ウー、アハ

 タイトルはラクダの鼻息である。
 九月ソナタさんの作品はどれを読んでも面白い。
 よってこの作品も面白い。

 文章は誰にでも書けるが、語り部になるには、何をしたからどうなる、というものでもない。
 豊かな読書歴を持つ人というのは、ともすればその量にものを云わせるようなところがあるが、それは批評家のやることで、書き手にとって大切なことは量ではなく「質」である。
 読めば裾野が広がるので、最新流行だけをよしとするような安直な判断に甘んじないという理由だけでもあらゆるジャンルを読めるだけ読んだほうがいいだろうと考えてはいるものの、読書量だけを誇ることほどの愚はないとも思ってる。

 たった一冊の本を読んで「これなら俺にも書ける」とあっさり作家になるコミュ障の引きこもりもいれば、読書量がー、実体験がー、取材がー、と世界を飛び回って材料を集めてきても、何ひとつ書けない者もいるのだ。
「これであなたも小説家になれる楽々マニュアル」を忠実に実践したとして、それをなぞってばかりの者はものの数にもなれないだろうし、もしその人が本当に作家ならば、必ずマニュアルからは逸脱していくだろう。


 九月ソナタさんの作品は、「マニュアルに沿って書いた小説しか立派な作品だと認めない」派からみれば、失格である。一次選考で瞬殺されるタイプだ。
 が、実にのびのびしている。
 良質な読書家で、美術が好きで、世界中を飛び回り、たくさんの素材と知識を有している方だが、その上で、幼い子供のようなきらきらした目を失ってはいない。
 かたつむりが歩いているのを見れば、自分も床を這って真似をしてみる、そんな童心を持っている。

 昨今の小説は「いかに緻密に構築するか」に眼が向きがちで、硬直した人物があらかじめ引かれた設定とシナリオにそってぎくしゃくと動いているものを「なんと素晴らしい完全な作品なのだ」とありがたがってもてはやす向きがあるが、いってみたらあれは、「完璧を目指しました」という作品なのだ。
 その完璧さには喝采を送り、よくぞここまで編み上げたと感嘆して讃えはするが、さて読み終えた後に何か心に残ったのかといえば、技巧の誉れ以外には見当たらないことが多い。
「うわーすごいねー」と設定資料集を見て眼を回すことはしても、そういう作品には生き生きした息吹がない。
 設定派に嘲り嗤われて隅に追いやられているが、本来、『物語』とは、その場の思いつきであれこれ足したり引いたり、山を引っこ抜いて海に突っ込むようなものなのだ。


 推敲がお嫌いということもあって、九月ソナタさんはちまちましたことには拘泥せず、すーいすーいと物語を書き進めていく。その随所にきらきらした感性が息づき、突っ込みどころ満載でありながら、「次は? このお話の続きはどうなるの?」と先をめくらせる力がある。
 わたしはこれを『物語』と呼んでいる。
「続きはまた明日ね」
 絵本を途中で閉じて子供を眠りにつかせ、次の夜になると「さーて続きはどうしようかな」とでたらめにまた口から続きを紡いでいくような、そんな物語の原型が、ソナタさんの作品にはそのまま残っている。
 でたらめにみえて、ちゃんと物語は完結に向かって進み、その人たちが本当に存在しているかのような、お伽の国を映し出す。
 そこには、整合性がー、最先端がー、資料集がーなどの、外面重視の人が最も重要視する『見映え要素』などまったく不要だ。

 ご本人は今年が最後のカクヨムコンにしようかなと仰っているが、これは損失以外の何ものでもない。
 一つの種があればそこからどうにでも花を咲かせることが出来る天性のストーリーテラーは、そう多くいるものではない。
 これからものびのびと、空想の野原を飛び回って欲しい。