第4話 三本の缶ビール
「は?」
一樹は、海斗を胡乱に見下ろした。
言って良い冗談と、悪い冗談がある。今のは、確実に質の悪い冗談だった。
だが海斗は、一樹の背後に明るい笑顔で声をかける。
「沙希、一樹と付き合うんだってね。おめでとう。ウッカリ一樹の連絡ミスで来ちゃったけど、俺、帰るから安心してよ」
「やめろよ……」
「何が?」
一瞬、一樹を見上げ、また背後に声をかける。
「沙希、随分お洒落したね。初デートだから、張り切った? 俺今、彼女居ないから目に毒だなあ……」
「やめろよ!!」
突然の怒号に、海斗は驚いて一歩身を引いた。半開きだった玄関ドアにアルミ缶が当たって、鈍い音を立てる。
「な、何だよ。一樹、何怒ってんの……?」
滅多に怒らない一樹が激高して睨み付けるのを、海斗は訳が分からないといった様子でビクビクとうかがい見る。引きつった頬からは、明らかな怯えが伝わってきた。
途端、ふっと視線を弱くして、一樹は片手で目を覆う。
明らかに海斗が悪いが、そこまで怒るほどのことではなかった。海斗は海斗なりに、ジョークで一樹を笑わせようとしたのかもしれない。
今日何度目か、吐息した。
「……もう良いよ。取り敢えず、入れ」
「え。い、良いの?」
「ああ。怒鳴って悪かった」
そう言うと、ようやく海斗の顔から怯えが消えた。
「じゃ、じゃあ、お邪魔しま~す。お邪魔虫だけど、何か歓迎されてるから入っちゃうよ~」
一樹は鍵とチェーンを再びかけて、振り返り――凍り付いた。
海斗はフローリングに胡座をかき、買ってきた缶ビールを
「
既視感。合コンでしこたま酔った帰り道、海斗はたまに何もない空間に話しかけることがあった。
ひとを恐がらせるから、普段はそれがこの世の者か、この世ならざる者か、じっくり確認してから声をかけるのだと言っていた。
つまり――沙希は?
「……海斗」
「ん? 何そんなとこに突っ立ってんだよ。あ、お前ら、ひょっとして喧嘩したの?」
「……沙希が」
「うん」
「そこに……
「え……あ、おい。大丈夫?」
一樹は立っていられずに、へなへなとしゃがみ込んで、玄関前の床に膝と掌を着いた。
慌てて海斗が駆け寄ってきて、その顔を覗き込む。額には冷や汗がびっしりと珠を結び、呼吸は速く浅くまるでパンティングする犬のようだった。
「一樹! ゆっくり息して。沙希、ビニール袋取って! え? 取れない? あーもう!」
海斗は素早く缶ビールをレジ袋から出して空にすると、呼吸困難に陥っている一樹の口元に当てさせた。
「深呼吸して。過呼吸だから。袋の中の空気を吸えば、落ち着く筈」
ハッハッという呼吸音と、背中を擦る衣擦れの音だけが、シンとした部屋に響く。
やがて一樹の過呼吸は落ち着いて、彼はその場に長く伸びて横になった。
「もう大丈夫?」
「大丈夫じゃ……ないかも」
「急に、どうしたの?」
その質問に、一樹は反問した。
「沙希、居るか?」
「え? うん」
「その沙希は……
「……え?」
すうっと海斗の血の気が引いた。青白い顔をして、
「嘘……」
「嘘じゃない。だから俺、お前が悪ふざけしてるんだと思って、怒った」
言葉尻に被せて、場違いに脳天気なLINEの着信音が鳴った。
一樹は何とか上半身を起こし、傍らのスマホに目を走らせる。
「……沙希からだ」
「何て?」
「事故に遭った、って」
「沙希……ホントに?」
海斗はゆっくりとベースの方に近付いて、右手を伸ばした。瞬間、花火のように眩しく光が弾けて、一樹は思わず目を瞑った。
眩んでいた視界が、じんわりと戻ってくる。庇った右手を下げると――裸足の足下の方から、女性の造形が目に入ってきた。
恐る恐る視線を上げていく。藍色の浴衣に、今し方光ったのより遙かに色鮮やかな、取り取りの打ち上げ花火の柄。帯は、濃いピンクに近い赤紫。顔より先に目についたのは、横髪に留められた朱塗りの髪飾りだった。
最後に、認めたくなかった沙希の顔が像を結ぶ。予想に反して、それは信じられないほど美しかった。
ローズゴールドの唇を噛み締め、アイメイクもシャイニーゴールドで統一された大きな猫目からは、涙をはらはらと零している。
「……沙希」
我知らず立ち上がり、近付いていた。不思議と恐怖は感じなかった。ただ、その涙を拭ってやりたい。そう思った。
「一樹。ゴメン。あたし……」
「謝らなくて良い。もう、泣くな、沙希」
目の前に立って、涙に濡れた頬に大きな掌を当てると、沙希が抱き付いてきた。女性特有の良い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。見下ろすうなじが、色っぽかった。
「あたし……ホントに一樹が好きだった。告白してくれて、凄く嬉しかった。なのに……」
小柄な沙希の背中にやんわりと腕を回し、腕の中に捕らえるようにただ黙って抱き締め返すと、沙希はぽつぽつと語り出した。
「……仔猫がね」
「猫?」
「うん。道路の真ん中に、仔猫が居たの」
「ああ」
「そこに車が来て……あたし、思わず飛び出したの」
「沙希らしいな」
そう囁いて、どう言えば沙希の涙を止められるかと、知恵を絞る。
「猫を殺せば七生祟る、って言うし、沙希は間違ってない。その仔猫が死んでも、沙希は泣いたと思うから」
「ありがとう。一樹、優しくなったね」
まだ涙混じりだが、声の調子が僅かに上向いた。
「俺は、ずっと優しかったろ」
今度こそ、沙希は小さく噴き出した。
「嘘。中学の頃の一樹、ベースのことしか考えてなかった」
「ひどいな。ひとを情緒欠陥みたいに」
言葉は辛辣だが、一樹は変わらず低く囁いて、沙希のウェーブした髪に鼻の頭を埋めた。
「俺のことが心残りで、来てくれたのか?」
「分かんない。気が付いたら、ここに居たの」
「沙希は、どうしたい?」
沙希が顔を上げて、間近で視線がぶつかった。
珍しいはしばみ色の虹彩を見て、ああ、これは沙希だと再確認した。
「あたし……動物が好きなの」
「よく知ってる」
「だから明日……動物園に行きたい」
「そうだな。俺も、上野動物園でパンダを見たら、沙希が喜ぶだろうなって思ってた」
「それから今日、抱き合って眠りたい」
「ああ」
布団は一枚しかなかったから、どうせ一緒に眠るつもりだった。
クローゼットから煎餅布団を出して座り、横をポンポンと柔らかく叩く。
沙希は、おずおずと横に正座し、一樹の腕に任せて横になった。
「あ……浴衣、寝苦しくないか?」
「ううん。大丈夫。浴衣に見えてるだけだから」
「見えてる?」
「この身体、海斗だよ」
「そ、そうか」
一樹は、ようやく正確に理解した。この『沙希』は、『海斗』の身体に入っているのだと。
額が触れ合うほど頬を寄せて、キスのひとつもしたかった一樹だが、そう聞いては心が鈍った。
見詰め合う内、やがて沙希はリラックスして微笑んだ。
「おやすみなさい。一樹」
「ああ。おやすみ、沙希」
瞼がゆっくりと落ちはしばみ色が見えなくなって、規則正しい寝息が上がり始めた。
一樹は生まれて初めて、『天使みたいな寝顔』だなんて、陳腐な言葉を脳裏に描く。本当に神の元に召された沙希には、ある意味相応しい言葉なのかもしれなかった。
くっついて眠るのは心地良かったが、熱帯夜には少し暑い。一樹は枕元を探って冷房のリモコンを手に取ると、二十五℃にしてから、沙希を抱き締めて眠りについた。
もう蝉は鳴いていない筈なのに、ミンミン蝉の澄んだ声が、耳の奥に残っていつまでも鳴いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます