異常性癖か必然か

 世の中には異常な性癖を持った人間はいくらでもいて、その大半は単なる異常者として迫害されたり迫害を恐れて真人間に擬態したりして生きてるんですけど、文学の世界ではそういう異常性癖にスポットライトが当てられることがあります。三島由紀夫とか谷崎潤一郎なんかはまさにそういう性癖を文学に昇華させた人です。
 大事なのは三島や谷崎に描かれてる異常な性癖は、必ずしも作者自身の性癖そのものではなかったりするという点です。もちろん『仮面の告白』のような、作中の語り手と作者がかなりの程度に重なり合ってる作品もありますけども、三島は金閣を焼いてないし谷崎は誘拐した女の子を薬で眠らせて勝手に入れ墨を彫ったりはしていません(実はしてるのかも知れないけど今のところそういう事実は明らかにされていません)。彼らの描く性癖は表現の手段であって事実の描写とは違うんですよね。この辺りはたとえば田山花袋なんかとは全然違って、現実に存在している欲望をありのままに表現しようという立場とは全く違う。そういう意味で、三島や谷崎が描く性的倒錯はれっきとしたフィクションであり、フィクションであることに価値がある。
 とはいえ、フィクションとしての性的倒錯は、それが単に過激で異常であれば良いというものではない。単に過激で異常な性癖を描くのはただのエログロであって、それならそれで良いんですけどそれを「文学」と呼ぶ人はあまりいない。文学としての性的倒錯は、そこに何らかの必然がなければならないのだと思います。客観的に見れば頭がおかしいとしか思えないような、そもそも現実に存在するのかもよくわからないような異常な性欲に、何らかの真実を感じてしまうような必然性が投影されるとき、それは肉欲以上の何かを表現するものになるんだろう、と思います。
 ではこの作品にはそういう必然性があったのかなかったのか、という話になるわけですが、僕は“あった”と思います。現実にこういう人間がいるかどうかは知らないしどちらかといえばいない方がいい。それでも、語り手がライターを手に取り、『金閣』を燃やす描写にはえも言われぬ説得力を感じる。
 他の方がどうだったかはわかりませんが、私は件のシーンで全然笑えませんでした。作者さんとしては笑って欲しかったのかもしれないしそうだとしたら少々申し訳がないのですが、あまりの生々しさと真実味(現実にありそう、という意味ではありません)に圧倒されて、それが端から見てどれほど異常で馬鹿馬鹿しいことなのかに、すぐには思い至らなかった。
 くどくなりすぎない程度の引用を交えたリズミカルな文体は、誰か上手い人に朗読して欲しい、耳に心地よい歌のようで、でもそのリズムに流されきらない深く根を張った主題が味わい深く、内容の過激さから言って非常に難しいんですけど、国語の教科書に載せたいって本当に思いました。

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