「ファンタジー」である意味。

※このレビューは「ファンタジー」について書いてますけど、書いてる人は「ファンタジー」といえばトールキンとハリポタとナルニアくらいしかイメージできないくらいに普段小説を読まない人なのですごく的外れなことを言う可能性があります。


僕らが「ファンタジー」を書こう!と思ったとき、実際に書きはじめたり、完成させることができるかどうかはともかく、最初に考えるのって設定とストーリーだと思うんです。世界観考えるの楽しいですしね。世界観だけめっちゃ詳細に作り込んで肝心の本文は1文字たりとも書かないままラノベ作家の夢を諦めたオタクはいっぱいいると思います(僕もです)。

ただですね、設定とストーリーの面白さで魅せるっていうのは、必ずしも小説の作り方ではないんですね。少なくとも設定とストーリー展開“だけ”が小説の魅力ではない。この辺、ラノベとかロールプレイングゲームが「物語」の原体験であるような世代に特有の問題だと僕は思っていて、僕もそうですが小説を読んだり映画を観たりするときに、どうしても設定とストーリー展開をまず気にしてしまうし、自分が創作をするときにもそこから考える。それ自体は別に良いことでも悪いことでもないんですけど、「小説」という形式の最大武器って、実は設定でもストーリー展開でもなくて(その2つが最大の武器になるのはロールプレイングゲームです)、「文章」なんですよね。当たり前なんですけど。

ところが、文章の美しさを追究する作品を書こうとすると、「ファンタジー」という世界観である必要性ってあまりないんですよね。むしろ、日常のさりげない一コマを磨き上げられた表現で意味付けするような作品こそ、文章の底力を感じさせるものだし、美しい世界を美しい言葉で表現するのは、簡単だからこそ難しかったりするんだと思うんですよ。

で、この作品なんですが、まずもう書き出しの一文が本当に素敵ですよね。ぐっと引き込まれる。そして、「春」を「花招き月」とするような世界観と、文章のリズム感がリンクしてる。ファンタジーの世界だからこそ可能な文章表現なんですよね。ファンタジーであることにきちんと意味がある。

幻想の世界を、幻想的な文章で表現してくれる小説。幻想の世界で、特別な事件で読者を驚かせるということでもなく、ただただ美しい世界の情景が活写される、でも「ファンタジー」という形式でなければ成立し得ない世界、そういう小説、ありそうでなかなか無いよなって思ってます。少なくとも僕は読んだことないし、そんな小説をずっと読んでみたいって思ってたけどようやく見つかった、という気持ちです。

美しい、とても美しい世界でした。