普通の人が「嫌なあいつだが殺さない」の壁を越えるのは

 この物語は、青年が老人を殺すことがどのような意味を見出すものであるか、通常の刑法とは別の青年独自の思考と語りによって、読者の中で殺人を再構築させる短編である。読者によっては、以降の文に私の悪意の滲みだとか先鋭性のほとばしりを感じてしまうのかもしれない。だがこのレビューはあくまで物語を受けて、物語の世界を前提にしたレビューを書いたに過ぎないのであって、私の人格と同一視されるべきものでは無いことを留意してほしい。作者だって、本作品は作者の思想を反映したものではないとアナウンスしているのだから。

 犯罪は、自分から起こそうとしなければいつも向こうからやってくる。物語は、基本主人公である「僕」が目の当たりにした体験を通して綴られ、その「僕」は始まりからいきなり犯罪に巻き込まれてしまう。前代社会では、人々の接触は直接的・対面的だった。情緒的で永続的でもあった人間関係の軋轢や破綻によって、犯罪はしばしば決定的かつ全人格的な様相を呈した。だが近代に入ると、人の接触は点と点の部分的な交わりになっていき、こんにちでは対面的接触はますます希薄化するとともに、個人のプライバシー防衛のための全人格的人間関係の回避という傾向が強化されて来ている状態だ。従って犯罪も、単なる利害追及に留まるものが増えるようになる。いつ、どこで、だれが被害者や関係者になるものだか判らない。
 その無防備さゆえ、「僕」をはじめ偶然その場に居合わせた人々もまた、他人として点と点であり、殺人をただ傍観するばかりだった。目の前で人が死ぬなど思いつきもせず想像もしなかった。皆、この国でそう生きていられたのだ。結局(「僕」の印象から見るに)誰も通報することなく魅入るばかりで、青年の自己申告があって初めて青年は警察に捕まるのである。治安が良いのは素晴らしいことだが、治安の良さに依存して生物として誠意を以って相手を疑う意思を惰性化させれば、都合の悪いものは常に名前の無い誰かに予め排除されているのが当然で自明のこととして受け容れるばかりに、目の前の危機を正しく評価できなくなる。悪し様な言い方だが、誰しもが安全に因って飼い慣らされた羊になってしまっていた。その意味で、青年とは啓蒙者だったと見做せる。

 そんな啓蒙者は、なぜ直截な暴力性をあからさまにして、殺人という形で自らを表現したのだろう。なぜ青年はこれまで誰かと同じようにこれという瑕疵なく社会生活を営む普通の人でありながら、他者に苦痛を与える行動を厭わなかったのだろう。

 古村龍也/雀部俊毅『図解 犯罪心理がよくわかる本』によれば、人の攻撃的性格はかなり安定的で一貫した資質で、手が早く短気という攻撃反応傾向と、疑り深く拗ね易い敵意的態度の二つを併せ持つことが指摘されるという。また、現実場面で攻撃行動を挑発する刺激条件に、道具的(目的達成の手段として)・報復的(受けた被害を回復するため)・防衛的(予期された危機の回避のため)の三つを挙げ、いずれも個人が攻撃行動を取るかどうかを決定するとき「かつて類似の状況でどんな反応・経験をしたか」が意味を持つそうだ。
 鍵になるのは自己愛だ。レヴィン/フォックスの『殺し過ぎた人々』から、「長期間にわたる欲求不満」と「他責的傾向」を取り挙げよう。欲求不満と抑うつ気分を長期間抱えている人々は自殺について思い巡らすことの方が多いはずなのだが、逆に他罰的な攻撃という形で外部に向かうのは、個人的な失敗を他人の責任にして非難する他責的傾向を持つからだ。失敗の責任が決して自身にあるとは思わず、常に他の誰かが失望の原因になっていると感じており憎悪の念を抱く。他責的傾向というのは強すぎる自己愛に由来しており、空想の中で育まれた自己愛的在り方である「イメージ上の自分」と、低い自己評価しか持てない卑小な「現実の自分」との乖離を受け入れられない。こうした自己愛的万能感と自己評価との深刻な乖離は、思春期・青年期にしばしば見受けられるが、通常は自己の社会的妥当性を獲得していくなかで自己愛を諦めながら修正して、成熟して大人になる。ところが犯罪者はこの過程を頑なに拒否し、さらに自分の中にある認めたくない資質・欲望などの内なる悪を自身が引き受けることに耐えられず、外部に投げ捨てて他者へ転嫁しようとする投影が起こるという。

 しかし、ふと思い直してみる。上記の特徴は、どう考えても加害者青年ではなく被害者老人の方に良く当て嵌まるのではないのか? そもそも、今回の事件だって先に攻撃行動をしたのは老人であり、その手段も悪質なものだった。本来は被害者老人が加害者であり、加害者青年は被害者だった。襲撃した老人が青年に逆に襲われ、殺人によって加害・被害関係が逆転しただけだ。これは、その場にいた関係者の状況証言にみる実際に行動された内容で明らかであり、むしろ青年の考察を補強さえするものである。もし青年が殺人という極端な結論を導いていなかったならば、反撃しても正当防衛で処理されたかもしれない。
 老人は普段から何をしていたか。傍聴席に居た家族の反応によれば、普段から家族に嫌がらせをしていたようだ。家族にさえ、というべきなのか、青年など様々な他人に普段から攻撃行動を取っていたと思われる。『凶暴老人』を著した川合伸幸によれば、海外で高齢者が攻撃的になっている事例・論文は殆ど見つかっておらず、となると日本における高齢者の問題は社会的な孤立にあると考えられるという。内閣府『高齢社会白書』(2018年版)によると、60歳以上の高齢者男性の近所付き合いの程度について「あまり付き合っていない」「全く付き合っていない」の合計は26.5%にのぼる。特に人間関係が希薄化しがちな都市部で暮らす人は、自宅でも家族に邪魔者扱いされて居場所がなく、ストレスが溜まっていることが要因の一つになる。それに、50~60代が若い頃「責任取れ!」系事件が割と印象深く報道されていたこと(例えば豊田商事会長刺殺事件(1985)/日教組共生事務局右翼立てこもり事件(1986)/野村證券右翼拳銃立てこもり事件(1991)など)を受け、この恫喝スタイルがある程度有効なんだと吸収し、後に高齢になったことで感情制御がうまくいかなくなり攻撃的になったときに、模倣的でヒステリックな手段を執るように吹き出し始めたのかもしれない。かつての「責任取れ!」系事件と比べると内容が稚拙化しているし、自分の自己愛に周囲の状況が追い付いてこないことの孤立と屈辱に由るから、きわめて個人的である。

 では、青年の方は何だったのか。青年は、殺人が犯罪であることを承知のうえで、信念に基づいて老人を殺した。法を犯すよりもさらに大事な価値がそこにあると思いなしていたから、それが殺人を止める力を越えていったのだ。それは感情ではなく理性によるものであり、だからこそそれが思考行動様式を継続して規定するものであった。通常、殺人を是とするアイデンティティは殺人を許容しない社会に承認されないので変更を迫られるところだが、今まで殺人について他者と価値観を擦り合わせる機会が無いままで来たのか、ついに事件が起きるまで青年は自分の信念をアイデンティファイしていた。しかも、裁判でもまだそれは確固として続いていて、裁判官や傍聴者をその場のみにせよ圧倒している。この国の老人がもたらす問題は、SNSでときどき不特定多数の他者と話題共有されることで、老人という外集団化された人種に対する我々被害者という形で、潜在的に不満と対立を構成させているところだ。そこへついに、攻撃に信念で攻撃し返す若者が登場するのだ。これがもしドイツのミュンヘン一揆直後で、法廷に立つ人がアドルフ・ヒトラーだったら、傍聴者どころか裁判官まで喝采でその人を称えただろう。青年が支持されるかされないかは、社会が致命的に老人を敵視しているかいないかの具合の差でしかないと思う。誰だって、青年を英雄視しえる素質がある。
 尾木直樹『「よい子」が人を殺す』によれば、現代の若者は意外にも身近でささやかな生活に充実感を覚え、むしろ楽しんでいることを明かす。それでも殺意が芽生えるのは、親子関係の変質とともに、学歴社会の崩壊があるからだという。まず前者だが、60代以上が経験したような親が子供の思春期・青年期の成長にとって頑固に立ちはだかる壁としての役割を、バブル崩壊後の政経進路が明確でないことに併せ親自身の生き方も自信喪失状態となることで果たせなくなりつつあることから、結果として子供が一人前に自立していく大人へのプロセスがほとんど消滅した。このような者に若者は殺意を向けないかわりに、無差別殺人に向かうか、自分を抑圧しアイデンティティを空洞化させかねない存在を抹殺するほうへ追い詰められる。また後者だが、若者にとって政治・経済的に先行き不安な現状では社会への信頼や国への尊敬心が教育によって育つことはなく、公や未来よりも個としての今の現実を大切にしなければ自分の足場が固まることはない。その中で、新自由主義思想の競争主義原理を梃子にした成果主義を持つ親に育てられると、数々の進路選択と成功のプレッシャーに耐えかねて殺意を芽生えさせる。そもそも愛されて自分の居場所を実感できていれば、他人とのトラブル解決法を自然と身に着け、人間信頼の感情まで涵養されると説明する。
 青年は事件前ひどく疲れた様子が証言されている。なぜ疲れていたのかは不明だが、仮に成果主義な会社に勤務していたならば、勝ち組志向のプレッシャーにいつも晒されていたはずだ。加えて青年が世間的に「優秀な」家庭の中で育てられていたとするならば、子供の頃から既に競争原理に巻き込まれていたことになる。ならば青年に立ちはだかった老人とは、ただの老人ではない。青年にとってそれは、自分を抑圧する「象徴としての親」という概念だった。殺す切っ掛けとなった老人の「ご年配に席を譲らないとは何事か!」という暴言は、越えるべき年上の存在を意識させる言葉としてまさしく象徴的だ。だから自分が成長し成熟して自立した人間となるには、「象徴としての親」を抹殺するしかない。青年がいう殺人の「不条理に報われない善人を救うという価値」の善人とは、実際自分自身を含めて指す言葉だったかもしれない。こうして青年は、自身が人として尊厳を持つかどうかの戦いで殺人を行った。殺人をしてはいけない公の倫理観よりも、自分が精神的に自立するための個の道義観が上回った。青年が老人に対し感情的に怒ったのではないという言葉はそうだろう。老人に怒ったわけではなく、「象徴としての親」を越える通過儀礼を執っただけなのだから。

 青年は自分をどこまで考えていたのだろうか。普段から自分と社会との関わりを考察していたかもしれないし、殺人行為を自己正当化させ自分の精神を安定させるために後になって結果から過程を導いたのかもしれない。もっとも、後者をするくらいなら初めから殺人をしなければ良かったのだし、真に何の準備もない突発的殺人なら過程のほうがお粗末だ。青年のこれまでの行動と矛盾があるから、やはり後者の可能性は無いだろう。他人に苦痛を与えるかなど、他者からの視点はどこかへ飛び去ってしまい、青年は世界の中に自分が一人いるという主体的な見方に居るかもしれない。罪なく苦しむ人々の彼岸に啓蒙者としており、自分の行動が社会的にも正しいものだと疑いない。でも、彼岸というのは基本的に人間の入れない場所なのだ。青年の最後の言葉で浮かべた笑みは、人間には不気味なものとして、彼岸に行ってしまった者として感じざるを得なかったのだ。

 青年は彼岸に行ってしまった者だから、そうなってしまうだけのこれは個人的な問題として、言い換えれば「罪を犯したあいつと僕は違う」と精神衛生を図ろうとして、見がちかもしれない。だが今まで考えて来たように、個人の感情が決して社会と切れているわけではない。特にこんにちの社会において心理学的な知見は、不当に自尊心が低められてしまった個人の状況を説明する知見として、さらにそうした人間モニタリンク・コントロールを助ける知見として、ますます受容されてしまう。R・ベラーによれば、ポップな心理学的知が一般に受け入れられるようになると、あらゆる社会現象の説明が個人の内面へと帰されるようになるという。すると、社会現象や問題の多くが他者との関係から生じてきているにもかかわらず、原因を個人の心にまずもって帰してしまうことによって、問題の本質を見誤らせ、解決をむしろ妨げてしまうのが問題になる。事件があるとよく個人の「心の闇」という言説が流布するが、個人的な問題にばかり消化するべきではない。一見すると個人の問題に見えることは実は社会の問題かもしれないことに気づき、しかし全てを社会の問題にしたところでその社会の構成員は自分も含まれることから、自分も変わらなければならないのである。

 では私は何を感じたのか。私は、まず青年の主張を「なるほど」と思ってしまった。
 近代国家というのは、国民というものを創り出したことは勿論だが、生活基準の標準化とそれに国民が同調することを要求する規範化を行った。標準化しようとしたのは、産業化競争に勝つことを目的としてそれまで曖昧だった正常と異常の線を明確に引き直すことで、秩序を壊さない健康で勤勉な労働力を必要としたからだ。つまり、犯罪や病気は、それ自体が自然に存在するわけではなく、その時の社会において望ましくないものとされたものを犯罪や病気にされるのだ。法律や医療があるのは、標準から外れたものがいかなるものかを指し示すためという側面がある。定義によって望ましくないものが変わるなら、殺人の絶対的忌避や排除すべきものが何かも人間の本質的で固定的なものではないということになる。若者たちよ、社会の成長や人々のけなげな幸せを踏みにじらせる敵は何だ。介護・年金・老害などなど、超高齢化社会の元凶にして情報化社会の発達の足枷である老人だ、だから丸ごと消し飛ばすべし。そう一般に決め込まれたら、「未来ある若者よ、老人を殺せ、幸せを掴め」の大号令に支えられて皆あっさり処分を開始するかもしれない。そこには、経済的な問題から、青年が体験したような「象徴としての親」を越える儀式という意味まで、多義が含まれているからだ。シュミットは『政治的なものの概念』の中で、政治的手段で重要なことは思想を仲間と敵(外集団)に振り分けることと見て、敵に対抗する我々という内集団意識を形成することによる個人のアイデンティティを明確にさせる場としての機能を説明した。「友-敵理論」である。
 しかし、そもそも老人という人種が憎いのではなく気にくわない行動をする奴が憎いということなのであって、誰が何の定量超過を以って相手を憎いとしているのかの具体的で計量的な基準はない。感情が殺害者を支える基盤であるゆえに制度的基盤としてはきわめて脆弱という欠陥を持つことになる。それにいくら不殺が人間の本質ではないからといって、無節操に殺人が肯定されるものだとは一言も言われていない。殺人は人を殺す行為という概念に過ぎないのであって、誰を殺すべきかなどという補完説明=事実はそこに含まれていないのだ。したがって老人の無秩序な殺害自体を止めなければ、仮に老人粛清を完了しつくすあたりで、皆必ず憎悪基準の問題に向き合わされることになる。すると、もともとが人種憎悪ではなく行動憎悪に基盤を持つゆえに、次はそれをそのままに、同じ若者かほぼ同世代の者に兇刃を向け始めることになるだろう。「あいつは協力的じゃなかった」「こいつは粗暴で酒乱で夜中騒がしくしてた奴だ」「高収入を鼻にかける感じが嫌い」「根暗だ」「在日が」「マスクをしない」etc.…… 青年をそのまま英雄に祭り上げると、若者は熱意と正義感と知らず知らずのうちに自分をディストピアへ運ぶかもしれない。地獄への道は、善意で舗装されている。この危険性、すなわち老人殺害の因果が自分に跳ね返る危険性によって、私は青年を否定する。

 結局老人を殺せないとするなら、じゃあどうするのだと思うかもしれない。例えば老害や望ましくない行動をとる者を、その内容と回数に応じて処罰や社会的権利に制限を課す国民点数管理制にするのはどうだろう、と思ったが、今の中国がすでにこれをやっていたのを思い出したのであった。

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