間違いなく面白い。
イカれたキャラクター達がすれ違いながら、あくまで己の都合で協力して障害をぶち破っていく。
ヒロインと主人公ですら例外ではなくすれ違っている。ヒロインは人に奉仕する女神として主人公に無償の祝福を捧げることを無上の喜びを感じている。
主人公は自分がその無償の祝福を嫌悪し、ソレを無上の喜びとする女神の習性を疎ましく思っている。
仲間の都合など知ったことかと蹴飛ばしつつもどういうわけか一党は結束しながら物語を紡いでいく。
一話読めばアリ地獄のように次の話に引き込まれていくはずだ。
問題があるとすれば、ほかの作品の傾向からするにこの作者の紡ぐ物語が最後まで終わらない可能性が高いという一点に尽きる。
刹那的に一話一話を楽しみたい方々には諸手を揚げてオススメできる。
「勇者刑とは、もっとも重大な刑罰の名前である」
冒頭に出てくるこの文章に偽りはない。
主人公たちが放り込まれる戦場は、毎回絶望的に不利な物ばかり。それもそのはずで、彼ら懲罰勇者は捨て駒と同義。何故なら揃いも揃ってとてつもない極悪人なのだから。
例えば息をするように盗みを働くコソ泥、王城をサーカス団に売り払いかけた詐欺師、自身を国王だと信じてやまないテロリスト、ターゲットの代わりに無関係の通行人を殺す暗殺者――などなど、誰も彼もが個性的な人格破綻者ばかり。
そして、主人公のザイロ・フォルバーツにいたっては『女神殺し』の大悪党。
懲罰部隊故に何もかもが不足している彼らが、いかに「魔王現象」と戦っていくのか。その巧みな戦術、戦闘描写がこの作品の大きな魅力の一つになっている。
その他にも個性的なキャラクターによる軽妙なやり取りや、徐々に明らかになっていくバックストーリーからも目が離せない。
誰かから期待をかけられること、自分が社会の役に立ち繋がりを持っていることを確認すること。それは人の心を満たす行為で、社会を成り立たせる仕組みの一部。
その一方で、社会からの承認を人質に、自分をすり減らす生き方を押し付ける場のなんと多いことか。
「頭を撫でて褒めてもらう」というただそれだけを対価に莫大な力を振るい、その末路として衰弱するまで戦い魔王に侵食される女神たち。
誰からも期待されず、死んでも再生するからと碌な物資も持たずに死地に放り込まれる犯罪者の集団である勇者たち。
正反対なようでいて、歪な自己犠牲を求められているその問題の根は何処かで繋がっているように思えます。
「いや再生されるからって死にたくないに決まっているだろ!」とばかりにあらゆる非正規な手段を用いて泥臭く生き延びる一方で、時にその場の勢いで他人の命や信念のため、保身とは真逆の頭のおかしい自爆戦法をとってしまう勇者たち。
不自由な環境の中で、自分の心や体をどう使うのか自分で選び自分で決めていく姿に共感と憧れを抱きます。
近世~近代レベルの文明水準の異世界を舞台に、『スーサイド・スクワッド』みたいな「刑罰としての異能の特殊部隊」ものの物語を展開する作品なんですが、これを「鉄砲玉としての勇者」という発想と接続してまとめ上げたのがタイトルに冠された「勇者刑」「懲罰勇者9004隊」というアイデアです。
それぞれの発想もなかなか気が利いてるですが、その組み合わせ方があまりにも上手い。
ひとつの作品の中に、古代の人型決戦兵器、神秘的な紋様を媒介とする魔術とそれを即物的・工業的に応用した魔術兵器、おとぎ話でもないと許されないような泥棒の名人、異世界転生主人公のパロディめいた異邦人のなれはて等、それぞれに異なるテイストのファンタジー性をもつガジェットが贅沢に放り込んであるのは作品の大きな美点ですが、なまなかな作者が同じことをやろうとしても作品の見せるべき物が拡散してしまうでしょう。
この作品と作者のなにより凄いのは、各回を作戦名で統一している点に良く表れていますが、この作品のどこをどう見せるのがいちばん面白いのかの要点を常に押さえ、開示する情報を統制し、雰囲気を統一し、作品を制御している事ですね。
作者の手のひらの上で転がされながら、戦場の匂いを感じ、人間世界の外縁から魔物の軍勢が現れる黙示録的光景を眺め、順番に作品に登場してくる皆してどうかしている異能の懲罰勇者たちの活躍を待ちましょう。
野球でボールをより遠く飛ばすコツとして、
ボールの少し先を振りぬくイメージでといわれることがあります。
振りぬくイメージで、と言われてもアレなのでもう少し具体的に『飛ばし屋』要素としてこの作品に思ったことを少々。
まず、第一に体重移動。
会心音を生み出す根源は上半身ではなく下半身。鍛えた足腰、基礎力がモノをいう。
足を高く上げる動作は最たるもので、この動作が、より洗練されたもので
あればあるほど、体重移動の”流れ”を生み、球に自らの”重さ”をのせることができるわけです。場面転換と踏み込みの上手さ。流石です。
次にスイング。これは少しアッパースイングで掬い上げるように(具体的には芯の9㎜下)
投げられたボールはまっすぐ進んでいるように見えて重力の影響で徐々に
沈んでいきます。
それにベストフィットするには←ではなく、↘に対応して↖の角度を保つのが合理的です。
魔王現象下という下降線下、徐々に悪化するその状況の中、それに引きづられることなく
状況状況で改善活路を見出そうと少しだけ上向きの視点の主人公と重なります。
(そして何某理由をつけて”救い”上げようとする上昇気風)
キャラの個性と役割、立ち向かうべき環境が非常にマッチしてます。
技術。スピン
打ち出す球に回転をかけることで浮力を生み、ボールはより高く遠くへと運ばれます。
切れのある台詞とノルかソルかイチかバチかの戦術。これが嵌った時に観客(読者)は
「打った瞬間わかる」または「スタンドに入った瞬間」の爽快感に喝采とガッツポーズを決めるわけです。
本塁打はやはり花。時々珍プレーも混じるけどそれも又べすぼーの醍醐味。
最後に日々の鍛錬。欠かさぬ鍛錬
―毎日更新!!―毎日更新!!!言わずもがな毎日更新!!
何より個性的で遠慮皆無なキャラたちがおりなす『振り切った』面白さ!
つまり作家ロケット商会の作風は完全にホームランバッターであり、その貫禄は
王か松井か大豊かという名選手ぶりであると思う訳なのです。
まさにMrフルスイング!
そしてMrダンゲロスSS!
流石ロケットさんだぜ! 勇者刑サイコー!イェイ!イェイ!!
以上。一ファンの戯言でした。
あと、作品としては珪素さんの「異修羅」と対比してみる見方も面白いかもしれません。
『異修羅』が勇者と呼ばれうる者は「本物の魔王を倒した者」であり、それこそが唯一人の「本当の勇者」であると定義し、そこに基づく物語なのに対して、
本作は「勇者たち」の物語であり、その軌跡を描いた作品になっているからです。
両作家の、勇者とは何であるか、どうあるものが勇者なのかのそれぞれの視点、切り口、解釈が垣間見られるわけです。わくわくしますね。
とまれ
人類9回裏二死満塁、バッター、ピンチヒッターザイロ。次の一球の行方をかたずをのんで見守っています。
ロケット商会さんが、また凄まじい「勇者」たちを世に送り出した。
ーー勇者とは最大の刑罰である。全員が性格破綻者の懲罰勇者部隊。
最高にそそるキャッチコピーとともに、送り出されたこの作品の世界観は、「優れた能力を持つ犯罪者たちが、命を握る首輪をつけられてフェアリーと呼ばれる異形の怪物と戦う消耗品の『勇者』として、戦場に送り出される」というぐらいにまとめられる。
人類の希望である「善」なるものであるはずの「勇者」が、全て「悪」に染まった「犯罪者」で構成されているという矛盾。しかもその全てが曲者揃いと来ている。これで面白くない訳がない。
しかし、そのキャッチコピーとは裏腹に、この作品を読み進めていったとき貴方はこう思うはずだ。
ーー彼らは本当に「悪」の「犯罪者」なのだろうか?
世界では、誰もが「自分の信念」を「善」として持って戦っている。だから、世界でいうところの「悪」とは、結局のところ「力を持った多数派の善」が、自分たちと対立する「力を持たぬ少数派の善」を「悪」と呼んでいるに過ぎない。
「性格破綻者」というレッテルを「勇者」たちに貼り付けた人間たちは、果たして本当に正常なのだろうか?
主人公のザイロは、今は「力を持たぬ善」の側にいる。「力を持った善」たちのいうところの罪を犯して、その罰として「勇者」に成り下がった。
しかし、ザイロの下に「女神」テオリッタがやって来たことで物語は動き出す。
「女神」は、フェアリーに対抗できる優れた能力を持った選ばれし存在。それは、まさに人類の「力」の象徴である。
「力」を手に入れたザイロたち「勇者」は、今後どのような未来を掴み取るのだろうか。
彼らは、今度こそ「自分の信念」を貫けるのか。
あるいは、再び「力」をもがれて地に墜ちるのか。
「勇者」たちの活躍に、今後も目が離せない。