第四章 最悪の目覚めその三

「さあ、始めるとするかな……」


 私は唾を飲み込んで、そう呟いた。――通称、サカキさん。

 古本に書かれていたその儀式の詳細はというと、コックリさんが占いに近いのに対して、こちらは願い事を成就させることを主目的としている。

 つまりコックリさんの派生とはいえ、根本的に目的が違うのだ。

 響子が搬送された、比較的新しい内観の市民病院の待合室。そこで私は真奈美ちゃんとテーブルを囲み、サカキさんの儀式を執り行おうとしている。

 古本に書かれていた通り、赤いペンで蠅の悪魔のイラストも描いた。折り畳まれたさっきのウィジャ盤も広げて、段取りは万端。後は心の準備をするだけだ。


「お姉さん、本当にやるんだね? 私は反対する気はないけどさぁ。一度、儀式をしただけでここまで被害が増えたってことは、頭に入れておいてよね」


「分かってるよ、そんなことは。でもね、私は……響子のためなら、何だってする。しなくちゃならないんだ。計り知れない恩があるんだよ、彼女には」


「なら、いいんだけどさ。じゃあ、さっさと始めようよ」


 私と真奈美ちゃんは、二枚の紙の上で一本のボールペンを一緒に握り締める。

 だが、これはお互いに緊張しているためなのだろうか。まだ儀式を始めていないにもかかわらず、意識に反して、その先端はカタカタと小刻みに揺れていた。

 早々に不穏な動きをとるボールペンを見つめて、私は僅かに躊躇する。しかし、これは響子を助けるために、どうしても必要な手順なのだ。

 そう自分を納得させて、覚悟を決め直した私は、いよいよお厳かな声音でお呪いの言葉を唱え出した。


「サカキさん、サカキさん。どうか、私達二人のお願いをお聞き届けください。対価として、ここにいる鳳来恵の右目を捧げます。その代わりに、鷹羽響子をお救いください。どうか、私達二人の……」


 私達は合計十回、その言葉を繰り返す。願いの代償として支払うものは、サカキさんの儀式を始める前に真奈美ちゃんと相談して決めたことだ。

 そう、私の右眼球を一個、サカキさんに捧げると。片目だけで響子を救えるなら、安いものだ。それぐらいの決意で臨んだ、サカキさんの儀式。

 もし古本に書かれているお呪いが本当なら、これで何か異変が起きるはずだ。由奈ちゃんと亜希ちゃんがやった時のように。


「どうした、サカキさんが現れて願いを叶えてくれるんじゃないのか? 姿を見せるなら、早く出てきたらどうだ」


 私と真奈美ちゃんは、顔を見合わせた。右目なら、遠慮なくくれてやる。だから、響子を目覚めさせてくれ。そう願い、私達は成り行きを見守った。

 共感覚が見せている、たった今、この場に満ちつつある色彩ある空気。それは異様とも呼べるくらい肌寒く、黒ずんだ靄がかかって見えている。

 気が急く。そして期待と不安から、背筋から冷たい汗が流れ落ちた。そんな緊迫した雰囲気の中、私達が握り締めているボールペンが突如として移動し始める。

 かなり力強く、私達の意思とは関係ない動きだった。そんなペン先がウィジャ盤の文字を次々と指し示していき、やがてある文章を結んだ。


「ね、が、い、は、き、き、と、ど、け、た……お、ま、え、の、み、ぎ、め、を、い、た、だ、く」


 私が示された文章を、読み終えた時。それはほんの一瞬の出来事だった。

 突如、蠅を描いたイラストから、黒い手が出現。その指先はあっという間に、私の右目を穿っていったのだ。

 あまりの激痛で、思わず身体を仰け反らせる。耐え難い苦しさから、私は右目を押さえながら椅子から転げ落ちて床に蹲った。

 叫び声を上げるものの、激しい痛みは消えてなくならない。更には、視野に異常が起きていることに気付く。右半分がぼやけて、視力が著しく低下しているのだ。

 恐る恐る目から手を離し、両手の平を見てみる。右目に触れていた箇所が血だらけで真っ赤に染まっていた。血の気が引く程、私は右目から流血していたのだ。

 しかし、私は絶望などしていなかった。これは私の半身であり、愛しの響子を救うための代償だ。惜しくなんかない、彼女が目を覚ますのならば。


「ははっ……いいぞ。これで響子は助かる。今、行くからな。君の顔を見せてくれ」


 私はふらつく足取りで、待合室を出ようとする。私の叫び声に何事かと集まってきた看護師達を押し退けて、響子が運び込まれた処置室に歩いて向かった。

 背後から真奈美ちゃんがやって来て、今にも倒れそうな私に肩を貸してくれる。

 響子が搬送された処置室は五階だ。真奈美ちゃんに支えられながら、私達はエレベーターに乗り込み、上階へのボタンを押した。

 しかし、ここまでの道のりで、ある一つのことに気が付いた。

 失った右目は、確かに視力は大きく低下している。しかし、共感覚は健在だった。

 感情の色が存在しない人型の輪郭を形作り、今まで以上にその流れすらも捉えるように視認できているのだ。


「大丈夫かい、お姉さん。心ここにあらずって顔だよ」


「いや、何でもないよ。それより早く響子の顔が見たい。でないと、不安で仕方がないんだ。彼女の無事な姿を、この目で確認するまではね」


 共感覚が見せる、実体のない姿形を描いている色は、闇色。更には、徐々にそのサイズは大きくなり、数を増やしている。このことが意味する状況は分かっていた。

 いよいよ始まろうとしているのだ。チェーンメールで予告されながら、勿体ぶって一向に何も起きなかった、日常が崩れ去る災厄の時が。

 感情の色が見えていない真奈美ちゃんも、本能によるものだろうか。表情が険しくなり、すでにそれが始まるのを勘付いているようだ。

 しかし、そうなった時、足手まといになるのだけは勘弁被る。だから、痛みに抗って真奈美ちゃんから離れると、壁に手を付きつつ、自分自身の両足だけで立った。

 まだ卒倒しそうな程に痛いが、弱音を吐いている場合じゃない。五階に到着したエレベーターから飛び出すと、私達は駆け足で廊下を走り出した。


「通学路で由奈ちゃんを襲ったのと同じ連中だっ。それも病院内だけで数え切れない程いるなんて洒落にならないね。こいつらが完全に出来上がる前に、響子を連れて安全な場所に避難するぞ、真奈美ちゃん!」


「いいけど、避難場所に当てはっ? 病院外だって、すでにこうなってる可能性もあるんじゃないかなぁ?」


「後のことは、その時に考えればいい! 今はとにかく猶予がない、走れっ!」


 走る勢いを止めることなく私達は廊下の曲がり角を曲がり、駆け抜ける。響子がいる処置室があるのは、この廊下の突き当たりだ。

 患者や形成されつつある漆黒達を掻き分け、とうとう目的の場所に辿り着く。私は焦りを隠すことなく、横開き扉を思いっきり開いた。

 すると、そこには待ち望んでいた光景があった。私は思わず、涙腺が緩む。

 なぜなら、すぐ目の前には、患者衣を着た響子が目を覚ましてベッドに腰を下ろしていたのだから。


「響子っ……!」


「あらあら、情けない顔してるじゃない、恵ちゃん。そんなに私を心配してくれてたのかしら。それにその右目……どうしたの?」


 いつになく優しく聞こえる、声音だった。私の負傷した右目を見て気にかけてくれているが、これしき何でもない。むしろ、無事を願っていたのは、私の方だ。


「あ、当たり前だっ。だって、私達は恋人だろ……君を目覚めさせるためなら、こんな右目、どうってことないよ」


 私は響子に駆け寄ると、飛びかかるようにその胸に顔を埋める。彼女はそんな私の身体を、ぎゅっと抱きしめて、頭を撫でてくれた。

 肌が触れ合い、体温の温もりが伝わってくる。嬉しさのあまり私は感傷に浸り、恥も外聞もなく泣きじゃくった。


「うええ、うえええぇえ……響子~。良かったよぉ……」


「あらら、普段は背伸びして私と張り合おうとしてるけど、やっぱり貴方も年相応の女の子だものね。素を晒してくれたのは嬉しいけど、今はこうしてる場合じゃないでしょ?」


 そう、今は悠長に構えている暇はない。私もそれは分かっている。それでも、もう少しだけこの至福の一時を味わっていたいと思うのは、甘え過ぎだろうか。

 数分の間、響子は何も言わずに私のそんな我儘を咎めず許してくれた。しかし、いつまでも好意に甘んじている訳にはいかない。

 だから、声をかけられる前に自分の方から彼女から離れた。そしてまずは壁にかかった鏡で自分の顔を確認する。

 右目の視力が極度に低下してから顔を見るのは、これが初めてだ。

 別に右の眼球が潰れた訳ではないようだった。ただし、眼球の白い部分を黒く塗り潰したような、黒白目になっている。

 呪いを受けた影響かもしれなかった。ぞっとしたが、納得した上でサカキさんの儀式を行ったのだ。この結果に不服はない。

 私はハンカチで涙と血を拭ってから振り返り、ここから先、何があろうと響子を守り抜くという意思を固めた。


「響子、着替えてくれ。今すぐ病院を出て安全な場所に避難する」


「ええ、私から貴方に伝えないといけないこともあるんだけど、後回しね。手早く済ませるわ、待って頂戴」


 そう言って響子は、ちらりと処置室の扉近くに立つ真奈美ちゃんの方を見やる。いや、正確には、彼女が手にしている古本に視線を向けたように見えた。

 しかし、それも僅かな間だけのこと。すぐにベッドから腰を上げた響子は、手際よく脱ぎ捨てた患者衣を脱衣カゴの上段に放り入れた。

 彼女の艶めかしい身体が露わとなり、今度はカゴの下段に入っていた、着衣を一枚一枚身に着けていく。

 ネイビーのスカートスーツに白ハイネックシャツ。病み上がりとはいえ、彼女の豊満な乳房と脚線美はそのファッションに決して負けてはいなかった。

 こんな時とはいえ、その姿に胸が高鳴る。私はエスコートすべく、響子の手を取って身体を支えた。


「まずは病院を出よう。私から離れないでくれ。あいつらが襲ってきたら、私と真奈美ちゃんで撃退するから」


「へえ、その子も戦えるの? 見た所、華奢で戦い慣れてる感じはしないけど、人は見かけによらないのかしら」


 響子が真奈美ちゃんをじっと見て、そう評価を下す。しかし、今回の事件に関わりのある人物を有能な探偵である彼女が調べていないはずがない。

 侮られたと思ったのか、真奈美ちゃんは眉を顰めて不快を示す。が、響子はすぐに笑って撤回した。


「冗談よ、貴方は秋山真奈美ちゃんでしょ。貴方が湘南高校で生徒達が麻薬を売買していた事件を解決に導いた立役者だってことは、一部では有名よ。先天的な病気で、比類のない力を発揮できるってこともね」


「よく調べてるね、お姉さん。まあ、いいけどさぁ。ついて来るなら、ついて来なよ。守れる範囲でなら、私も守ってあげるから」


 それだけ言い放つと、真奈美ちゃんは踵を返す。そして左脇に古本を抱えながら、横開き扉を開いて出ていった。

 そんな彼女を見て、響子は愉快そうに薄く微笑む。そして私と彼女も続いて処置室から退出していく。その際に、窓の外の様子が目に入った。

 空を覆う闇色の渦は依然、変わらずそこにあり、不吉な様相を示している。これからの私達の行く道が一筋縄ではいかないことを暗示するかのように。

 だが、正確にはその認識は違っていた。これからではなく廊下に出てみると、すでに抜き差しならない事態が病院内で起きていたのだから。

 看護師や患者達に混ざって徘徊していた漆黒達の身体が体積を増し、怒り狂うように激しく逆巻いているのだ。あれらが私以外にどう見えているか分からない。

 しかし、その影響は如実に表れていた。強い悪意にあてられて、廊下に出ている人達が、体調不良を訴えて次々に蹲るか倒れていっている。


「走り抜けるぞ、響子。目を覚ましたばかりで悪いが、全速力で走ってくれ」


「ええ、しっかりエスコートお願いね、恵ちゃん」


 処置室外で待っていた真奈美ちゃんにも声をかけると、私達は走った。途中、猛烈な悪意を肌で感じて、私も気分が悪くなる。

 響子や真奈美ちゃんの顔を見れば、彼女達も同様のようだ。そんな時、顔を顰めながら走る私達に対し、いよいよ漆黒達が意思を統一させて動き始めた。

 倒れ蹲る人々に覆い被さり、目の焦点が定まらない肉人形へと変貌させたのだ。そして立ち上がった彼らは、敵と見定めた私達に殺意の感情を向けた。

 まるでゾンビのようだ。顔色を悪くした人々は、すでに人の理性を失っていた。

 私はポケットの中からスタンガンを取り出し、応戦の構えを取る。だが、私よりも先んじて奴らに殴り込んでいったのは、真奈美ちゃんだった。


「来るなら、相手するからさぁ! 死にたい奴だけ、かかって来なよ!」


 正拳、裏拳、前蹴り、回し蹴り。前方から仕掛けてくる人々を真奈美ちゃんは、己の肉体だけを武器に殴り蹴り飛ばしていく。

 一撃必倒、脳のリミッターが外れた彼女の打撃はいずれも必殺の威力を誇った。

 しかし、殴った側から、新手が矢継ぎ早に押し寄せてくる。真奈美ちゃんが討ち漏らしたそいつらを、今度は私が受け持つ。


「響子、私達の後ろから決して出るんじゃないぞっ!」


 私は尽くスタンガンを顔面、こめかみ、首など人体急所に打ち込み、更には側頭部を薙ぎ払う強烈な蹴りで、昏倒させていった。

 そうして切り開いた道を抜けて、私達は五階のエレベーター内に駆け込む。

 中に雪崩れ込んでこようとする人々を、私は真奈美ちゃんと力ずくで押し返し、すかさず響子が開閉ボタンを押した。

 扉が閉まり、ガコンと振動した後に、エレベーターは一階へと下降していく。内部にいるのは今、私達の三人だけ。

 一先ずは、安全地帯に逃れることが出来たものの、一階につけばまた戦場に逆戻りすることになるだろう。

 そんな緊張が漂う空気の中、沈黙を破ったのは響子だった。


「少しだけ話せる時間が作れたようね。念のため、今のうちに教えておきたいことがあるわ。実はその古本なんだけど、貴方と別れてからすぐ後に、うちの探偵事務所に郵送されてきたの。送り主の名前は、鷹羽真彦。私の父になっていたわ」


「君の父親が……? でも、あの人は今、指名手配中だ。そんな彼がいつどうやって、あの古本を入手したっていうんだ?」


「……現時点では、分からないわね。もう少し調査に時間を割ければ、話は違ったかもしれないけど。でも、ね。父はオカルトに傾倒していた人だった。もしかすると今回のチェーンメール事件、父が関わってるのかもしれないわ」


 まだ推測の域を出ないが、響子は父の鷹羽真彦に疑いの目を向けているらしい。私が実父である鳳来丈一の関与を疑っているように。

 一体、どういうことなのだろうか。私は頭を働かせた。私の父親と響子の父親には、何か接点でもあるのだろうか。

 私が最近になって見始めた、あの生々しい夢。ただの夢で片付けられない、あの光景がヒントになっている気がする。

 あの家には、まだ何か秘密が隠されているのではないか。あそこで育った響子ともう一度、あの部屋に行けば、もしかしたら新しい事実が掴めるかもしれない。

 そう思い響子を見ると、彼女もまた目を伏せ、思考を巡らせている。ただ逃げ回るのではなく、この現象の打開策を求めているのだろうか。

 やがてエレベーターが二階に差し掛かかると、彼女は俯けていた顔を上げた。


「以前、私が父と住んでいた家に、父が残した多くの本があるわ。その中でもオカルト関係の本は、国際スパイとして指名手配された後も警察に押収されることなく、今も残っているはず。ひょっとしたら、そこに手掛かりがあるかもしれないわ。どう、行ってみる価値はあると思わない?」


「ああ、知ってるよ。すでに行ってきたからね。これに見覚えはないか、響子。ひょんなことから、その家の部屋で見つけたんだけど」


 私はポケットに突っ込んでいたあの古本の破り取られたページを、自分の目の前でヒラヒラさせてみせた。

 すると、それを見た彼女は、珍しく驚いた顔をする。しかし、それも僅かのことですぐに微笑んできた。


「私の先を行くなんて、貴方も探偵が板についてきたわね。お手柄よ、恵ちゃん。後で目を通してみるわ。その用紙を渡してくれるかしら」


「ああ、構わないよ。さっき少しだけ読んでみたけど、真奈美ちゃんが持ってるあの本の一部みたいなんだ。元々、君の家にあったものだし、私より君が持ってた方がいいだろうな」


「ありがとう、恵ちゃん。でも、まだ父の家で調べたいことがあるわ。どうしても確認しておきたいことがあってね。付き合ってくれるかしら?」


「当然だろ、響子。君の言うことなら、私が疑うものか」


 私達は笑顔を交わし合い、私は響子に用紙十数枚を手渡した。彼女のやりたいことを、私が全力でサポートする。それでいい、今は。私は彼女の剣であり、盾だ。

 いずれは一人前の探偵として成長したいが、今は役割を分担するのが、最良の選択。そう自分を納得させて階数表示板を確認すると、一階を指し示していた。

 僅かな振動後、いよいよ一階に到着したエレベーターは、扉が左右に開いていく。


「よし、走るぞっ! 他のことには目もくれずに、外まで駆け抜けるんだっ!」


 私と響子と真奈美ちゃんは、私が叫んだのを合図に飛び出した。と、同時に一階にいた漆黒に憑依された人々が目の色を変えて、一斉に振り向く。

 そして脇目も降らず、大量の群れがこちらへと押し寄せてきた。ここは病院の大ホール、出入り口までかなり距離がある。

 だが、この際、一般常識に囚われる必要もない。私はホール内のガラス壁まで走って蹴り割ると、外までの最短ルートを作り上げてやった。


「こうした方が早い。さあ、行こう、二人共」


「あらら、大胆ね、恵ちゃん」


 私と響子は、外へと飛び出す。続けて、真奈美ちゃんも。だが、どういう訳か真奈美ちゃんだけは、たった一人で別の方向に走り去っていく。

 何事かと思って、私達も立ち止まってから方向転換する。急いで後を追うと、彼女は停車していた救急車の運転席に飛び乗り、エンジンをかけ始めていた。

 近くには、救急隊員が倒れている。彼から鍵を奪ったに違いない。


「どうせ型破りなやり方でいくならさぁ、盗んじゃってもいいよね。さ、乗ってよ。私が運転するからさ」


「免許は持ってるのかい、真奈美ちゃん。君は確か十六歳だったよね」


「ある訳ないじゃん、そんなのさぁ。でも、大丈夫。ちゃんと動かせるから」


 私の質問に真奈美ちゃんは、事もなげに即答してのけた。

 救急車に搭載されているイモビライザーやインターロックをあっさりと解除してしまった、この手際の良さ。きっと以前にもやったことがあるに違いない。

 背後を振り返ってみれば、凶暴化した人々がこちらに走ってきている。どうやらもたついている時間的な余裕は、もうあまり残されていないようだ。

 やむなく私と響子は救急車後部に飛び乗って、勢いよくバックドアを閉じた。


「出してくれ、真奈美ちゃん。運転は君に任せるけど、無茶だけはするなよ」


「了解したよ、お姉さんっ」


 後部から声をかけた私に、真奈美ちゃんが答える。救急車は急スピードで発進し、病院敷地内で襲ってくる人々を左右へ押し開いていく。

 人を轢いた衝撃が車内にまで伝わり、その度に車体がへこんでいく音がする。あの人達はただ操られているだけで、何の罪もない。跳ね飛ばして傷つけるのは、私だって忍びないのだ。

 しかし、こっちも命がけだから仕方がないのだと、納得しようと努力した。それがどんなに自己中心的な言い分だと分かっていても。


「許せ、せめて死なないでくれ。私達は今、なりふり構ってられなくてね」


 真奈美ちゃんが運転する救急車は、病院の広い敷地を走り抜けていく。そして入口専用と立て看板に表示された、ロータリー南側の入口を突破し、道路に飛び出す。

 しかし、病院外であっても変わることなく、奴らで一杯に溢れていた。

 上空を見れば、漆黒の大渦から野球ボールサイズの胞子に見えるものが無数に地上へと降り注いできている、まるで雪のように。

 それらが集合して人々に憑依することで、お仲間を増やしていっているのだ。もはやこの事態は、パンデミックと呼べるかもしれない。


「そこよ、そこの信号を右に回って頂戴」


 響子が真奈美ちゃんに、行き先の指示を出している。教えられた通りに、真奈美ちゃんはハンドルを操作し、速度を落とすことなく曲がり角を急カーブしていく。

 そのまま奴らを跳ね飛ばしながら、救急車は全速全開で一直線に突き進む。今日は色々あったせいで長く感じるが、時刻はまだ正午を少し過ぎた頃だ。

 少なくとも夜が訪れるまでには、手掛かりを掴んでおきたい。殺されてやる気はないが、目的のためには命を賭けることも辞すつもりはなかった。

 何しろ、何が起きるか分からない、不透明さなのだ。走り続ける救急車に揺られながら、窓の外に広がる地獄絵図を目の当たりにした私は、そう考えていた。

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