天才

津島 結武

天才

 よく晴れた日の電車内で、僕はある青年が老人を殺害するところを目撃した。


 老人の頭を鉛色のスタンションポールに激しく何度も打ち付けていたのだ。


 頭蓋骨の砕ける鈍い音が車内に広がる。


 老人の頭部および顔面に塗りたくられた鮮血は太陽光に照らされ、どこからか流れ出る血液はボタボタと床に滴っている。


 老人の指はまだぴくぴくと痙攣していた。

 まだ生きているようだが、直に死ぬのは見て明らかだ。


 それでも青年は単調なリズムで老いた骨を粉砕している。


 青年の表情は、まるで事務的な作業をするサラリーマンのようだった。

 殺すことを恐れている様子はまったくない。

 かといって、楽しんでいる様子も一切なかった。


 青年が老人の頭を手すりに打ち付けている光景に、僕は呼吸をするのを忘れていた。

 スッと息を吸うと、ひどい血なまぐささが僕の鼻孔を突く。

 

 このとき初めて、僕は殺害現場に居合わせているのだと実感した。

 青年の冷酷さが僕や周りの人々の感覚を鈍化させていたのである。


 真面目そうな会社員も、活発そうなOLも、流行り物好きの女子高生も、初老の男性も、青年の表情に深く魅入られていた。


 誰も叫びなど上げない。

 誰もその場から離れようとしない。

 誰も青年を止めようとしない。


 老いぼれの死にゆく姿を、皆は黙って見届けていた。



 老人がすっかり動かなくなると、青年はその老身を通路に投げ捨て、自ら車内非常ボタンを押した。


 それから間もなく警察が到着し、青年は連行されていった。

 まるで自ら捕まりにいったかのように。


 *


 数ヶ月後、僕は先日遭遇した殺人事件の証人として裁判所に召喚された。


 法廷に集まった人々は機械人形のように落ち着き払っていた。

 弁護人も、検察官も、裁判官も、裁判員も、僕以外の証人も、そして被告人である青年も、風のない水面のように静かだった。


 裁判が始まると、冒頭手続き、冒頭陳述は早々に済まされた。

 ほかの裁判もこのように円滑な進行なのだろうか。

 判決はすでに決まっているのではないかと疑ってしまうほどの勢いだ。

 

 そして証拠調べ――すなわち僕に対する尋問が開始された。



 証言台に立たされる。

 大勢の人がこちらに視線を注いでいるのが背中の感覚からわかった。

 被告人でもないのに、まるで追いやられたような気分だ。


 まず、検察官に名前と職業を問われ、それから事実確認が行われる。

 女性検察官の声色は思っていたより柔らかく、僕は幾分か肩の力を抜くことができた。


 そして、いくつかの質問のあと、検察官は僕にこう問いかけた。


「なぜ被告人は[被害者である老人の名前]さんを殺害したのだと思いますか」


 僕はちらりと検察官を見やったが、すぐに裁判官のほうに視線を向けて答えた。


「たぶんですが、感情が抑えられなかったからだと思います」


「……というと?」


「実は、初め攻撃していたのは[老人]さんだったんです。事件が起きる前、被告人はすごく疲れた様子で電車の座席に座っていました。本当に今にも倒れてしまいそうな顔をしながら。すると、おもむろに[老人]さんが彼の前に立ち塞がり、どういうわけか罵倒を浴びせかけたり、足を蹴ったりし始めたのです」


「それから、被告人は憤慨して[老人]さんに手をかけたのですね」


 僕は検察官が意外そうな顔をしている気がした。


「はい。しかし取り乱した様子は一切ありませんでした。すっと疲弊した表情が消え、ゆっくりと立ち上がり、[老人]さんの頭をポールに叩きつけ始めたんです」


「なるほど。あなたを責めるわけではありませんが、あなたはどうして被告人の犯行を止めなかったのですか」


「動けなかったんです。放心状態みたいな。なんだかその光景がさも当たり前のような気がしたんですよね。殴られて当然とかじゃなくて、ごく普通の出来事を見ているような……。僕は何かの罪に問われますか」


「……いえ、当然の反応です」


 その後は少しの事実確認と弁護人からの質問で僕の尋問が終了した。

 弁護人からの質問は非常に少なく、被告人に対する減刑を半ば諦めているようだった。


 ほかの証人に対する尋問もすぐに終わった。

 どの証言も僕と似たり寄ったりといった感じだった。



 そして、被告人質問に入る。

 被告人である青年が証言台に立った瞬間、心なしか法廷全体の空気がぴりついた気がした。


 初めはやはり事実確認からだ。

 青年はすっと背を伸ばした状態で、色のない「はい」を繰り返している。


 機械的な問答が続くなか、僕は青年の不気味さに身じろぎせずにはいられなかった。


 殺人を犯した者は数ヶ月もすれば自分の行いを悔やみ、反省するものだと僕は思っていた。

 しかし、青年の態度からは反省の色はまったくと言っていいほど見られない。


 確かに青年はここにいる誰よりも落ち着いている。

 だが、彼の目だけは熱い情熱に燃えているように見えた。

 深い信念に駆られているようにも感じられる。


 ――あれが一人の人間を殺し、これから裁かれようとする者の姿なのか?


 どうやら僕以外の人々にもこの疑問が生じたらしかった。

 傍聴席に座る記者や一般人の何人かがコソコソとささやき合っている。


 いくつか目の質問で、検察官は青年にこう尋ねた。


「あなたは[老人]さんに怒りを感じて、犯行に及んだのですね」


 すべての検察官は被告人にやたら重い罰を下したいわけではないらしい。

 青年の減刑に配慮したような質問だ。


 しかし、青年はこう答えた。


「いいえ」


 この返答に法廷全体がざわめく。

 傍聴席の人々も、裁判員も、検察側も。

 弁護人だけがばつの悪そうな顔をしていた。


「静粛に!」


 裁判官が厳かな声で呼びかける。


「では、あなたはどうして[老人]を殺害したのですか」


 騒ぎが落ち着いてから検察官が尋ねる。


 青年は依然として静かに答えた。


「あそこで殺さなかったら、ほかの誰かが殺されていたからです」


 今度は誰も声を上げなかった。

 というより上げられなかった。


 誰もが青年のことばの真意を知りたがったのだ。

 検察官でさえも、質問することを忘れていた。


「……[検察官の名前]検事、質問を続けてください」


「は、はい。それはいったいどういうことですか」


 少し間を置き、裁判官に促されて検察官が質問を再開した。


「私があの老いぼれを殺していなかったら、遠からず奴は人を殺していたということです。もしかしたら、すでに何人かを殺しているかもしれませんが」


「しかし、あなたは[老人]さんと面識はなかったと言っていたではないですか」


 確かに事実確認のなかで青年はそう答えていた。


「はい、あの男とは会ったことも見たこともありませんでした。けれども、あの老いぼれが人を殺すかどうかは、奴の言動で判断することができました」


「……続けてください」


 検察官はいちいち質問することを諦めたようだ。


「私には、あの老人が物事を思い通りに進められないと、他者に八つ当たりをするような男だとすぐにわかったのです。あのときも、『ご年配に席を譲らないとは何事か!』などと、体調を崩していた私に向かって怒鳴り散らしていました。一言尋ねればいいものの、何の断りもなしに。さらに言えば、ほかに健康そうな人はたくさんいたのにもかかわらず。奴は言い返してこなさそうな弱者﹅﹅を選んでいたんですよ」


「被告人、それは被害者のご遺族に失礼ですよ」


 青年の語りが途切れたところで検察官が注意した。

 ところが、青年はこう問い返した。


「本当に失礼だと思っているのですか」


 検察官はことばを詰まらせた。


「ましてや、ご遺族は本当に悲しんでいるのですか。きっと奴は普段からご家族にも嫌がらせをしていたと思いますが」


 僕はふと遺族のほうを見やった。

 すると、大学生くらいの気弱そうな女性がわずかにうなずいたのが見えた。


「もし、奴が生きていれば、ご家族の何人かが心を病んでいたかもしれません。あるいは、まったく罪のない善良な人々の精神を殺していたかもしれません。最悪の場合、直接的であれ間接的であれ、本当に人を殺していたかもしれません。もしくはもうすでに――」


「だからといって、殺人は許されることではありませんよ」


 検察官が青年の語りを遮って言った。

 これまでで最も人情味のある声をしていた。


「そんなことはわかっていますよ。だから私は逃げも隠れもしなかったんです。しかし、許されるかどうか﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅行うべきかどうか﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅は、まったく別のことですよ」


 青年がそう言ったとき、心臓が勢いよく打たれたような感覚に陥った。

 ほかの人にもこの感覚が同様に生じたようだ。

 法廷全体に電撃が走ったかのように空気が硬直している。


「殺人が重罪であることは承知しています。しかし、あの老人を殺したことは、私が相応の罰を受ける損失以上の価値をもたらしたと私は確信しているのです」


「……いったいそれはどのような価値なのですか。その、人を殺す価値というのは」


 検察官が恐る恐る尋ねた。

 青年は、じっと裁判官を見つめたまま答えた。


「不条理に報われない善人を救うという価値です」



 それからちょっとした問答が繰り返されたのち、被告人質問は終了した。


 裁判は最終手続きに入り、検察官が被告人にどれだけの刑を下すかを裁判官に示した。

 あとから法学を噛んだことのある知人に聞けば、かなりの重い求刑だったらしい。


 そして、すぐに弁護人による力のない最終弁論が終わり、被告人の最終陳述に青年が再び証言台に立った。


「これで審理を終えたいと思いますが、被告人は最後に何か話しておきたいことはありますか」


 裁判官が穏やかな口調で青年に尋ねる。


 青年は不気味な笑みを浮かべて答えた。

 彼が初めて表情を大きく変えた瞬間だった。


「私が獄中にいる間、罪のない人々は完全な犯罪によって殺され続ける。しかし、私が社会に残れば、ある程度の被害は抑えられるだろう」

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天才 津島 結武 @doutoku0428

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