犬とオオカミの間
柊圭介
たゆたえども、沈まず
「たゆたえども沈まず」
これは僕が住んでいるパリ市の標語だ。
いつだったか、市から送られてきた書類の封筒を見て、「あ、デザインが変わった」と思った。封筒の端に印字されている「パリ市」の文字のフォントが変わっていて、というかデザインが一新されていて、前はなかったはずの小さなロゴマークがついている。それは一筆書きのイラストで、船が簡略化されたものだった。
なるほどなと思った。
船が象徴しているのはパリだ。
ヨーロッパには昔から王侯貴族とかの紋章があるけど、今は地方自治体の紋章に変わっている。もちろんパリ市にも紋章がある。
そこに描かれているのは波の上をゆく帆掛け船だ。そして、その船の下にはラテン語で
Fluctuat nec mergitur(たゆたえども沈まず)
と書いてある。ラテン語読めないけど。
リュテスって名前だった紀元前からこの街はずうっとあって、その間に戦争がいっぱいあったり、病気が流行ったり、王様の首をはねたり、色んなことを経験してきた。戦争のたびに何度も侵攻された。だけどどんな激動の波が襲って来ても、この街は沈まずに生き永らえた。呑み込まれそうな波に揺られながら必死で浮かび続けてきた。
だから「たゆたえども沈まず」。
この街にとても似合っていると思う。
脆そうで強い。ボロボロになっても、ちゃんと生き返る。
僕はこの標語に憧れる。自分もそのようでありたいと思う。だから、この船の中に住んでいることを、幸せに思っている。
パリは名前を聞いてイメージされるほど素敵な街ではない。僕はどっちかというと庶民的な街だと思う。粗野だったり汚かったり、ごちゃごちゃしてたり、不便だったり。しかも問題は頻繁に勃発する。テロや暴動があり、さらには大聖堂まで焼ける。今じゃ新しい病気が蔓延して、街が空っぽになる。いつも何かしら大波がやって来てはこの決して頑丈でない船に揺さぶりをかける。
でも、僕はこの街が好きだ。どうしてか自分でも分からないけど、この船であれば困難があっても一緒に乗り越えようと思ってしまうのだ。それはきっと、自分もこの標語のようでありたいと思うからなんだろう。
外国人の乗組員だけど、僕はずっとこの船にいたい。他の乗組員たちと波にあおられても、やっぱりここにいたい。
そして、いつかこの沈まない船の上で死にたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます