最終章
終章 契約、そして一年の猶予
S県M市の、オフィス街。周囲の道路や歩道、街並みは崩れ、運転手が息絶えている数多の車が無造作に放置されている。以前の活気はもう影も形もなく、今はただ瓦礫と血臭と静寂な空気だけがあった。
さっき真奈美ちゃんも、扉を壊された医務室で殴り殺されていたのを見つけた。悲観し、死臭に塗れたそんな警察署から外に出てみても、人の気配はどこにもない。
街の人達は私だけを残して、皆、死んでしまったとでもいうのだろうか。
「誰か、誰か……生きている人間はいないのか?」
今の私の目は、きっと虚ろになっている違いない。周囲を時々、思い出したように見回してみたが、その度に悲しみがこみ上げ、視線を戻していた。
父も響子も真奈美ちゃんも、三人共死んだ。響子に至っては、私が殺したのだ。
悔恨の情に支配され、当てもなく歩いていると、やがて開けた広場に出る。
私はその辺に乗り捨てられた鍵のついた車を見つけて、何気なく乗り込んだ。行き先はどうでもよかったが、私の住まいである鳳来探偵事務所にしようと決める。
道に転がっている人々の死体を極力、避けつつ私は車を走らせていく。しかし、どこまで走らせようとも、生きている人間は私だけ。
昔、映画で見た地球最後の人類の話を思い出し、彼もこんな気持ちだったのだろうかと、悲しみの溜め息をつく。
そして小一時間、走らせ続けた後、ようやく私は我が家に帰りついた。迎えてくれる相手が誰もいない、この場所に。
「ただいま」
誰に言うともなく、私は呟く。今や響子が、遊びに訪ねてくることもないのに。
倉庫街の倉庫を改装したこの事務所は、横開き扉の立て付けが少々、悪い。それを強引に開け放つと、私は玄関に足を踏み入れた。
まずは、とにかく喉を潤したい。奥にあるキッチンの冷蔵庫に入れてあった野菜ジュースを取り出すと、椅子に腰を下ろして、グラスに並々と注いだ。
このジュースは、響子が送ってきてくれたものだ。それを思い出し、感傷に浸りながら、私はぐいっと一気に飲み干した。
それから後はしばらく俯き加減で、私は茫然と虚空を眺める。生きる気力を失い、自暴自棄になっているのが、自分でも分かった。
しかし、生きるのを諦める前に、知っておかねばならないことがある。私はポケットに手を入れ、父から死に際に託された遺品を手に取った。
父達が昔、巻き込まれた呪いを巡る事件の真相が書かれているという手帳を。
「父さん、あんた達が何をしてきたのか、教えてもらうよ。そしてそれが済んだら、私はもう……」
私は手帳の最初のページをめくった。そこに記されている文章は、紛れもなく父の字で書かれている。
真実を知る覚悟を決めた私は、心の中で手帳を読み始めた。
――恵、これを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのだろう。しかし、やはりお前には墓まで持っていくつもりだった、私達の過去の過ちを打ち明けておかなくてはならない。
なぜ真彦が私や妻、オカルト同好会のOB達に呪いをかけたのか、その顛末を。そもそも私の妻は、元々は真彦の交際相手だった。
だが、その関係は壊れてしまった。私達がアフリカで学んだ呪術を実験と称して、繰り返した結果、一つの失敗により、彼女が記憶を失ってしまったためにな。
最初はすぐに思い出すと、私達も楽観していた。だが、どうやらその考えは甘かったらしい。
真彦の努力は空回りし、彼女は執拗に記憶を取り戻させようとするあいつと、次第に距離を取るようになっていった。
そればかりか、私は彼女からその悩みを打ち明けられていた縁で、交際することになったのだ。
真彦には悪いと思ったが、私も以前から彼女に惹かれていた。双方が恋愛にのめり込み、大学卒業後に私達が結婚式を挙げるまで、さほど時間はかからなかったよ。
私達と真彦との関係が悪化していったのは、この時からだ――
「にゃあぁ~~」
「……っ!?」
まだ手帳の内容は途中だが、突然の鳴き声に私の意識が現実に引き戻される。
声がしたのは、足元。見下ろせば、さっき警察署の屋上からどこかに走り去ってしまった、あの黒猫がすり寄ってきていた。
馬鹿な、あり得ない。私は目を疑う。警察署からここまでかなりの距離がある。猫がいくらすばしっこいといっても、そうすぐに辿り着ける訳がないはずだ。
私は訝しげに、甘える仕草をとる黒猫を見つめた。一体、何だというのか。私が気まぐれで飼うことにした、この黒猫は……。
「お前……、私に言いたいことでもあるのか? どうして私に付き纏う? 用があるんなら、さっさと切り出したらどうだ」
こいつは普通ではない黒猫だ。だが、そこまで言って、私は溜息をつく。散々、異常なものを見てきたせいで、頭がメルヘンになったのかもしれない。
猫が人間の言葉を理解し、返事を返せる訳がないのは当たり前のことだ。それにたとえ敵であっても味方であっても、今は心底どうでもいいと思えた。
そんなことよりも、父が残してくれた手帳の続きを読まなくてはならない。
それがこれを父から託された、娘である私の義務のような気がしたからだ。甘えるような鳴き声を出す黒猫を無視し、私は手帳に視線を戻して、再び読み始めた。
――私や彼女、そしてオカルト同好会のOB達に不自然な不幸が起きるようになったのは、もう大学時代のことなど忘れてしまう程、月日が経ってからだった。
風の便りで真彦も結婚したと聞いていたし、私達の諍いもすでに過去の出来事だと信じて疑っていなかったというのに。
しかし、ある日から突然に、平穏は破られた。当時のオカルト同好会のOB達が、異常極まる凄惨な死に方で亡くなっていく事故や事件が相次いだのだ。
それがアフリカで学んだ呪術だと考えた私は、あいつが犯人だと疑い、すぐに車で真彦の家へと向かった。
案の定、あいつは自宅の部屋で儀式を行っていたよ。だから、私はあいつを何度も殴り、強引にやめさせてやった。
そしてその場で、あいつが書き上げたオカルト稀覯本から、呪いを解く手段を探し求め、見つけ出した解呪の法の儀式を執り行ったのだ。それによって拡散していた呪いを解いてやった……はずだったのだがな。
これは私の不注意が招いた、惨事でもある。私でも知らなかった解呪の法と呼ばれる儀式は、デメリットなしで呪いを解除する都合のいい儀式ではなかった。この後に起きたことは、それに気付けなかった、私のミスだ――
「そうか、父さんが最後に言っていたのは、こういうことだったんだな……。私と同じ過ちを過去にしていたからこそ、解呪の法を私に行わせたのか」
私は手帳のページを、更にめくる。しかし、この時。さっきから鬱陶しいくらい鳴き続けていた黒猫の姿は、すでに見えなくなっていることに気付く。
気にはなったが、今は父さんが残してくれた手帳をもっと読み耽りたかった。
――私の妻と娘は、死んだ。二人だけじゃない。呪いをかけられていたオカルト同好会のメンバーは、私と真彦以外、全員死んだ。
解呪の法とは、つまり呪いを受けた者全員の魂を生贄として、術者一人だけの命を救うという外法の技だった。
私は嘆き、悲観したよ。真彦が逃げ出しても、追おうとも思わなかった。その時の私は、それどころじゃなかったからな。
後で適当な罪状で、指名手配すればいい。そう考え、神など信じていなかったが、この時ばかりは、私も娘と妻を返してくれと天に願った。
しかし、それは叶わず、絶望した私は最後にやはり呪いの力に頼ることにした。私がアフリカで学んだ儀式の中で、反魂の法と呼ばれるものがある。
肉体が致命傷により酷く損傷していなければ、魂を呼び戻すことができるのだ。術者が大きな代償を背負うリスクがあるとはいえな。
交通事故で死んだ妻は無理だろうが、眠るように息絶えた娘は可能性がある。私は全身全霊を込めて、娘と妻の死体の前で儀式を執り行った。
結果、願い通りに娘だけは息を吹き返してくれた。私は喜んだよ。代償として、私の筋繊維と内臓組織の幾らかは持っていかれ、不自由する身体にはなったが。
しかし、それでも本望だった。お互いに呪いを受けて、見えないものが見えるようになったが、娘は、恵は助かったのだから――
「私が、一度、死んで……生き返った? 嘘だろ。いや、けど……」
辻褄は合う。父が私と同じく、共感覚を持っていたこと。病気知らずの父が短時間でしか本気で戦えない、身体に大きなハンデを背負っていたこと。
人生の長い間、父から愛情を受けたことがないと思っていた。しかし、それは私の壮大な思い違いだったというのだろうか。
今になって父からの深い愛を知り、私は枯れたと思っていた涙を再び流した。救われたことに感謝をする。父の代償の上で、今こうして生きていられる有難味も。
けれど、それでも……せっかく救ってもらった命だったとしても、私は……。
恋人の響子を失った、私の絶望は果てしなかった。生きる気がしない程に。
もし死後の世界があるというのなら、そこでもいい。彼女に会いたい。父ともまた再会したい。今はただそれだけが、私の願いだった。
「失う物はない。たった一人で生きていく気力もないんだよ。ごめん、父さん。親不孝な私を許して欲しい。あの世で会ったら、いくらでも叱ってくれていいから」
私は椅子から立ち上がり、キッチンに向かう。そしてそこにあった包丁を取ると、逆手に持ち、切っ先を喉元に当てる。
「今、私もそっちに行くよ、響子。君にだけは温かく迎えてもらいたいな」
迷いや躊躇はなかった。私は力を込めて、自身の首を掻っ切る。溢れ出す血を、全身に大量に浴びた。生温く、血の匂いが身体にへばりつく。
しかし、痛みや不快な気分を感じたのも、僅かの間だけだった。すぐに意識が暗転していき、感覚の一切がなくなっていく。
そして意識が完全に途切れようとする時、夢心地のまま不思議な声が聞こえた気がした。
「人の子よ。憐れなる人の子よ。そなたは死ぬことは出来ぬ。父親と同様に解呪の法を唱えたことで、そなたはわらわに恩を売ったのじゃからな」
「だ、誰だ……あんたは? 私が死ぬ間際に見ている夢なのか?」
身体がふわふわと浮く、不思議な感覚の中にいる。辺りは暗闇だというのに、誰かの姿がはっきりと目に映る。頭部に角のようなものがあり、巫女のような恰好。
言葉遣いも仰々しい、浮世離れした妙齢の女性だ。これも感情を視覚として受容する、共感覚が見せる幻なのだろうか。
「わらわは呪いの担い手。事件の始まりより、ずっとそなたと共にいた。人の子よ、そなたには願いを叶える権利がある」
「呪いの担い手……? 私や響子は、ずっとそいつは鷹羽真彦だと予想していた。けど、今なら分かるよ。お前は違うって。だとしたら……」
この瞬間、私の脳裏で様々な情報が駆け巡った。人生すべてを思い出す程の走馬灯、そして私の探偵としての直感が、この何者かの正体を看破する。
私に話しかけている、この女性の声を発している者は……。
「そうか、お前がそうだったのか。呪いの根源。悪意と共にいつも姿を見せていた、呪いの連鎖の術者。……あの黒猫だったんだな」
「うふふふ、ご名答じゃの、人の子よ。わらわは鷹羽真彦が怨念を込めて書き上げた、あの本に宿りし、祟り神。そんなわらわが現世に顕現した切っ掛けは、お前も知っておろう。由奈と亜希が行った呪いの儀式、あの娘らの願いに応えてやるためじゃ。それ故に、わらわは肉の身体を得た」
私は自分で喉を切り裂いたはずなのに、今こうして喋れている。
そして他人の声まで、はっきりと聞こえているのだ。まるで身体が朽ちていく瞬間のまま、時間が止まっているかのように。
この期に及んで、もう事件のことなんて考えたくない。正直、このまま思考を放棄し、早く死んでしまいたいと、それしか考えられなかった。
しかし、そんな投げやりな気持ちとは裏腹に、黒猫の化身は話し続けてくる。
「さっき言ったであろう? そなたは願いを叶える資格がある。わらわにこれほど数多の罪なき命を捧げ、神としての絶大な力を与えてくれた。そんなそなただからこそ、その資格はあるのじゃ。申してみよ、願いを。ただし、わらわは、祟り神。無条件で叶うと思わぬことぞ」
「願い……だって? お前が、私の望みを?」
願いが叶うなら、今の私の望みは一つしかない。そんな甘言を聞かされて、絶望に支配されていた私の心に、ほんの少しだけ希望の光が灯った。
自分でも現金だと思う。しかし、こいつの言葉によってさっきまでとは一転し、私の心は生きたいという欲求に突き動かされていた。
また会える、彼女に。父さんに。それもあの世ではなく、現世で。それが叶うなら、私はどんな代償も苦労も払っていい。それに見合うだけの価値はあるのだ。
私は身を乗り出し、藁にも縋る思いで、黒猫の化身に願いを訴えた。
「じゃあ、響子をっ。いや、皆を生き返らせてくれ。父さんも真奈美ちゃんも、由奈ちゃんと亜希ちゃんも。犠牲になった全員を! 代償なら、私が必ず払うからっ」
「よかろう、聞き届けたぞ、人の子よ。ただし、わらわが提供できるそなたの幸福の期間は、一年だ。それが終われば、叶えられた願いは崩れ去る」
黒猫の化身は、にたりと唇を吊り上げる。嫌な笑みだと思った。私をからかって、心の底から楽しんでいる。それが形容できる顔だった。
「……一年。願いを維持できるのは、たった一年だっていうのか?」
「ふふっ、楽しいな、人の子よ。わらわは、そなたとゲームをしたい。幸福の時が壊れるのが嫌ならば、必死に足掻け。契約による奇跡を延長する手段は、現世のどこかにある。そなたが生業とするのが探偵ならば、その方法を見つけてみよ。出来ればそなたの勝ち、出来なければわらわの勝ちじゃ」
「二言はないな、呪いの担い手。私がその方法を見つければ、皆は……」
答えは決まっていた。正直、私の探偵としての腕前は未熟そのものだ。少しばかり機転が利くくらいで、らしいことなんて何も出来やしない。
しかし、そんな私でも分かることがある。リスクなしで起こせる、都合のいい奇跡なんてないのだと。
ならば、徹底的に足掻き、抗って。この人の命を弄ぶ、すかした黒猫の化身に吠え面をかかせてやるしかない。
考えが定まり、私はどすの利いた目つきで、こいつのことを睨んでやった。
「神との契約に偽りはない。叶えよう、そなたの望み。しかし、新たな世界で記憶を維持しているのはそなただけぞ。さらばだ、一年後にまた会おう、人の子よ。親の代から、そなたらとのお遊びは、中々に楽しませてもらった。そして礼を言おうぞ。わらわが、そなた達に送ったチェーンメール。それに踊らされ、ちっぽけな鷹羽真彦の恨みから生まれたわらわを、これほどの比類なき祟り神にしてくれたことになぁ。ふふ、ふふふ……あははははははっ!」
頭上を仰ぎ見て、高笑いする黒猫の化身。そんな彼女に私は、中指を突き立てて唾を吐いてやる。
元の世界に戻った後、やることは決まった。私の意識が途切れる寸前、漆黒の空間にガラスが割れるようなヒビが入っていく光景と、それが崩壊する音が聞こえた。
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