第5話 親愛なる君へ

 翌朝は、何とも言えない良い香りと、フライパンと鍋蓋の触れ合う音で目が覚めた。

 そう言えば、晩飯食ってなかったっけ、と寝起きの悪い一樹は瞼を閉じたまま考える。

 キッチンから足音が近付いてきて、かがみ込む気配がすると、頬に柔らかいものが触れた。


「ん……沙希」


 寝惚けて抱き寄せるのに、沙希は抗わない。

 お返しにキスしようと奥二重をうっすら開けて――。


「んっ!?」


 脊髄反射で飛び退いてしまった。スラックスにワイシャツのサラリーマンスタイルで、海斗が膝をついて顔を覗き込んでいた。


「海斗! 何やってんだよ!!」


「朝ご飯作ってた」


「え? お前、自炊出来ないだろ?」


「何か、出来た。冷蔵庫にあった食材で」


 海斗は何故か、恥じらうように目元を上気させて、目を泳がせる。


「その……口に合うと良いんだけど」


 その虹彩が、色素の薄いはしばみ色に光っているのに気が付いて、一樹は思わず呟いた。


「沙希?」


「ううん。海斗だけど。何か、お前の寝顔を見てたら、ドキドキして……キスしたくなった」


 一樹は、ゾワリと全身が総毛立つ音が聞こえるような気さえした。


「よせよ! 沙希ならともかく!」


「うん。自分でもよく分かんないけど……沙希の影響かもしれない」


「沙希は?」


「ここに居る」


 海斗は、ワイシャツの胸のあたりをギュッと掴んだ。切なそうな表情をして。

 何と言ったら良いか呆けていたら、一樹の腹が盛大に鳴った。


「あ」


「ご飯食べよう。ミートソースだよ」


「あ、ああ」


 料理を作った筈なのに、キッチンはかえってピカピカに磨かれていた。

 トマトとタマネギとナスと合い挽き肉のミートソースパスタは、今まで食べたパスタの中でも飛び抜けて美味だった。その上から、ゴロゴロとカマンベールチーズが千切って入れてあるのも、食感が変わって口当たりが良い。

 副菜は簡単に茹でたブロッコリーだったが、マヨネーズが縦横にかけられていて見目が良かった。


 空腹なのも手伝って無言でがっついていたら、海斗がうっとりと嬉しそうな声を出す。


「美味し~い?」


 彼が海斗だと考えれば、素直に美味しいというのがはばかられるほどの、自己陶酔ぶりだった。

 だが沙希が作ったのだとすれば、礼を言うのが打倒だろう。

 いったん落ち着け。心の中で唱えてから顔を上げ、そのふにゃけた笑顔を見詰め三十秒ほども考えて、一樹はぶっきらぼうに呟いた。


「美味い。これ、沙希が作ったのか?」


「ううん。俺だよ。嬉しい」


 ウキウキと声を弾ませて、ようやく海斗もフォークを手に取った。密かにうかがっていると、いつもはコンビニのパスタを箸で豪快にすすって食べるくせに、フォークで綺麗に一口分巻いて、小鳥が啄むように食べている。


 どうなってんだ!?

 一樹は海斗とどう接して良いか分からなかった。


「動物園デート、しようね」


「誰と?」


「俺と」


「いや、沙希とならするけど、野郎ふたりでデートしても仕方ないだろ」


 海斗は、整えられた細い眉をハの字に下げた。


「ひどい。俺のこと好きじゃないのかよ」


「いや、嫌いじゃないけど……」


「じゃあ、好き?」


 完全に面倒臭いカノジョだ。一樹は頭を抱えた。


「待て待て待て。この場合の好きは友情であって、愛情じゃない」


「それでも良い。そばに居てくれるなら」


 そうひと言残して、海斗はふたり分の皿を下げ手際よく後片付けをした。

 事態の複雑さに頭を悩ませつつ、クローゼットに向かってシャツを着替えていたら、後ろから声がかかった。


「一樹。動物園、連れてってくれる?」


 ハスキーヴォイスにハッとして振り返ると、昨日の美しさのまま、沙希が浴衣で立っていた。


「沙希!」


「ゴメンね。この姿で居るのって疲れるの。海斗に、朝ご飯作って貰った」


「勘弁してくれよ。どうなることかと思った」


「ふふふ、ゴメンね」


 身支度を整え、出かけようとして、玄関には男物の革靴が二足並んでいるのに気付く。


「あ……靴」


「大丈夫」


 沙希が海斗の革靴に足を通すと、瞬く間にそれは、赤い鼻緒の草履に変わった。

 電車に乗って、上野動物園を目指す。およそ一時間の道中、色んなことを話した。高校や大学での出来事、仕事のこと、音楽のこと。離れていた十年分の思い出を語り合った。

 純粋に楽しい。

 

 上野に着くと、平日だが大人も子どもも夏休みの時期だからか、思ったよりも混んでいた。

 パンダの列は、展示スペースが入口に近い為、動物園の外まで伸びていた。

 『最後尾』というパンダのイラストの看板を持った係員に訊くと、九十分待ちだという。

 

「どうする?」


 一樹は沙希に、選択肢を投げた。沙希は一樹の手を握って、先に立って引っ張る。


「良いよ。パンダが目的じゃないもの。一樹と、デートしたいだけなの」


 さりげなく手を繋がれ、初々しい沙希の微笑みに、つられて笑う。


「そうだな」


 それからふたりで、散歩でもするように園内をゆっくりと見て回った。

 オランウータン、ゾウ、フラミンゴ、ミーアキャット。新しい動物を見付ける度に、沙希は歓声を上げて一樹の手を引っ張った。

 動かないことで有名なハシビロコウの前に立って、沙希はおーいと声をかける。


「凄い。ホントに全然動かない」


「ああやって、獲物が近寄ってくるのをジッと待つんだってな」


「へえー! そうなんだ。一樹、物知りー」


「……あ。多分、動くぞ。見てろ」


 飼育スペースに、飼育員が入ってきた。沙希は猫目を爛々と光らせて見入っている。

 コンコンコン、と木を打ち合わせるような音が連続して響いた。


「何の音?」


「くちばしを鳴らしてるんだ」


 飼育員が近付くと、ハシビロコウがゆっくりとお辞儀をした。飼育員も、ぺこりとお辞儀を返している。

 沙希が可笑しそうに、はしゃいだ。


「あはは、何あれ! 可愛い! 飼育員さんも込みで可愛い!」


「あれは、親愛の情だったか、何だったかな。とにかく、慣れたひとにはああやって挨拶するらしい」


「そっか」


 ふいに沙希は繋いでいた手をほどいて、一樹に向き直った。


「どうした?」


 沙希は真面目な顔で、狂言でも舞うかのように足の付け根に指を当てて、ゆっくりとお辞儀をする。


「親愛の情」


 一樹は思わず噴き出したあと、ポーズを真似してお辞儀を返した。


「うむ」


 一瞬目を合わせて、ふたりは腹を抱えて爆笑する。


「何が親愛の情だよ。俺のこと、好きなんじゃないのかよ」


「親愛の情、でしょ。間違ってないよ」


 楽しくて、楽しくて。会話は途切れず、この時間がずっと続けば良いと思った。いや、続くと錯覚していた。

 昔から物欲のなかった沙希が、ハシビロコウのキーホルダーが欲しいだなんて可愛いことを言うので、一樹は二つ返事で買ってやる。

 あっという間に、閉園時間が迫っていた。ぼちぼち出口に向かい始める道のりは、何とも言えずもの悲しい。

 ふたりともそう思っているのか、一分ほど無言が続いたあと、ふと沙希が声を上げた。


「あ」


「ん?」


「蝉」


 足下を見ると、アブラ蝉がひっくり返って落ちていた。沙希は少しの躊躇もみせず、手をほどいてそれを掌に拾い上げる。


「おい。やめろよ」


 悲鳴を上げるほどではないが、一樹は虫が苦手な部類だった。特に、死骸だなんて。

 だが沙希は悪びれもせずに、アブラ蝉の背を労るように、人差し指で撫でる。


「何で? 蝉って、一生懸命生きてるんだよ。ずっと土の中で育って、生涯に一度だけ恋をして、死んでいくの」


「まあ確かに……蝉の一生、って言うくらいだしな」


 すると沙希の手の中の蝉はブブ、と息を吹き返して羽根を震わせた。


「頑張って」


 そんな励ましの言葉が届いたのかは分からないが、そのまま羽音を残してアブラ蝉は飛んでいった。

 それを見送って、更に侘しい気持ちに拍車がかかる。


「……うちに帰ろう。もうすぐ閉園だ」


 手を繋ごうとしたら、ふいとかわされた。


「ううん」


「沙希?」


 はしばみ色の猫目で真摯に一樹を見上げて、沙希は少し寂しそうに笑った。


「あたし、もう、行かなくちゃ」


「何処に?」


 忘れていた。だが、今思い出した。それでも一樹は、何処にと訊かずにいられなかった。

 

「お前の帰るうちは、俺んちだ。帰ろう、沙希」


「一樹。あたし……ひとつ、お願いがあるの」


「何だ。何でも叶えてやる。だから帰ろう、沙希」


「あのね。……キスして」


 輪郭線を縁取るように、沙希の周りが青白く輝き出していた。『行かなくちゃ』の意味するところは、ひとつで。

 一樹は沙希の身体が消えてしまうような気がして、手首を引っ張り胸にかき抱き、うなじを掴んで上向かせた。

 沙希が、目を閉じる。光はどんどん強くなる。


「キスして」


「沙希……! 愛してる」


 人生で初めて、愛していると言った。輪郭の明るさに反比例するように、暗く影になるローズゴールドの唇に、唇を押し当てた。

 まだこんなに、暖かいのに。涙が溢れる。逝かせない。全身で強く抱き締めた。


 一瞬目が眩むほど明るくなって、腕の中の感触が変わる。柔肌は硬くなり、女性特有の香りは消えた。

 それでも縋るように、泣きながら強く抱き締め続けた。腕の中の身体からも震えが伝わってきて、男泣きしているのだと知る。


「一樹……沙希が」


「ああ」


「沙希が……!」


 そう言って、腕の中で海斗が嗚咽し始める。大の男がふたり、抱き合って泣く奇妙すら気にならないほど、ふたりは涙が涸れるまで泣いていた。

 やがて、不自然に大きく、LINEの着信音が響く。音量はいじっていないから、何らかの力が働いたとしか思えない。

 ふたりはようやく身を離し、一樹が尻ポケットからスマホを取り出した。


「沙希だ」


「何て?」


 ふたりでスマホを覗き込む。


『一樹、ありがとう。デート楽しかった』


 その一文を読んで、海斗が咳き込むようにむせび泣く。

 だが、メッセージがリアルタイムでポンポンと続いて送られてきた。


『あたし、今気が付いたの。頭を打って、意識不明だったんだって。でもそれ以外は怪我もしてないから、精密検査の結果が出たら、退院できるって』


 ふたりは、涙でグシャグシャの顔を見合わせた。


『また動物園デート、しようね。ずっと一緒だよ』


 最後に、短い動画が送られてきた。病院のパジャマに身を包み、笑顔でピースサインを振る沙希の自撮りだった。

 ピースサインの人差し指には、さっき買ったハシビロコウのキーホルダーが、何ともコミカルな表情で揺れていた。


End.

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【燃え尽きるような蝉の恋】 圭琴子 @nijiiro365

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