彼女は春を俟っている

夢見里 龍

彼女は春を俟っている

 そのひとをなにかに例えるならば冬、だった。

 白い肌に白絹の振袖をまとい、ふるぼけた駅のホームにたたずむそのひとは、ひたすらに誰かを待ち続けていた。誰を待っているんですかと訊ねた僕に、彼女は「春を」といった。


 春をっています――――と。




 はじめて彼女を見掛けたのは二月になったばかりの朝だった。梅のつぼみがゆるみはじめて、ああ、けれどまだ春は遠いなあと白い息をてのひらに吹きかける頃のことだ。

 昨晩から降り続けていた雪が朝がたになって細雪にかわった。僕の地元は寒椿が凍りついて咲かないほどに寒いが、雪はそうそう降らず、いったん積もってしまえば春になるまで融けることはない。稲作がおもなこの地域の農家では冬のあいだは収入が絶える。だから晩秋の収穫が終わればみな暖かな家にこもり、春までじっと堪えしのぶのだ。

 僕はフェザーダウンを頭までかぶり、敷きつめられた雪を重たい靴で踏みながら駅にむかっていた。

 家から徒歩十五分。寂れた無人駅から、僕は某県立高校に通学している。

 駅舎はない。五段程度の階段があって線路からちょっとあがったところに、屋根もなければ壁もない吹きさらしのホームがあるだけである。もともとは木製のベンチがあったそうだが、壊れて撤去された。標識は錆がまわってほとんど読めず、かろうじて「を」というまるいひらがなが見て取れるだけだ。春の見物の時期と夏の祭りの晩をのぞいて利用者はめったにおらず、普段ここの駅から乗るのは僕くらいのものだった。

 だがその朝は、駅にひとがいた。

 階段をのぼり終え、まだじぶんが寝ぼけているのかとおもって、僕はごしごしとまぶたをこすった。眠たい身体をひきずって朝ごはんも食べずにでてきたせいで、夢の尾っぽをひきずっているのかと。

 けれどもそのひとは、どれだけ瞬きを繰りかえしても、雪のかなたに掻き消えることはなかった。

 続けて、ゆきおんな。という言葉が頭によぎる。

 薄絹のような雪の幕のなかにふわりとたたずむそのひとは、鶴の羽根を織って紡いだような着物をまとっていた。雪を欺くような白絹の振袖に白い帯をして、白木の下駄を履いている。艶やかな髪だけが白紙の巻物に筆を奔らせたように黒い。髪筋に細氷さいひょうが降りかかり、墨染の和紙に銀箔を張りつけたがごとく、きらきらとさざめいていた。

 どこか、ひとならざるもののようなふんいきを漂わせつつも、何故だかこわい、とは感じない。

 距離を取って横にならび、ちらりとその横貌よこがおを覗いた僕は、想わず息を呑んだ。

 美しかったからだ。雪を欺く細やかな肌に椿をはたと落としたような真紅の唇。寒風にさらされた額は程よいまるみがあった。わかさぎが泳ぐような細い眉といい、氷像をおもわせる鼻筋といい、言葉を喪うほどに佳麗だった。

 年齢は想像がつかないが、僕より五歳くらい年上か。

 彼女は、ここから乗る、のだろうか。

 雪を巻きあげ、凍りついた線路を滑るようにして群青の電車が駅についた。扉がひらき、僕はいつものように電車に乗りこむ。なかは暖房がたかれていて、寒いなか立ち続けていた身体の強張りがほどけた。

「寒かったろう、毎朝お疲れさん」

 髭もじゃの熊みたいな車掌さんが声を掛けてくれた。

「ありがとうございます」

「はやく、春がこんかねえ」

 毎朝のようにおなじことをぼやきながら、車掌さんは乗客のいない通路を通り、運転席のほうに移る。

 寒い地域ほど室内は暑いくらいに暖房が利いている。席につき、こんなに暖かいとゆきおんなならばとけてしまうなと馬鹿なことを考えた。

 がたんと前後に車体が揺れて、すぐに電車が動きだす。真冬にこの駅から乗るのは僕だけだと車掌さんが記憶しているからだ。けれど今朝は、駅にいたのは僕だけじゃなかったはずだ。

 あのひとはちゃんと乗ったのだろうかと振りかえれば、彼女はまだ駅にいた。

 慌てている様子もなく、ただ静かに電車の吹きあげる風に着物の袖をはためかせて、しずとたたずんでいる。

 よかったのだろうか。乗らなくて。

 僕は何故だか後ろ髪をひかれ、雪景色に紛れて遠ざかっていく振袖姿を、いつまでも眺めていた。


 ………………


 翌朝も、さらにその翌日も、そのひとは駅にいた。

 あいかわらず、ゆきおんなみたいな振袖を身にまとって、氷雪まじりの北風にさらされている。電車がついても乗りこむことはない。夕がたに僕が駅についたときには何処にもいなくなっていた。電車ではなく、電車から降りてくる誰かを待っているのではないかというのが、最も理にかなった推察だった。

 木造駅のホームの後ろには樹齢百年ともいわれる桜がある。彼女はいつも桜の木陰に身を寄せるように立ち続けていた。葉は落ちているが、それでも折り重なるように絡まった枝の真下にいれば、雪は凌げる。ただ時折重みにたえかねて枝がしなり、雪の塊がどさりと落ちてくるので、僕は敢えて桜の側には近寄らなかった。

 よけいなおせっかいだとは知りつつも、あのひとの頭上に雪の塊が落ちてくることを考えると放っておけず、僕は暫しの葛藤の後、彼女に声を掛けようと決意した。

「あの」

「なんでしょう」

 緩やかに振りかえったそのひとは、物静かな微笑みを湛えて首を傾げた。さらりと絹糸のごとき髪がひと筋、衿のあわせに掛かる。

「えっと」

 ふつうに反応がかえってきたことに驚いた。あらためて彼女の貌を直視すると美人すぎてどきまぎとしてしまい、危うく舌が絡まりそうになる。

「そっ、そこ、雪が落ちてくるとあぶないので、もうちょっとまんなかに寄ったほうがいいとおもいます」

 重そうに雪を乗せた桜の枝を振り仰いで彼女は、そそと進みでた。

「気に掛けていただいて、ありがとうございます」

 僕は「いえ」といって離れかけて、ここで話が終わってもいいのかとみずからに問い質す。彼女のことを知りたいんじゃないのかと。

「えっと……その、寒いですね」

 口をついたのはどうでもいい挨拶だった。あのひとは「そうですね」とわらってくれているが、こんなあたりまえのことをいってどうするんだと恥ずかしくなる。なんとか本題に移る。

「どなたかを待っているんですか」

「ええ、春を」

 そのひとは微かに瞳を細めた。

 瞳のなかにちらちらと雪華が舞い、吸いこまれてしまいそうな心地になる。

「春をっています」

 春、という言葉の響きが耳の縁をかすめてかじかむように鼓膜が痺れる。そのひとの美しさにふさわしく、奇妙な余韻があった。

 けれども、春。それは駅に訪れるものなのだろうか。

「妹なんです」

 ああ、と取り繕うように僕はわらった。なるほど、春さん。季節のことだと思い掛けていた僕は、じぶんの馬鹿さに呆れずにはいられなかった。季節が電車に乗ってくるはずがないだろうに。

「そうか、なるほど、妹さんなんですね。いつこられるのか、連絡はないんですか。寒いなか、毎朝駅にきておられるので」

「ほんとうはまだつにも早すぎるのですが、みな、妹のことをまだかまだかとちわびているので」

 みな、というと家族のことだろうか。都会にいった娘の里帰りを待ち続けている家族の様子を勝手に想像し、胸が暖かくなった。彼女の妹ならば芸能界などに進んでいてもおかしくはない。

「愛されているんですね、妹さん」

「ええ、妹は美しいですから」

 なにひとつの僻みもなく紡がれた褒め言葉に、僕は無意識のうちに口を挿んでいた。

「いえ、あなただって美しいです、とても」

 普段ならばこんなことをさらりと言葉にできるような度胸はない。だがそんな僕でも、褒めずにはいられないくらい、そのひとは美しかった。言われ馴れていてもおかしくはないのに、彼女は驚いたように瞳を見張ってから、恥じらうように真紅の唇を綻ばせる。

 このあたりでは咲かぬはずの寒椿が、彼女の肌で華やぐ。

「そんなこと、いわれたことがありませんでした。春のことは誰もが胸をときめかせて、いまかいまかと俟ち望んでいますけれど……わたしのことを俟ちわびてくれるひとはめったにいませんもの」

 睫毛をふせ、あのひとは白い息で隠すようにひっそりとつぶやいた。

「ありがとう」



 翌朝から僕はこれまでよりもちょっとばかりはやく、駅にむかうようになった。

 そのひとはいつも駅にいた。春を迎えに。

 彼女と他愛のないことを喋るのが、僕の毎朝の楽しみだった。彼女は和歌を好み、梅が咲けば梅にまつわる短歌を、雉が鳴けば雉の歌を、猫が騒げば猫の恋を、桃の莟が柔らかくなれば、ふきのとうが芽吹けば、と季節を順に数えていくように諳んじてくれた。

 短歌を詠うそのひとの声の後ろではいつも薄ら氷うすらいの張る調べがする。しんと、筋がとおって透きとおった声質の所為か。それとも詞の隅々にまで神経張りつめたような発音の所為か。

 短歌を詠むそのひとの声を聴くのが、僕はとても好きだった。

 

 僕はたぶん、ゆきおんなに恋をした。

 これまで恋をしたことがないわけではなかったけれど、根雪を踏む足取りの軽さに僕はこれが恋かとおもった。


 百舌鳥もずたちて 茅の繁みに わすれぶみ

 想ひのたけは 雪をしのげど


「それは誰が詠んだ歌なんですか」

「えっと……僕が思いついたもので、季語とかあんまりわからないんですけれど……また、あらためてちゃんと勉強します」

 照れくさくて項を掻きながらいうと、そのひとは「素敵ですね」と鈴が転がるようにわらった。

「百舌鳥は秋の季語なので、晩秋の短歌でしょうか」

「いえ、その、真冬の……つもりです。百舌鳥はこいをしていて……相手に打ち明けられないうちに季節が移ろってしまったのだけれど、百舌鳥のはやにえは雪に埋もれることはないというので、わすれたふりをしながらもいつまでもこころのなかに残り続けているというか」

 喋っているうちに段々と耳が火照りだし、なにかもすごく恥ずかしいことをいっているようなきぶんになる。彼女は察しているのか、いないのか、どこか微笑ましげに眉の端をさげて、僕をみていた。そんなところがとても、ずるいとおもう。

 僕なんか想いを打ち明けるどころか、あなたのなまえも訊ねることができないのに。

 線路が軋んで、また電車がついた。

 あのひとの妹はまだやってこない。僕は、電車に乗らないといけない。

 振りかえれば、ひとりになったあのひとが、桜の枝を摘まんでひき寄せ、そっと想いを馳せているのがみえた。


 ………………


 穏やかに晴れわたる、麗らかな朝だった。

 例年よりも一週間遅く、町では桜が咲いた。通学路の桜もまもなく満開を迎えるそうだ。車窓にもたれていると桜前線が段々とあの駅にむかってあがってきているのが見て取れた。

 家から駅にむかう道端の根雪はすっかりと、緩んできた。日差しに暖められて、さらさらとながれていきそうな雪を踏みつけて僕は駅にむかった。木造の階段をのぼり、あのひとがいたことに、何故かほっとする。

「おはようございます」

 あのひとは袖をはためかせながら振りかえって、なにもいわずに僕をみかえす。その新雪をはたいたような頬には、安堵の微笑がある。

 嬉しそうに、ほんとうに嬉しそうに、彼女はいった。

「やっと春がきます」

 ぼうとしている僕にあのひとは弾むような声で続ける。

「ずいぶんとおそかったけれど、……これでみなが喜びます」

 風がさああと吹きわたってきた。

 電車がついたのかとおもった。けれど違う、これは。

 暖かく、それでいてちから強く、地吹雪を吹きあげながら押し寄せてくる南風――――春いちばんだ。

 桜のはなびらで染めぬいたような反物が、視界の端でたなびいた。

 振り仰げば、桜の意匠が施された十二単をまとった少女が、背のたけを越えるほどにながい振袖を羽ばたかせて、空を舞っていた。

「姉や、おまたせ」

「春」

 少女が可愛らしくはにかみながらてのひらを拡げ、ふうと息吹いきを吹きかけた。

 冬枯れの枝の先端から前触れもなく、ぱあと柔らかな薄紅が綻びだす。桜だ。続々とはなびらがわらい、頬を寄せて新たな季節の訪れを喜びあった。雪におおわれた畦から雪割草が顔をのぞかせ、歌うように風にそよぐ。日のあたる野っ原には金釦をばらまいたようにたんぽぽが咲き群れていた。

 春がきた。あのひとのっていた春だ。

 寒い田舎町に暮らすひとびとがずっと、指折り待ちわびていた春だ。

 ほんとうは気がついていたのだ。あんなにも硬かった桜のつぼみがゆるみ、花芽の割れたすきまから柔いはなびらが見え始めていることに。それでも知らないふりを続けていた。

 華やぐ卯月の風に乗り、少女はひらひらと蝶のように舞いながら遠ざかっていく。

 馥郁たる花のかおりがあたりに拡がるなか、あまりにも現実離れした光景に僕は暫しぼう然となっていた。ぱきんと氷の軋む音が鼓膜をかすめて、はっとあのひとを振りかえる。


わたしはもういかないと」


 春とはまるで違い、華やぎのない白妙の振袖を風に遊ばせ、彼女はいった。花の紋様もない、綾錦の帯もない。ただ綻んだ唇だけがぽっとあかく。

 僕の知るどんな季節よりも、綺麗だったのだ。


ってます、から」

 僕は春風に負けじと声を張った。

「冬を俟っています」


 あのひとがわらった。

 鶴翼のごとき袖を拡げると旋風が吹きあがった。舞いあがった細かな氷の結晶が螺旋を描きながら躍り、透きとおったひかりのかけらがあたりに散りばめられる。例えるならば雪の万華鏡だ。

 らんまんと咲き誇る桜の枝に霜が絡みつき、莟を白銀で飾りつける。若草の芽生えはじめた畦に純白の風花がひらひらと落ちては融けた。

 春と冬が重なりあい入れ替わる、一瞬の端境はざかいに僕はいた。

「秋が終わったら、帰ります」

 ぱきぱきと氷の結晶が砕けるようにあのひとのすがたが、春風に散る。最後にひとつ、約束をおいて。

 ぼう然と駅の端にたたずんでいた僕をよそに、何事もなかったように電車がついた。

 いつまでも経っても乗ろうとしない僕をみて、車掌さんは首を傾げていたが香りに誘われたように視線をあげ、ほお桜か、春だなあと嬉しそうにいった。咲き誇る桜は、姉から預かった霜のかんむりを乗せて、うつむきがちにはにかんでいる。

 季節は移ろっていくものだ。

 けれどもまた巡りくるものでもある。


「俟っています」


 わすれぶみを詠むように僕は、春風に紛れて、つぶやいた。

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