第3話

 姉が死んでから二度目の夏が過ぎ、わたしは二十歳になった。

 叔父と付き合いが絶え、また姉の仏壇を参りに来る客も義兄のつっけんどんな態度に次第に足が遠のいて、わたしたちは世間と切り離されたように暮らしていた。

「多与子さん、いま帰った」

 玄関で声がして、わたしは洗い物の手を休めて出迎えた。その日義兄は、税金の手続きか何かで役所に行っていたのだ。

「おかえりなさいませ」

 ふだんめったに着ることのない背広を脱ぎにくそうにしていたから、わたしは義兄の後ろへまわった。

「上着をおかけしますね」

 そう言って背広を肩から抜いてやると、義兄はたいそう驚いた顔をしてわたしを見た。

「……どうかなさいまして?」

「あ、ああ……いや、なんでもないんだ」

 幾度か軽く頭を振り、義兄は部屋へと入っていった。


 その年の冬はとくに厳しかった。降った雪が解ける間もないほどで、家のどこにいても何の音もしない、静かすぎる日がずいぶんと続いていた。

 ある夜、居間で繕い物をしているところへ義兄が入ってきた。

「起きて大丈夫ですの?」

 時計を見ると、日付が変わろうとするところだった。

 このごろの義兄は、以前だって決して健啖けんたんというわけでなかったのにさらに食が細くなっていた。そのためか、前にも増して体調を崩すことが多くなり、冬が来てからは月の半分は寝付いているような有様だった。

「ああ……」

 上の空でうなずき、義兄はどこを見るともなく立っている。

「お茶でも入れましょうか」

「……多与子さん、寒くて寝つけないんだ」

 立ち上がって台所へ向かおうとしたところを、腕を掴まれ引き止められる。

「お床が冷えているのでしょう。あんかを入れなおしますね」

 ちがう、そうではないんだ、と小さな声でかれはつぶやく。

「とにかく、お布団へお戻りになった方がよろしいわ。すぐに……」

「多与子さん、僕と夫婦になってくれませんか」

 義兄はわたしの顔を見ず、うつむいて苦しげにそう言った。

 その言葉にはいと頷いたのか、ただ、こばまなかっただけなのか、今となっては思い出すことができない。

 とにかくわたしたちはその夜、義兄と義妹から、夫と妻になった。式を挙げるでも役場に届けるでもなく、変わったことといえば、わたしの四畳半に床を延べるのをやめたくらいであった。


 それからの日々は、幻を見ているかのようだった。

「まるで、蜃気楼の世界にでも来てしまったみたいだね」

 深夜、発した言葉が四方の壁に吸い込まれていくような静けさのなかで、義兄は笑う。

「この家の外には、きっと何もないのだ。触ろうと一歩出れば、ふうっと消え失せてしまう。ならば戻ろうと振り向いても、そのときにはもう家も、どこにも見当たらない」

「まあ、おそろしいことを考えていらっしゃるのね。そうなったら、わたしはどうなりますの」

「きみも、幻だ。ここから出れば、この手には何も残らない……」

 その言葉を最後に、義兄はすっと眠ってしまったようだった。耳をそばだてなければ聞こえないような、微かな息の音だけが、かれがただ眠っているだけなのだとおしえてくれる。けれど、肉の落ちた、影の多い白い顔に、ひどく胸騒ぎがする。

 なにかが―それを運命と呼ぶのはあまりに大仰だろうとは思うけれど―、かれを喰らい尽くそうとしているのかも知れないと、わたしは悟った。


 そうして二月ほどがすぎたある朝わたしが表を掃いていると、玄関の引き戸ががらがらと音をたてた。

 まだ肌寒いというのに薄着で下駄をつっかけた義兄が出てきたところであった。こうして外に出るのはいつ以来だろうと思う。

「義兄さん、どちらへおいでですか」

 かれは声をかけられてはじめてわたしに気付いたように、はっとした様子でこちらを振り向いた。明るい日のもとで見ると、ちかごろとみに痩せてするどくとがった肩の線が白いシャツ越しにもはっきりとわかって痛々しい。

「……桜が咲いていないか、見てこようと思う」

 まだ花には少し早かろうと言ってもよかったがそうはせず、お気をつけてと下駄をかたこと鳴らして歩く後姿を見送った。そしてそれきり、義兄は帰ってこなかった。

 夕方近くなって、義兄が踏み切りに飛び込んだとの知らせが来た。至急向かうようにと案内されたのは病院ではなく警察署であった。


 義兄を荼毘に付したその夜、書き物机に一通の手紙を見つけた。封筒には、見慣れた義兄の細い筆跡で、『多与子さんへ』とだけ書かれていた。



『多与子さんへ――


 あなたがこれを読むころ、僕はこの世にはもう居ないだろうと思います。そうであることを、臆病な僕が事をし損じていないことを、これを書いている今の僕は祈るほかありません。

 なぜ、こういうことになったのか、聡いあなたはきっと、だいたいわかってはいるでしょう。僕がこれを書こうが書くまいが、きっとあなたは変わらないのだと思いますが、僕は僕のために、書き残すつもりです。

 はじめてこの家にあなたが来たのは、たしか七つのときでしたね。お下げ髪の、おとなしい、賢い目をした女の子を、子供のない僕はいっぺんで好きになりました。あなたは知らなかっただろうけれど、あのころ、子供ができないこともあって、僕と香世子の間は冷えはじめていました。お互い身勝手に、相手が悪いと決めつけていたのです。また香世子の浪費癖も僕には面白くなく、あなたの控え目なところが、ますます快く思われました。

 それでも小さな義妹を部屋に上げるのは純粋に、誓って、ただの義兄としての好意でした。けれども、香世子がそれをどう感じているのか知りながら、ますますあなたに良くしたのは、はっきりと当てつけだったのだと、僕は今なら認めることができます。

 あなたが成長するにつれ、香世子は自分の立場を脅かすものとして、あなたを見るようになっていきました。香世子が出て行ったあの日、僕はもう何もかも、どうでも良くなってしまったのです。気位ばかり高く、妹に嫉妬するそのくせ、僕の方へは寄ってこない、これが妻というものならば、なんと面倒なのだろう、と。

 ああやって、きつい言葉を浴びせれば、そんなことがあの香世子に耐えられるはずがないと、僕はわかっていました。わかっていて、半分は本当に出奔することを期待し、残りの半分は、どうせ出て行くほどの思い切りはあるまいと、高をくくっていました。そして、どこを探しても見つからないことに、安堵しながら、恐ろしいことを期待していたのです。

 だから香世子が帰ってきて、そのまま死んでしまったあの時、僕は己の密かな期待通りになったことが、怖くすらありました。香世子をそこまで憎んでいたかと言えば、違うと答えるでしょう。ですが、あれに関する全てのことが、疎ましくて仕方なかったのです。

 戻ってきた香世子が身ごもっていたことが、さらに僕の罪悪感を軽くしました。また、角田のもとで、存外うまくやっていたときいたことも。香世子を娶ったことそのものが、そもそも間違いであったと、僕は自分に言い聞かせさえしました。

 しかし、そんな無情な喜びに浸っていられたのもそう長いことではありませんでした。あのあと、あなたが居ない時にもう一度、角田が訪ねてきました。そして、僕と多与子さんを見て、なぜ香世子が家を出たのかわかったと言ったのです。

 一度か二度しか会わない人間にすら、僕の罪は明らかだというのでしょうか。多与子さんを手元に置いておくことを、あなたの叔父上も危惧していたようです。幾度か遠回しに話があって、僕はついに一度、あなたの嫁ぎ先を探すのを叔父上に頼むことすらしました。結果は多与子さんも知ってのとおりです。僕は、いざあなたを手放すと思ったら、それがどうしても許し難いことだと気付いたのです。

 気付いてしまえば、僕はもうあなたを亡き妻の妹だと、義妹だと思うことはできませんでした。けれども、あなたを正式に妻にすることもまた、僕にはためらわれました。だんだん、あなたは香世子に似てくる。あなたと香世子はべつの人間だとわかっていても、あなたの顔をした香世子が、夜ごと僕に言うのです。

「あたくしがどうして死んだのか、誰に追い詰められたのか、あなたはお忘れになったの」と。

 多与子さん、僕はあなたのせいで死ぬのではありません。あなたが妻になってもならなくても、早晩同じ道を選んだでしょう。僕にとってこの家は蜘蛛の巣だったのです。離れるべきなのに、抜け出すことはかなわなかった。

 蝶が喰われてしまった蜘蛛の巣で、蜘蛛の子がうまれるのを見るのは、たえられない。僕はもうゆきます。次に誰がその巣にかかるのか、見ないですむことだけが、僕にとっての救いです。


あなたの義兄、あなたの夫より』




 義兄の死から十日ほど経った、あるあたたかい日、角田が訪ねてきた。

「人づてに、このたびのことを聞いたもんですから……」

 仲良く並んだ姉の仏壇と義兄の骨箱に手を合わせ、かれは言った。

「それは、遠いところありがとうございます」

 ふかぶかと頭を下げ、わたしは微笑む。角田はどうしてか苦々しい顔をして、すっかり家財道具の片付けられた座敷を見回した。

「……引っ越しですか」

「そう……なりますかしら。この家は、義兄が亡くなりましたから、義兄のご実家のどなたかに相続されるのですわ」

「あなたには、何も残してくれなかったんですか」

「ええ、そういったことはありませんでした。わたしの持って行くものといったら姉の位牌くらいでしょうか、あちらのおうちの方も、さすがにそれはいらぬとおっしゃることでしょう」

 義兄の妹夫婦という人が訪ねてみえて、わたしに家を片付け荷物をまとめるよう言ったのは、つい二日ほど前のことであった。

「それじゃあ、あなたはこれから、どうなさるんです」

「さあ、わたしあまりものを考えないのです。今もそう……なるようにまかせるしかないと思っておりますのよ」

 わたしは、つるり、とすっかり癖になったしぐさで腹をなでる。

 そのとき角田の目に宿ったのは、ある種の憧憬にちかい感情だった。しかしかれ自身がそれに気付くと、まなざしに含まれたものは、すぐさま嫌悪にとってかわった。

「……長居をしました。失礼します」

「またどこかでお会いできればよろしいですね。姉もきっと喜びますわ」

 角田は、わたしの言葉には応えず立ち上がった。


 蜘蛛は巣を張るのみ、あとはえものがかかるのをただただ待ち続ける。そうして待って待ってようやく捕らえたところで、えものを生かしておくことなどできないのだ。腹を満たし、糧として、次のえものを待ち続ける。

 あのひとは、いつわたしのほうへ堕ちてきてくれるかしら。

 いつ、わたしと、わたしの子を満たしてくれるかしら。

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蜘蛛の子 居孫 鳥 @tori_1812

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