第四章 最悪の目覚めその二

 しばらく様子を見守っていても、さっきからソファーで横になっている響子は中々、目を覚まさない。だが、調べてみても外傷はどこにも見当たらないのだ。

 医者でないから詳しいことは分からないが、命に別状はない……とは思う。いや、万が一にでも別状などがあっては困る。

 救急車はすでに呼んであるが、まだ到着まで時間がかかるだろう。サイレン音すら、まだ聞こえてこないのだから。好転しない状況に、気持ちばかりが焦っていく。

 もしも響子に死なれたら私は、生きていく気力を失ってしまう。彼女がいるから競い合うように情熱を燃やしている探偵の仕事も、投げ出すに違いない。

 私は彼女の顔を覗き込むように、自分の顔を近づけた。すぐ間近に、響子の美しい寝顔と滑らかな肢体がある。


「遅れてすまなかった、響子。……けど、心配ない。君は私が守ってみせるから」


 私はそっと響子の唇に、唇を重ねた。もしかしたらこのキスで目覚めてくれるのではと、淡い期待感を抱いての行為だ。

 しかし、その期待は裏切られることになる。優に一分間は重ねていたにもかかわらず、彼女が目を覚ます気配は微塵も訪れなかった。

 失望は苛立ちとなって募り、ついに私は怒鳴り声を上げる。


「どうしてだっ? なぜ起きてくれない、響子っ!」


 駄目だ、これでは……冷静になる必要がある。でなければ、敵の思う壺だ。そう、そんな当たり前なことは、頭ではちゃんと分かっているのだ。

 しかし、そう自分に言い聞かせて平常心を保とうと試みても無理だった。響子のことがどうしても頭から離れない。努力虚しく、過呼吸になりかける。

 そんな私の肩を、真奈美ちゃんは背後から右手で掴んで、力を込め始めた。それもぎりぎりと爪が喰い込む程に、握り締められる。

 彼女は私のことを鋭く睨み付けていた。その目を見れば、私のことを咎めているのは明らかだ。ブレーキ役を買って出た責任を果たそうということだろうか。


「医者じゃない私達に出来ることはないよ、お姉さん。大人しく救急車が着くのを待った方がいいんじゃないかな。今は彼女のことは一先ず放っておいて、こっちの本の方を先に確認しようよ。中々、興味深いことが書かれててさぁ」


「本……? そんなもの……っ」


 私は思わず「そんな本より響子の方が大事だっ!」と苛立たし気に吐き捨てそうになった。しかし、喉まで出かかって引っ込めた。

 確かに真奈美ちゃんの言っていることの方が、理に適っているからだ。響子でもきっとそう言うに違いない。

 遠回りになる選択でも、これは結果的に響子のため。内心は穏やかじゃなかったが、そう考えればどうにか頭を切り替えることができた。私は真奈美ちゃんが手で開いている古本のページを、横から見せてもらう。

 そこに書かれていたのは、さっき鷹羽真彦の家で見た用紙と同様のものだ。

 お呪いのやり方が不気味なイラストつきで記された、オカルト儀式を紹介する記事だった。

 この古本のどこかには由奈ちゃん達が行ったという、コックリさんの派生儀式のことも書かれているに違いない。

 私達が調べたいのはそれだが、本の厚みは太く、重さもかなりのものだ。

 その上、さっき少しだけ見てみたが、目次のページは痛んでいて読み取れない。非常に根気がいる作業になることを覚悟しつつ、私は真奈美ちゃんがパラパラとページをめくっていく様を見守った。


「見つからないなぁ。ずいぶん本格的に書かれたオカルト本だし、時と状況が違えばゆっくり読んでみたい所だけどさ。これじゃ、救急車が来る方が早いかもね」


 確かに少し前からサイレンがこちらに近づいてきている音が聞こえてきている。ようやく救急車が、ここに到着しようとしているのだ。

 古本の内容を調べるのは追々すればいいとして、これで響子は助かる。そう安堵し、私の中で気持ちが楽になりかけた時だった。

 所長室の大窓から救急車六台が向かってきているのを確認していると、視界の先で私の血の気を引かせる、出来事が起き始めたのだ。

 最初見た時は、目の錯覚かと思った。だが、紛れもなく起きている現実だ。

 共感覚がピンポイントで働きを取り戻し、オフィス街の地面という地面から闇色の靄が噴出している。

 共感覚が映し出すのは、人や猫などの感情だけじゃない。長年、生物の感情に晒されて、蓄積された大地や物質からも色が見えることがある。

 それにしても、あまりに異質な光景だった。だが、あれが見えているのは恐らく私だけだろう。噴き出した闇が上空で集まり、台風のように渦巻き始めている。


「まるでチェーンメールの呪いの総仕上げだな。一体、何が始まるんだ……? さすがにこいつは、これまでとは規模が違うし、悍まし過ぎるじゃないかっ」


 大窓に両手を付き、私がそんなビル外の街景を見下ろしていた時。ふいにポケットの中から電話の着信音が鳴る。

 誰かが、私のスマートフォンに電話をかけてきたらしい。こんな時に誰からだと訝しみつつ画面を確認してみると、そこには――鳳来丈一と、父の名前があった。

 さっき私が一方的に電話を切ったから、またかけ直してきたのかもしれない。

 このまま無視しようとも思ったが、血の縁は消せない。たとえどんなに他人のような関係の男だったとしても。だから、私は迷った末に電話に出た。


「何だ、父さん。私に用事でもあるのかい? もう話は終わったはずだ。どうしてまたそっちからかけてきた?」


『恵、言いたいことはあるだろうが、まずは私の言うことを聞いてくれ。お前にも見えているはずだな、街の空に渦巻いている悪意の塊が』


「っ!? 何だってっ?」


 それは私にとって、信じ難い言葉だった。何しろ、この男に一度も話したことのない共感覚のことを、なぜか知られてしまっていたのだから。

 しかも、まるで父もまた私と同様のものが見えているという口ぶりだ。認めたくなかったが、血の繋がりは切ろうと思っても切れないということだろうか。


「じゃあ、あんたにも見えてたのか? 人が抱いている感情の色が……」


『隠し立てをする必要もないから言うが、その通りだ。お前に特異な能力が発現したのは、私の責任でもある。だが、今はそんな話など後回しだ。お前、今どこにいる? 危険が迫っているなら、警察署に来い。ここでならお前を守ってやれる』


 心配してくれているのは分かる。しかし、今更になって父親らしく振る舞うこの男の口ぶりに、長年蔑ろにされてきた私の怒りは頂点に達した。


「ふざけるなっ! 今から父親面したってもう遅いんだよ! あんたの力なんて借りない! 何があっても、私の力で対処してみせるからっ。じゃあね、父さん!」


 そこまで言い切って、私はまた一方的に電話を切った。何かが始まろうとしているのは、私にも分かっていた。あの空を見れば、一目瞭然だろう。

 しかし、それでもあの男の世話になるのだけは、ごめんだった。今更……そう、今になっていきなり心配されたって、今更だ。

 しかし、気になることも言っていた。私に共感覚が備わっているのは、自分の責任でもあると。一体、どういうことだろうか。


「今の電話は、あんたのお父さんから? ふーん、私のクソ親父と違って、身を案じて電話してきてくれるだけマシな父親だね」


「うるさい。大して変わらないよ、あんな男なんか」


 私は大窓から後ろを振り返ると、響子が寝ているソファーまで行って、彼女を肩に担ぐ。救急車が来たとしても、安全に病院まで行けるか疑わしくなった。

 だから、私が護衛しなくてはならない。響子を背負いながら私は所長室を、そのまま事務室と応接室も抜けて探偵事務所の外の廊下に出た。

 悪いが、事務室と応接室で響子と同様に気絶している所員達は後回しだ。最後に事務所内を振り返ってから、彼ら彼女らに心の中で詫びる。

 救急車はすでにビル横の駐車場に止まったのを、さっき窓から離れる時に見た。だから、後はさっさと階段を降りて響子を乗せるだけでいい。

 一階まで特に何事もなく、私と真奈美ちゃんはすんなり降りていけた。

 しかも、丁度、その時だった。ビルの入り口から、救急隊員達が担架を持ってこちらに向かってきている場面と出くわしたのは。


「病人だ、彼女を救急車に乗せてやってくれ。三階にも、まだ他に倒れてる所員達が十一人いる。彼らも早く運んでやって欲しい」


 私からの頼みを聞くなり、救急隊員の内、二人は響子を担架に乗せて、救急車へと運んでいく。そして残りの隊員達は、上階へと上がっていった。

 三階で意識を失っている所員達は、彼らに任せてもいいだろう。だから、私と真奈美ちゃんも響子の付き添い者として救急車後部に乗り込んだ。

 改めて目を閉じた彼女の姿を眺めるが、ただ眠っているかのように見える。

 さっきのチェーンメールの内容が、脳裏を過ぎった。私が響子を手にかけるなんて、笑えない冗談だ。そんなことが、現実に起こり得るはずがない。そう信じたいが、これまでの呪いを巡る経緯から戯言で済ますことも出来なかった。


「……響子を殺すくらいなら、私の方が死んでやるよ。そう、迷わずね」


 私が歯噛みをしていると、やがて三階に上がっていた救急隊員達が、所員達を背負って救助し、降りてくる。

 そこから先は、手慣れた迅速な動きだった。隊員達は所員全員を救急車六台の後部に運び終えると、電話で医師の指示を受けながら、点滴処置を施す。

 その後にしばらく受け入れが出来る病院の確認を行っていたが、やがてサイレン音を鳴らしながら一台、また一台と出発していく。

 私はそんな走行する救急車後部から、フロントガラスの外の様子を眺めていた。道行く人々は、普段と変わりなくせわしなく歩いている。

 異変は何も起きていないように思える、少なくとも今はまだ。しかし……。


「果たしてこのまますんなり私達を、病院まで行かせてくるか? もしも前の高校の時みたいに邪魔しようっていうなら……こっちも力ずくだ」


 私は拳を強く握り締める。あの漆黒の憎悪が逆巻く、不吉な様相の空を見れば、何か良くないことの前触れなのは間違いない。

 前方では救急車の進路を妨げないよう、乗用車などが道を開けていっている。もし呪い成就の担い手が邪魔立てしようと現れたなら、すぐに飛び出す覚悟だった。

 そんな私を余所に、隣にいる真奈美ちゃんは、さっきから無言のままだ。腰を下ろしてひたすら古本のページを、一枚一枚パラパラとめくっている。


「これで、ようやく三分の二だね。それにしても分厚い本だなぁ。お姉さんは見張りに専念してていいよ。派生コックリさんが書かれた記事は、私が責任を持って見つけるからさ」


 ページをめくる手を止めることなく、ようやく口を開いた、真奈美ちゃん。響子を心配する私に気を使って、そう言ってくれたのかもしれない。

 そんな彼女の配慮に感謝しつつ、私は神経を研ぎ澄ます。何が襲ってきても、あらゆる事態に対応出来るように、すぐに戦闘態勢を取れるように。

 しかし、現実は私の予想に反して、一向に何も起きなかった。どれだけ警戒して待っていても、救急車にただ揺られるだけの平和な時間が続いたのだ。

 だが、空を覆う台風の如き闇色の渦巻きも、依然と勢いが変わらない。私には、今の状況が一時の静寂のようで不気味に思えた。


「何もないはずがない。チェーンメールの黒幕は、今度はどんな手段で仕掛けてくるつもりなんだ……?」


 私がそう呟いたのと同時、隣で真奈美ちゃんが小さく声を上げた。そして手にした古本のページを私に見るように促してくる。

 どうやら目的だった派生コックリさんの儀式について書かれた記述を、ついに見つけたらしかった。


「悪意の連鎖。呪いが呪いを生み、周囲に拡散していく。これだね、間違いないよ。正式名称は、サカキさんって書かれてる。一旦、拡散した呪いを止める都合の良い方法があればいいんだけど……あるかなぁ」


「望みは薄くても、探すしかない。このまま手をこまねいていたら、最悪の展開が待っているかもしれないんだからな」


 そのページには、前に由奈ちゃんが話していた儀式に使う図案があった。

 蠅の悪魔の姿形にも見える、かなりおどろおどろしいデザインだ。どうやらこれを赤ペンで紙に描いて、ウィジャ盤と共に使用する必要があるらしい。

 だが、呪いを食い止める方法は、やはりどこにも書かれてはいなかった。そんな手段があったなら、由奈ちゃん達もとっくに試していたろうから当然だが。

 それでも見逃した記述はないか、同ページの項目に目を通していた時。逸る気持ちを打ち砕くように、スマートフォンの着信音が二つ重なり合って鳴り響いた。

 今度は父からの電話ではなく、メールだ。しかも、私と真奈美ちゃんの両方に対して、同時に送られてきたようだった。


「また届いたっていうのか? さっき送られてきたばかりだっていうのに……っ」


 そう吐き捨てたものの、見ないという選択肢はない。予告を覆すためにも、まずは内容を確認しなければならないからだ。

 受信トレイを閲覧すると、やはり届いていたのは差出人不明のチェーンメール。私はすぐに画面を指でタッチして、今回の予告文を開いてみた。


「鳳来恵と秋山真奈美は、サカキさんの儀式を行うことで、鷹羽響子を眠りから目覚めさせる。そして災厄の元凶が姿を現すだろう。復讐を完遂するために……?」


 今回もさっきと同じ、これまでのチェーンメールとは毛色が違う予告文だった。

 これから降りかかる災難をただ示す内容ではなく、私の利益になる情報が合わせて提示されているのだ。

 一体、なぜなのか。意図は分からない。しかし、この手順を踏むことで響子を救えるというのなら尻込みする必要はあるだろうか……?

 それが叶うなら、結果として生じる災いのリスクなど今の私には些末な問題。

 何が起きても関係ないと思えた。私にとっては、恋人の響子がすべてなのだ。だから、迷うことなく私は言ってのけてみせた。


「やろう。それで響子が目を覚ますというならね」


 この決断に、真奈美ちゃんも反対しなかった。ただ黙って頷き、肯定の意思を示してくれただけだった。

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