第20話 大丈夫、愛してる。
「と、いうわけで」すみ姉。
「読書発表会の延長戦です。我が家の末妹が発表をしちゃいまーす」
いえーい。すみ姉とさく姉が拍手する。場所は家から二駅先の街にあるカラオケ。ちょっと大きい部屋を借りた。
カラオケのソファに沈み込んだ父は、相変わらずくたびれて見えた。休まなくて大丈夫だろうか。そんな心配をする。
しかし、多分娘たちと遊べるのが嬉しいのだろう。表情はとても柔らかい。くたっとしていることを除けば……とても、楽しそうに見える。
「はい、マイク」すみ姉。私にマイクを寄越してくる。
「いらないよ。聞こえるでしょ」
「遠慮すんなって」
握らされる。仕方ない。これ使って発表するか。
「えーっと、私の発表テーマは」
拡張された声が部屋中に響く。資料を示す。
「『高木彬光の家族について』です」
ぱちぱち。さく姉とすみ姉が拍手をする。
「私が読んだのは、高木彬光の娘、高木晶子が書いた『想い出大事箱』という本と、東京都立大学、小野寺敦子さんが書いた『娘から見た父親の魅力』という論文です」
父が……名木橋明が……エサを前にしたジェームズのように、ぴくりと反応する。『想い出大事箱』に聞き覚えがあったのか、『娘から見た父親の魅力』に感じるところがあったのか。もしかしたら、その両方かもしれない。
私は発表を始める。
「私が、この発表に当たって皆さんに提示したい謎は、以下です」
資料を示す。そこにはこんな文字があった。
家族とは、何か。
私は発表を続けた。
「『想い出大事箱』には、娘から見た父や家族の姿が楽しく、切なく、清々しく描かれています」
小説のこと、親しくしていた文士のこと、引っ越しのこと。エッセイの内容について一通り説明する。
「……では、娘晶子からして、父彬光はどんな人だったのでしょうか」
私は引用資料を見せる。
「引用します。『父にとって子供の幼さ、小ささ、拙さは愛でる対象ではなかった。子供に自分を合わせる気も毛頭なかった。ある程度自分の相手が出来ない限り認めなかったということだと思う』」
このことから分かるのは、と私は続けた。
「娘晶子と父彬光とは、幼い頃からとても対等な関係を築いていたということです。子供だからと特別扱いは一切せず、向き合う時は全力で、大人として持てる力を目いっぱい出していたことが分かります」
それは、子供の立場からすると卑怯に感じるかもしれませんが、と私は続ける。
「でも同時に『自分は期待されている』ということの裏返しになるのではないでしょうか。子供心にも、それは分かると思います。だから娘晶子は、全力で向き合ってくる父に対して、いつも全力で、応えようとした」
ここで『娘から見た父親の魅力』について語ります。そう、私は話を進める。
「父親という存在は、女性の配偶者決定に重要な機能を持っているということがこの論文では示されています。おそらく、ですが、娘晶子は全力で自分に向き合ってくれる父を見て育ったので『全力で自分に向き合ってくれる男性』を配偶者に選んだのではないでしょうか」
そして、お互いに全力で向き合う、つまり対等な夫婦関係が築けている家族は……。
私はみんなを見つめる。父、さく姉、すみ姉。
「対等な夫婦関係が築けている家族というのは、多くの女性にとって、『理想的な家族』であるというデータがあります。晶子にとって父彬光は、『いつか自分もなってみたい理想の家族』を作った、ある意味で理想の父親だったのではないでしょうか」
もしかしたら、晶子さん自身は私のこの説を否定するかもしれません。
そう前置きしてから話した。
「それでも、晶子さんの書いた『想い出大事箱』で描かれる父彬光は、どこか温かくて、ユーモラスで、親しみのある、そんな人物に描かれています。彬光が生きたのは昭和の時代です。強くて威厳のある父が理想だとされていた時代。そんな時代に、娘から見て『温かくて、ユーモラスで、親しみのある』父というのはとても珍しかったのではないでしょうか。そして晶子は、そんな父を、心のどこかで誇りに思っていたのではないでしょうか」
結論です。私は資料の続きを示す。
「娘晶子が育った家庭は、『子供である自分にも全力で向き合ってくる』父が動かす社会でした。そんな晶子が配偶者に選ぶ男性も、おそらく『全力で向き合ってくる』人であることが予想されます。ここで考えてほしいのですが、夫婦がお互いについて全力で向き合って、かつ子供も一人の人間として尊重する家族、というのは……」
私は、息を継ぐ。父もさく姉もすみ姉も、じっとこっちを見つめていた。
「そういう家族は、とても『平等な家族』なのではないでしょうか。我が家は、母がいない関係で、夕飯をいつも順番に作る家族なのですが……」
鼻の奥が、つんと湿った。泣きそう。何故かそう思った。
「我が家もとても『平等な』家族です。誰が偉いとか、誰が卑しいとかいう考えは一切ありません。『みんな違ってみんないい』そういう家族です。私も、できれば、いつか、愛する人と……」
そういう家族を作りたい。そう思います。
「ここで最初の謎に立ち戻ります」
再び資料を示す。
「家族とは、何か。私が『想い出大事箱』と『娘から見た父親の魅力』から学んだのは、家族とは『世代、性別、趣味嗜好に関係なく、平等な関係が築ける社会的集合体である』ということです。きっと、彬光が築いた、彬光の家族はそういう家族だった。だから娘の晶子は幸せに育った。私は、著者近影の高木晶子さんをとても美しいと思いました。こんな美しい女性を育てられる家庭は、そうそうないと思います。繰り返しになりますが、私はいつか、大好きな人と、そんな素敵な家族を作りたい。世代も性別も趣味嗜好も関係なく仲良くできる関係を作りたい。そう思います」
以上です。
資料を閉じた。一瞬の、間。まず、さく姉が拍手した。
「立派だったね」そう、讃えてくれる。
「ま、高校生の発表にしちゃ上出来だな」すみ姉。
父は何も言わなかった。ただ黙って、私のことを見ていた。
私も父を見つめ返した。じっと、強く。やがて、私たちの視線の交わりを感じ取って、さく姉もすみ姉も黙った。
沈黙。
それを破ったのは、父だった。
「お前が生まれてくれてよかった」
その一言が、胸に一気に染みわたった。乾いたスポンジに水が吸い込まれるように、刹那に。発作的に涙が出る。が、必死に堪えた。そして次の瞬間、胸の中のその思いは、言葉になった。
「嘘だ」
私はそう発していた。
「嘘だ。絶対嘘だ」
父は静かに告げた。
「どうして嘘だと思う」
「嘘だもん」
私は駄々っ子のようだった。
「この前、話があるって言った時の話、今するけどさ」
父は黙って聞いていた。
「生まれてきてごめんなさい、って言おうと思ったの。私のせいでお母さんが死んだから。私を産んだせいでお母さんは死んだから。私のせいでお父さんは一人になったから。私のせいで、さく姉は家事をしなきゃいけなくなったし、私のせいで、すみ姉はお母さんと私の世話をしなきゃいけなくなったし、私のせいで、私が生まれたせいでいっぱい困ったことあったと思うし、私、私……」
「大丈夫だ」
父の声が静かに響いた。
「そんなのは問題にならない」
「そんなことないでしょ」
私の声が反響する。しかし父は、真っ直ぐこちらを見てきた。強い口調で、告げる。
「お前が生まれてくれてよかった。その気持ちは、お前が生まれた頃からずっと、変わらない」
「嘘だ」私は信じなかった。
「私はお父さんからお母さんを取り上げた。さく姉からもお母さんを取り上げた。すみ姉からもお母さんを取り上げた。お母さんの命を奪った。私が、私さえ生まれなければ、お父さんもさく姉もすみ姉も、お母さんだって、四人で幸せな家庭を持てたのに、私が生まれたから、私のせいで、うちは、我が家は……」
「お前が生まれてくれてよかった」
父は繰り返した。
「お前に会えてよかった。お前は私の、自慢の娘だ」
悪かったな。父はそう続けた。
「お前に余計な心配をさせた。お前に悲しい思いをさせた。娘に『生まれてきてごめんなさい』なんて言わせたらお父さんは父親失格だ。駄目な父親でごめんな。でもな、お前はもっと自分を認めてくれ。私の大事なお前なんだ。何よりも大切なんだ。何度も言うが、お前が生まれてくれてよかった。お前に会えて、お父さんは本当に良かった。幸せなんだ。いつもそう思っている。今日の発表を聞いてますますそう思った。本当だ。信じてほしい」
「絶対嘘」私は頑なだった。
「私はお父さんに大嫌いって言った。お父さんを傷つけた。さく姉やすみ姉にも大嫌いって言った。さく姉やすみ姉を傷つけた。私は家族を傷つけるんだ。私なんか、私なんか……」
「傷つけてもいいんだ。家族だから」
父も頑なだった。
「傷つけられたら、治せばいい。癒せばいい。膝の擦り傷だって、いつかは綺麗になくなるだろう。心もそうだ。時間はかかるかもしれない。でも、傷つけ合うばかりが家族じゃない。家族という存在は、癒してくれる。治してくれる。心の傷を、裂け目を、元通りにしてくれる。だから安心して傷つけていい。罵っていい。大嫌いだと言っていい。お前は確かに、時に私たちを傷つけるかもしれないが、それ以上に、私たちを癒してくれる。支えてくれる。助けてくれる。お前も言った通り、家族は平等なんだ。誰が悪いとか、誰が良いとかそんな概念は存在しない。いてくれるだけでいいんだ。存在しているだけで肯定されるんだ。もう一度言う。何度でも言う」
お前が生まれてくれてよかった。大丈夫、愛してる。心から。大好きだ。
訳が分からなかった。この人は頭がおかしいんだと思った。そしてそれは、紛れもなく、その頭のおかしい人は……私の父なのだと自覚した。
「私も、あなたが大好きだよ」さく姉がつぶやいた。
「いつも言ってんじゃん。何で分からないかな」すみ姉がむすっとした。
「生まれてくれてありがとう。お前のことが大好きだよ。ずっと、伝わっていなかったんだな。悪かった。これからはもっと、伝えるようにする」父。
限界だった。止まらなかった。幸いにもここは、防音設備が整っていた。私は泣いた。大声で。がむしゃらに。赤ちゃんみたいに。なりふり構わず泣いた。こんなに泣いたのは人生初だっていうくらいに泣いた。涙が枯れるくらい泣いた。女の子なのに、獣みたいに咆哮した。私の叫び声が部屋中に響いた。
しばらくそうしていると、父が私に近づいてきて、背中を擦ってくれた。次に、さく姉とすみ姉が来た。さく姉がハンカチを差し出してくれる。すみ姉が涙に濡れた私の髪を整えてくれる。
家族が集まっていた。温かい輪だった。その輪の真ん中に私がいた。私は、泣いた。ただ泣くしかなかった。
「さて、せっかくカラオケに来たことだし」
すみ姉。私はもう、落ち着いていた。ソファに体を沈める。ストローでソフトドリンクを飲んでいた。喉がカラカラだった。いっぱい泣いたから、体中から水分がなくなったのだと思う。父は……ずっと、私の背中を擦っていた。
「何か歌おうぜ」しかしそんな私に構わずすみ姉はマイクを手に取る。
「そうだねぇ」ノリノリなさく姉。
「じゃ、まずお父さん」
すみ姉がマイクを渡す。お父さんがぽかんとする。
「いきなりか」
「うん」すみ姉がにやりと笑う。「前から気になってた。お父さん、いい声してる」
「あ、確かにぃ」さく姉。「何だかんだ、お父さんの歌、聞いたことないかも」
お父さんは私の背中を擦る手を止め、にやりと笑った。
「覚悟しろ」お父さんは立ち上がった。「後悔させてやるからな」
「どういう意味よ」すみ姉が笑った。
さく姉が手を合わせる。「楽しみぃ」
マシンに曲を入れた。イントロが流れる。父はマイクを握った。
不思議な曲だった。バラードのようにしっとりした曲調だが、ラップのように歌詞が韻を踏んでいる。アコースティックギター一本で弾けそうなメロディだが、簡単に口ずさめるような曲じゃない。
父が歌う歌詞を聞いた。……どうやら、離れ離れになってしまった愛する人を、猫に例える歌のようだった。
会いたいんだ、忘れられない。
そんな歌詞があった。私は驚いた。
「お父さん……」
歌い終わった父に、つぶやく。
「今の歌さ、お母さんの部屋でも……」
「ああ」父は照れたように笑った。「口ずさんでいたかもな。この歌、お母さんと出会った頃に流行った曲なんだ」
そうなんだ……。私は一人取り残されたような気分になる。もしかして、さく姉があのつぶやきを聞いたら違ったのかな。すみ姉が聞いたら違ったのかな。私だったから、余計な心配したのかな。そんなことを思う。それから、「猫」ってジェームズのことなのかな。そんなことも思う。
「お父さん」
歌い終わり、ソファに戻ってきた父に、私は告げる。ソフトドリンクをテーブルに置く。真面目な話だ。
「お願いがあります」
「ん」父はくたびれた顔でこちらを見てくる。
「今夜から、お母さんの部屋で寝て」
私の言葉に、父の表情が固まった。
「お願い。お母さんの部屋で寝て。お母さんと一緒に寝ていたあのベッドで寝て。寂しかったら、私が近くで寝る。一緒に寝るのはちょっと嫌だけど、あの部屋に布団を敷いて寝る。だからお父さんは、ベッドで寝て。これ以上あのリビングのソファで寝ていたら、お父さんいつか壊れちゃう。だからあそこで寝るのはもうやめて。ちゃんとベッドで寝て。後、仕事しすぎないで。私、一番下の子だから、お父さんといられる時間が、さく姉やすみ姉に比べて、少ない」
私は、もっとお父さんといたい。
そう告げると、父が項垂れた。
「私からも、お願い。しっかり休んでください」さく姉だった。
「いっそみんなであの部屋で寝よっか」すみ姉だ。
「……すまなかった」父が謝罪した。「心配かけたな」
「うん」私は頷く。「心配した」
「ありがとうな」父が感謝した。「しっかり休む。このところ働きすぎたな」
「うん」私はお父さんを見つめた。「働くのが私たちのためだってことは分かってる……つもり。だけど、私たちのために、休んでほしい。私たちのお父さんは、お父さんしかいない」
そうだな。父は鼻を擦った。
「休もう。もっと体を労わる。……早速、今日の帰りにでも、どこかで美味いものでも食うか」
「えーっ」すみ姉が秒で反応する。「やったぜ。今日私が夕飯当番」
「あらぁ、たまにはいいねぇ」さく姉。「私、中華食べたい」
「中華、な」父が天井に目をやる。「……よし、心当たりが一軒ある」
たくさん食えよ。父が私たち姉妹にそう告げる。えへへ、と私たちは笑う。
カラオケの帰り道。
みんなで父を囲んだ。父は嬉しそうだった。いっぱい笑って、いっぱい話した。いい日だった。特別な日だった。
父おすすめの中華レストランで夕食をとり、家に帰ると、みんなで母の遺影に手を合わせた。お線香の匂い。久しぶりに嗅いだと思う。
写真の中の母は、微笑んでいる……ような気がした。
二年後。
私は大学生になった。進学先は……国文学でも、心理学でもないところだった。理学部物理学科。がちがちの理系だ。男子が九割。ちょっとむさくるしい空気の中、入学式を済ませたのが四月。履修登録があって、ゴールデンウィークを超えて、だんだん大学生活にも慣れてきた。アルバイトも始めた。薄っすらだけど、髪も染めた。
そんなある日、あいつに会った。
いや、本当は週二くらいのペースで会っていたのだけれど、その日は特別な日だった……らしい。
曰く、私とあいつが初めて会話をした日、だそうだ。
それは高校で英語のスピーチがあった日。
私が拓也に「大丈夫だよ」と言った日だそうだ。
「拓也」
待ち合わせ場所。拓也はいつも、私より早く来ている。待たせて申し訳ない反面、待っていてくれる嬉しさに心が浮かぶ。
拓也が私の声に振り返る。細渕の眼鏡をかけている。賢そうだ。しかしその下の素顔は、私だけのもの。そのことを思う度に胸がときめいた。私の愛しい、大好きな人が、こちらを見てくれる。その顔に向かって、私は言う。強く、ハッキリと。思いっきり。
「大好きっ」
了
彬光の家族 飯田太朗 @taroIda
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