第四章

第四章 最悪の目覚めその一

 真奈美ちゃんの家まで戻った私は、黒猫を彼女の家に預けて、愛車のアクアを制限速度ぎりぎりのスピードまで上げて道路を飛ばした。

 再び響子に電話をかけてみたが、まだ一向に繋がらない。一応、鷹羽探偵事務所の方にも電話をしてみたが、こちらも反応がなかった。

 焦りがこみ上げてくる。もし響子の身に何かあったために、電話に出られないのだとしたら……? しかし、私は意識して、半ば無理やりにそんな気持ちを静めた。

 ここからオフィス街までは、三十分やそこらでは到着できない。気が急いて交通事故でも起こしたら、それこそ洒落にならないからだ。


「今、行く。今、行くからっ……私が行くまで無事でいてくれ、響子」


 助手席に座っている真奈美ちゃんは、私とは反対に、ごくごく自然体だ。横目で見やってみると、ナイフを手でいじりながら進行方向を真っ直ぐに直視している。

 物騒だが、護身用の武器だろうか。私もスタンガンを常に持ち歩いているから、あまり人のことは言えないが。

 出発してからずっと無言のままだったそんな彼女が、ようやく口を開く。


「ちょっと注意力が散漫になってるんじゃない? 私があんたのブレーキ役になるってさっき言ったよね。正直言って、さっきから少し運転が荒れ気味。そんな危険な走らせ方をするなら、横からナイフが飛ぶよ。気を付けてね、お姉さん」


「……ああ、すまない。これでも焦りは抑えようとはしてるんだけど、中々ね……」


 真奈美ちゃんは鋭い目で、こちらを見ている。これまで躊躇という感情が一切なかった彼女のことだ。冗談でもなく、やると言ったらやるつもりだろう。

 しかし、この平和な日本で平穏に生きていくには、心のタガが外れ過ぎている。かなりデメリットが大きい性分だ。

 この漆黒の精神は、果たして先天的か後天的か。彼女は一体、どんな人生を歩んできたのだろう。いや、そもそもどういった存在なのか。こんな状況でありながら、探偵の性として純粋に好奇心が湧いてきたのが分かった。


「実は私なんだけどさぁ、病気なんだよね。脳に異常があるらしくて、心のブレーキが働いてないんだって。だから殴ろうと思ったら迷わず殴るし、脳のリミッターが常時、外れてるから男よりも強い力を引き出せる。親父とお母さんは、そんな私を怖がっちゃってさ。二人にとって、私は昔から悩みの種だったみたいだよ」


 一瞬、ドキリとする。私が考えていたことが、見抜かれたと思ったからだ。真奈美ちゃんは、私がたった今、疑問に思っていたことを包み隠さず話してくれた。

 だが、同情して欲しいといった話し方ではない。冷静にただ淡々と述べただけ。

 己の不幸な身の上を語る彼女の姿に、感情の抑揚は感じられなかった。まるで他人事で、別に心底どうでもいいと思っているような口ぶりだ。


「まあ、親が私をどう見ているかなんて気にしてないよ。でも、成人したら私はさぁ。警察官になろうと思ってるんだ。悪い奴をこの手でひっ捕らえて、世の中の善良な人達のために貢献したいんだよね」


「へえ、警察……ね。立派な夢じゃないか。意外と君に向いてる天職かもしれないな。私にとっての探偵みたいにね」


 警察官と聞いて、少し父親のことを思い出す。しかし、続けて将来の夢を語り出した真奈美ちゃんの表情は、さっきとは違い、生き生きとしていて、目は輝いていた。

 そこに嘘や偽りは感じられず、そんな彼女を見て私は安堵する。かなり奇天烈な性格だが、彼女は悪人ではなく、ちゃんと真っ当な心を持ち合わせているのだ。

 この精神の特異さを正しい方向に生かすことが出来れば、案外、警察官として大成しそうな気もした。


「お姉さん、前、前っ。信号機がそろそろ赤に変わるから、今の内に突っ切っちゃってよ」


「ああ、アイアイサーっ!」


 少し前まで安全運転だと言っていた真奈美ちゃんも、今度はノリノリで飛ばせと指示を出してくる。彼女は思いのほか、勢い任せな性格なのかもしれない。

 いつしか鷹羽探偵事務所まで、もう少しといった距離まで近づいていた。すでにオフィス街に入っている。もう十五分もあれば、向こうに到着するだろう。

 スピードを上げ、華麗なハンドル捌きを披露して、前方の車を次々と追い抜いていく、私。そして助手席の窓から身を乗り出して私に号令を下す、真奈美ちゃん。

 しかし、そんな私達のいけいけテンションに水を差す事態が訪れた。真奈美ちゃんのスマートフォンから、着信音が鳴ったのだ。


「もうすぐ辿り着けるって、こんな時に? 何だ、一体っ。メールを確認してみてくれ、真奈美ちゃん」


「分かってる。今、見るからさぁ」


 真奈美ちゃんが、素早い操作でスマートフォンのメール一覧を開き、目を通す。そんな様子を私もちらりと目で追った。

 今更、驚きもしない。どうせまたあのチェーンメールだろう。メール文を読んだ彼女は眉を顰めると、淡泊気味にその内容を口に出す。


「鷹羽響子は殺される。呪いを全部おっかぶって、鳳来恵に殺される」


「なん、だって? 私が響子を、殺すっ?」


 驚きと衝撃のあまり、急ブレーキを踏みそうになった。辛うじて踏み止まったが、危うく反対車線に乗り出し、対向車と接触してしまう所だった。

 当然ながら怒った相手側の車が、何度もクラクションを鳴らしてくる。しかし、今はそれどころではない。はらわたが煮えくり返る思いだった。

 私が響子を殺す……。よりによって私の逆鱗に触れる舐めた予告文を寄越しやがった送り主に、こみ上げる怒りが抑えきれなかった。


「あり得ないね、そんな事態は絶対に起きるはずがない! 私は響子を助けるために今、向かってるんだからなっ」


 もしも仮に、だ。たとえ呪い成就の担い手が私を響子にけしかけようとしてくるつもりだとしても、覆してみせればいい。これまで何度だって、やってきたことだ。

 来るなら来い。逆に私達の腕っぷしの強さを思い知らせてやる。そう心に決めて、愛車でオフィス街の道路を走らせ続けること十数分。

 とうとう進行方向の先に、鷹羽探偵事務所がある五階建てビルが見えてきた。しかし、そんな時のことだった。お約束のように、またも共感覚に不調が訪れる。

 視界の人々から、一切の感情の色が見えなくなった。己に危機が迫った時に起きるこの現象、由奈ちゃん達を救えなかった苦い経験から背筋に冷たい物が走る。


「受けて立ってやるよ、私達が勝つか。お前の呪いが勝つか。お前の正体を暴き出して、命のやり取りをする同じ土俵に引き摺り込んでやるからなっ!」


 気持ちを奮い立たせた私は、アクセルを踏み、車を加速。鷹羽探偵事務所の隣にある駐車場でけたたましい音を立てて急停車すると、私と真奈美ちゃんは手早く車外に足を下ろした。

 そして正面入り口前から、ビルを見上げる。だが、ここにきても狂いを生じさせた共感覚が、ピンポイントで見せるようになるはずの憎悪の闇色はまだ見えない。

 響子は今、本当に専有部分であるビルの三階にいるのだろうか。電話がまだ繋がらないままである以上、それは分からなかった。

 しかし、分からないことをいつまでも考えていても埒が明かない。意を決して私達は、ビル内に駆け足で突入した。

 一階と二階からは、人がいる気配を感じ取れない。急いで階段を三階まで駆け上がり、辿り着いた鷹羽探偵事務所の扉を力任せに開け放った。


「響子っ、無事かっ!?」


 到着した私達を待っていた、その光景。事務所内にいる所員達全員が、意識を失って倒れている。しかし、ぱっと見た感じでは、響子の姿はどこにも確認できない。

 別に他の所員達が心配じゃなかった訳じゃない。けど、優先順位が違った。私達は大急ぎで所長室の扉前まで突き進むと、今度は慎重にドアノブに手をかける。

 心臓の鼓動が早まる。最悪の事態が待ち受けているのではないかと、このまま開けてしまうのが怖かった。

 恐れに抗いながら、ついに覚悟を決めて扉を開く。所長室の執務机に突っ伏して、動かない響子の姿があった。


「何て……ことだ、響子っ!」


 慌てて駆け寄った私の目に、机の上に置かれている一冊の本が映る。黒い表紙に掠れた文字と、血を流している単眼のイラストが描かれている古びた本だ。

 そして私の目には、本全体が薄っすらと闇を帯びているように見えた。

 手に取ってページをめくってみると、一部が破り取られたオカルト本だった。

 さっき響子の家で見つけた、用紙十数枚と似ている絵柄で描かれている不気味なイラスト。そして表紙に書かれた、擦れて文字が読み取れない本の題名。

 私の中で欠けていたピースが、繋がっていく。もしかしたらこれは由奈ちゃんが県立図書館から借りたという、例のオカルト稀覯本の本体なのかもしれない。


「脈はあるみたいだね。まだ生きてるよ、この人」


「そうか、安心したよ」


 私よりも早く響子の右手首を掴んで、そう口にした真奈美ちゃんに私は答えた。

 響子の無事に、一旦は胸を撫で下ろす。だが、私達はまだ何もしていない。さっきの予告はこれで覆された訳じゃないのだ。

 響子をソファーの上まで運び、介抱しながら頭の中で考える。今日はこれからが正念場になるかもしれない、と。

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