第3話 馬に蹴られて

 沙希が、歌っている。一樹の好きな、ハスキーヴォイスで。

 高音域を出す時に、右手を軽く挙げる仕草は、見慣れたものだった。

 だがその声が、ヴォイスチェンジャーを通したように、次第に歪んでいく。


 ――But made……ma,mamama……mimi……ミンミン、ミィー……。


 蝉?

 一樹は、ハッとして睫毛を上げた。梅雨の名残か夕立か、夕方になって雨がパラつき蝉が静かになった束の間、うつらうつらとしていた。

 スマホで時間を確認すると、午後六時前。ほんの十五分程度のことだったが、随分長い夢を見た気がするし、頭もスッキリと冴えていた。


 プッシュ通知欄に目を落として、ギクリと鼓動が速くなる。沙希からLINEの返事が来ていた。

 思えば自分から告白をしたことなんて、ほぼないことに気付く。

 学生時代何度か告白されて、勉強や部活や何かのせいにして断ったことがあったが、告白を断られる恐怖というのは、こんなにも真に迫るものかと片手で口元を覆う。押さえないと、心臓が口から飛び出そうだ。


 数瞬逡巡して、一樹は清水の舞台から飛び降りるような気分で、えいやっと沙希からのメッセージを開いた。

 長文。断りの文句を回りくどく語られる予感に、血の気が引いた。


『一樹。ありがとう。あたしも、一樹が好きだった。でも一樹はベースに夢中だったし、何人かの女子の告白を断ったって聞いてたから、恐くて告白出来なかった。』


 そこで一度途切れて、『ありがとう』というペンギンのスタンプ。

 ありがとうと繰り返されるのには、抵抗があった。ありがとうとごめんなさいは、ワンセットのような気がして。


「落ち着け。いったん落ち着け」


 一樹は口元を押さえたまま、モゴモゴと口の中で呟く。


『一樹は今、バンドやってるの? 海斗と、ハウスとかでやってたりする? あたしは冴えない事務員。たまにカラオケでストレス解消するくらい。武道館でデビューライヴするのが、夢だったのにね。』


 話が逸れた。一樹は混乱しながらも、画面をスワイプする。


『嬉しい。あたし今、フリーだよ。また一樹のベースで歌いたい。一樹の彼女にしてください。よろしくお願いします。』


 最後に、『ぺこり』と頭を下げているウサギのスタンプ。


「マジかよ!」


 今度は爆発的に叫んだ。隣人が在宅なら、ひとりで叫んでいる危ない奴だと思われたことだろう。だが、初恋が実った喜びは止められない。


「やった! ぃやった!!」


 そして沙希にLINEを返す前に、まず海斗にLINEした。両手の親指を使って、もどかしく綴る。口頭なら、マシンガントークといったところか。


『海斗! 沙希から、OK貰った! 俺たち、付き合う!』


 すぐに既読が付いた。と思ったら、続けざまに着信音。


『マジかよ!!』


『やったね!!!』


『一樹、今日休みだったよな!!!!』


『乾杯しようぜ!!!!!』


 エクスクラメーションマークがどんどん増えていくのに、口元が緩んだ。

 彼は仕事中の筈なのに、ちゃんと仕事を出来ているのだろうか。

 余計な心配をしてから、眼球だけを上向けて、少し考えて返信する。


『沙希とデートじゃなかったらな。馬に蹴られて死ぬのは嫌だろ』


『あ、そっか。それはヤだ。じゃ、連絡待ってるよ』


 『OK』のスタンプを送ってから、沙希とのLINE画面を開いた。『彼女にしてください』の余韻を楽しむように、また煎餅布団の上で左右に揺れる。

 海斗とのLINEとは対照的に、ひと文字ひと文字確かめるように、ゆっくりと指先を運んだ。


『こちらこそよろしく、沙希。ありがとう。初恋は実らないなんて、もっともらしい格言は嘘っぱちだな。』


『俺も、もう音楽はやってない。大学に入ってバイト代で安いベース買ったけど、インテリアになってる。壁薄いしな。』


 そして続く文言を考えて、無意識で股の間にタオルケットを挟む。あの頃とは違って、邪な想いがそこをじんわりと熱くした。


『沙希、今日仕事か? 時間あったら、デートしないか?』


 枕も胸に抱え込んで、横向きになってディスプレイを見詰める。一分かからず、既読になった。


『一樹、夏休みだって言ってたっけ。あたしは五時半定時だから、もう終わったけど。でも初デートくらいお洒落して行きたいから、8時過ぎるけど良いかな?』


『俺は良いぞ。お洒落か、楽しみにしてる。どっか行きたい店とかあるか? なかったら、こっちでセッティングする。』


 デート向きの店のストックは、カジュアルからフォーマルまでひと通りある。今夜決めるという時に使う、シティホテル最上階のダイニングバーも。

 だが経験から、一応レディファーストで一樹は訊いた。女性は何でも自分で選択したがる嫌いがある、とは今までの恋愛で学んだことだ。

 迷うような間が数分あって、着信音が鳴った。


『もし良かったらだけど……一樹のうちに行っても良いかな? 材料買っていくから、ご飯はあたしが作るよ。明日休みだから、ゆっくり朝寝坊したい』


 思いもかけなかった直球の展開に、枕を抱える腕に力がこもる。


『いや、言ってくれたら、材料は俺が買っておく。作って貰うお礼に。どうせ8時まで暇だし。最寄り駅ついたら、LINEくれ』


『そう? ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えよっかな』


 ハートマークの散る『ありがとう』のキリンのスタンプのあと、買い物リストが送られてきた。

 ふうっと安堵の吐息を吐いたあと、本当に動物が好きだよなあなんて、一樹は呆れ半分に微笑む。


 明日はイチャイチャゴロゴロするのも良いが、もし沙希が承諾したら、上野動物園に行くのも良いかもしれない。ちょうど仔パンダが生まれてからしばらく経って、さほど並ばずに見られるという話だし。


 備え付けのクローゼットに向かい、勝負服に着替えながら、一樹は鏡を覗く。

 伸びてきた髭を電気シェーバーで手早く剃り、歯を磨き、サラサラストレートの髪にはブラシを通し、パンツのジッパーを少し下ろして勝負下着もオールOKなのを確認してから、買い物に向かった。


 タマネギは冷蔵庫に入っていたから、それ以外を買い込む。

 トマト。ナス。ブロッコリー。カマンベールチーズ。合い挽き肉。パスタ。

 パスタなのは分かったが、市販のパスタソース以外を食べたことのない一樹は、これで何が出来るのかと首を傾げつつ部屋に帰る。

 レジ袋ごと一緒くたに冷蔵庫に入れて、再度身だしなみを確認した。


 タイトなブラックジーンズに、カラフルな幾何学模様が入った白い半袖シャツ。

 それが、一樹の夏の勝負服だった。


 それから、脱ぎ散らかされた部屋着を洗面所の洗濯かごに放り込んで、煎餅布団を畳んでクローゼットにしまう。

 そうすると殆どもののない室内は、それだけで片付いてしまった。スタンドで片隅に立てられたベースが、やけにお洒落に目に映る。悪くない。

 あとは、沙希が最寄り駅に到着するのを待つばかりだ。


 ガランとしたフローリングの八畳間に胡座をかいて、尻ポケットからスマホを取り出す。

 時計はなく、時刻を確認するのはもっぱらスマホだった。

 午後七時半、同時にプッシュ通知も目に入る。

 しまった。海斗に連絡するのを忘れていた。


『一樹~!』


『沙希とのデートどうなった~?』


『8時くらいに駅に着くんだけど~』


 海斗は家こそ離れていたが、職場への通勤路の途中に一樹のアパートがあり、度々ふたりで家吞みをしては遅くまで話し込んでいた。

 

『悪い、連絡してなかった! 今日、沙希うちにくることになった』


 連続する着信音は、まるで海斗が賑やかに声を上げているように錯覚する。


『ええ!!』


『何それ!!!』


『いきなりおうちデートとか!!!!』


『プレイが高度すぎるだろ!!!!!』


 下ネタ混じりの海斗のLINEに、苦笑して返事する。


『悪い、舞い上がった。晩飯も作ってくれるって』


 送るのとほぼ同時に、着信音が鳴った。その素早さにやや驚いたが、海斗からのLINEではないのを知る。

 沙希が、早めに着いたのかな。そう思って開いたが、『ごめんなさい』の泣いている羊のスタンプが目に入った。追加のメッセージが送られてくる。


『一樹、ゴメン。デート、出来なくなった。ドタキャンなんて最低だよね。本当にゴメン』


 少なからずショックは受けたが、それより今後のふたりの関係を鑑みて、咄嗟にフォローの言葉を返信した。


『いや、何かあったんだろ? 謝らなくて良いから。大丈夫か?』


 着信音が鳴ったが、今度は先とは逆に海斗からのLINEだった。


『この幸せ者~~~!!!』


 迷いは一瞬で、一樹は海斗にメッセージを送った。このショックと食材は、男同士で消化してしまうしかない。


『海斗、もううちの駅過ぎたか?』


『いや。今、ひとつ前』


『沙希から、今夜キャンセルのLINEきた。食材も余ってるし、うちで吞まないか?』


『え? なに? 沙希にフラれたの?』


『フラれたとかではないと思う。何回も謝ってたし』


『微妙だね。とりあえず、幸せ者になり損なった一樹くんの、残念会を開こうか』


『缶ビールは4本ある。あと足りない分は適当に買ってきてくれ』


 『了解!』のスタンプを確認してから、一樹は長く溜め息を吐いた。自分で思うより、ダメージは大きいらしい。

 未練がましく沙希とのLINEの履歴を遡って、『彼女にしてください』の部分で、フラれた訳ではないと己を慰めようとする。

 順々に辿っていって、最後のメッセージが既読になっているのを確認し、時計を見て、もう十分以上も返信がないことにふと不安になった。本当に、何かあったんじゃないだろうか――。


 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 ドアスコープを覗くと、海斗だ。缶ビールで嵩張るレジ袋を目の高さに掲げている。

 鍵とチェーンを外して出迎えると、海斗は仰天して目を丸くした。


「あれ!? 沙希、来てんじゃん! キャンセルがキャンセルになったの?」

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