わたしと宇宙人氏との親密な距離感で行われる身体的接触を伴うコミュニケーションの話

くれは

記録期間:二〇二〇年一月四日〜二〇二一年一月一日

 二〇二〇年一月四日の火事の話からしようと思う。

 その日は仕事だった。社員さんの中には年末年始ずっと仕事って人もいたし、会社としての仕事始めはとっくにだったんだけど、わたしはその日が仕事始めだった。

 仕事が終わって帰ってきたら、焦げ臭い煙が充満して、その先に消防車と救急車が止まっていた。そのさらに先に、わたしが暮らしていたアパートが、見事な炎を上げて今まさに消火活動の対象になっているところだった。

 野次馬の頭越しに、呆然とそれを眺めた。


「どうして、これ……」


 わたし以上に呆然とした声がした。

 振り向くと、隣人氏だった。わたしの部屋の、隣に住んでいる男の人。歳は多分、わたしと同じか少し下くらい。たまに出くわして、挨拶をする程度の関係の。

 その彼が、ぽかんと口を開けて、燃えるアパートを眺めてる。きっと、さっきまでのわたしも同じ顔をしていたと思う。


 と、彼が突然駆け出した。わたしの脇を擦り抜けようとするその時、咄嗟にその腕を掴んで止めた。

 自分でも、よく動けたなと思う。掴んでから、彼が火の中に飛び込まなくて良かった、と思った。そんなの、寝覚めが悪すぎる。


「離して! このままじゃ!」

「落ち着いて! 危ないから!」

「事情も知らないで!」


 彼はわたしの腕を振りほどこうと、わたしの肩に手をかけた。わたしは離すまいと腕にしがみ付いて引っ張る。弾みでだと思う、彼の手が肩から滑って、マフラーに引っかかった。


「いっ」


 首がマフラーに引っ張られて、思わず顔をしかめた。その瞬間、彼ははっとしたように動きを止めた。

 彼が動きを止めたせいで、彼の腕を引っ張っていたわたしは、力余って、そのまま後ろ向きによろける。


「あっ」


 その声がどっちのものだったのか、わからない。

 よろけて、わたしは両腕から力を抜く。彼はその解放された右手で、わたしの腕を掴んで引っ張った。マフラーに引っかかっていた彼の左手が、わたしの首筋に触れた。


 気付けば、わたしは彼のコートに頬を押し付けて、彼の体に支えられる形で立っていた。

 コートの毛が、ちくちくと痛い。マフラーに入り込んで首筋に触れる彼の手は、手袋もしていないのに、やけに熱かった。


 一呼吸。

 それから、一歩後ろに下がる。ちょっとびっくりはしたけど、事故みたいなものだ。


 そう思って彼を見ると、彼はまだ固まったままだった。わたしの左腕は彼の右手に掴まれたままだし、彼の左手はまだ、わたしのマフラーの中でわたしの首に触れている。

 そして、その顔は、びっくりするくらい真っ赤だった。

 火事に照らされているせいかと思ったけど、どうにもそうではなさそうだ。耳まで赤いし、マフラーに隠れたその首も、きっと赤いと思う。


 確かに、わたしもびっくりした。他人とのこんな距離感、久しぶりだったから。でも、事故みたいなもの、だよね?

 そんなに真っ赤になるほどじゃない……よね?


「あの……」


 真っ赤になるほどじゃないとはいえ、いつまでも触られているのも困る。手を離して欲しくて、声を掛けたら、彼はびくっと体をすくめた。


「あ、その、ごめんなさい、僕、こんなつもりじゃ」

「手を離して欲しいんだけど」


 わたしの声に、彼は慌てて手を離そうとする。彼のコートのボタンに、マフラーの糸が引っかかっていたらしい。引っ張られて、わたしはマフラーを解いた。


「そんな! こんなところで!」


 なんだかわからないけど、彼は真っ赤な顔をさらに赤くした。その視線は、わたしの顔と喉元とマフラーをちらちら行ったり来たりしていた。

 きっと、火事で混乱しているんだろうな、と思った。

 面倒になってきたわたしは、無言で彼の袖のボタンに絡まっていた毛糸をくるりと外した。


 こんな人だったんだな、意外、と変に冷静に思う。

 なんというか、会う時にはいつも、穏やかそうで人畜無害そうな雰囲気の人だったと思う。浮世離れしたというか、ぼんやりした感じの表情の。

 まあ、挨拶程度じゃ、人のことなんてわかるはずもない。


 ともかく、彼はもう、走り出して火の中に飛び込もうとはしていなかった。大人しくしている。顔はまだ赤いし、やたらちらちらとこちらを見てくるけど。

 わたしは……他にすることもないし、何かする気にもなれなくて、ただぼんやりと消火活動を眺めていた。

 改めて、呆然と。






 一月のニュースで、新型コロナウィルス、という単語が登場した。

 最初は中国でというニュース。日本でも、というニュース。思い返せば、あれは確かに何かの始まりだった。






 ところで、不動産屋さんに新しいアパートを紹介されたのだけれど、そこでもまた、かの隣人氏と隣人になった。

 新しい部屋に少しの家具と電化製品。新しいものにまだ馴染めないでいた頃、廊下でばったりと彼に出くわした。


「奇遇ですね」


 そんな風に声を掛けたけれど、考えたら同じ不動産屋に紹介されたんだろう。偶然のような、そうでもないような。


「ええ、あの……そう、ですね」


 彼はなぜか、また顔を赤くしていた。そわそわと落ち着きなく視線をさまよわせると、やがて意を決したようにわたしを見た。


「あの、せっかく会えたので、話をしたくて」


 わたしはぼんやりと、彼の表情を見る。状況がいまいちわからないけど、これは好意を持たれて誘われているのだろうか。それともそれは、自意識過剰なんだろうか。

 それにこの人は、この調子でこの歳までどうやって過ごしていたんだろうか。

 そんな、彼に対する少しの好奇心が、隣人に対する警戒心よりも上回った。

 なんだか不思議な人ではあるし、挙動不審ではあるけれど、やっぱり人畜無害そうで、なんだかぼんやりして見える。


「あの、何か食べに行くところだったんです。食べながらで良ければ」


 わたしの言葉に、彼はぱああっと擬音が聞こえるほどの笑顔になった。

 悔しいけど、ちょっと可愛いと思ってしまった。






 一月に語られ始めた新型コロナウィルスは、二月になってもニュースから姿を消さなかった。それどころか、一月よりもなんだか恐ろしげに、語られ始めていた。

 二月は、それでもまだぎりぎり、これまで通りの日常だったと思う。

 そのあと、世界は本当に変わってしまったような気がする。






 隣人氏とは、なぜか一週間に一度か二度、一緒にご飯を食べに行くようになった。

 彼がわたしを見かける度に、頬を染めてそわそわと誘ってくるのだ。それに了承すると、いつものように顔を輝かせる。

 これは流石に、好意を持たれているのだろうと解釈をしてしまっている。


 パスタの写真が並んでいる店の前で、彼はちょっと困った顔をして、麺は苦手なんだ、と言った。

 それで、数軒先の定食屋に入った。ご飯と魚とお味噌汁は好きだと笑う。


 定食屋の二人掛けの席に向かい合って座る。

 コップの水面を眺めながら、彼はどうしてわたしに好意を持っているのだろうかと考える。理由がわからなくて、戸惑うばかりだ。火事の時のアレくらいしか、心当たりはない。

 それとも実はもっと以前からわたしに気があったとか? まさか。そんな。

 なんとなくだけれど、あの火事の混乱を、たまたまその場にいたわたしへの感情と勘違いしているんじゃないかって気もしている。吊り橋効果のような。


 コップを握ったまま、目の前に座った隣人氏を見ると、目が合った。

 どうやら彼は、わたしが目を伏せて考え事をしている間、ずっとわたしを見ていたらしい。そして彼はわかりやすいくらいに赤い頬を伏せて、視線をさまよわせ始めた。

 つられてわたしもまた俯いた。カッと頬に熱が集まったのがわかった。


 なんだこれは。

 こんなのまるで、付き合いたての中学生じゃないか。






 三月に入って、社長さんがしばらくの休業を告げた。三月と四月の仕事が、ほとんどキャンセルになったらしい。今まだ連絡が来ていないものも、多分キャンセルになる見込みとのことだ。

 会社に置いてある私物は片付けていってくれ、と言われて、次の仕事を見付けないといけないんだろうな、と思った。

 社長さんは悪くない。でも、外出自粛しながら、転職活動なんてどうすれば良いのか。






 その頃、わたしの精神状態は最悪だった。

 仕事は多分なくなる。でも転職活動はうまくいかない。なんだか世の中全体が、それどころじゃない感じだった。

 火事でいろんなものを失くしてしまった。新しい部屋には物が少ない。なんでも良いや、最低限で、と思って買った安っぽいベッドとタンス、少しの電化製品。タンスの中はまだ隙間だらけだ。

 テレビはないので、スマホでニュース動画を見たりしてるけど、あまり気は紛れなかった。


 人が集まるところを避けて、外食も避けるようになった。買い物は三日おきくらい。

 マスクをして、なんだかどこも息苦しい。会話もほとんどしない。


 そんな、これから買い物に行こうという時に、ちょうど買い物から帰ってきたらしい隣人氏とばったり会った。

 ちょっと前には一緒にご飯を食べていたのに。外食を避けだしてからはタイミングが合わなくなってしまって、顔を合わせるのは半月ぶりくらいだった。

 隣人氏はマスクをしたわたしを見て、マスク越しでもわかる程に顔を輝かせた後、わたしの顔を見て目を見開いた。そのままわたしに近付いてきて、ビニール袋を持っていない方の手で、わたしの腕を掴んだ。


「僕、これからご飯作るから! 一緒に! あの、良ければ!」


 彼の声は前とあまり変わってなくて、わたしは久し振りに笑った。






 彼の部屋は、わたしの部屋よりは物があった。でも、やっぱりどこか殺風景だ。火事で全部なくなって、その後買い揃えた物ばかりだろうから、仕方ない。

 彼はご飯を作ると言っていたけど、出てきたのはレトルトのカレーだった。かろうじて、キャベツの千切りが添えられているのが、料理の要素だ。

 なんとなくだけど、わたしをあまり待たせたくなかったとか、彼はそんなことを考えそうだと思った。


 元気そうで良かった、なんて話しながら食べるレトルトカレーは、やけに美味しかった。こんなに声を出して喋ったのは久し振りだった。

 わたしが喋って笑うと、彼はとても安心したような顔をした。


 どうやら、さっきのわたしは、なんだか今にも死にそうな顔をしていたらしい。


 確かに、彼と話しているうちに、さっきまであった憂鬱さが少し溶けて、少しだけ楽になったような気がした。

 カレーを食べ終えて、そろそろ帰らないといけないだろうか、なんて思っていたら、コーヒーを出されてしまい、立ち上がるタイミングを逃してしまった。


「あの、それで……」


 コーヒーを一口含んだところで、彼がやけに改まった雰囲気で切り出した。

 あ、いよいよかもしれない、とわたしは身構える。そっとカップをテーブルに戻して、なんとなく居住まいを正す。


「僕、実は……」


 彼は、伏せていた顔を持ち上げて、まっすぐにわたしの顔を見た。真剣な目だった。そして、その頬はやっぱり、いつもみたいに赤い。

 はい、と小さく返事をして、彼の言葉を待つ。


「僕は、宇宙人なんだ」


 何も返せなかった。何かの冗談か、と思ったけど、それにしては彼の表情は真剣だ。

 いや、仮に、彼が本当に宇宙人だったとして。それでも今は、好きです、とかそういう系統の言葉がくるタイミングだった、よね?

 変に期待した自分が自意識過剰みたいで恥ずかしい。


「ええっと、どういう意味?」

「あ、最近は、宇宙人って言わない? えっと……地球外知的生命体とか? 通じる、かな?」

「ごめん、宇宙人の意味はわかる。そこじゃない」

「え、じゃあ何が……?」


 彼は不安そうに、わたしの表情を伺うように、こちらを見ていた。これっぽっちもふざけている雰囲気はない。


「なんで、それを言ったの、今」

「君には知っておいて欲しいと思ったから」


 彼は、赤く染まっていた頬をますます赤くして、目を伏せた。耳も赤い。ハイネックのせいで見えないけど、きっと首まで赤くなっている気がする。

 こんな、まるで愛の告白みたいな顔で、なんで出てきた言葉が宇宙人なの。


「どうして、わたしに?」

「それは、その……」


 彼は言葉に詰まって、顔を伏せたまま、赤い顔でちらりとわたしを見る。その上目遣いが可愛いと思ってしまった。

 それで、なんだか、このやりとりがもどかしくなってしまった。だって、なんだか、いつまでも話が進まない。


 わたしは、テーブルを回り込んで彼の隣に移動した。そして、ぎゅっと握られた彼の手に、わたしの手を重ねる。

 彼の手は、とても熱い。彼は真っ赤な顔を上げて、わたしを見た。その目を覗き込みながら、わたしは言う。


「わたしは、あなたのことが好きです」


 結局、仕方ないんだ。わたしは、このなんだかぼんやりしていて、すぐに赤くなって、自分のことを宇宙人だなんて言う彼のことが、好きになってしまったんだから、仕方ない。


「そ、それは……その好きというのは、親密な距離感や、身体的接触を伴うコミュニケーションをとっても良いという意味での好き?」

「え、何?」

「あの、だから、家族以外の他人に対して」

「あ、ごめん、意味はわかった。ちょっと、びっくりしただけ。ええと……そうだね、少なくとも、こうやって触れ合っても良いかなと思うくらいには、好きだよ」


 そう言って、重ねていた手で彼の手をぎゅっと握ると、彼は体をびくりとすくませた後、そわそわと視線を動かして、それから笑った。

 そのふわふわとした笑顔を見て、彼は本当に宇宙人かもしれないと思ったりした。






 四月には、正式に仕事を辞めた。誰も悪くない。でも、相変わらず、転職活動はうまくいかなかった。

 貯金額を思い出しながら、後どのくらいこうして暮らしていられるか、と考えていた。






 隣人氏とは、お互いの部屋行き来して、一緒にご飯を食べたりしている。

 身体的接触は、今のところ手を握るくらいだ。彼があまりに赤くなるせいもあるけど、それ以上のことは避けられていた。

 時々、ふざけたフリをして抱きついてみたりするのだけれど、やんわりと肩を掴まれて、そっと引き剥がされる。そんな時、彼は真っ赤な顔で、でもちょっと困ったように笑って、それから目を逸らす。


 そんな彼の態度に不安を覚えたわたしは、彼と膝を付き合わせて、彼の手を握って、顔を覗き込んで聞いてみた。


「わたしと、身体的接触をするのは、嫌?」


 彼は顔を赤くして、大きく首を振った。


「そんなことは……でも」

「でも?」


 彼はしばらくごにょごにょと口ごもっていたけれど、やがて諦めたように口を開いた。


「地球には、仕事で来ているんだ。仕事の間は、できないことが色々あって」

「なんの仕事?」

「それは言えない。これ以上、規定違反はできない」

「これ以上?」


 わたしの言葉に、彼は視線を逸らした。なんだかちょっと不貞腐れたように。


「いや、今も規定違反にはなってないんだ……多分。ぎりぎりだけど。現地住民とのコミュニケーションは必要最小限に留めているし……近隣住民との円滑な関係のためのコミュニケーションだって、必要だと、認められているし」

「そういうことをわたしが知っているのは問題ないの?」

「……やむを得ぬ事情がある場合には、認められるから」


 彼の表情に、わたしは吹き出してしまった。

 彼は何か決まりに従って動いていて、その範囲内のぎりぎりで現地住民わたしとこうしてコミュニケーションをしてくれているらしい。

 まあちょっと、必要最小限かは疑わしいし、必要だと認められている範囲を超えている気もするし、やむを得ぬ事情と言うのは過言なのではとも思うけど。

 でも、その辺りは本人もきっと自覚していて、でもそのルールを踏み越えて、わたしと一緒にいてくれている、きっと。


 わたしは彼の手を離すと、後ずさって彼から少し離れた。


「わかった。困らせてごめん」


 彼が大きく首を振る。


「こっちこそ。僕の事情なのに。本当は、もっと、きちんと説明できたら良いんだけど……こういうの、慣れてなくて。でも、その……」


 彼は、片手で口元を覆った。わたしと視線を合わさずに、なんでかそっぽを向いている。


「身体的接触は、したいと思ってるよ、僕も。我慢してるだけ、だから」

「え……」


 彼がちらりとわたしを見て、わたしはその視線だけで、顔が熱くなった。耳まで熱い。きっとわたしも今、彼のように真っ赤になっている。






 五月になっても、まだ仕事は見付からなかった。緊急事態宣言は解除されることなく続いていた。

 去年までとは状況が違う。仕事を探す条件もやり方も、全然変わってしまった。このまま仕事が見付からなかったらどうしようかと、そんな不安ばかりが募った。






 隣人氏とは、相変わらず一緒にご飯を食べている。最近は、ほとんど毎日。彼が作ることもあるし、わたしが作ることもある。

 彼はたまに仕事だとかで、数日いなくなることがある。そんな時には前もって、しばらく家にいないと言ってから出かけてくれる。

 スマホでメッセージのやりとりもしている。たまに、本当に宇宙人なのかな、と疑問に思うのだけれど、なんだかそれは些細なことにも思えている。

 彼は、普通と少しズレているかもしれないけど、彼なりに誠実に接してくれていると思う。


 数日ぶりに、彼と一緒にご飯を食べていた。

 メニューはカレー。レトルトじゃなくて、肉を炒めて野菜を切って煮込んだカレーだ。キュウリとワカメの甘酢和えも作って添えた。

 帰るというメッセージをもらったから、一緒に食べるのが楽しみで、作って待っていた。


 最近の彼は、最初の頃に比べたらだけど、それほど赤くならずに話すようになってきた。会話も、以前よりもスムーズな気がする。お互いのペースが、少しずつ近付いてゆくようで、嬉しい。

 他愛もなく、美味しい、ありがとう、と言い合って、そんなことが幸せだった。


 食後のお茶を飲んでいると、彼が不意に言った。


「もうすぐ仕事が終わりそうなんだ」

「そうなの?」

「うん、多分だけど。あ、今のは、聞かなかったことにして欲しい」


 そう言って、彼は気まずそうにカップに口を付けた。本当は、言ってはいけないことだったんだろう。

 何も言わずに、わたしもカップに口を付けた。


「それで、仕事が終わったら、星に帰るから」

「え?」

「帰って……いろいろ、かた……」

「ちょっと待って! 帰るって……帰るって、地球からいなくなるってこと?」


 思わず大きな声を出してしまったわたしを、彼は驚いたように見ていた。


「そう、だね。地球を出て……帰る星の、名前も場所も、言えないけど」

「最初から、その予定だったの?」

「本当は、もっと早く帰る予定だったんだ。でも、あの火事で、ちょっと問題があって、予定が狂って……そのあと、地球規模のウィルスの問題で、こっちも身動きが取りづらい状態になって……その、仕事が終わったら帰らないといけないのは、そう決まってるから」


 わたしは、咄嗟に口を閉じて言葉を飲み込んだ。

 彼は仕事で地球に来ている。わたしだって、もう良い大人だ。だから「離れたくない」なんて、ただのワガママだってわかってる。愛や恋だけでは生きていけない。でも。


 わたしは、手を伸ばして、彼の手に触れた。びくりと彼の肩が動いて、そして彼の顔がさっと赤くなる。


「あの……わたしと身体的接触を……してください」


 もし彼がわたしに触れてくれたなら、彼に触れることができたなら、その思い出があれば、一人でも大丈夫だと思った。

 わたしはじっと、彼を見る。彼は赤い顔で、わたしを見ている。


「それは……無責任な行為だ」

「責任なんて、いらないから」

「君のことが大事なんだ」

「それよりも……」


 自分が言おうとしていることを自覚して、急に恥ずかしくなった。彼の顔を見ていられなくて、目を伏せて、言葉を続ける。


「触って欲しい」


 はあぁっと深い溜息が聞こえた。彼の手に重ねていた手が、逆に捕まえられる。恐る恐る顔を上げると、俯いていた彼の顔が持ち上がる。目が合って、いつもどこかぼんやりしていた彼の瞳に、見たことのない表情が見えて、どきりとする。


「後悔、しない?」


 頷くと、彼はそっとわたしの手を引いた。テーブルを避けて、彼の前に座って、彼を見上げる。心臓の動きが、どくどくと激しい。


 彼の両手がわたしに伸びてきて、わたしの首を包み込む。そして彼は、悩ましげに息を吐いた。

 そこから動くのかなと思ったけれど、彼の手はわたしの首に添えられたままだ。時々、指先がわたしの喉やうなじをそっとくすぐる。その感触はくすぐったくて、そして少しぞくりとした。


「地球人は、どうして首を出すの?」


 わたしの首をくすぐりながら、彼が言った。


「え、首?」

「首」

「出すって……?」

「だって、人に見せてるでしょ」

「首を?」

「首を」


 彼の言っていることの意味がわからなくて、ぼんやりと彼を見上げる。言われてみれば、彼はいつも、ハイネックの服を着ていた気がする。

 そうだ、わたしは彼の喉元もうなじも見たことがない。


 気付いた瞬間、彼の親指がわたしの喉をそっと撫でた。


「ん……」


 ただ首に触れられているだけだというのに、変な気分だった。彼が顔を近付けてきて、わたしの目を覗き込む。彼はいつもみたいに赤い顔で、でもいつもと違って、とろりと潤んだ目でわたしを見下ろす。


「ねえ、首を出さないで欲しいな。僕以外に、君の首を見られるのは、嫌だ」

「首を?」

「うん、首を」


 理由は全然わからないけど、彼はわたしの首を触って興奮している。それに、わたしの首が他の人に見られることに嫉妬している。

 彼の指先がうなじをくすぐって、どうしてと考えていたことが散り散りに消えてゆく。


「ずっと……こうして、触れたかった……」


 彼の声は、少し上擦って、そして少し掠れていた。


「首に?」

「うん、首に」


 彼の手が片方、わたしの首から離れる。彼はその手で、ハイネックの前に付いていたジッパーを引き下ろし、そして、襟をはだける。

 初めて見る彼の喉ぼとけに、わたしはなんだかいけないものを見た気持ちで、目を逸らす。


「ちゃんと、見て、欲しい……お願い」


 彼はわたしの手を取って持ち上げた。


「ねえ、君も、触って……僕の首に」

「首に……」

「そう、首に」


 彼に導かれて、わたしは彼の首に触れた。いつもハイネックに隠れているその内側の肌に、直接。

 熱い。彼は体温がとても高い気がする。

 彼は細身ではあったけれど、こうやって触れるとがっしりとしていて、やっぱり男の人だ。彼の真似をして親指でそっと喉ぼとけに触れると、彼はふふっと笑った。


「誰かに首を見られるのも、触られるのも、初めてだ……すごく、どきどきする」


 首で? とは思ったけど、いつの間にかわたしの呼吸は浅く荒くなっていて、何も言えなくなっていた。首だけで。

 応える代わりに、わたしは両手で彼の首に触れる。肌の熱さを感じて、その下の筋肉を感じて、彼が唾を飲み込む動きを感じる。

 同じように、彼の両手がわたしの首に優しく触れる。皮膚の表面を撫で、血管を辿り、顎と首の境目をくすぐって、全体を包み込む。

 わたしの頭の中が、彼でいっぱいになる。






 そうやってお互いの首を触りあって、どのくらい経ったのか、わたしにはもうわからなくなっていた。


「ごめん、これ以上は、もう……」


 彼は苦しそうに掠れた声でそう言って、わたしの首から手を離した。彼の手はとても熱かったから、すっと首が冷えた気がした。

 わたしも彼の首から手を離す。それでもまだ気持ちは落ち着かなくて、彼の首をじっと見てしまっていた。


 彼は、体の内に篭った熱を逃すように、ほうっと息を吐いた。そして、ハイネックの襟を整えて、ジッパーを上げてしまった。


「本当は、現地住民との、その……過度な身体的接触は、規定違反なんだ」


 彼は、真っ赤な顔を両手で覆う。


「違反て、言わなくてもバレるものなの?」

「検査……的なものが、いろいろとあって、そこで、なんというか、反応するものが、あったりして……結果的に、そう判定される、というか」


 彼の言葉は随分と遠回しでわかりにくい。規定に引っかからない範囲で話してくれているからだとは思うけど。


「違反すると、何か大変なことがあったりする? 罰金とか、地球で言う逮捕みたいなこととか」

「それは……内容次第。詳細は言えないけど、今回の内容なら、多分……結果的に、そこまでひどいことには、ならない……はず」


 彼の歯切れの悪さに、なんだか申し訳ない気持ちになった。彼に迷惑をかけたくないと思っていたくせに、随分と軽率な行動をしてしまった。


「ごめん。違反させちゃって」


 彼は少しだけ手をずらして、指の間からわたしを見た。


「後悔は、してないよ。違反してでも、そうしたいって……思ったのは僕だから」


 彼の声と視線は、さっきまでの身体的接触を思い出すにはじゅうぶんで、わたしは頬が赤くなったのを自覚した。

 ひょっとして宇宙人は首を触って交尾をするのだろうか、なんて、馬鹿なことを考えてしまった。






 それ以来、わたしから身体的接触を申し出ることはやめた。

 首だけだったけど、一人で生きていくにはじゅうぶんな思い出だったから。なにせ、彼の初めてだったのだ。首の、だけど。






 六月になって、ようやく転職活動がうまくいき始めた。面接はビデオチャットだった。

 世の中の状況は相変わらずに見えたけど、でも、自分の先行きが少し明るくなって、随分とほっとした。






 彼は、仕事で家を離れる日が、増えた。彼が何をやっているのかはさっぱりわからなかったけれど、きっと、もうじき彼の仕事は終わるんだと思う。


 わたしは彼と、それぞれの部屋の合鍵を交換していた。

 転職活動で、ビデオチャットを求められることが多くなってきた。わたしの持っているスマホだと性能的に足りないことが多くて、タブレットかパソコンを買う必要が出てきた。

 そんな話をしたら、彼が自分のものを好きに使ってくれて良いと言ってくれた。


「僕がいない時も、好きに出入りして、好きに使って良いから」


 そう言って、彼は合鍵を渡してくれた。一方的にもらうばかりは嫌で、わたしも自分の部屋の合鍵を渡した。






 その日は、朝に彼から「今日は部屋に戻る」というメッセージがあった。面接の予定の日でもあった。

 午前中に買い物に行って、お昼過ぎに彼のパソコンを借りて、ビデオチャットで面接をした。最初の面談で印象の良い会社だな、と思ったところで、なんとなくこのままうまくいきそうな気がしていた。

 面接が終わって、お茶を飲みながら少し緊張をほぐして、ご飯を作り始めた。夏野菜を使ったミネストローネを作るつもりだった。


 夕方頃に、彼から電話がきた。ミネストローネは出来上がっていて、あとはただ彼を待つだけだった。

 いつもはメッセージだけなのに、電話なんて初めてだ。なんだか不安になって、通話ボタンを押す。


「もしもし?」


 耳にあてて、おそるおそる声を出す。


『良かった、無事で』


 いつもの彼らしくない、緊迫した声。彼の言葉の中にわたしが無事じゃない可能性を見付けて、急に怖くなった。


『今、君の部屋? 僕の部屋?』

「あなたの……」

『すぐに自分の部屋に戻って!』


 なんだかわからないけど、彼の声は真剣だった。きっと、仕事で何かあって、わたしがここにいてはまずいことがあるのだろう。そしてそれは、わたしの無事に関わっている。


「わ、わかった」


 極力、平静でいたかったのだけど、そう答えた声は震えていた。


『通話は切らないで、このまま。何かおかしなことがあったら、すぐに言って。それから、蕎麦が落ちていても、絶対近付かないで』

「え、蕎麦?」

『とにかく、急いで!』


 最後の蕎麦の意味がわからなかった。でも、彼はいつだって大真面目だったし、いつだって誠実だった。彼の言う通りにしなければと、立ち上がって玄関に向かう。通話はスピーカーモードにした。

 靴を履こうとしたわたしの目の前で、郵便受けが、カタンと音を立てた。


 嫌な予感がして、動けなくなった。


「ねえ」


 わたしは、恐怖に縮こまる舌をなんとか動かして、声を出した。


「なんか、郵便受けに、入った」


 なんとか声を振り絞っている間に、郵便受けの隙間から、蕎麦が出てきた。

 うん、蕎麦。

 一本じゃない。何本も。茹ですぎた蕎麦みたいなそれは、郵便受けの隙間からでろんと玄関に落っこちてきた。そしてそのまま、何本もの蕎麦が塊になって、動き出す。


『落ち着いて! ゆっくりでも大丈夫だから』

「なんか、蕎麦が、入ってきた」

『玄関から離れて。目は離さないで、ゆっくり、後ずさって。大丈夫だから』


 スピーカーから聞こえる彼の声に従って、わたしは後退りながら、部屋の中に戻る。蕎麦の塊も、ゆっくりと玄関から這い寄ってくる。


『動きは遅いんだ、大丈夫。背中にくっつかれなければ、大丈夫だから。もうすぐ着くから、それまで待ってて』


 背中にくっつかれると何が起こるの、とは聞けなかった。とにかく、ずっと呼びかけ続けてくれる彼の声に励まされて、わたしはそろりそろりと移動する。

 蕎麦の塊は、ゆっくりと、でも確実にわたしを追い掛けてきていた。


『ベッド、ベッドの方に行って。それで、ベッドの下に、ええっと、なんていうか、棒みたいなものがあるから』


 テーブルの下に敷いてあるラグに足を取られて、尻餅をついてしまった。少し先にいる蕎麦が、何かに反応して、びくびくと波打った。気持ち悪い。


『今の音、何? 大丈夫?』

「こ、転んだだけ、大丈夫。まだ追いつかれてない」


 彼の声にはそう答えたけど、全然大丈夫な気がしなかった。足に力が入らなくて、立てない。わたしは、落としてしまったスマホを掴んで、お尻をついたまま、ずるずると後ずさって移動する。


『もうちょっとだから、もうちょっとだから、無事でいて』


 そのままずるずると移動して、ベッドに辿り着く。ベッドに寄りかかって、ベッドの下に手を入れて動かすと、指先に何かが当たる。それを掴んで引き寄せる。

 少し埃を被ったそれは、つるんとした材質の白い棒みたいなものだった。親指くらいの太さの、菜箸くらいの長さの。何かを組み立てる時に余った部品かな、みたいな印象の。大きさの割に、重い気がする。


「ねえ、ベッドの下に、棒、あったよ。白いの」

『良かった、それで合ってる。蕎麦みたいなやつが接近してきたら、それで叩いて。一定時間は活動を停止させられるから。叩いたらすぐ手を離して』

「わ、わかった」

『でも、無理はしないで』

「大丈夫」


 わたしは、スマホをベッドの上に置くと、両手でその棒みたいなものを握った。

 蕎麦の塊は、さっきわたしが転んだせいでぐちゃぐちゃになってしまったラグの上を、ざわざわと揺れながら動いている。もうすぐ、ここに来てしまう。


『今! もう! すぐそこだから!』


 彼の叫ぶような声が聞こえる。ああ、この足音はきっと、階段を駆け上がっている。本当に、すぐそこなんだ。

 わたしはぎゅっと、その白い棒みたいなものを握った。


 蕎麦の塊は、もうすぐそこ。このままだともうすぐ、ぺたりと座り込んだわたしの膝に辿り着いてしまう。

 わたしは白い棒を振りかざす。蕎麦の塊から、一本の蕎麦がわたしの膝に向かって伸びてくる。

 ぞっとしたまま、勢いよく白い棒を叩き下ろした。


 蕎麦の塊が波打つ。白い棒が、蕎麦に飲み込まれるように引っ張られて、わたしは慌てて手を離した。そして、ベッドの上に上がる。少しでも蕎麦の塊から離れたかった。

 ガチャガチャと、鍵の開く音がする。

 蕎麦の塊は、床の上で白い棒に絡まったままうねうねと動いていたけれど、すぐに乾麺のように硬くなって、動きを止めた。


「大丈夫!?」

『大丈夫!?』


 彼の声が、直接とスピーカー越しに二重に聞こえて、わたしはベッドの上でほっと力を抜いた。

 靴も脱がずに、彼が駆け寄ってくる。ベッドの下で固まっている蕎麦の塊を見て、わたしを見て、大きな溜息をついた。


「良かった、無事で」


 そう言ったあと、彼はまた足元の蕎麦の塊を見て、なんとも言えない表情をした。


「ええと、無事を喜んだり、いろいろしたいんだけど……これが活動を再開する前に、先に片付けるよ」


 わたしも、そこに転がっている蕎麦の塊を見て、多分なんとも言えない表情をしたと思う。






 結局、そのあと二人でわたしの部屋にいる。彼の部屋は、消毒のようなことをしているらしい。


「食べ物は、多分、捨てることになる、と思う。せっかく作ってくれたのに、ごめん」


 彼は申し訳なさそうな顔で、そう言った。

 わたしは黙ったまま首を振った。ああ、でも、彼のご飯はどうしよう。わたしはすっかり食欲がなくなってしまったけど。

 いつだったか、彼が麺類が苦手だと言った理由が、わかった気がした。


「それで、その……」


 彼が、いつものように赤い顔で、そわそわと落ち着きなく視線を揺らし始めた。


「今から、軽い身体的接触を試みるけど……これは、家族や友人間でも行われることがあるコミュニケーションであって」


 彼が何を言おうとしているのかがわからなくて、わたしは彼の赤い顔を見上げる。


「あの、つまり……ぎりぎり、規定違反には当たらない、んだけど……ごめん」


 その言葉と共に、わたしは彼に抱き寄せられた。彼の手が、わたしの背中を辿って、そのまま深く、抱き込まれる。


「無事で、本当に、良かった。怖い思いさせて……ごめん」


 ああ、なんだ、首以外にも、ちゃんとコミュニケーションの方法があるんだ。

 そう思ったら、なんだかすごく安心して、わたしは彼の背中に手を回して、彼の体にぎゅっとしがみついた。


「大丈夫。でも、ちょっと怖かったかも」

「俺のミスなんだ、ごめん。本当に、良かった」

「うん、大丈夫。大丈夫だから」


 わたしが大丈夫と繰り返しても、彼はごめんと良かったを繰り返した。それに対して、わたしはまた、大丈夫と返す。

 そうやっているうちにだんだんと体の力が抜けて、わたしは彼の胸に額をつけて少しだけ涙を流して、それからほっと目を閉じた。





 七月になってすぐ、転職先がようやく決まった。十二日から勤務開始。その前までに業務用パソコンを届けてくれるそうだ。出社するのは、月に二、三回。それ以外はずっとリモートワーク。


 そして、隣人氏がいなくなったのは、七月七日、七夕の夜。あいにくの雨で、織姫と彦星は地上からは見えなかった。


 彼はわたしの隣の部屋を引き払った。もう隣人氏ではなくなってしまった。

 わたしは彼の持ち物をいくつか譲り受けた。処分するつもりだったけど使えるなら使って、と。忘れられなくなると思いながら、それでもわたしは、いくつかのものを受け取った。

 忘れたいのか、忘れたくないのか、自分でもわからなかった。


 わたしの部屋の玄関で、少し寂しそうな顔で別れの挨拶をする彼に、わたしは何も言えなかった。

 来週には新しい仕事が始まる。それをなかったことにして、彼に付いていくのは違う気がした。それに、彼の暮らす星がどんなところかは知らないけど、そこには彼の生活があるはずだ。

 彼を引き止めるのも、だから、やっぱり違う気がする。


「元気でね」


 ようやく、それだけ言えた。にっこり笑うのはできなかったけど、泣いて取り乱さなかっただけで、上出来だろう。

 感情に振り回されて、彼を困らせるようなことをしてはいけない。ただでさえ彼は、わたしのせいで、すでにいくつかの規定違反をしているはずだったから。


「あの……それで……」


 彼が、そっと目を伏せる。相変わらず頬を赤くして、目の縁までピンクに染まっていて、可愛らしいなと思う。そんなことを思ってしまってから、わたしは小さく息を吐いて、その気持ちを逃した。


「何?」

「その、帰る前に、もう一度……身体的接触を試みたい……その、できれば……親密な」

「首を触るってこと?」

「そう、首を」

「規定違反は大丈夫なの?」

「ええと……少しだけなら、多分」


 彼の言い方に、吹き出してしまった。彼は恨めしそうにわたしを見る。わたしは頷いてみせた。


「良いよ」

「ありがとう」


 彼は両手を持ち上げて、両側から挟み込むようにわたしの首に触れる。彼の指先は熱くて、わたしの体も一気に熱を持ってしまった。

 彼の両手が、わたしの首を包む。わたしの呼吸までもが、彼に支配されている気持ちになる。


「こんなに、首をさらけ出すなんて……隠して欲しい」

「だって、暑いし」

「君の首が、他の人に見られるのは、やっぱり嫌だな」

「文化の違いだね」


 わたしの言葉に、彼はちょっと唇を尖らせた。それから、赤い顔が少し近付いてきて、声が少し小さくなる。


「ね、僕の首も」


 ねだられて、わたしも両手を伸ばす。わたしが触りやすいようにか、彼は顔を近付けたままにしていた。わたしの指先が彼のハイネックのシャツに触れると、彼はくすぐったそうに目を細めた。


「中に、お願い」


 少し掠れたような声で懇願されて、わたしの指先はハイネックの中に潜り込む。彼の体温が直接伝わってくる。

 わたしの手では、彼の首を包み込むことはできない。ぴったりとしたハイネックも邪魔だし。だからただ手が触れているだけなのだけれど、彼はそれでも嬉しそうに、ふふっと笑った。


「君と会えて良かった」


 ああ、もう、この宇宙人はなんで最後にそんなことを言うのか。

 やっぱり身体的接触なんて、するんじゃなかった。そう思いながらも、彼の首に触れたまま動けない自分にも腹が立つ。


 こんなつもりじゃなくて、もっと、軽く別れたかったのに。


「ねえ、地球の身体的接触をしても良い?」


 彼に首を包まれながら、気付けばわたしはそう言っていた。


「地球の?」

「うん、キスって言うの」

「え?」


 聞き返されて、わたしは少し笑った。


「唇と唇を合わせて」

「いや、待って、知ってる。僕だって、そのくらいは知ってるし、それに、口腔同士の粘膜接触によるコミュニケーションは、こっちにもあるよ」

「じゃあ」

「でも、粘膜接触は、本当にやばい規定違反なんだ、だから……今は駄目、ごめん」

「そっか」


 わたしは彼の首から手を離して、俯いた。

 それで彼も、わたしの首から手を離す。名残を惜しむように、彼の指先が首を撫でてから離れる。


「今は駄目だけど、その……そう、次に会った時に、なら、きっと大丈夫だから……」


 最後になって次の約束をするなんて、本当にこの宇宙人は、わたしをどうしたいのか。

 それでもわたしは、頷いた。


「わかった。じゃあ、次に会った時にね。約束」


 この約束が彼の心に入り込んで、少しでも長くそこに留まってくれたら良いのに、と思った。そんな自分の狡さに、わたしはまた自分で勝手に腹を立てた。


 そうして、彼は、地球を旅立って、彼の世界に帰ってしまった。






 八月、九月、十月、ずっと新しい仕事に手一杯。新しい職場で、ビデオチャットでコミュニケーションをとることには、だいぶ慣れた。

 世の中は、人と触れ合わないことに、だいぶ慣れてきたように思う。


 そんな忙しさに彼とのことを思い出す暇なんてなかった、なんて言えたら良かったのだけど。そんなことは全然なくて、わたしは事あるごとに彼を思い出していた。

 隣はずっと空き部屋のままだった。


 十一月。新型コロナウィルスの状況は、相変わらず恐ろしげだ。それに、世界は本当に変わってしまったんだな、と思う。

 彼のことは相変わらず思い出していたけれど、だんだんと現実感が遠くなっていた。

 その度に、彼の存在を確かめるように、わたしの首に触れる指先を思い出す。

 最後のあの約束は、彼の中にまだ留まっているだろうか。そう思って言った言葉は、わたしの中にずっと留まり続けている。






 そして十二月、大晦日、もうじき二〇二〇年が終わる。

 彼から譲り受けたタブレットで適当な年越し動画を開いて流しっぱなしにしながら、スーパーで買った缶チューハイを開けた。「今年は大変な一年でしたねー」なんて声に、本当にね、なんて相槌を打って一人でレモンのチューハイを飲む。

 あれ以来、麺類、特に蕎麦は食べられなくなってしまった。だから、年越し蕎麦は食べてない。

 おつまみは、適当に買った天ぷらだ。


 本当に大変な一年だった。彼と出会って、別れた二〇二〇年。


 なんとなく気乗りしなくなって、タブレットの画面をオフにする。

 ちょっと水でも飲もうなんて立ち上がったところで、玄関のチャイムが鳴った。


 こんな時間に?


 玄関のドアを見る。鍵は掛かってる。内鍵も。

 誰が、と思って動けないでいると、また、チャイムの音。


 恐る恐る、インターホンの画面を見る。そこに映る人影を見て、わたしは玄関にダッシュした。もどかしい気持ちで内鍵を開けて、鍵を開けて、ドアも開ける。

 外の冷気が部屋に流れ込んでくる。


 そこには、あの隣人氏が立っていた。今は元隣人か。あの、ちょっと浮世離れしてぼんやりした表情の、穏やかで人畜無害そうな雰囲気の、あの宇宙人氏。なぜか、手に日本酒の一升瓶が入ったビニール袋を持っている。

 彼は、わたしの顔を見て、ぱああっと擬音が聞こえそうな笑顔になった。あの、ふわふわとした笑顔。

 信じられない気持ちで、ぽかんと見上げる。あまりのことに思わずドアを開けてしまったけど、もしかして偽物とかだろうか。

 それとも、酔っ払って眠ってしまって夢でも見ている?


「元気そうで、良かった。会いたかったよ、久し振り」


 彼は、前みたいに頬を赤く染めて、それでも隠しきれない程に上機嫌にふわふわと笑ってそう言った。それから、固まったまま動かないわたしを見て、急にとても不安そうな顔をした。


「え、あれ……もしかして、忘れられてる? 婚姻の約束もしたのに……」

「忘れてないけど婚姻の約束は知らない!」


 思わず大声を出してから、玄関先であることを思い出して、慌てて彼を部屋に引っ張り込んで鍵を閉める。


 七夕の夜のあの別れはなんだったの。あれから年末までの、わたしの傷心はなんだったの。それに。

 婚姻の約束って、何?






 彼は、わたしのすぐ隣に座って、赤く染まった頬でわたしを見てふわふわと笑って、かと思うと急に照れたように目を伏せて、そわそわと視線をさまよわせて、またわたしを見て、を繰り返していた。

 わたしは……わたしは、とにかくひどく混乱していた。


「とにかく、聞きたいことがいっぱいあるんだけど」

「うん、どうぞ」

「ええと……とりあえず、あの一升瓶は何?」

「え、あれにはアルコールの一種が入っていて」

「ごめん、それはわかってる。そうじゃなくて、なんでアルコールを?」

「この辺りでは、祝祭日には、アルコールを摂取するもの、だと。アルコール飲料店で『祝祭用のものを』って言ったら、あれを出してくれた」


 ビニール袋から出すと、なかなか見事なラベルが見えた。わたしはついさっきまで、ひと缶百十四円の缶チューハイを飲んでいたのに。

 一升瓶をまた床に置いて、溜息をついて彼を見る。

 彼は首を傾けてわたしを見ていた。


「聞きたいこと、まだ、ある?」

「いっぱいあるけど……」

「うん」

「その前に、身体的接触をしても良い? ええっと、家族や友人間で行われることもある方の」


 そう言って両手を広げると、彼は耳まで真っ赤にして、わたしに少し近付いて、それからわたしの体に両腕を回した。ぎゅっと抱き締められて、わたしもぎゅっと抱き返す。


「会いたかった……」


 彼の肩に額を押し付けてそう言えば、彼はさらに強くわたしを抱き締めた。


「うん、僕も。それに……忘れられてなくて、良かった」


 そうやって、二人でしばらく抱き合っていた。会えなかった間を埋めるように。






 二〇二一年に、気付けばなっていた。

 今まで使ったことがなかった、貰い物の切子細工のペアグラスを出してきた。それに、彼が買ってきてくれた「祝祭用のアルコール」を注いで、二人で飲んだ。

 飲みながら、いろんなことを話した。


 そもそも、七夕の日のあれが今生の別れでは全然なかったこと。彼は最初からそのつもりで、わたしもそれを知っているつもりだったらしい。

 わたしはわたしで、勝手に今生の別れのつもりで、勝手に思い詰めて、何も言わずに別れることを選んでしまっていたんだった。

 結局、わたしの半年の傷心は、二人の思い込みと説明不足のせいだった。


 それから、わたしの仕事が決まって、働いていること。生活が安定していること。そんなことを話したら、彼はほっとしたように笑ってくれた。

 彼には、仕事がなくなったり、見付からなくて憂鬱だった間、ずっと助けてもらっていた気がする。だから、こうして今は大丈夫だってことを伝えられて、嬉しかった。


「僕も、見付けないと……仕事」


 彼の言葉に、わたしは瞬きを返す。


「仕事?」

「うん……地球で生活するなら、必要、でしょ?」

「それは……えっと、これまでの仕事は?」

「向こうでの仕事は……辞めてきた。仕事で地球に来るのは、どうしても、規定が色々と厳しいし、期限もあるし。だから、今度の渡航は、無期限で、その……」


 彼は酔って赤くなった頬をますます赤く染めて、視線をさまよわせて、口ごもり始めた。今の話のどこに、照れる要素があったのかがわからない。


「あっ、でも、心配しないで。貯金もまだあるから、その間に、ちゃんと仕事を見付けるし、だから、その、婚姻を結んで家計を同一にしても、君に迷惑をかけるつもりは」

「ちょっと待って、婚姻? そういえば、さっきも言ってたよね、婚姻の約束って……わたし、それ、聞いてないけど」


 わたしの声に、彼はぽかんと口を開けた。そして次に、その唇がわなわなと震える。


「え、だって……え……次に会った時にって……」

「次に会った時……って、キスのこと?」

「だって、キスって、口腔同士の粘膜接触のこと、だよね?」

「ちょっと待って……ひょっとして、その、口腔同士の粘膜接触って、婚姻に関係してるの?」


 どうやらわたしたちは、自分たちの食い違いに辿り着いたみたいだった。

 彼は自分の勘違いを恥じ入るように、真っ赤な顔を両手で覆ってしまった。


「粘膜接触は、基本的には、配偶者としかしない、から。特に、口腔同士でのそれは……その約束は、婚姻を結びたいって意味で使われていて……だから、僕は、てっきり……」

「え、じゃあ、わたしがキスしたいって言ったのは、結婚しようって意味になってたってこと?」

「僕は……てっきり……だから、婚姻して、永住するための……渡航希望……」

「えっと、あの……」


 わたしは困って、彼の膝にそっと手を置いた。彼はびくりとして、それからそっと、両手を下ろして、顔を俯けたまま視線だけで、わたしを見た。その上目遣いを可愛いと思ってしまうのだから、きっとそれで良いはずだった。


「あの、口腔同士の粘膜接触……する?」

「それは……どの、意味の……?」

「あのね、結婚……婚姻を結ぶのは、今すぐにってわけにはいかないけど、その……いつかは」


 彼の手が持ち上がって、わたしの首に触れようと伸びてくる。けれどそれは、その手前で動きを止めた。


「僕は……君と、粘膜……えっと、キス、したい。もっと、接触……触れたい。それで、親密な、距離、関係、君と……仲良く……近付きたい」


 彼の視線が、自信なさそうに一回伏せられて、それからまっすぐにわたしを見た。


「意味、間違って、ない? 通じた?」


 わたしは頷くと、首の手前で止まっていた彼の手を捕まえて、それをわたしの首に触れさせた。


「わたしは、あなたのことが好き。あなたと身体的な接触をしたいし、親密な関係を築きたい」


 わたしの言葉に、彼は真っ赤な顔で、それでも今までで一番嬉しそうに笑った。






「首はね、弱点だから、隠すんだって」


 わたしの首を触りながら、彼がそう言う。わたしも、いつもハイネックで隠れている彼の首を触っている。彼に求められるままに。


「家族にも見せないし、触らせないんだ。見られると恥ずかしいし、同意もなく触られるのは、ええと……屈辱、って言うのかな」

「どのくらい、恥ずかしいものなの?」

「僕の感覚だと……下着か、裸くらい」

「そんなに?」


 裸を触り合っていると思うと、なんだか急に、とてつもなく恥ずかしいことをしている気持ちになってきた。

 いや、彼の感覚だと、恥ずかしいことをしているのか。いや、そうでなくても、この状況はじゅうぶん恥ずかしいかもしれない。

 わたしの反応に、彼は溜息をついた。


「そんなに。だから、お願いだから、外では、首を隠して欲しい。僕以外の誰かに、君の首を、見せないで」

「わ、わかった」


 首を見せるのが裸を見せるのと同じことだと言うなら、わたしはずっと、彼の前で裸で過ごしていたことになる。

 今までは平気だったのに、一度意識したら、もう二度とできないような気がしてきた。

 ハイネックの服を買わないといけない。


「それと」

「まだ、何かあるの?」

「首を見せたり、触らせたりするのは、弱点を見せるほど、深く、あなたを信頼している、って意味。だって、弱点に触らせるって……殺されても、おかしくないってこと、でしょ」


 そしてまた、突然、見える世界が変わった気がした。今、わたしの命は彼に握られているし、彼の命もわたしが握っている。わたしたちが愛撫しているのは、お互いの命だ。


「だから、普通は……配偶者にしか、させないんだよ。配偶者って、そういうもの、なんだ」


 彼はそう言って、熱い息を吐いた。


「僕は……婚姻の約束もしないで、君の首を触ったし、君に首を触らせたんだよ。悪い男なんだ」

「だって、あの時は、わたしが……」

「それでも、僕はきっと、するべきじゃなかったんだ。本当は。今だって、こんなの、配偶者でもないのに……だけど、僕は」


 彼の手が、首から少し上に動いて、わたしの耳を塞ぐように押さえた。


「君と、接触したい」


 彼の顔が近づいてくる。

 わたしは彼の首に腕を回す。


 そして、わたしたちは、粘膜接触をした。

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わたしと宇宙人氏との親密な距離感で行われる身体的接触を伴うコミュニケーションの話 くれは @kurehaa

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