最終話:その名は巡り屋
早朝。アラームをセットしたわけでもなく、暗いうちに目覚めてしまった。時刻を見ようと横を向くが、頭の芯が重い。後頭部の首と繋がる辺りで、誰か杭打ち工事をしているらしい。
手紙は全て読んだ。文面も概ね覚えている。
「環に話さなきゃな」
黒いスーツを取り出して長押に引っ掛け、着替えようとした。しかし思い直す。
――こっちだな。
いつも着ている作業服の上下。クリーニングのビニールがかかったのを破き、袖を通した。
「行ってくる」
青二はまだ、起きた気配がない。戸を開けず言って、家を出た。ちょうど陽が出て、はかな市が一面を白く染められている。走る軽トラの窓を開けると、湿り気のない風がコンソールの埃を吸い出していく。
距離は十キロ足らず。約二十分。まばたきの一瞬にさえ、多くの光景が瞼の裏に浮かぶ。それらには見て見ぬふりで、飛び去る埃を数えた。
寺は既に掃除が済まされていた。近隣を民家に囲まれているのに、静寂そのものだ。壊してはならないと、飲んだ唾が喉に引っかかる。
「朝早くに悪いな」
墓の周りに、雑草は一本もなかった。触れてみると、たった今磨いたばかりのようだ。花はなく、燃え尽きた線香の灰が残っている。
そこでようやく、掃除をする雑巾も花も持たなかったことに気づいた。線香だけなら、軽トラに載せている。それとも位牌堂へ行けば、置いてあるだろうか。
――いや。
今すべきは、一つしかない。空を見上げ、大きく深呼吸をした。
ポケットから宝田の手紙を取り出し、墓へ向ける。「お前のお父さんからだ」と。いざ読もうとして、喉に咳がからむ。三度も払ったふりをすると、ようやく整った。
「形無くんには不義理ばかりで、申しわけありませんでした。だってよ」
書き出しを、昨夜のようには笑えない。薄笑いを作っただけで、先を続ける。
「以下に浅井浩二の供述内容を記します。生来、筆不精ゆえの箇条書きをお許しください」
そう書かれた通り、以降の文面は手紙の態様をしていなかった。
まず宝田環を殺害したのは、当人に間違いないこと。車に乗せた場所は通っていた大学へ行く、大宮のバス停の近く。そこから大学裏の、大きな工場との間にある通りへ。
狭い車内で押さえつけ、殴り、犯して首を絞めた。という一行だけは、読み上げない。わざわざ彼女に聞かす必要はなく、形無も声に出すのは気分が悪い。
けれども知っていたことだ。これまで散々に思い悩んだのが蘇るだけで、新たな感情は芽生えない。
昨夜、酒を飲みたくなったのは、その次の文章のせいだ。
「宝田環を狙った理由。何か探し物でもしている様子で、焦った雰囲気があったから」
心配ごとを抱えた人間は、他への警戒心が薄れると注釈もあった。
あの日、環が探していたものとは何だろう。考えるまでもない、彼女のスマホだ。
「石車なんだよ、お前のスマホを盗んだのは。それを探して、大学に忘れたとでも思ったのかな――」
スマホがないことに気づき、飲み屋街から大学へ戻ろうとする環。獲物を物色していた浅井浩二が声をかけ、車に引き摺り込む。
想像したくないのに、情景が浮かんでしまう。
「結局、あいつのせいだ。お前が死んじまったのは。俺がどれだけ話しても、返事をしてくれないのは」
思わず手紙を、くしゃくしゃにしてしまいそうになる。力が余ってどうしようもなく、腰の辺りを拳で打った。二度。三度。
「――でもな」
浅井浩二に対してとは違う。明確な、あるいはより混沌とした思いがあった。
「俺だけじゃ、この手紙を読むことは出来なかった。宝田さんが、ずっと鬼みたいに怒ってたから。船場って人が、お前のことを聞く場所を与えてくれたから」
犯人を見つけ、罪を償わせる。その道すじが付いたのは、いずれも誰かのおかげだ。
そうでなければ、今こうして手紙を読むことは出来ていない。だのに、石車のおかげとは言いたくない。
「石車はずっと。ずっと、ずっと、ずっと、俺には真似出来ない陰湿さで、待ち続けた。そうしてくれなかったら、俺はまだここに立ててないんだ」
自分の無力さに、悲しくなる。結局のところ、浅井浩二を見つけたのは船場。決定的にしたのは石車だ。
「俺は七年間。いったい何をやってたんだ!」
無能さ加減が、腹立たしい。他の誰より、己を消したいと思う。
「環、ごめんな……」
震えた膝が、勝手に折れる。支えていられず、石畳に跪いた。
「俺はお前の為に、何もしてやれなかった。犯人を見つけることも、犯人に白状させることも、犯人を殴りつけることも、何もしなかった。俺はいつも、あのときも、お前の役になんかこれっぽっちも立たない。自分が情けないよ……」
こみ上げる熱い吐息で、はっきりした声にはならなかった。伝わっているか、考える余裕もない。これは懺悔なのだから。
自分を辱め、許しを乞い、返事のないことに絶望する。
「犯人を見つけたらどうしようって、考えたんだ。でも思いつかない。環と同じって言うなら、首を絞めればいい。でも出来ない。そんなことしたら、そいつは死んじまうんだ」
とるべき行動の選択肢に、報復も含まれていた。けれどもそれは、苦悶の表情を見る行為だ。環はこんな顔をして死んだと、確認する行為だ。
そんなことを知って、誰かを死なせて、その後どうすればいいのか見当もつかない。
だから浅井浩二を目の前にしても、事実を知ろうとするに留まった。
「青二がさ、犯人の子どもなんだよ。いい奴なんだ。高校生だけど、あれこれ経験も少ないけど、いい奴だ。あいつの見てる前で、親を痛めつけることも出来なかった」
環の為に。胸にあったのは、それだけのはずだ。だが結局、あの少年が傷つくことをしたくないと考えた。
青二の親としてどうあるべきか、断罪するのも彼自身にしか許されないと。
「だから、許してくれ」
嗚咽に震える喉に、力をこめる。緩めた気持ちを引き締め、涙腺を閉じ、俯いていた視線を上げた。
「心配すんな。俺を好きとかいう変態は、お前以外に現れやしない。また出来る限り、会いに来るよ。その代わりこれからは、青二を手伝ってやろうと思う。いいよな?」
ゆっくりと立ち上がる。膝を払うと、一陣の風が舞った。耳にねじ込まれるような強い風を、形無は勝手に肯定と受け止める。
「そうか、助かる」
その後も三十分ほど居たろうか。ほとんどは、青二と出会ってからのことを話した。「次は連れてくる」と、ここまで徹底しては妬きもちをやかれるかもしれない。
「また自惚れって言われるな」
自嘲しつつ、山門をくぐる。するとその先に、黒いスーツの人物が立っていた。いつか見たような光景だが、宝田ではない。ならば法事でもあるのか、そう思ったのも違う。
そこに居たのは、船場の部下の一人だ。
「鬼ごっこに撒かれてしまい、叱られました」
「そいつは悪かった。子どものころ、得意だったんだ」
冗談とともに差し出されたのは、メモ用紙を折り畳んだだけの紙片。受け取ったが、開いて見る前に「こいつは?」と問う。
「石車さんの住所です。ぜひ遊びに来てほしいと、言伝があったそうで」
「船場さんに?」
船場の部下は肯定し、去った。
あのふざけた男は足の負傷が響いているらしく、まだ職務復帰を果たしていない。もったいないことに青二が心配していて、気になってはいた。
「仕方ない、文句を言いに行くか」
青二の返事次第だが、行くのならばこの後すぐに行こうと決めた。
◇ ◇ ◇
「船場さん。奴はどこへ消えたんです?」
石車の居場所が分かる。そう告げると、青二はすぐに出かける準備をした。
住所を頼りに行った先は、学生の使うようなワンルームマンションの一室。表札にもサインペンの汚い字で、石車とあった。
だが呼んでも反応がなく、扉に錠もかかっていない。開けてみると家具はおろか、靴下の一枚、魚肉ソーセージの一本さえも見当たらない。
ただし入ってすぐの床に、一枚の紙切れが落ちていた。石車の書いたらしい文章の上には、パソコンで使うUSBメモリも置かれている。
子どもっぽい石車のことだから、どこかに隠れているかも。疑って室内やマンションの周囲を探してみたが、やはり見つからない。
仕方なく、二人は自宅へと戻った。
『知らんよ。調べれば分かるかもしれないが、興味はない』
「そうですか。俺に直接じゃなく、そちらを通してだったんで、知ってるかと」
住所を知らせてくれた船場に尋ねても、行方は分からなかった。重ねて聞いたが、口止めされている風でもない。
『それはそうと、そろそろ落ち着いたか? また仕事を頼みたいんだが』
「え、情報屋ですか」
『何だ、仕事が要らないのか?』
仕事というか、収入は必要だ。古道具屋だけでやっていけるか、見通しは立っていない。
「そうじゃないですが、青二も居るし。法に触れるのは無しってお願いできるなら」
『ん? お前にそんなことをさせた覚えはないが』
「ええと、いや。パスポートの回収とか」
中身を見たと信用を失うなら、そのほうがいいと思った。一瞬の判断だったが、かなり思い切ったのだ。
けれども船場は、『ああ、それか』と軽く応じる。
「それか、って」
『まあ法に触れると言えばそうだがな』
「いやモロに触れるでしょう」
『何を言ってる? あれは他の悪徳業者に盗まれんよう、預かっただけだ』
「へっ?」
間抜けな声に船場は丁寧な回答をくれた。つまりあれは、個人的な人道支援なのだと。
国家ぐるみの制度もいいが、現地の貧しい者はその知らせさえ受け取れない。だから部下を回らせて、来日する道を作ったと船場は言う。
もちろん厳密に言えば、法の抜け穴ぎりぎりの部分もある。それでも当人が望み、彼女らの家族が幸福になれるなら何より。そういう思いによる活動らしい。
「そりゃあ、ご立派な話ですね」
『だろう? 女ばかりなのは、アイドルグループを作れないか模索しているからだ』
「いやそこは本気なんですか」
また連絡すると、電話を終えた。ルーエンとタオとも、折り合いを付けておくべきだろう。友野に甘えて、連絡はまだしていない。
「とりあえずこれ、聞いてみようよ」
「出来るか?」
「超簡単」
青二によると、USBメモリには動画データが入っている。パソコンで見られると言うので、操作を頼んだ。
「いくよ」
青二の人さし指が、動画を映すソフトを起動させた。しかしいつまで経っても、憎々しい石車の顔は出てこない。
「あれ。動画だけど、音しか入ってないみたいだね」
「ん、どういうことだ?」
「声だけなんだよ」
スピーカーから、録音したときのノイズが微かに聞こえる。ほぼ無音状態が三十秒ほどあって、ようやく石車の声が聞こえた。
「やあ、形無くん。君がこれを聞いているとき、僕はもうはかな市には居ないはずだよ。なんて、このセリフ言ってみたかったんだ」
やはりふざけている。聞くのでなかったと後悔はあるが、耳を離せない。
「どこへ行ったか。また七年後か七十年後か、そこまでかからないかもしれないけど、いつか分かるよ。まあ会いに行くつもりはないけど」
聞こえてくる声は、へらへらと笑いながらに聞こえる。偽りの狂気を取り去る前の、アワワ商店街での声に似ていた。
「浅井浩二と会わなかった理由。気になるだろう? これだけは、友達の誼で教えてあげようと思うんだ。でも大したことじゃない。それはね――」
そこで声が途絶えた。青二は何も操作していない。録音された音声が、終わったらしい。
「おい、こんなとこで終わりかよ」
「ううん、まだ続きがあるよ」
手を伸ばすと、青二が止める。どういうことか聞くと、総再生時間が一時間以上もあるらしい。
「適当にスキップしたら聞けるかな」
よく分からないので、任せた。おそらく早送りのようなものだろう。
やがてまた、不愉快な声が聞こえた。話している途中だったので、青二はその最初を探してくれる。
「おや、もしかしてこれも聞いてる? 形無くんは暇だねえ」
「うるせえ」
反応も見られない相手にこんな仕掛けをする人間に、暇人などと言われる筋合いはない。
「仕方がない、白状するよ。結局ね、環が選ぶのは君だからさ。僕はあの日、スマホを盗んだ。それなのに環は、君が迎えに来ると察していた。だから馬鹿馬鹿しくなったんだよ」
それだけ言って、また無音になる。青二がいくら探しても、他には録音されていなかった。
「あいつが今さら、そんなことで?」
理解不能だ。形無はともかく、環の気持ちが石車に向いていないのは明白だった。
それに気づかなかったか、無視していたか、だからこそのストーカーではなかったのか。
「よく分かんないけど。想像なんだけどさ」
「うん?」
「へ太郎は、環さんが亡くなって寂しかったんじゃないかな」
深く考える素振りをしつつ、青二は訥々と言う。宣言の通り、あくまで完全な憶測なのだろう。
「アワワ商店街で、飲んで帰る人たちに嫌がらせしてただろ。あれ、環さんの為じゃない?」
「環の為?」
言わんとするところが、すぐにはピンと来なかった。十分に咀嚼して、ようやく思い当たる。
環の死んだ後、石車は繁華街に出没して言った。「綺麗な女の子が一人で歩いてたら、殺されちゃうよ」と。
あれはそのまま、環の二の舞いになるな。そういう意味だったのではないか。
「あの野郎……」
「まあ、分かんないけどさ」
「ああ。俺にも分からないし、信じられん気持ちのほうが大きい」
全て石車の言う通りだったとして、やはり腹が立つ男に変わりがない。重大な部分をあちこち握り込んで、混乱させて、勝ち逃げのように居なくなる。
そんな振る舞いを笑って済ませるほど、人間が出来ていない。
「青二、俺は情報屋を続けるぞ。石車の野郎を見つけて、今度こそぶん殴ってやる」
「オレも手伝えって?」
「無理にとは言わん」
◇ ◇ ◇
はかな市の中央より、やや西側。境山丘陵の自然豊かな辺りに、一軒の古道具屋がある。
それほど愛想は良くないが丁寧な応対をする男と、まだ少年という風の男の子が営む店だ。
その名を巡り屋と言い、古道具を買った客に良いことが巡ってくるように。そういう想いをこめたのだと店主は言う。
「格好つけて言うと、
本当の由来は秘密なのを、少年は勝手に吹聴する。その度、店主の男は顔を真っ赤にするのだ。
噂ではこの街の主と呼ばれるような人物さえ、出入りするそうだ。だからはかな市へ赴いたなら、必ず立ち寄るべきだろう。
―はかな市の古道具屋 完結―
はかな市の古道具屋 須能 雪羽 @yuki_t
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