All Need Is Love
「世間ってのは狭いのね」昨日聞いた、鼻にかかった声が受話器の向こうから聞こえる。「まさか夫があなたに依頼するなんて」
「そうだな。世間は狭いよ、デッカ・パインさん。それともデビィと呼ぼうか?」
「愛称まで教わったの?」
「そうだ。あんたもこのメモに名前くらい書いておけばよかっただろうに」
俺は紙切れをいじくりながら言った。電話番号が書いてある。
昨日の晩、別れ際に彼女が「もし気が変わったら」と俺の茶色いロングコートの胸ポケットに挿入したモノだった。
犬のプッシーを送り届けた俺は、夜の街を歩いていた。飯か酒か、心が濡れるようなモノを欲していた。
そこに不意に現れたのが彼女だった。
街角から出てきて、出会い頭にこう誘ってきた。
「ねぇあなた、私と寝ない?」細い眉をつり上げた。「お金は私が払うから」
俺は少し考えてから答えた。
「あんたとは寝ない。いくら払われても寝ない」
彼女は打ちのめされたような顔をした。そこにこう続けた。
「ただ、ちょっとばかり付き合ってくれ。払いは俺とあんたの半々だ」
それから俺たちは軽食をとり、つまらない映画を1本観て、そのまま別れた。
キスもせず、手も握らず、互いの名前も知らないままだった。
要するに、チン氏が撮影した浮気相手ってのは、俺だったわけだ。
今まで探偵をやってきて一番簡単な調査だった。これが「浮気」と呼べるかはさておき。
「昨日は聞かなかったけど、あなた、どうして私と寝なかったの?」
「簡単に言うとな、俺はヤケになってる女とは寝ないことにしてるんだ」
「ふぅん、お偉いこと」
「あんたの方はどうなんだい。ああいうことは、俺がはじめてじゃないだろう」
「えぇ、あなたで3人目」
「本当は?」
「……6人目」
「どうしてあんなことを?」
電話のあちら側がしばらく沈黙した。
「……怖いから、かな」
「怖い? まさか彼が暴力でも」
「いいえ。彼はいい人。本当にいい人。私を心から愛してくれてるし、私も愛してる。でも、だからこそ怖い……」
「どうして」
「私がそれに見合う女じゃないから」
彼女はきっぱりと言った。
「あなた、見て聞いたでしょう。昨日の夜。私の顔や、体型や、声を……」
「見て、聞いた。それが?」
「私が誰かに愛されるような女に見えた? そうじゃないでしょ? だから愛されるのが怖い。けど、お金のやりとりがあれば安心できる。ビジネスだから」
「ビジネスと呼ぶにはウエットすぎるな」
「……それで? あなたにとって私は魅力的だった?」
「俺の意見を聞いてどうする」俺もきっぱりと言った。「赤の他人の意見より、あんたが旦那さんから愛されてるって事実にちゃんと向き合った方がいい」
また相手は黙った。その隙間を埋めるように俺は喋った。
「あんたの旦那は困惑していた。どうしてだろう、彼女にまずいことでもしただろうか、とな。
あんたの嘘や不貞に怒ってもいい場面だ。だがそうはしなかった。
そういう優しさと甘さを持った男にあんたは愛されてるってことだ。それだけで十分だと思わないか。
自分で自分を嫌うのは勝手だが、好いてくれている人を裏切るようなマネはよした方がいい。絶対に」
「……そう、そうかもね」デビィは声を詰まらせていた。
「私、これからどうしたらいい?」
「まず彼に謝るといい。そして自信を持つことだ。それから彼を愛することだ。彼があんたを愛してくれているように」
「できると思う?」
「できるさ。あんたはできる人だ。俺はあんたを見て、聞いたからな」
鼻をすする音がしばらく続いた。
「わかった、そうする」
「おっと、写真の男が俺だってことだけは内緒にしてくれよ。ギャラがもらえなくなる」
ふふ、とデビィは涙声で笑った。「案外現金なのね」
「ビジネスだからな」
「彼にはどう言う?」
「うまく言うさ。行きずりの男で、説教した、とか。行きずりの男で説教したのは本当だ」
「そう……。ありがとう。どう感謝したらいいか」
「感謝するなら旦那にしてくれ。俺は仕事をしただけで──そうだ、今後調べたいことがあったら俺に依頼してくれ。ペット探しから浮気調査まで……」
「キツいジョークね。でもやめとく。素人に写真を撮られる探偵なんて」
「手厳しいな。だがうまくやる探偵だってことはわかってくれるだろう?」
「ええ、それはもう」
彼女は電話を切る直前、俺に尋ねた。
「そういえば聞いてなかった。探偵さん、あなたなんて名前なの?」
「俺はボール、ボール・コーガン」俺は名乗った。「ポールじゃない。ボールだ」
「いい名前ね」彼女は言った。
「確かにあなた、たいしたタマだもの」
【完】
ニューヨークの探偵 ドント in カクヨム @dontbetrue-kkym
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