第2話 初恋
中学二年の夏は、酷暑だった。場所は都心だったが近くに木の生い茂る庭付きの豪邸があり、蝉の声がいつも響いていた。
――ジージー、ジリジリジリ……。
アブラ蝉の大合唱が鼓膜を揺らす。だがそれは音としては認識されず、一樹は背もたれのない丸椅子に座って、安物のベースのチューニングに一心不乱に励んでいた。
冷房なんて気の利いたものはない。黙って座っていても、顎から汗が滴るような暑さだった。
「よーっす!」
いきなり引き戸がガラッと勢いよく開き、海斗が入ってきた。
ふわっと広がるようなボリューミーな髪はやや長めに伸ばされ、身長は一樹の頭ひとつ分低い。やや中性的な顔立ちにとっつきやすい明るい性格とくれば、清潔なものを好む多感な時期の女子にモテる訳だった。
一樹も違うタイプのルックスで密かに想いを寄せる女子は多かったが、ベース一筋の硬派さから、近寄りがたい印象があった。
「おう」
生返事をして、チューニングの終わったベースで幾つかコードを押さえる。
その間に、海斗は鞄を下ろしてドラムセットの椅子に座った。だが楽器はいじらずに、スティックを手の上でくるくると回しながら一樹を眺め、暇を潰す。
ややあって、今度は扉がコツコツとノックされた。入ってきたのは、沙希。軽音部の歌姫だ。
「暑~い!」
緩く巻いた天然パーマをポニーテールに纏めているが、それでも襟足に髪がかかる長さに、沙希は辟易として半袖ワイシャツの前を摘まんでパタパタと風を入れた。
ぬるま湯に浸かっているように熱風が入ってくるだけだったが、それでもイライラの解消にはなる。
気の強さを体現したかのように、切れ上がったまなじりとハスキーヴォイスを持った、気まぐれな長毛種の黒猫みたいなイメージだった。
色素の薄いはしばみ色の虹彩が、余計に猫を連想させる。
鞄を下ろすと、短いスカートを揺らし、ストレッチを始める。声を出す前に必ず行う、ルーティーンだった。
軽音部は、以上の三人だ。曲がりなりにも進学校だったから、内申書に影響しない軽音部なんて軽薄な部活はなく、洋楽の話で意気投合した三人で今年度作ったものだった。その為、先輩も後輩も存在しなく、実に気楽だ。
廃部になっていた合唱部の防音室を間借りして、毎日思い思いにテクニックを磨いていた。
貧乏揺すりでもするかのように、海斗が左右のペダルを踏んで、バスドラムとハイハットをドンシャンと出鱈目に鳴らす。
「沙希」
「何」
「パンツ見えてる」
海斗はふざけて、ぐふふと笑う。
「見えても良いの! レギンスだから。スケベ海斗」
沙希は一蹴して、視線すら向けずに黙々と身体を伸ばす。
一樹はその会話にも加わらずに、最近練習を始めたベンディング――日本ではチョーキングと呼ばれる、左手で押弦しながら弦を引っ張ったり押し上げたりすることで音程を上げる奏法に挑戦していた。
ギターより遙かに弦の太いベースでは、半音上げるハーフチョーキングが一般的だ。それでもこの練習では指が痛くなり、一樹は弦から左手を離して軽く振った。
「いったん休憩」
誰に聞かせるともなく、小さく呟く。
沙希が端に寄せてあった丸椅子をひとつ一樹の前に持ってきて、足の間で座面を掴んで正面に座った。
「一樹、指大丈夫?」
「ああ」
「見せて」
一樹は左掌を挙げて、指をバラバラに動かしてみせた。
「赤くなってるよ」
「良いんだ。指を硬くするにはちょうど良いし、一番練習したって気になるから」
「そっか」
――ジージー、ジリジリジリ……。
「あ」
ふと思い出したように、海斗が声を上げた。
「どうした」
「一樹、ボウイのアルバム聴いた?」
「ああ。聴いた。持ってきたから、返す」
三人は、一九七〇年代に全盛を極めたデヴィット・ボウイに代表される、グラムロックに夢中なのだった。海斗が手に入れたのは、その一枚だ。
中学生では頻繁にCDアルバムを買うことは出来ず、三人の内の誰かが小遣いで買うと、回し聴きして感想で盛り上がるのだった。
「どれが一番良かった?」
「あたしは」
先に聴いていた沙希が、そこまで言って息を吸う。
「「「夜をぶっとばせ」」」
三人の声が、見事に揃った。海斗が興奮気味に話し始める。
「やっぱ、そうだよな! ボウイがストーンズのカバーとか、神かよ! って思った」
「あと、ベースがカッコよかったよね。一樹のベースで聴きたいって思った」
「俺も、沙希の声で脳内再生されてた」
へへ、と海斗が笑った。
「何だ?」
「いや……何でもない」
なおも含み笑う海斗に、沙希がピシャリと言い放つ。
「どうせ、やらしいこと考えてるんでしょ」
「かもね~」
「……久しぶりに、ジギースターダストでもやるか」
我関せずと言った調子で、一樹が呟く。それはボウイの、彼らのバイブルじみた曲だった。
「良いね!」
海斗が一声上げて、沙希は無言で立ち上がった。
ギターソロから始まるこの曲を完全再現することは出来ず、海斗がスティックでカウントを刻む。
バンドスコアは高くて手が出ずに殆ど耳コピだったが、この曲だけは部費で購入して貰った。
手数の多いドラムスと同時に、ベースがゆっくりと重厚に響く。それに重ねて、ハスキーヴォイスがテノールめいて吠えた。
一樹は、沙希のこの時の声が特に好きだった。
掠れ上がる強い咆哮は、唯一無二の個性だと、けして言葉にはしないが演奏しながら酔いしれた。
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