請ぶりであった。
「なんて酷い部屋なのかしら! こんな部屋で夜を明かすだなんて、あたくしには耐えられなくてよ!」
客室の様子を確認したボニーはそう言って憤るが、やはり始末屋は眉一つ動かさず、彼女を
「貴様はついさっき、このボロ屋に泊まってやろうと言った筈だ。あれは虚言か?」
「ぐぅ……」
痛い所を突かれたボニー・パーカーは再び口籠り、やがて深い溜息を吐きながら観念すると、廊下の突き当たりから二つ目の彼女の客室にすごすごと引き下がった。そして始末屋の客室には彼女と
「おい
「え? ああ、うん……」
気の無い返事を口にした
「その様子だと、正気を取り戻すまでは未だ未だ時間が掛かりそうだな。おい俊明《ジュンミン、貴様、先にシャワーを浴びて頭を冷やして来い。ほら、早くしろ」
腑抜けた様子の
「うん……分かった……」
始末屋に指示された通り、バスタオルを手にした
「ふう」
やがて始末屋が用意した全ての手斧が研ぎ上がる頃、寝室からバスルームへと続く扉が開け放たれ、下着姿の
「よし、次はあたしがシャワーを浴びて来る。何か身の危険を感じたなら、すぐに報告しろ」
そう言った始末屋はおもむろにトレンチコートを脱ぎ、更に真っ赤なネクタイを解いて黒い三つ揃えのスーツとワイシャツも脱ぐと、すぐ隣に
「おい始末屋、何やってんだ! こんな所で服を脱ぐな!」
当然ながら
「なんだ貴様、せっかく童貞を捨てさせてやったと言うのに、未だ女の裸を見慣れていないのか?」
臆面も無く全裸になった始末屋はそう言いながら、脱ぎ終えた衣服と下着を寝室に残したまま扉を蹴り開け、バスルームの中へとその姿を消した。そして彼女がシャワーを浴びている間、寝室に取り残された
「待たせたな」
始末屋がバスルームに姿を消してからおよそ十分後、シャワーを浴び終えた彼女は再び全裸のまま姿を現し、その常人離れして健勝なる肉体を惜しげも無く晒す。
「だから、服を着ろってば!」
「気にするな。あたしは気にしない」
その言葉が嘘ではない事を証明する意図があってか否か、頬を赤らめながら抗議する
「いいか、あたしはもう寝る。貴様もやるべき事が無いのなら、電気を消してとっとと寝ろ」
やはりぶっきらぼうな口調でもってそう言った始末屋は、安物の毛布に包まったまま壁の方を向き、そっと眼を閉じて就寝の体勢へと移行した。そこで
「……なあ、始末屋?」
やがて我慢が限界に達した頃、寝返りを打つ度にぎしぎしと音を立てて軋むベッドの上の
「始末屋、もう寝てるのか?」
「……何だ、
再びの呼び掛けに、始末屋は眼を開けた。
「どうしよう、僕、眠れないんだ」
「……眼を閉じて呼吸を整え、何も考えるな。そうすれば、じきに眠れる」
「僕だってそうしたいんだけど、どうしても眼を閉じたら、あのまことって女の子の事ばかり思い出しちゃうんだよ!」
股間の男性器をがちがちに勃起させた
「なあ始末屋、僕もそっちのベッドでお前と一緒に寝てもいいか?」
「……好きにしろ」
始末屋の了解を得た
「どうした
「ううん、その、自分でも良く分からないんだ。とにかく今は、誰かに抱き締めていてもらわないと耐えられないと言うか、下半身がじんじんじんじん疼いちゃって仕方が無いんだよ!」
「それはきっと、貴様が生身の人間の愛情、それも肉欲を伴った本能的な愛情に目覚めたと言う事だ。だがそれは、決して恥ずべき事ではない。偉そうな御託を並べるばかりの頭でっかちな知識人に惑わされる事無く、この世に生まれ落ちた一頭の獣としての本能的な欲望を尊重し、その衝動を決して忘れるな」
そう言った始末屋は、一つのベッドの上で一枚の毛布を共有しながら同衾した少年の小さく痩せた身体を、ギュッと抱き締めた。すると彼女に抱かれた
「こんな風にして他人と一つのベッドで眠るのは、生まれて初めてだ」
「なんだ貴様、親と一緒に寝た事も無いのか?」
「ああ、そうとも。だって、僕が物心ついた時にはもう母親は死んでしまっていたんだから、仕方が無いじゃないか。僕の母親はお爺様の妾で、だから母親の死後に養子としてお爺様に引き取られた僕は、正確にはお爺様の孫じゃなくて息子なんだよ。だけどお爺様は高齢だったから、僕と一緒に寝てはくれなくて……」
寂しげな口調でもってそう言った
「よし、決めたぞ! 僕は今よりもっともっと大きくなって
一体何を担保にして二人の女を嫁と妾に貰うつもりなのかは分からないが、とにかくそう言って力強く宣言した
「そうか、それは良かったな。しかし残念ながら、あたしは今の生活を改めたり、今の仕事を辞めたりするつもりは無い。だから、貴様の妾にはなれん」
「どうして? どうしてそんな危険な仕事を続けたいの? いや、そもそもどうして人を殺すような仕事に就いたの?」
「あたしは、これ以外の仕事を、そして生き方を知らない。
「そうなのか……」
「そうだ」
やはり冷静沈着を旨とする始末屋らしく、ぶっきらぼうな口調でもってそう言うと、彼女は同衾する
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