蜘蛛の子

居孫 鳥

第1話

「ご覧なさい多与子たよこさん、蜘蛛があんなに大きな巣を張っている」

 朝餉あさげのあとに縁側へ出た義兄が、庭のくぬぎを指してそうおっしゃった。見上げてみれば、灰色をした大きな蜘蛛が巣のまんなかで、じっとまるくなっている。

「まあいやだ、夕べのうちにできたのかしら。後で取ってしまいましょうか」

「どうして?えものがかかるところを見てみたい」

 ふだん温厚とみえた義兄の思ってもみぬ言葉に、わたしは驚きながらもただそうですかとだけ答えた。そしてそれきりそのことはすっかり忘れてしまったのだった。


◇◇◇


 父母をあいついで失ったわたしが年の離れた姉のとつぎ先に身を寄せたのは、七つのときである。

 薄暗い冬の午後に叔父に手を引かれて訪れた姉夫婦の家は、古いながらも庭付きのりっぱな建物で、それまで古びた、狭い長屋に住んでいたわたしには、まるで御殿に見えたものだ。それからわたしは、子のなかった姉夫婦の元で娘も同然に育てられた。

「まるで多与子さんは、旦那さんがたの実のお子のようですなあ」

 じっさいわたしの小さいころ、住み込み女中のお浜はことあるごとにそんなことを言っていた。

「どうして?確かに姉さんたちは親代わりだけれど、親子というには年が近すぎるわ」

「ほうら、そうしてすぐに理屈を言うところなど、旦那さんによく似ていなさる」

 生来内気なたちで同年の友達がいないわたしは、他の子供と外で遊びまわることもなかった。だから自然、はでな人付き合いを好み唄の会だの稽古事だので度々外出していた姉の香世子かよこよりも、病がちで家にいることの多かった義兄に懐いたのだ。義兄もまた、それを快く思っているようすだった。

 義兄の実家はもともと資産家で、自宅を含め、働かないでも食うには困らぬだけのものを残してくれたらしい。義兄自身は名の知れた大学に入ったこともあったのだが、それは体を壊して中途でやめてしまったのだと、子供のわたしはぼんやりと知っているくらいだった。

 姉は一家の主婦というよりは奥様として、女中を使うことで家を取り仕切っていた。その一方でわたしには一通りの家事をさせ、覚えさせた。

「多与子さん、お浜の手伝いが終わったら、僕のところへいらっしゃい」

 仕事のあとには決まって義兄が部屋にあげてくださり、物語を読んでもらったり、甘いものを頂いたり、時には机に向かって何か書き物をしている義兄の隣で絵を描いたりしていた。

「このあいだの本は、もう読んでしまったの」

 手ぶらで部屋に入っていくと、義兄がそう尋ねた。

「はい」

「そうか、ではまた何か用意しておいてあげよう」

 うなずいたわたしに微笑んだ次の一瞬、ふと唇を引き結んだ。

「義兄さん?」

「本が好きかね、多与子さん」

 とっても、と答えると、義兄は再び笑った。

「そういうところは、香世子には似なかったのだねえ。ほんとうの親子でもないのに、僕に似てしまったのかもしれないな」

「お浜も、同じことを言っていました。わたしも義兄さんも、すぐに理屈を言う、と」

「ほう、お浜が?……さあて、そうか……」

「どうなすったの?」

 首を捻り始めた義兄に焦れて、わたしは尋ねる。

「それは香世子も聞いていたのかね」

「いいえ、お浜とわたしの二人のときです」

「……だったら、多与子さん、姉さんには内緒にしておこう。お浜にも、僕の方から少し言っておくからね」

 素直に従ったものの、義兄の言葉の意味は、そのときにはよくわかっていなかった。後年思い返してみれば、既にこの時分、姉と義兄のあいだはうまくゆかなくなっていたのだろう。

 姉は実家の商売が傾く前に嫁いでいたから、裕福な商家の娘として、家の中にあっても働くということとはおよそ縁遠いまま生きてきたひとだ。それはお浜に対する態度や生活ぶりを見てもわかることだった。また社交的で明朗であるかわりに、悪く言えば気性に激しいところがあり、そこがまた静穏を好む義兄には少し疎ましく感じられたのだろうと思う。


 引き取られて数年もたつころには、姉夫婦の不和はいよいよはっきりとわかるようになっていた。姉は相変わらずの社交三昧、逆に出かけぬときは自室にこもり昼まででも寝ていることがあったし、義兄は義兄で、そんな妻の行いに何も言わない代わりに、顔を合わせても無関心を貫いた。

 そんな様子になってからしばらくしたある冬の寒い朝、わたしは体に変調を感じてご不浄に行った。そこで下履きにはっきりとしたしるしを見て、何も知らぬ年頃のこと、これは自分は死んでしまうのかも知れぬ、とお浜の部屋に駆け込んだ。

「あらまあ、そう泣きなさるな。これはあたりまえのこと、多与子さんが大人になっただけのこと」

 お浜に慰められ、すべての説明を聞いて、わたしはようやく落ち着きを取り戻した。

「奥様がなさらぬなら、これはお浜の役目でしたな。うっかりしておった、お浜が悪い」

 昼過ぎ、わたしはお浜に連れられて姉の部屋を訪れた。話を聞いた姉は、気のない様子で、そう、とだけ言った。

 今日は赤飯を炊かなけりゃ、とお浜が腕まくりのまねごとをすると、

「あら、でも、多与子さんはお嫌ではないかしら?」

 襦袢姿でくつろいだ様子の姉は、細い眉をひそめた。

「どうして姉さん?わたし大人になったのでしょう。お祝いしてくださるなら嬉しいわ」

 すっかり前向きになっていたわたしは問い返す。

「そうなの……では明日にしましょう。今からでは夕餉ゆうげに間に合わないもの」

 姉はそう言ったが、結局赤飯が炊かれることはなかった。


 家の中がつめたい緊張を保ったまま年月が過ぎ、わたしは十五になった。

 その日、姉はいつもの茶の稽古、お浜は確か身内のものが亡くなったとかで里へ帰っていた。義兄は、わたしが庭を掃いているのを開け放った縁側から見ていた。子供の頃とは違い、さすがに義兄の部屋へ出入りするのは良くないことと分別もついていたので、わたしたちはよくそうしながら色々な話をした。

 門の方から郵便ですと聞こえ、わたしは箒を置いて声の方へ走った。

「あっ」

 何につまづいたものか、つんのめるようにして、地面に手と膝をつく。

「多与子!」

 慌てた声が聞こえ、すぐに腕をとって助け起こされる。見れば、義兄は裸足のまま庭へ降りてきたようだった。

「義兄さん、足が汚れてしまいます」

「何を言っているんだ。怪我は」

「なんとも、なんともありません。それより郵便が」

 わたしがすそを直しながら立ち上がると、義兄はいまいましそうに門へ駆けていった。その間に手足をあらためてみたけれど、手当の必要なほどの怪我はない。

「どこか痛いのか」

 郵便を受け取り、とって返してきた義兄が訊く。

「いいえ。あら、でも……鼻緒が切れてしまいました」

 色の褪せた鼻緒が、根本でぷっつりと千切れている。何年も普段履きにした古びた下駄で、そのためによりいっそう、哀れに見える。

「どれ、かしてみなさい」

 しゃがみ込んだ義兄が、ひやりとした大きな手でわたしの足を取り上げて、己の腿に乗せた。

「まあ、義兄さん、そんなこと」

「いいんだ、黙っていなさい」

 懐から出した手拭いを裂いて手早く鼻緒を繋ぐのを見て、笑みが浮かぶ。育ちの良い義兄にしてはずいぶんと手際が良く、意外にも思えた。

「何を笑っているの?」

 やさしく問われ、つい白状する。

「なんだか、小説か芝居の筋書きのようなんですもの」

 義兄がそれに応えて何か言おうとしたとき、その背後に人影が見えた。

「姉さん?」

 流行のかたちに髪を結い、大島を粋にまとった姉は、手提げの紐をきつく握りしめて私たちを見ていた。

「なにをしていらっしゃるの」

 姉のきつい口調に、義兄が顔半分だけ振り返る。

「なにを?見てわからないか」

「あたくしのいないあいだ、いつもそんな風にお過ごしですの」

「姉さん、ごめんなさい、わたしが悪いのです」

 義兄の膝の上から足を退けようとしたとき、足首をきゅっと掴まれた。だがそれはすぐにゆるみ、鼻緒を付けなおした下駄の上にゆっくりと足をおろされる。

「多与子さんは悪くない、少し静かにしておいで」

 立ち上がり、完全に姉の方へ向き直った義兄が静かな口調で言う。

「鼻緒が切れたから、つないでいただけだ。そんなふうに責められるいわれはない」

「……あなたは、はじめッから多与子がお気に入りでしたわ。あたくしには無関心なくせに、多与子ばかり目をかけて」

「無関心はどちらだ。出歩くばかりで、ろくに家に寄りつかぬのはお前の方だろう」

 はじめて聞くような、義兄の冷たい声にわたしは震え上がる。それは姉も同じようだった。

「まあ……まあっ……あたくしがここへ、好きで嫁いできたとでもお思いですの!閉じこもりきりで陰気な男などに、このあたくしが!」

 大股に一歩、義兄が前に出たと思った時には、庭に鋭い音が響いた。わなわなと震える手で姉が頬をおさえ、そこでわたしはようやく、義兄が妻の頬を打ったのだとわかった。

「そういうお前は誰の金で遊び回っている。お前の虚飾と見栄っ張りにはうんざりだッ!多与子の方が、よほど妻としての役割を果たしている!」

 噛みつくような義兄の叫びが終わるか終わらぬかのうちに、姉は身をひるがえしぱっと駆けだした。

「姉さん!」

「好きにさせておけ!」

 塀の外の道を草履の音が遠ざかっていく。

「義兄さん、そんな……」

「放っておいても、いずれ戻ってくる。金がなければ、ほかに行く場所などないのだから」

 しかし姉は、幾日たっても戻ることはなかった。

 お浜はかどわかされたのだといって聞かなかったけれど、義兄はただの家出だと一笑に付した。それから心当たりの場所を方々訪ね歩いたようだったが、何の手がかりもないまま半年が過ぎた頃には、それもぷっつりとやめてしまった。


 姉が家を出てからの日々は、皮肉にも、ごく穏やかなものだった。

 それどころか義兄は以前よりも出歩くようになり、時折知人に紹介してもらって仕事に行きさえした。ただしこれは、いつも体調を崩すかなにかして、どれも長くは続かなかったけれども。

 その間に、わたしは姉が仕切っていた家計を引き継ぎ、またお浜の指導のもと家事一切を身につけた。金の計算などは義兄に教わり、姉がどのくらい浪費していたのかも知ることとなった。

 しかし、わたしたち皆が居ないことに慣れたころ、それまで何の便りも寄越さなかった姉が戻ってきた。あの言い合いの日から、三年のちのことである。

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