【燃え尽きるような蝉の恋】

圭琴子

第1話 蝉の声

 昨日までは長雨の喜びにひっそりと蛙の夫婦だけが輪唱していたが、現金なもので今日はもう蝉がうるさいくらいだ。

 燃えるような気温の中、燃えるような恋をたった一度して儚く散っていく命だと考えれば、とても苦情なんかは申し立てられなかったけれど――。


 一樹かずきはそんな風にぼんやりと考えながら、ベランダで狂おしく恋のうたを歌う蝉の方に、起き抜けの眼球だけを動かした。

 エアコン代をケチった昨夜は湿度が高くて寝苦しく、夜中に何度も起きたせいか疲れが取れずに、目の焦点が合っていない。


 ――ミーン、ミンミンミン……。


 ああ……あれは、ミンミン蝉だ。灼熱の東京都心部には殆どアブラ蝉しか居ない筈なのに、この澄んだ鳴き声は涼しい山間部を好むミンミン蝉だ。

 去年は比較的涼しかったから、ウッカリ屋のお母ちゃんが卵を産み付けていったのか――。


 都心なのに二階のベランダから緑が臨めるなんて素敵だなと思ってこの部屋に決めたが、毎年蝉の声に悩まされるとは盲点だった。

 束の間の静寂に、涼しげな奥二重がとろりと二度寝に溶けそうになったが、また件のミンミン蝉が鳴き始める。

 それはまるで、まだ見ぬ恋人を想って切なく泣いているようでもあり。


 ――ミィーン……ミンミンミン……。


「あ……チクショ」


 一樹は呟いて寝返りをうち、サラサラと枕に零れる黒い前髪を握りしめた。せっかく、就職してから初めての夏休み二日目なのに、惰眠を貪ることすら叶わない。

 一樹はもう一度天井を仰ぎ、寝不足で熱っぽい額に手の甲を当て、細く吐息した。


 実は、よく眠れなかったのは湿度のせいだけではない。

 昨日、一樹は中学の同窓会に行ったのだ。大学を出てから新卒で今の会社に入ったから、実に十年ぶりの邂逅だった。


 一年の時は初等科からのエスカレーター組が幅を利かせていてヒエラルキーは底辺だったから、あまり良い思い出はない。

 三年の時は志望校が実力より高くて勉強に忙しく、友人と遊んだ思い出なんて数えるほど。

 二年の時が、一番楽しかった。初恋を知った、あの夏が。


 ただ、それが初恋だと知ったのは、大学に入って悪友の海斗かいとに合コン通いを付き合わされるようになってからだった。

 合コンではよく俳優の誰に似ているなんて話題になり、日本の芸能事情に疎い一樹はいつも頭の上にクエスチョンマークを瞬かせていたが、その度に海斗が分かりやすく噛み砕いてくれるお陰で助かっていた。

 彼曰く、一樹は『塩顔』というやつらしい。歌番組でかろうじて知っていた星野某みたいな、と言われて得心する。

 スマート過ぎるくらいの痩せぎすで、身長は高かった。

 だから、なのだろうか。女性の方から誘われることが多かった。


 人並みに初体験を済ませ、人並みに付き合って、人並みに失恋コースまでを何度か繰り返した。

 そうして、初めて知る。中学二年のあの夏、自分は初恋をしていたのだと。


 軽音部のカビ臭い部室で語る熱量は、あの頃の夢の大きさそのままだった。

 一樹はベースをかき鳴らし、海斗はドラムス。初恋の君の沙希さきは、ヴォーカルだった。

 進学校だったから、部員はきっかりその三人。

 発表の場もないくせに、いつかマディソンスクエアガーデンを満員にするんだなんて、今思えば荒唐無稽な夢を語り合っていた。


「あ……」


 また一℃、手の甲の下の額が、熱を帯びる。

 昨日一樹は海斗と共に同窓会に参加して、沙希に再会したのだった。

 中学時代は伸ばしてポニーテールに纏められていた天然パーマの髪は、ミディアムボブにカットされ、洗練された大人の女性の雰囲気だった。


 でも話し始めた途端、三人はすぐにあの頃に戻っていた。

 三人だけでカラオケ二次会に繰り出し、沙希の芯の強いハスキーヴォイスに聴き惚れる。

 そんな時、海斗がふと冗談半分に呟いたのだった。


「俺さ。一樹と沙希は付き合うと思ってたんだよね。だって、すっごい両想いって分かったから」


 その言葉に、身体の中で心臓が、活きの良い魚みたいにピチピチと跳ね始める。

 でも、もう十年前だ。悪い冗談だと笑い飛ばそうとして沙希を見たら。気の強い筈の彼女が、顔を真っ赤にして掌で口元を覆っていた。

 それを見てはひと言も発せずに、一樹も顔を赤くして、ポストみたいに細くわだかまることしか出来なかった。

 

 気まずさを恋の矢に変えたのは、他でもない海斗だ。

 真ん中に座っていた彼は席を空け、殆どまともに言葉を交わせないふたりに変わって強引にLINEを交換させて、その翌日なのである。


 まだ、メッセージは送っていない。

 寝不足の頭にガンガン響く蝉の声に二度寝は諦めて、枕元のスマホを横になったまま顔の上に掲げ持った。

 ここはやっぱ男からだろ、と一樹は夢うつつに練っていた渾身のメッセージを打とうとしたが、ロックを解除した瞬間、鼻の頭にスマホを落としてしまう。


「いって! ……マジか……」


 うう~と不明瞭に唸って、一樹はスマホ片手に煎餅布団の上を子どものようにゴロゴロと転がった。

 沙希から、LINEの表示。震える指先で、メッセージを開く。


『おはよう』


 一樹は拍子抜けしたあと、それでも嬉しさがふつふつとわき上がって、たったひと言の可愛いパンダのスタンプをつついてみたりする。

 何と返そう。そう考えていたら、LINEの着信音が鳴った。海斗だ。


『起きてるか? ちゃんと沙希に告白したか?』


 沙希にはこんなにも悩むのに、海斗相手にはフリック入力が素早くはかどる。


『今起きた。うるさいな。これからバシッと決めてやるんだから、黙ってろ。』


 間髪入れずに既読になって、また着信音が響いた。


『ごめんね!』


 字面は殊勝だが、絵面は皮肉っぽく舌を出したスタンプに、思わず笑う。心がスッと軽くなる。海斗は、意図せずにふたりのキューピッドになっていた。

 一樹はまた沙希のパンダスタンプを見詰めて、自分もスタンプを探す。


『おはよう』


 動物が好きな沙希に、猫のイラストのスタンプを選んだ。そして、ディスプレイに指を走らせる。


『昨日は楽しかったな。LINE送らなくてゴメン。何て送ろうか、ずっと考えてた。』


 素直に気持ちを伝えて、変に格好付けるのはやめる。一晩練っていた文章は忘れて、純粋に。


『海斗が言ってたことは本当だ。俺、沙希が初恋だった。でも中学の頃は、分かんなくて。もし今パートナー居なかったら、付き合ってくれないか?』


 そこまで一気に打ち明けて、沙希のスタンプの送信時間が一時間半前なのに気付く。スマホの時計を見ると、午前九時過ぎ。

 平日だから、仕事中の可能性に思い当たった。

 鼓動を速くして画面を三分ほど見詰めていたが、既読になる気配は全くない。


「やべぇ、拷問かよ……」


 無理矢理にスマホにロックをかけて、一樹は起き上がって胡座をかく。格好は、Tシャツに短パン。それでも首回りが気持ち悪いくらい、汗をかいていた。


「いったん落ち着け」


 それが、一樹の口癖だった。そのまま煎餅布団の上で衣服を脱ぎ散らかして、新しいTシャツに短パン、下着を箪笥から取り出し、バスルームに消えていった。

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