後編

 教会の扉は、ロデリックが運び込まれた後に固く閉ざされたが、魔物たちに包囲されて時間の問題となっていた。


 一応の手当を受けたロデリックだが、もはや剣を振るう体力は残されていなかった。



「お爺、大丈夫……?」


「ああ……」


 再びこの愛しい少女に会えたことは幸運ではあったが、燭台の火に照らされたその顔は曇ったままだ。


 石壁が破壊されて魔物がなだれ込めば、愛する者たちは皆殺しにされる。



「ディーエ様、どうかお救いを……」


 誰かが神に祈ったのを、ノキはキッと振り返る。


「だから、ディーエに祈っちゃダメなんだって!!」


 声を荒げたノキは、はあ、と長いため息をつく。



「お爺。あの石像、持ってる?」


 ロデリックはその言葉の意図を汲み取り、すぐに目的の品を取り出した。


「これか」


「そう。ホントにごめんなんだけど、まだ元気残ってる?」


「もちろんさ」


 空元気ながらロデリックが精一杯笑ってみせると、ノキも呼応してか弱く微笑む。



「ノクシアに祈って。もう、それしかない」



 ロデリックは自然と立ち上がっていた。


 よろよろと祭壇まで歩き、ディーエ像よりもずっと小柄で頼りない石像を安置する。


 いつものように、跪いて合掌し、目を閉じて――大きく息を吸う。



「偉大なる夜の神、ノクシア様!! 我らの罪をお赦しください。ここにいる、私の愛する者たちを――魔の軍勢よりお守りください。どうか、魔を退ける力をお与えください」



 声を張り上げるたびに、全身の骨が悲鳴を上げるようだった。が、ロデリックは力強く祈り続ける。


「できれば、みんなにも祈ってほしい。ボクがやっても、意味がないから……」


 ノキは切実な声で訴える。邪神の名におののいていた何人かの村人たちも、2人の真摯な姿勢に心を打たれたようだった。


「……ノクシア様、助けてください!」


 まず、あの少年の声が響いた。それを皮切りに、ノクシアへの祈りの言葉が広がり、教会中を埋め尽くしていく。



 誰もが息を呑んだ。


 ただでさえ薄暗かった外が、完全な暗闇に包まれた。それはまさしく夜の景色で、しかし月や星の光は一切届いていなかった。


 人々がどよめく中、ロデリックは振り返って燭台の明かりを頼りに愛娘の姿を探す。


 ――彼女は、今までの無垢で明朗なものとは対極の、悪魔のように濁った笑みを浮かべていた。



「このときを、待ってたんだ」



 その瞳が紅い月のように怪しく光っている。


 ゆらりと細い腕をかざすと同時に――ロデリックの目先にあったディーエ神の巨像にビシッと亀裂が入り、さらさらと砂になって消えていった。


 誰も、何も言えなかった。



「さて、次は外か」


「ま、待て!!」


 扉に向かっていく少女をロデリックが呼び止めると、赤眼の一瞥がその老体を金縛りにした。


「っ……!?」


「ごめんね。お爺は何するかわからないから。……これ、借りるね」


 自分の背丈ほどもある剣を、彼女は軽々と片手で拾い上げている。



 鐘楼を殴りつけるような轟音とともに、教会の扉が崩れ落ちた。


 そこから見える魑魅魍魎の蠢く地獄に、小柄な娘が剣を携えて真っすぐ歩いていく。


 ぶわっと刀身が空を横切ると、魔物たちは弾かれたように後方に吹っ飛んで行った。


 剣の心得のあるロデリックから見ても、その太刀筋はめちゃくちゃだった。にもかかわらず、化物たちはなすすべなく薙ぎ払われていく。


 その間、空いているほうの左手が黒い霧を纏い、次第に拡大していく。


「消えろ」


 放出された暗黒が、津波のように魔物たちを飲み込んでいった。



「あはははははははっ!!」



 それはもはや一方的な殺戮といっても過言ではなかった。村を襲った脅威はことごとく影も形も残さず消滅し、超常的な力を嬉々としてふるった子供だけがそこに残った。


 驚きで閉ざされた人々の口は、恐怖によってさらに堅くなる。


「ノキ……」


 ロデリックは、愛しい娘の名を呼ぶ。しかし彼女は振り返らない。華奢な背しか見えないが、少なくとも先のように笑ってはいない。


 やがて聞こえたのは、美しく艶やかな女性の声だった。



『――聞こえますか。勇敢なる騎士ロデリック』



 まさしくそれは、夢の中で耳にしたものとまったく同じであった。


「ノクシア様……」


 ロデリックは自ずと膝をついていた。


『あなたに謝罪せねばなりません。確かに私はあなたの願いを叶えましたが――今をもって、それを打ち切りといたします』


「打ち切り、とは……?」


『我ら神々が人の世に顕現することは、本来あってはならぬことなのです。今回は特別の事情ゆえ、でしたが……。私の正体が知れてしまっては、これ以上――』


 その声は石の壁に反響していて、どこから発せられたものかわからなかったが、その主はここにいる人間の1人であると、当の彼女が振り返ったことでわかった。



「――これ以上、下界にとどまることはできないのです。ごめんね、お爺」



 覚えのある、純真で優しい、しかし寂しげな笑顔。


 かの少女はノクシア神の使いではないかと考えたことはあったが、そうではなく――彼女こそ、ノクシア神そのものだった。



 幼い少女の姿をした女神は、ゆっくりとロデリックに近づくと、すっと左手を添えて拘束を解き、同時に傷を癒した。


「あ、ありがとう、ございます……」


「敬語やめてよ。なんか、むずむずする」


「は――う、うむ」


「お爺はいいんだよ。ずっとボクに祈ってくれてたし――まあ、目の前で祈られたときは恥ずかしくて死にそうだったけど。しかも何? あの像。美化しすぎでしょ。人間の妄想力ヤバイっていうか、ある意味罰ゲームだったよね」


 おどけた苦笑に気が抜けたのも束の間、ノクシアは険しい顔で後ろを向いた。


「だけど、あんたらはちょっと看過できない。……よくも、ディーエに祈ってくれたな?」


 静かながら、怒りを含んでいるような調子だった。



「ボクが邪神? ディーエと戦って負けた? それで昼が長くなったとか、そう考えてるんでしょ。今回の魔物もボクのせいって思った? 全部逆だよ。凶作も魔物も、あんたらがディーエに祈ってたせいだ」



 彼女がずっと、ディーエに祈ることを拒絶していたことを思い出す。夜が来て真っ先にしたことは、あの大きな像を破壊することだった。


 ディーエは力を使いすぎた――夢では魔物の襲撃をそう説明していた。


 全部、逆。今回のこともこれまでのことも、ディーエによるものだとすれば――



「まさか……ディーエ神が邪神なのか」



 ロデリックが呟くと、ノクシアは驚いた顔で振り向く。


「……え? いや、それはちょっと、話飛びすぎ」


「む?」


「あれ? ……ああー! ごめん、そうだよね。お爺には夢でちゃんと説明できなかったんだ。1回目は別によかったんだけど、2回目はそのー……なんか、照れ臭くなっちゃって」


 夢でかすかに笑ったような気配がしたのは、そういうわけらしい。


「なんか、怒る気も失せちゃった。天界のことあんまし知られてないみたいだから、最初から説明するね」



 ノクシアが述べた天界の事情というのは、こうだ。


 まず神々は皆、人々の信仰によって「神力」という力を得、さまざまな奇跡を地上にもたらす。


 しかし、近年は人々の信仰心が薄れ、神々の神力が弱まってきているという。


 一方で、特定の神――たとえばディーエのような――には信仰が集中し、神力が衰えていながら司る領分ばかりが増え、過剰な負担を背負うはめになったのだ。



「人間でいうとさあ、給料は減ってるのに仕事ばっか増えてってる状態だよ。今の昼の長さはディーエの力を超えてるの。それでとうとうぶっ倒れちゃって、今日のこの有様だよ。お粥用意してあげたんだけど、ちゃんと食べてくれたかなぁ」


 ディーエとノクシアの間に対立などなく、むしろ姉妹仲は良好のようだ。戦いの神話は、神力の低下で起きた異常気象から生まれたものなのだろう。


「我々はディーエ神に祈りすぎたということか。それで、なぜ魔物が?」


「世界が元々暗闇だったの知ってる? だからディーエは『照らす』っていう仕事が必要なんだけど、夜はいらないから。人間が家ん中で寝てる夜の時間に、余力のあるボクが魔物とかを閉じ込めて、被害を減らしてたのね」


 ちなみに「魔物」というのは、不信心や悪行を働いたことなどで、神々の救済から漏れてしまった魂の成れの果てだと彼女は補足した。


「でも、さすがにこんな短い夜に魔物押し込めるの無理だから。昼に出ちゃう魔物はディーエの担当なんだけど、そもそもオーバーワークすぎて対処しきれなかったんだよ。ああ、作物のほうは――そりゃ実らないでしょ。こんなに環境変わってんだもん」


 つまり、ディーエ神はあれだけ多くの魔物を抑え込んでくれていたということだ。


 ロデリックも村人たちも、それほどの労をかけてしまったことを後悔しているようで、苦い表情を浮かべた。



「まあ、それでボクは考えたんだよ。ボクの信者増やせばディーエの負担減るんじゃね? って。で、ボクのこと拝んでくれてた人のお願い叶えて、評判アップさせよー! っていう作戦を思いついたわけ」


「それがワシか」


 そんな打算的な狙いで声をかけられたのは少し複雑ではあったが、そのような文句が言える立場ではない。


「神力足りるか心配だったんだけど……子供って言うから、ちょうどよかったよ。こんな外見してるの、神力減りまくったせいなんだよね。ウケるでしょ、妹より幼い姉。でも怪我の功名っていうの? 願い聞いた瞬間『これでいいじゃん!』ってなって、ソッコー押し掛けたの」


 どうりで夢から覚めたすぐ後に、願い通り子供が訪れたわけだ。


「まさかこの村のみんながディーエのほう崇めてるとは思わなかったよ。昼の世界のこと知らなかったし、昼ってボク全然力出ないのね。すぐ疲れちゃうし、まぶしすぎて目もあんま見えなくてさ」


 それを聞いて、ロデリックははっとする。


「だから、家事も農作業も勉強もあんなにできなかったのか。それは、すまないことをした」


「いや、いいよ。人間はお昼にいろいろやるのが普通だもんね」


「それでか。皆の祈りの力で強制的に夜にしたのは。あれがお前の本来の力だったのだね」


「そうそう! チョー楽しかったぁ♪ ちょっとやりすぎちゃったかもしんないけどさぁ、人間も夜にテンション上がったりするじゃん? ボクも久々に張り切っちゃって」


 お前が邪神と呼ばれているのは、あの鬼神のごとき戦いぶりのせいではないか――ロデリックは口には出さずに心にしまっておいた。



「――まあ、いろいろ言ったけど、要するに」


 ノクシアは、大きな石像があった場所にぴょんと飛び乗った。


「ディーエよりも、ボクのほうを崇めなさい! ってこと。すなわちボクがこの村の新アイドル!! あ、石像作るなら美人にしすぎないで、恥ずかしいから。ディーエ像も本物と全然違ったし。そこんとこヨロ~」


 神らしくもない夜の神の振る舞いに、かえって人々は肩の力が抜けたようで、顔を緩ませている。


「それでボクを邪神呼ばわりしてたのはチャラにしてあげる。言っておくけど、そもそも邪神なんていないから。神なんて、変なのもアホなのもいるけど、基本いい奴らばっかりだからね」


「そうなのか? 邪神は願いを叶える代わりに、人の魂を奪うと聞いたぞ」


「何それ? もしかしてタナト兄のこと? 違うよ! タナト兄は死ぬ直前の人の願いを聞いて、来世にそれを反映させるの! 魂は死者の国に連れてくんだよ。死の神だもん」



 ロデリックの脳裏に、死に際の妻の言葉が蘇った。


 ならば妻は死者の国へ向かい、どこかで生まれ変わっているということか。もしかすれば、すでにワシと出会っているかもしれないな――



「……そろそろ夜明けだね」


 薄明かりに照らされた時計が、7時手前を示している。夜の神の仕事が長い冬でも、もう日の出の時刻だ。空もかすかに白んできている。


 我が子のように愛した少女は、寂しそうな笑顔をロデリックに向けていた。



 正体が知れては、この世界にとどまることはできない。


 それがきっと、彼女らの背くことのできぬ掟なのだ。



「ノクシア」


「ノキって呼んでよ。この名前、実は気に入ってるんだ」


「……ノキ。ワシは自分の願いを叶えてもらった恩を忘れんよ。たったの短い時間だったとしても――ワシは、十分に幸せだった。ありがとう」


「うん……。ボクも……楽しかったよ」


「神であろうと、普通の子供であろうと、変わりはない。ワシは、お前をずっと愛しているよ」


 頬を赤らめたノキは、潤んだ目を細めて、照れ臭そうに笑った。



「またお爺は、そういう恥ずかしいこと言う!」



  ◇



 ロデリックが、一人暮らしの静けさに少し慣れ始めた頃。


 教会では言いつけ通り夜の神を祀るようにはなったものの、小さな村の信仰では力及ばないのか、以前よりほんのわずか夜が長くなっただけだ。


 その代わり昼に出る魔物は激減して、貴き夜の神はそちらのほうに力を割いているのかもしれなかった。


 寝る前の日課は相変わらずだが、変わったことといえば、本人曰く「美化しすぎ」の像ではなく、あの幼い少女の姿を描いたスケッチを使うことにしたというのと――「むずむずする」という敬語をやめ、フランクな語りかけにしたことだ。


「やあ、ノキ。ディーエ様はお元気になられたかな。そういえば、近々あの少年が神官を志して都に発つそうだよ。お前の話を広めるんだとさ。彼の願いが叶うよう――そうだな……夜ぐっすり寝かしつけてやってくれ。無理をせんようにな」


 そうやって毎晩床に就くと、不思議とよく眠れるのだった。お陰で、肩こりや腰痛も以前より和らいだ気がする。


 強すぎた昼の日差しもこの頃は弱まり、夜は少し冷える。布団を深く被って、眠りにつく。



『――聞こえますか』



 その声音を、いつの間に広がっていた灰色を、忘れるわけがない。


『聞こえますか。敬虔なる信徒――……ぶふっ!! あははははっ!! やっぱダメだ、笑っちゃうよ!』


「気になっていたんだが、その声はなんだ。わざとか」


『神っぽく聞こえるように、頑張ってボイトレしたんだ。ってことで、お久~』


 以前と違って、自分の姿も、声の主である神の――あの愛らしく幼い容姿も、はっきりと視覚に映し出される。


「お爺のお祈り集、いつも聞いてるよ。意外と絵上手くて嫉妬したし。あの子神官になるんだねぇ。いつかボクのスーパー武勇伝教えてあげよう。ディーエなら元気だよ。『お前下界ですっごい美女ってことになってるよ』って言ったら、今度の休暇に美の神のエステ予約してた」


「天界はなんだか賑やかで楽しそうだな。それで? 世間話をするためにわざわざこのジジイの夢に現れてくれたのか」


「あはは、ホントの用事は別。実はパパからお仕事任されちゃって」


「パパ?」


「人間のいうところだと、創造神。やっぱ慢性的な神力不足と信仰格差ヤバイよね~、ってなって。暇になっちゃった神々に指令が下ったんだよ」


「ほう、なんて」


 夜の神は――ノキは、父である創造神を真似てか、咳払いをしてわざとらしく低い声を出した。



「『人々の信仰心を取り戻すため、人間として受肉し、下界に降りて布教活動をせよ』」



 目を見開いて仰天しているロデリックを一瞥すると、ノキは続ける。


「『なお、人間に正体を明かし、協力を要請することも可とする』……だってさ」


「な、なんと! つまり、それというのは……」


「ゴホン。敬虔なる信徒、勇敢なる老騎士ロデリックよ。あなたは私とともに、創造神からの使命を果たすのです」


「それは嬉しいが、いきなりすぎやしないか!」


「てなわけでぇ、今から会いに行くから。夢が覚めるまで3、2、1――」


「待ってくれ、ノキ!!」



 胸部の圧迫感と心地よい温かさに、ロデリックはぱっと目を開ける。


 毎晩見ていたその笑顔が、朝日に照らされて輝いている。



「おはよう、お爺」


「――……ああ。おはよう、ノキ」



 午前2時に日が昇り、午後9時に日が沈む。


 そんな長い長い昼があったことが、昔話として語り継がれるようになった頃。


 ある小さな村の教会では、幼い少女のような女神と心優しい老騎士の像が祀られ、年老いた神官がその物語を人々に毎日聞かせているのだという。

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優しい老騎士は邪神を崇める 五味九曜 @gmkz5392

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