第2話
秋の長雨のころ、門のところで人がうずくまっているのを見つけたのはお浜だった。
「おお、いやだ、物乞いだろうか。あんなところに居られちゃ、ご近所になんと見られるか」
最近腰の曲がりが目立つようになってきたお浜は、下男でもいればこういう時に役に立つのに、とぶつくさ言いながら玄関へ向かった。
お浜だけでは危ないのではないかしら、と思って義兄の部屋へ向かいかけたところ、頓狂な悲鳴が聞こえてきた。
「一体どうした、お浜」
二人で向かってみると、引き戸は開きっぱなしで、その外を指さしたお浜が腰を抜かして座り込んでいる。
「旦那さん、旦那さん……あれ、そこに、香世子さまが……!」
ずぶ濡れで、質素な着物を着て、門柱にもたれかかって座り込んでいるのは、確かに姉であった。
慌てて座敷に運び込んでみると、その痩せて面変わりしたことに否応なく気付かされた。だが、そんなことよりもわたしたちを驚かせたのは、姉が明らかに身ごもっていて、しかも産み月も間近であろうことだった。
顔面蒼白となった義兄はそれでも、お浜に医者を呼びにやらせた。
診察をした医師は、おそらく肺病の末期であると告げた。そしてその夜が明けないうちに、姉はついに一度も意識を取り戻さぬまま、腹の子ともども息を引き取った。
姉の葬儀は、ひっそりと行われた。
なにしろ失踪から三年が過ぎ、戻ってきて早々の急死、しかも身ごもっていたとあっては、外聞は悪いなどというものではない。だがそれでも、以前親しかった友人のごく一部、習い事の師匠、わずかな親戚などがあつまった。手伝いに来てくれた近所の人々は、むしろわたしには同情的ですらあった。
また、かつての女主人の死に非常な衝撃をうけたお浜は、葬儀のあと寝付き、半年後にあっさりと死んでしまった。身内のものが遺骨を受け取りに来たのは四十九日も過ぎたころだった。
諸々の雑事が落ち着いたころには季節は夏になっていた。道の先がゆらめいて見えるほど暑い日のこと、男がひとり訪ねてきた。
その男は、C県で金物屋を営む、角田と名乗った。姉は、行方のしれなかった三年間、この男と暮らしていたのだ。日に焼けた浅黒い肌と節くれ立った厚い手をした、義兄と少しも似たところのない坊主頭の男は、姉の仏壇に手を合わせた後、詳しい事情を語ったのだった。
カヨは、と角田は姉を呼んだ。
金物屋の店先で、いいところの奥様風の格好をした姉は、途方に暮れたように突っ立っていたという。はじめは、誰か人でも待っているのだろうと思ったらしい。だがそれが日暮れまで動く様子がなかったものだから、ついに声をかけた。
あんた、なんだって一日そんなところで立っているんだ、商売の邪魔で仕方ねえ、と。
姉はきっとなって言い返そうとしたが、言葉にならぬままへなへなと座り込んだそうだ。奥から出てきた角田の母親がそれを見て家に上げた。空腹で疲れ切っていて文無しなのだという女を放り出すこともできず、一晩、二晩と置いた。
それが長くなるうちに姉の態度も柔らかくなり、角田自身前年に子供を産まぬまま妻が病死していたこともあって、二人が内縁関係になるまで、そう長い時間はかからなかったという。
角田の話は何もかも、あの気位の高い姉が、と私も義兄も驚くようなことばかりだった。
姉は、姑に厳しく仕込まれながら、金物屋の妻としての役目をなんとかこなした。土地にも馴染み、赤ん坊ができたのと同じ頃、肺を病んでることがわかったのだそうだ。
「あんな体で、どこへ行ったのか……もちろんあちこち探し回りました。結果はこちらさんのご存じの通りでしたが」
そう言い、肩を落とす。
姉の行方を角田が知ったのは、全くの偶然からだった。先週商用があってこの街を訪れた折、姉が居なくなってからはいつもそうしていたように、これこれこういう特徴の女を知らないか、と尋ね回ったそうだ。そうして、取引のあった先で、失踪から戻ってすぐ死んでしまった奥方の話を耳にした。間違いない、と確信し、今日再びやって来たのだという。
「正直なところ、こんな話をお聞かせして良いものやら、俺もそうとう迷いました。だが、あいつが居なくなったときのことを思やあ、こちらさんはそれ以上の気持ちでいたんだろうと、思ったんで」
「もう、あれのことは諦めていました」
事情を何も知らぬままでいるよりは、ずっとよかったです、と義兄は静かに言った。
「カヨは、くるしみましたか」
「いいえ、ここへ戻ってからは目をあけることもなく、眠るようでした」
そうですか、そうですか、とつぶやきながら、角田はうつむいて目頭をおさえた。
じっとりとした、黙っていても背を汗が伝うような暑さのなか、妻に逃げられ死なれた夫と、妻の妹と、妻の情夫が、ちゃぶ台を囲み座っている。聞き慣れて、既に意識にものぼらぬようになっていた蝉の声が、やけに耳についた。
「そちらさまは、後妻さんですか」
ふと顔を上げた角田が尋ねた。
「いや……これは、香世子の妹ですよ。二親が亡くなりましてから、ここで引き取ったのです」
「あっ、こりゃ、とんだ失礼を」
きまりわるそうに詫びた角田は、しばらくまじまじとわたしをみて、頭を下げた。
「ほんとうに、申し訳ない。言われてみれば、カヨと面立ちは似ていなさる」
「いいんです、姉は、わたしとは違って華やかなひとでしたもの」
わたしがそう言ったときの角田の目は、つかのま、目の前のわたしではなくなにか別のものを見ているように思われた。
「あいつは……カヨは、どんなに質素ななりでも、いつでも人目をひきました。気性のつよい、はでな女と、まわりからも見られていました。けれど、ほんとうはそんなものではなかった気がします。強がってばかりの、哀れな女だったんじゃあないかと」
今なら思えます、としめった声でつぶやいて、男はふたたび顔を覆った。
角田の訪問以来、義兄はひとり考え込むことが多くなった。わたしも義兄も、もともと口数の多い方ではない。しかも、ほとんど口をきかずとも日々の暮らしはなりたってしまうので、家の中はますます静かになった。
変化といったら、わたしをこの家へと連れてきた叔父が、姉の葬式以来たまに顔を出すようになったことだった。となり町で商売を営む叔父は顔の広い人で、こんどはかれが義兄に仕事を見つけてきた。
この仕事というのが、わたしにはよく内容はわからなかったのだけれど、とにかく毎日どこかの倉庫へ出かけていって、物品の出入りを記録するというようなものだったらしい。これは人と接するでもなく、かといって体を使いもしない仕事だったから、給金は安くとも義兄には合っていたようでしばらく続いた。
だいたいは午後の数時間、義兄の居ないその時間でわたしは家事をし、時折姉の仏壇を参りに来るお客をもてなした。とりわけよく訪れたのは、姉の茶の師匠だったという四十がらみの男で、家も近いため近所からも先生と呼ばれていた。
その日も先生は、何かの会合の帰りだといって、茶菓子を土産に現れた。義兄はまだ仕事から戻っていなかった。
いつもどおり仏壇を拝んでからしばらく雑談などしたあと、そろそろおいとまを、と腰を上げた先生を門まで送っていった。
「多与子ちゃん、ずっとここで暮らすわけではないのでしょう。お義兄さんはちゃんと考えてくれているの」
襟巻きを羽織の内側へたくし込みながら、先生が訊いた。その息はわずかに白い。
「どういうことでしょうか」
「おやまあ、鈍い子だね。あんたの嫁ぎ先のことですよ」
おもしろそうな顔でわたしをのぞき込む先生に、何も言葉を返せなかった。
姉が死に、お浜が死に、わたしはもう、この家で義兄と暮らす縁は無くなったようにも思えた。だが、義兄はそれについてはこれまで何も言い出さず、わたしもあたりまえのように家事と義兄の世話を続けていた。
「もしも、あんたさえ良ければだけど……」
長い影が、ふと足下へ差した。
「よい夕方ですなあ、先生」
ひくい声が聞こえて目を上げると、義兄が立っていた。
「おや、これはお帰りなさい。また寄らせてもらいましたよ」
先生は愛想良く振り返った。背中から夕日が差していて、義兄の顔は良く見えない。
「……もうこないでくれないか」
「え?」
「義兄さん?」
こぶしを幾度か握ったり開いたりし、義兄は言葉を探しているようだった。
「とにかく、もうここへはこないでくれ。多与子さん、入るぞ」
それだけ言って、家に入っていってしまった。わたしは先生に頭を下げながら、義兄の後を追うしかなかった。
義兄は翌日仕事を辞めた。
叔父はその後も、幾度か義兄に仕事を紹介していたようだが、どれも長続きはしなかった。だからといって生活が厳しくなったかと言えば、そうではなかった。確かに頼るものが親の財産だけという心許なさはあったけれど、お浜の食い扶持が減ったのだから、もともとはでな暮らしをしているわけではない義兄とわたしだけならば、前よりも余裕があるくらいだった。
むしろ、わたしの気がかりは家計のことではなかった。義兄の様子は先生を追い返して以来ますますおかしくなったのだ。
もう冬だというのに夜になってから出かけ、下戸で酒は飲まないはずだったのに酔って帰宅したと思ったら、そのまま風邪をひきこんで一月も寝付いたこともあった。
またあるとき、わたしが買い物から帰ると、叔父が玄関を出てきた。
「多与子、やっと帰ったか」
「叔父さま、もうお帰りですの?」
ちょっとした頼まれ事をね、と言って叔父は笑ったが、なんだか嫌な笑い方のような気がした。
「しかしお前の義兄さんも、いったいお前のことをどうするつもりなのかと思っておったが。案外ちゃんと考えているみたいで、安心したよ」
あれ以来本当に姿を見せなくなった、先生の言っていたことが思い出された。
「なあに、叔父さんが万事うまくはこんでやるから、お前は何にも考えなくてよろしい。じゃあな」
そんなことを言って帰って行った数週間後、叔父は見知らぬ老婆を連れてやって来た。梅雨の終わりのころである。
部屋へ戻っていなさい、と義兄に言われ、お茶を出したあとは自室にいた。すると、しばらくして、座敷から何やら言い争う声が聞こえてきた。
様子が気にならないではないけれど、わたしが居てはつごうの悪い話をしているだろうことはわかっているから、見に行くこともできぬ。落ち着きなく立っているとそのうち、大きく荒い足音に続いて玄関の引き戸が開け放たれる音がした。
「自分から言い出しておいて、一体どういう了見だ!あんた、ほんとうにこのままでいいのかね、多与子が世間になんて言われるか、不憫には思わんのかね!」
叔父の怒鳴り声に答える義兄の言葉は、小さくて聞き取れなかった。
そのあと座敷に行ってみると、義兄は縁側を向いて座り、雨の降りはじめた庭を見ていた。
「義兄さん、どうかなすったの」
声をかけたが、義兄はなかなか振り向かない。
「なんでもない。なんでもないよ、多与子さん」
嘘でしょう、とは思っても言うことができない。
子供のころとは違い、もう長い間、義兄が何を考えているのかわたしにはわからなかった。今回叔父との間に何があったのか、薄々察してはいても問い詰めることをしなかったのは、訊けば何かが決定的に変わってしまうような怖さがあったからだ。
とはいっても、わたしは変わることが怖いのではなかった。……変化をなかば望んでいることこそが、怖かったのだ。
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