最終話 桜の朽木に虫の這うこと

 桜の森での出来事できごとから一夜いちやが明けた。


 ウツロはくだんの洋館アパートの自室で、身支度みじたくを整えていた。


 はじめにここでもらった服はボロボロになっていたから、新しいもの――やはりスポーツパーカーとジョガージャージだったが――それを身につけた。


 かくざとでは着物がほとんどだったから、こういう現代的な衣装いしょうはまだしっくりこない。


 しかし、真田龍子さなだ りょうこが用意してくれたものだから、身にまとうのは特別な気分だった。


「ウツロ」


「どうぞ」


 真田龍子が入室した。


 彼女も例により、桜色のブルゾンとロングスパッツのちだ。


「ここのリーダー、特生対とくせいたい第二課の朽木支部長くちきしぶちょう……龍崎湊りゅうざき みなとさんだっけ……もう到着したのかな?」


「ああ、もうちょっとかかりそうだね。わたしもそそっかしいけど、あの人はをかけてだから」


「もうひとり、ここの住人じゅうにんさんがいるんだよね? その人にもあいさつをしておかないと」


武田暗学たけだ あんがく先生のことだね。あのおじさんなら、この時間はまだ寝てると思うよ。黒龍館大学こくりゅうかんだいがくもと・哲学教授なんだけど、いまは引退して自称じしょう三文文士さんもんぶんしなんだって」


「哲学教授か、気になるね……ぜひ、学問のご教授を……」


「やめといたほうがいいよ? なんていうか、偏屈へんくつな人だし。まあ、悪い人じゃないけどさ」


「龍崎さんのほうは、どんな人なのかな?」


「このアパートに事務所をかまえてる弁護士の先生だね。もちろん、『表向おもてむき』の話だけど。自宅で仕事をするから、『タクベン』なんて呼ばれるんだ。お酒が大好きで、いっけん頼りないけど、人情にんじょうにはあつい人だから、きっと、ウツロの力になってくれるよ」


「そう、か……よかった。ありがとう、龍子……何から何まで、やってくれて……」


「なーにをいまさら。それに、ウツロはもう、あ……」


「……」


 真田龍子は調子に乗って、余計なことを言いかけた。


 彼女の顔が一瞬くもったので、ウツロはフォローしようとした。


「いや、いいんだよ、龍子。これから俺が体験することに……これから俺が、歩いていく道のりに比べれば……」


 ウツロが配慮をしてくれたことをうれしく思う反面、真田龍子は彼の今後こんごが心配だった。


 さしあたってウツロは、特定生活対策室の本部へ送られ、身体検査や聞き取り調査などを受けることになっている。


 そのあとは戸籍こせきを――当然、イレギュラーな形式でだが――それを与えられ、彼女らと同じ、朽木市内くちきしないの名門私立・黒帝高校こくていこうこうへ編入する流れだ。


 当たり前というか、管理・監督される形で。


 つらい目にもきっと、あうだろう。


 それに彼が、ウツロがえられるだろうか?


 そんなことを考えると、真田龍子は胸がめつけられた。


「龍子」


「え――?」


 ウツロが彼女を見つめている。

 笑顔だ。


大丈夫だいじょうぶ、父さんと兄さんがついてるから。それに……」


「……」


 彼は真田龍子をすくい取るように抱きしめた。


 このときウツロは初めて、真田龍子への気持ちの正体を理解したのだった。


 それは理屈ではなく、感情で。


「龍子」


「ウツロ」


 身を寄せあい、くちびるを重ねる。


 何度も何度も、舌をからませう。


「ん……」


「あ、ふ……」

 

 おりしも風に乗った桜の花びらが窓からはいんできてうずを作り、二人をやさしくつつんだ。


 これも魔王桜まおうざくらの意思なのか?


 それは誰にもわからない。


 ただ、その桜の渦は、ウツロと真田龍子の愛をしばし、世界から封印した――


「ウツロ、苦しい……」


「ご、ごめん。キスなんて、その、慣れてないから……」


「これから少しずつ、ね?」


「うん、龍子。で――」


「ん?」


「このあとはどうすればいいのか、不勉強で、その……」


 ウツロの顔面がんめん鉄拳てっけん炸裂さくれつした。


「なに? このケダモノ! 最低っ! 毒虫じゃなくて、ケダモノだよ!」


「うう、アクタあ……俺はやっぱり、毒虫なんだあ……」


「ぷっ……」


「あはっ、あはは」


 二人ははち切れんばかりに、笑いあった。


 ウツロが笑っている、こんなに素敵な笑顔で……


 真田龍子はそれがうれしくてうれしくて、しかたがなかった。


「ごほんっ……!」


 いつのにか部屋の入り口に、星川雅ほしかわ みやび苦々にがにがしい顔つきで立っていた。


「ノックくらいしたらどうかな?」


 ウツロは毅然きぜんと、彼女の放つオーラを押しのけた。


「したんだけど。いそがしすぎて気づかなかったみたいだね」


 星川雅はあからさまに「イライラしています」という態度を表明した。


「お楽しみのところ申し訳ないんだけれど、ウツロ。今後のことについてみんなで話し合うから、ちょっと顔、貸してくれない?」


「かしこまったよ、雅」


 ウツロはどこか余裕よゆうのある感じだ。


「急に人間っぽくなったじゃん。なんだか生意気」


「君には負けるよ」


 星川雅は「一本、取られました」というしぐさをした。


「これから俺は、概念の世界で生きていくことになるんだね」


「そういうことになりますわね」


 ウツロはりんとして、自分の決心けっしんを伝える。


「はめ込めばいい、かせでも、くさりでも。概念がいくら俺をしばりつけようとも、俺は必死であがいてみせる。そして俺は、『人間』になるんだ――!」


 ウツロの意志を星川雅は受け取った。


「見届けさせてもらうよ、毒虫のウツロ・・・・・・?」


 それだけ言って、彼女は退室した。


 ただ、その表情は満足感にあふれていた。


「君も」


「――?」


「見届けてくれ、龍子――!」


 真田龍子はほほに流した一筋ひとすじなみだをぬぐい、とびっきりの笑顔を見せた。


「うんっ!」


 彼は、ウツロは矮小わいしょうな毒虫にすぎないのかもしれない。


 だがその毒虫は、確かにいま、いはじめた――


(了)

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桜の朽木に虫の這うこと 朽木桜斎 @Ohsai_Kuchiki

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