第二章
第二章 壊れていく日常、連鎖する悪意その一
朝方に鳴り響く、目覚まし時計のチャイム音。
それは数分もの間、布団に包まっている私の安眠を妨げ続ける。最初は鬱陶しく思うも、やがて今日は仕事があると思い出し、がばりと布団を跳ねのけた。
ブラインドカーテンの隙間から差し込んでくる、清々しい朝日。眠気に抗いながら目覚まし時計の音を止めれば、時刻は午前六時を少し過ぎた辺りだった。
ここはうちの探偵事務所の一部分にある仮眠室。事務所を開設するために借金を背負ってしまったこともあり、私はこの部屋で寝泊まりしている。
たった二畳しかなく狭苦しいが、他に寝所を借りる金がないのだから仕方がない。
パジャマを着たまま仮眠室を出た私は、まず顔を洗った。
その最中、足に触れる不思議な感覚。聞き慣れていない鳴き声。水しぶきから顰めた顔をずらすと――そこには猫がいた。そうだ、猫だ。猫。
ここは一つ。冴え渡っていく脳を働かせて、私は事務所に似合わない言葉を言ってみる。
「すまないな。餌なら少し待ってくれ」
手を伸ばすと自らすり寄ってくる、この始末。くそっ、可愛い奴め。
私を襲った時と、明らかに様子が違うではないか。一晩経つと、こうも変わるものなのか。それとも……あの時、背後に見えた黒い感情によるものか。
昨日のチェーンメールで予告された、あの文面。確かにあれから間もなく、気が立っていた黒猫が私に飛びかかってくるハプニングがあった。
しかし、あの時に現れたこの子は明らかに様子が普通じゃなかった。後ろ暗い闇色の感情を纏っていたのだ。由奈ちゃんを襲いに現れたあの人型の漆黒のように。
結果として、それしきの災難など私は切り抜けてみせた。しかし、何かに操られていたであろうこの子を不憫に思い、うちで引き取ることにしたのだ。
そういえば、昨日、漆黒と一緒に現れた猫も、同じ黒猫だった。猫の顔など見分けがつかないし、同一個体ではないと思うが。
「そういえば、今朝の夢。妙に生々しかったな。こんな事件のせいで影響されちゃったのかな」
私はおぼろげながら、夢の内容を思い出す。どこかの部屋で、私の記憶よりも若い父の鳳来丈一に虐待されているという悪夢だ。
視線が低かったため、もしかしたら私自身も幼少時代だったのかもしれない。
声は出せず、一方的にそして執拗に、殴られていた。しかし、父とは不仲だったが、さすがに暴力を受けた覚えはない。
それに部屋も記憶になく、見たことのない場所だった。どうして今朝、このような夢を見てしまったのか。
「まあ、いいか。所詮、たかが夢だしね。それより仕事に行かないと」
洗顔と朝食を軽く済ませ、郵便箱を確認しに行くと、そこには送り主に響子の名前が書かれた包みが届いていた。
恐らく寝ている私を起こさないように、届けてくれたに違いない。さすがは響子、仕事が早いと私は舌を巻く。
仮眠室に戻って中身を開いてみれば、予想通り昨日頼んでいた湘南高校の女子制服一式が入っていた。
「なるほど、確かに昨日、由奈ちゃんが着ていたのと同じデザインだな。それじゃ、さっそく高校を中退して以来、久しぶりの女子高生気分を味わってみるか」
白いブラウス、胸にエンブレムが付いたダブルボタンの紺色ブレザー。濃紺に白のチェックが入ったスカートに、同色のベスト。襟元に付ける、えんじのリボン。
私はそれらを順番に身に着けていく。最後に自前のストッキングを履いて、およそ一分後には長身ではあるものの、どこからどう見ても女子高生の私がいた。
そもそも年齢的に、私は由奈ちゃんとは同年代なのだ。違和感がないのは当たり前だと言えるが。
着心地に浮かれつつ応接室の掛け時計を確認してみれば、朝の六時半。
猫に残飯とミルクを与えて、私は事務所を退出した。制服姿で運転している所を見られないために、コートを羽織って事務所隣にある駐車場の車に乗り込む。
車種は探偵が尾行などによく使う、アクア。トランク内には常時折りたたみ自転車を積載している。それらはいずれも中古品で、響子から格安で購入したものだ。
彼女には探偵事務所を開く際、保証人になってくれた恩もある。本当に頭が上がらない思いだった。
「待ってなよ、由奈ちゃん。今、行く。それにしても変装はしたけど、バレなきゃいいけどな、教師に」
私はエンジンをかけて、車を発進させる。由奈ちゃんの自宅まで徒歩で向かえば、約一時間。車でなら、ものの十数分で到着するだろう。
時間的な余裕なら十分にある。私は制限速度を守りながら、安全運転で車を走らせていく。しかし、その道中、またもスマートフォンの着信音が鳴った。
またか、と思いつつ気にはなったが、焦っても仕方がない。一先ずは無視して車を進ませ続けると、やがて昨日のあの光景が見えてきた。
人型の漆黒と一戦交えた、小学校に通じる通学路。その向こうには、小学校近くの住宅街もある。由奈ちゃんの自宅があるのは、あの一角だ。
ハプニングがなく、目的地まですんなり到着できたことに一先ず胸を撫で下ろした。玄関付近で車を停車させた私は、降りて玄関のインターホンを押す。
身ごしらえを整え、少し待つ私。しばらくすると、がららと音を響かせて横開きの扉が開き、制服姿の由奈ちゃんが姿を見せた。
「おはよう、由奈ちゃん。約束通り君を迎えに来たよ。どうかな、こんな格好してみたんだけど」
「おはようございます、探偵さん。本当に来てくれたんですね。でも、その制服は……うちの高校の?」
コートを脱いで女子制服姿を得意げに披露する私を見て、由奈ちゃんは面食らっている顔だ。まあ、それはそうだろう。
私は頭をぽりぽりと掻くと、そんな彼女に説明してあげた。湘南高校に一緒に登校し、校内で護衛の仕事を全うするという旨を。
「ご両親にはどこまで話してあるんだい? コックリさんの呪いのことや私が探偵だってことは?」
「実は昨日、お父さんには打ち明けたんです。けど、やっぱりこんな話、信じてもらえる訳がなくて……。亜希があんなことになったのも、呪いのせいだって必死に訴えたんですけど、まともに聞いてもくれませんでした」
今、由奈ちゃんの口から名前が出た、亜希という女生徒。チェーンメールに書かれていたフルネームは、植木亜希だったか。
後で片耳を食い千切られたその子が入院している病院にも足を運んで、話を聞かせてもらいたい所だ。
ただ亜希ちゃんの方にも新たな災難が迫っているのだろうが、私一人では手が回らない。一旦は由奈ちゃんの護衛に専念しつつ、襲ってくる災難の正体を探る。
ただし、今日のチェーンメールの内容によっては、途中で亜希ちゃんの病院に駆けつける必要が出てくるかもしれない。
そう予定を立てた私は、さっき届いたメールを確認してみた。
だが、文面を読んでも、さほど驚きは感じない。そこに書かれていたのは、鳳来恵は階段から転倒して腕を骨折する――という予想の範囲内の記述だったからだ。
しかし、確かに昨日よりは降りかかる災難が大きくなっている。これも由奈ちゃん達が受信していたものと一緒だ。
「あの、もしかして……探偵さんにもチェーンメールが?」
私が沈黙していたのを見て、由奈ちゃんが何となく察したようだ。護衛の仕事を円滑に進める上で、私達の間に隠し事があるのは好ましくない。
私は、自分のスマートフォンの受信トレイを彼女に見せてあげた。その途端、由奈ちゃんの表情が目に見えて引き攣る。
「そんな……探偵さんまで、コックリさんの呪いに……っ。一体、どうなってるんですかっ!」
「私のことならいい。この程度のことは、自分で切り抜けてみせるから。だから余計な心配はせずに、君は自分の身を守ることだけに専念して欲しい。いいね?」
怯えた表情と暗めの感情の色をした由奈ちゃんが、力なく頷く。
身体の頑丈さは取り柄だし、荒事なら慣れている。これしきで私が動揺すると思ったら大間違いだと、チェーンメールの黒幕に対して心の中で毒づいてやった。
むしろ今は、由奈ちゃんが受信したチェーンメールの方が重要だ。昨日よりも、より深刻な災難が予告されているはずなのだから。
彼女もそれを理解しているようで、震える手で私にスマートフォンを手渡してきた。そこに書かれていたのは……。
「こりゃあ……驚いたな。あり得るのか、こんなことが? 本当にこの平和な日本国内で」
届いていたのは、三通。由奈ちゃんと亜希ちゃん。そして三人目の女生徒、呪いをかけられた秋山真奈美ちゃんに宛てられた、災難の予告。
思わず二度見してしまったその内容は、湘南高校で学生達の暴動に巻き込まれて、三人全員が命を落とす、というものだ。
「私はともかく、亜希は今も入院してるんですよ! なのに、何で彼女まで学校の暴動に巻き込まれることになるんですかっ!? それに……実はさっきから電話してるのに、全然、亜希には通じなくて……っ」
錯乱気味の由奈ちゃんが私のコートを掴み、顔を見上げながら騒ぎ立てる。友人を心配しているのだろう。その顔には焦燥感を帯びていた。
そんな彼女の気持ちを静めるべく、私は出来るだけ穏やかに返事を返す。
「落ち着いて、由奈ちゃん。その理由は私にも分からない、今はまだね。だけど、危険を避けたいなら、今日は学校を休むのも手だよ。予告された場所が学校なら、自宅にいれば被害は受けないはずだからね」
これは由奈ちゃんの身の安全を第一に考えた、私からの対応策だ。
しかし、彼女はこれに激怒した。それも今までにない強い決意を秘めた目で私を見据え、即座に言い放ってみせたのだ。
「それは、駄目ですっ。亜希は私の親友なんです。もし彼女が学校に来てるなら、私も行かないといけない! 見捨てることなんて、絶対に出来ません!」
私の前で初めて見せる、由奈ちゃんの厳然たる意志だった。
しばしの間、その真剣な眼差しを見つめ返す。共感覚が見せる彼女の感情の色も気高く、燃えるように赤い色をしている。その両眼からは彼女の親友を失いたくない気持ちが嫌という程、汲み取れた。
その激しい剣幕に、私は頭を指先で掻く。しかし、私にしても、恋人の響子に命の危機が迫っていたら迷わずこう決断するはずだ。
だから、たとえ危険だったとしても。こんな曇りのない気構えを向けられたなら、私からはもう何も反論することは出来なかった。
「……しょうがないな。それじゃあ、さっさと車に乗ってくれ。送っていくよ、由奈ちゃん。それと私のことは、恵って名前で呼んで欲しい。特に学校内ではね」
「あ、ありがとうございます、恵さん。それと……お願いします、今日はせめて亜希だけは、何があっても救ってください。最悪、私はどうなっても構いませんからっ!」
「心配いらない、君も亜希ちゃんもしっかり守り切ってみせる。依頼人の意向には、可能な限り従うつもりだからね」
私は素早く車の運転席に滑り込み、由奈ちゃんは助手席に腰を下ろす。そして彼女がドアを閉め終えたのを確認すると、エンジンをかけて私は愛車を発車させた。
道順は覚えている。どの道を通れば近道かということまで。つまらないロスを避けるため、最短距離で湘南高校まで突き進む。
そして高校から近すぎず遠すぎない距離の、時間貸し駐車場で車を駐車。他の同校生徒や大人に見つからないように、私達は車から降り立った。
高校生が車を運転して登校していると思われるリスクを避けるためだ。もしそんな所を見られたなら、高校に潜入どころじゃなくなる。
慎重に駐車場から出た私達は、歩きの登校を装って湘南高校に向かった。その登校途中、通行人の男達の視線が私と由奈ちゃんに嫌でも突き刺さる。
私達に対する、性的な目だ。年頃の女子高生に、男達が関心を抱くのは分かる。しかし、男に関心がない私にとってはただ鬱陶しいだけだ。
「まいったな、性欲モンスターの男共が。離れるなよ、由奈ちゃん。隙を見せるんじゃないぞ、あんな連中に」
「は、はい。大丈夫です、私も慣れてますから」
視線を無視して歩く私達の前方に、やがて湘南高校の校舎が見えてきた。だが、つい先日、ここの女生徒が片耳を失う事件が発生しているためだろうか。
校門前には数人の教師が登校してくる生徒達を見守っていた。私は正体がバレないか冷やりとしながら、教師らの横を通り過ぎていく。
しかし、どうやら取り越し苦労だったらしい。難なくこの高校の女生徒として敷地内に入り込むことに成功する。
「肝を冷やしたけど、上手くいったみたいだな。いくら教師でも学校の生徒全員の顔を覚えてる訳じゃないってことか」
私は歩きながら、八十年の歴史があるという湘南高校の校舎を見上げた。大きく広さはあるものの、時の流れを感じさせる、古びたコンクリート製の学舎だ。
玄関で靴を履き替えている生徒達やグラウンドで朝練をしている体操服の生徒達の姿が、ここからでもよく見える。
そしてそんな彼ら彼女らが纏う感情の色も、私の目にははっきりと。意外にも事件から間がないにもかかわらず、怯えや恐怖を感じている者はほとんど見当たらない。
しかし、これから今日……この学校で、更に大規模な事件が起きるのだ。
暴動の被害者か、あるいは加害者か。生徒達がどちら側になるのか分からないが、私は忍びない気持ちになるのを避けられなかった。
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