屋根裏の窓から眺める巴里の屋根

 男の人が書く文章が好きだ。
 女の人が書く文章も好きだが、男の人の書くものには、一抹の滑稽と、もの哀しいまでの落ち着きがある。
 ばかばかしいわねぇと笑う時も、何だか凄いものを書いているわと感嘆する時も。
 古い書斎のような、硝子窓の外で葉を揺らす樹を見るような、性別という区切りの向こうの、男性という佇まい。

「柊圭介さん? 知っていますよ、わたしサイレント読者です。柊圭介さんのような男の人が女性読者から好かれるのは分かる気がします」

 かっ飛ばして笑っていたが、赤面の至りだ。
 フランツ・リストのごとく常に大勢の女性に取り囲まれている印象だったが、柊圭介さんの読者には、女性も多いが、男性も同じくらい多いのだ。
 今からでもあの発言を取り消せないかな~と俯いている次第だ。

 ケロスケ氏は「おフランス」に暮らされている。あえておフランスと書いたが、そこはほら、この地上の宝石と塵を詰め込んだような国だから。
 絵本「マドレーヌ」を贈られた幼き日から、革命に散った白薔薇の人オスカル・フランソワに胸を轟かせ、単館上映のフランス映画に夢中になっていた日々を経て、フランスといえばアメリカともイギリスともやはり違う、汚れの中から人造宝石のシェリー色を放ち、心の中でつんと澄ましている国なのだ。

 フランス文学といえば凱旋門の如き存在で、誰もが心酔したことだろう。
 一人称も三人称も時系列もばらばらに、意識のままに書く手法は、まさにフランス人の或る女作家から影響を受けており、わたしにとってフランス文学とはお姉さんのような存在ということになる。
 柊圭介さんの文学的揺りかごは、モーパッサンとのことなので、そのエッセイ『モーパッサンはお好き』に興味を惹かれて、あらためてモーパッサンを貪り読んでみると、当時は意味も分からず流し読んでいた細部の箇所に愕かされることが多く、楽しい読書の時間となっている。

 台所で何かやっていると想えば出来上がってくるパンケーキのような心地のよい文章。
 いつでも好きな頁を開いて、身構えることなく気楽にさっと頂ける点描。
 柊圭介さんの熱心なファンならば、こちらのエッセイに書き留められたものが、後々、彼の作品の中に開花しているのに気づくはずだ。
 本エッセイ、犬とオオカミの間という題名が素晴らしくて、一気に愛読者になってしまった。

 文章の旅は、書き手が巧みであればあるほど、現(うつつ)からは遠い旅になる。
 そしてどこか、小麦粉と卵の中にあっさりと崩れゆく砂糖を見るような寂しさがつきまとう。
 人は文章によって遠い時代の書き手とも繋がることが可能だが、それは読んでいる間だけなのだ。

 もう少しこの世界にいたいな……。

 子どもの頃の読書のように読み終えて、ふと眼を上げると、窓の外では樹が暮れてゆく巴里の空に枝を伸ばして、こちらに背を向けている。
 親しみやすいのに決して狎れ合わないその遠々しさこそ、男性の書くものという感じがする。

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