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  • 編集済

    工藤様

     あけましておめでとうございます。(と言いつつ、もう一月も終わりに近いですね……)
     坂本です。
     去年に引き続き、今年も変わらぬご厚誼のほどよろしくお願い申し上げます。

     はじめに、タイトルの件、まことに嬉しく思っております。一方で、答え合わせではないですが、ご提示いただいたタイトルに対して私が勝手に送ってしまった予想と、工藤さんの実際にお書きになった随筆を比較してみて、やはり余計なことをしてしまったと感じ、恐縮しております。

     お祖母さまとの週おきのご習慣、まことに微笑ましく、そして羨ましく思いつつ拝読しました。私の家族は些かコミュニケーションが希薄で(不仲なわけではないのですが)、私など今年の正月に二年ぶりに父と会話をしたくらいですから……やはり、家族との時間は大切にするべきですね。

     しかしながら、時間という観念の内省的な咀嚼の末に、ある種の食傷に陥ってしまうというのは、物を書く人間、或いは斯様な時間的進行を原理に持った諸営為に深い関心を持つ人間にとっては、避けがたいことなのかもしれませんね。自身の経験を顧み、そして工藤さんの随筆を拝読しながら、そんなことを考えていました。
     暦の巡るのに呼応して、街の草花などが、まるで神がぜんまいを巻きなおすように、毎々新しい姿で顔を出すのを見ていると、リニアであるはずの我々の生活も、オルゴールの機構に似た自然現象の機械的繰り返しの中に織り込まれていくような、そのような錯覚に囚われてしまいますね。
     年毎に転生を繰り返す花や虫のような短命なものたちが、長寿に恵まれた我々人間に対して、裏腹に永遠の印象を与えるということには、皮肉と言うべきか、それとも福音と言うべきか、なんとも判じ難いものがあります。

     私もまた、オルゴールのぜんまいを巻きながらそれの止まるときを考えて憂鬱になる質の人間ですから、いわんや人生について考えるとなると、この感も殊更に強くなります。
    年齢と言う概念は実に呪わしいものです。
     自然の輪廻の機構に便乗して人間の生み出した円環の虚構に、楔を打つように刻々と数え上げられていく数字は、いつしか死の足音の様に聞こえてきて、気が付けばいつ訪れるともしれぬその瞬間へのカウントダウンへと響きを変じている。子供の頃は誕生日が来るのが楽しみで仕方なかったのに、まるで遅効性の呪いのようです。
     年齢だけでなく、こういった、我々の生身の肉体に纏わりついて、我々を我々自身以上の何者かにしてしまう情報の垢のようなものに不図際すると、何処かへ走り出したくなるような衝動に駆られます。(スキマスイッチの「全力少年」のような感じです)
     私が言葉を操ろうとするのも、こうした諸々の強迫への反抗心が動機にあるのかもしれません。

     今回ばかりでなく、工藤さんの洞察にはいつもはっとさせられています。年の初めにこの随筆を読むことができたことは私にとって大変幸福なことでした。
     少し軽佻なことを言うようですが、工藤さんの随筆に漂うこのどこか感傷的な雰囲気も、その源を明確に捉える洞察によって力強く把持されている感じがあり、私には大変心強い気がします。

     本当はもっと早く感想をお送りしたいと思ったのですが……考えがまとまらずぐずぐずしているうちに、気付けば二月に垂んとする今頃になってようやく踏ん切りがついたという為体。とりとめもない文章を送ってしまったことと併せてお詫びさせてください。

     そして希はくは、今年も工藤さんとこのような遣り取りが続けられますように。


    追伸
     死は人生を決定された歴史に変えます。文字もまた、それの書かれていく瞬間から漸次的に決定されていく歴史的事物なのですから、文を書くというのは謂わば死の予行のようなものでしょうか?
     死はその一瞬の内に、後につづく永遠を飲み込んでしまう極めて強力な特異点的事象ですから、時間は必ずしも文字の優位にはないのかもしれませんね。

    作者からの返信

    坂本樣

    嬉しい「お年玉」を頂戴してしまいました……御礼申し上げますとともに、本年も旧年と変わらぬお付き合いを賜りますよう此方こそお願い申し上げます。

    にしましても、半年程前のご旅行の折でしたかその後でしたか、「近々に随想録にてお目に掛けられればと思います」などとお伝えしており乍ら龍頭蛇尾の為体、何とも遅くなりまして面目次第もございません……そして今しもあれ、辰年という機縁(奇縁?)のあることですから、出来得れば年初に気宇壮大なる龍のまま、残りの三タイトルも年内に平らげて随想録に収められるよう努める所存です。万一にも龍頭の舟が沈みそうになったらば、今年はもう一方の鷁首の舟に乗り移ってでも確と書き果せようと、コメントを頂戴して心新たに致しております。何時も私に活力を下さり、本当に有り難うございます。

    また「余計なこと」とはとんでもないことで、あの当時の坂本さんが「オルゴール――」のタイトルから抽出して下さったエッセンスは、私が今話に含めた想念のその先まで届いていて何処か頼もしささえ覚えておりました。私は俯く許りで、坂本さんは俯いてから顔を上げたように思えた……そこには新生への慥かなる予感がありましたし、私にとってのこの上ない福音となってくれました(後述)。ですから「或いは同タイトルで坂本さんの書かれた方が面白いのではあるまいかと、本気で思い始めてきました」という私の見立ては今以て変わっておりません。とは云え、私も私としてこれを皮切りに、次は「掌上の小さな美術館」を今度こそ近々にお目に掛けられるように支度致します。

    扨、家族、ですね。実は本日(昨日)が電話の日でした。祖母の古くからの知人で同い年の方が、住み慣れた家を離れてご子息と同居された直後に亡くなってしまったことや(年老いてから住み処を変えるべきではないとぼやいておりました)、私の従弟の恋愛事情(どうやら相談を受けているらしく、「90近い婆以外に相談する人はいないのかねェ」と気を揉みつつも、他人の心配をしているから元気なのだとも)など口の端に上せて1時間近く喋った後、矢張り「長生きしてね」とは云わずに今回も通話を終えました。このようなひと時を「当たり前」のものと思われなくなったのは恐らく、私自らの生まれ育った家族とその周縁にいる親族達の誰もが快活である裡は無限に続くやに思われた行住坐臥も、彼彼女らの「老」「病」「死」によって縮退し竟には終わりを迎えるのだと実感し始めたこと(即ち私自身にも漂うようになった老い)に加えて、私自らが親族核となる新たな家族を未だ形成していないことも少なからず影響しているように思われます。そして私はここ数年、私自身の〈子の不在〉を否応にも意識せざるを得なくなっております。

    今話では、人生を、続く限り同じ音色を反復して奏でる「オルゴール」に擬え、その「ぜんまいが切れる」ことを死の暗喩として用いました。全く以て坂本さんのご解釈の通りです。その上で悔しいかな、私はそこまでしか考え至っておりませんでした。けれども、半年前にあの4つのタイトルを私が提示した時、坂本さんは「ぜんまいが切れる」その先に「ぜんまいをもう一度巻きなおす」ことを「生の予感」「復活の契機」として見出して下さった、そのことが私には大きなヒントとなってくれました。

    人生というリニアと暦法のサーキュラーの両運動は、かたや一回性のもので、こなた回帰性のものであるという異なる性質をそれぞれに持ち乍ら、だのに恰も線路上を趨る「車輪」として違和感なく彼我の性質は止揚され両立しているようにも見える……そのことが私には不思議でなりませんでした。けれどもそれはそれとして、坂本さんが「巻き直す」ことを「生の予感」「復活の契機」として抽出して下さったことで、これは未だ煮詰まってはいないのですけれども「リニアにおける“反復”」という着想を私に与えて下さったような気がします。厳密には〈親〉の歩んだ人生の轍、軌跡を〈子〉が追体験?する、親の後ろを子が辿ることによって親の人生そのものが是認される(無論、そうでない場合もあろうものの)という意味での“反復”で、これを或いは書き止したままの『まじりけ』の一部にて作中人物に考察させたり(未だ公開できる段階にないのが残念至極です)、或いはよりその原液に近い形で、今や私の中の「幻の大作」(笑)になりつつある『父と息子の対話〈ディアローグ〉』(以前、章立てだけお目に掛けたことありましたっけ)にて、それそのものを描いてみたいと思い続けて今に時を過ごしております。お目に掛けることの出来るか心許ないこと乍ら、「予感」だけでも先ずはお届けできればと存じます。

    私も「全力少年」(この曲の爽快感、誠にスカッとしますね)には戻れぬまでも「全力中年」らしく、スポーツクラブのトレッドミルに時速8.5~9キロ程度の低速でジョギングして汗を流し乍ら、若い頃には思い巡らすことのなかった事柄について考えられるようになったことを僥倖と思い、追伸にて頂戴した又しても滋味深いご示唆に導かれつつ、本年も随想その他の書き物を続けて参ろうと思います。往復書簡、今後ともよしなにお願い致します(此方でも何やら私信のようになってしまいましたね)。

    追伸:
    但願人長久……そして年を踰えて持ち越してしまった私の方の「宿題」につきましても、今少し提出をご猶予下さいますと幸いです(未だ諦めていません!)

    編集済
  • 大切な人の死について深く考え込むのは苦しいですよね。
    私はすでに何人も身近な人の死を経験してますし、とても大切な人の死も経験していますが、いつでも苦しくて笑うことさえできずに日々が過ぎていた時期もありました。
    そうした時に子どもたちが私を笑わせようとして面白いことを言ってきて、思わずふっと笑ったら、子どもたちがとても喜んだことをふと思い出しました。

    理詰めのエッセイを書くのはこういった意識的な葛藤を乗り越えないと無理な面もあるので、ご自身のお気持ちを大切に綴られることを心から願います。

    作者からの返信

    中澤 樣

    元三のお忙しい中にもご高覧下さいまして有り難うございました。また遅れ馳せ乍ら、本年も旧年中と変わらぬご交誼の程、お願い申し上げます。

    今ある日常が日常でなくなる日のことを、ここ数年は強く意識するようになりまして、実は擱筆後に、「居なくなる人」を補ってくれる、と云うと些か語弊があるやも知れませんけれども、先人の居なくなって心細くなっている自分を、後から追い掛けて来て、恰も自分の人生を「反復」若しくは「肯定」してくれているかのような〈子供〉という存在がいれば、嘸かし頼もしかろうと思い馳せていたところでした。

    中澤さんのお子さん達はお優しい、そしてご立派な方達ですね。

    何時も何時も励ましのお言葉頂戴しまして恐縮です。今以て省エネモードではございますけれども、今年は昨年よりも色々とお目に掛けられると良いのですけれど……。

  • こんにちは。
    味わい深い文章で綴られるエッセイを、ここまで楽しませていただきました。
    カクヨムには凄い才能をもった方々が隠れておられて、そんな方と交流できるのが魅力のひとつですね。
    互いに響き合えるような文友を得られたのは、工藤さんの才と真摯な姿勢あってのことだと推察します。だからこそ衝突も避けられなかったのかも、とも。
    呪いのような叱咤さえ糧にして、これからも素晴らしい文を生み出されることを期待して、続きを楽しみにしています。

    作者からの返信

    久里 琳 樣

    何時もご高覧賜りまして有り難うございます。

    眠られぬ夜に萌した想念を、ついついその惰力の存うるに任せて連ねられるだけ書き連ねておりますエッセイ、何かと長々しく仰々しく、お見苦しいところもあったかと存じます。

    誇張でなしに、まさしく此方が目眩を催すような「才能」をお持ちの方が、仰るようにカクヨムには「隠れて」いらっしゃいますね。書き物をする理由は人によって様々でしょうけれども、私はこの第拾肆夜の「その方」の言葉をそれが「呪い」でなく「啓迪」であったと思えるようになる日を夢見て、勿論、それだけを目的とする訳ではないものの、己が心裡に起こっている榾火の熱を維持しつつ細く長く書き続けられればと今は考えられるようになりました。

    ですから、久里琳さんの掛けて下さったお言葉も糧に今後とも精進致します……と申し上げたいところ乍ら、私の想念は持続力が心許ないものですから、早晩、燃え尽きないように按配して参る所存です。思い出したように或る夜、新しい投稿をしているやもしれませんから、その時は是非また遊びにいらして下さいね。

    追伸:
    毎週末、御作の更新も愉しみに致しております。

  • 書き記すことで熟考が深まるということはありますよね。今後も工藤さまが目指したい方向に向かわれることを心から願っています。

    Twitter歴は私も長いですが、PTAやお受験などで忙しかった時期は放置状態でしたし、執筆の方も5年ぐらい断筆していた時期もありましたが、五行歌はほそぼそと続けることができ、その関連でTwitterも復活し、カクヨムを始めるきっかけをいただき、今に至ります。ですから、時々で自分の方向性を見誤らないよう、気をつけていることはあります。

    尚、お恥ずかしながら、私が毎日記しているメモ帳は人に見せられるものではありませんが、けっこう大量にありますし、悩む時など、昔のことで忘れてしまっていることはないかと見返すことがあります。工藤さまの随想録を読んで、そんなことをふと思い出したりしていました。差し出がましいかもしれませんが、少し勇気を出して、コメント致します。

    作者からの返信

    中澤 樣

    早くに拙文ご高覧下さってコメントを頂戴しておりましたのに、今にお返事の遅れましたること、先ずはご宥恕を乞う次第です。失礼致しました。
    それから先だっては、年始のツイート(※「旭旆」投稿のお知らせ)にこのタイミングでいいねを頂戴しましたこと、「原点に戻りなさい」と仰って戴いたようで一等嬉しうございました。有り難うございました。

    「毒にも薬にもならない散文」を標榜する随想のくせに、稍暫くは毒にもなり薬にもなり得るファルマコンのような「夜の言葉」を、twitterでは文字を用いないと決めた分、此方では存分に……などと意気込むつもりでもおりましたけれど、中澤さんのお優しいコメントを拝読しまして、それも程々に、力まずに(若しくは工まずに)連ねて行けば良いのだと気が楽になりました。

    「毎日記しているメモ帳」とは、何を書き留めておられるのか興味の尽きないところですけれど、そうでした、以前、別の拙文に“carnet”という言葉でレビューを頂戴しておりましたこと思い出しました。パリへの「通行証」という意味のその仏語は「手帖」という原義を持つのでした……中澤さんのカルネ、何やら深く納得できたような気が致します。

    今後とも宜しくご交誼の程、お願い申し上げます。

    編集済

  • 編集済

    工藤さん

    素晴らしいエッセイでした。美しい言葉で、微妙な感情や細やかな感性を見事に言語化なさっている、その技術に感服です。私もエッセイのようなものを書きましたが、改めて自分の未熟さを思い知らされているところです。

    こんな壮大な経験をなさっていたのですね。
    私には知も才もありませんが、それでも、誰かの才能に魅入られるあまり自分を失くしてしまう感覚、分かる気がします。
    純粋で、美しくて、とても苦しい思いをされてきたのですね……。

    過去の文学者たちも、食い違う意見を激しくぶつける手紙を送り合い、喧嘩したそうですね。芸術に、言葉に、真摯であればあるほど、スタンスや性質の違いからくる微妙な食い違いが、思いっきり拗れてしまうのでしょう。でもそれは、その方も工藤さんも一生懸命に「大切なもの」を守ったからこそではないでしょうか……そんな気がいたします。

    自分の芸術への誇りを守ることは、表現者にとって必要なことです。例えそのせいで誰かとの別れが来たとしても……私は工藤さんに、ご自身の世界を守ってほしいと思います。

    最近、お心が特にお疲れのご様子で、ご心配申し上げております。暖かくなさり、美味しいものを召し上がり、きっと、工藤さんのペースでお元気になってくださいませ。

    末筆になりますが、今後とも仲良くしたくださると大変嬉しいです。
    なにとぞよろしくお願いいたします。

    作者からの返信

    釣舟草 樣

    拙文、何とも早くにご高覧下さいまして誠に有り難うございました。
    「独り相撲」二月場所の興行を終えてから意気の中々に復ち返りませんで、今にお返事の遅れましたること何とぞご海容下さいませ。

    殆ど逡巡することのなく一時に、筆の赴くままに言葉を鋲打ちするように留めて行く書き物は随分と久し振りで、堰を切った言葉が止め処もなく奔流してし尽くして何も残らない状態(いま少し品のない譬喩を使いそうになりました……危ない!)、全く以て憑き物が落ちたとはこういった状態を名指すのではないかと、私自身も驚いております。

    この度のアポトーシスは必然だったのかもしれません。その心地良い自壊と再生のスイッチを入れて下さり、見届けて下さった釣舟草さんに感謝の念のみが募ります。

    何時ぞや御作にお送りしましたコメントとともに、その御作に描かれた戦火と焚火のこと、思い返しておりました。私は彼らにとっての「火」を「大人」の暗喩と読みましたけれども、翻ってこの度の私にとっての「火」はまさしく「言葉」そのものでした。
    ふらふらと「火」遊びをしている裡に急に足許の不安定となったその立ち位置から目にした釣舟草さんの「火」の持つ不思議な力に私は「ドキッと」して、その火影の先に長く延びた幻を懼れたのかも知れません。如何なる「火」であるか、ということとともに、その「火」と如何に対するか、それは銘々の「足場」にもかかっているようで、だからこそ見える景色も異なるのでしょうね。

    「世界」……この言葉を何の躊躇いもなく使っておりましたものの、今は倨傲のように思われ、些か面映ゆくもなって参りました。それこそ顔から火が出そうですけれども、兇暴な「火」の乱舞を経てそれでも遺された(遺した)「世界」があるならば、それが風燭なろうとも屹度、大切にして参りたいと存じます。そう思わせて下さいましたこと、重ねて御礼申し上げます。

    絶妙にズレたお返事となっておりますね……何時も何時も相済みません。

    そして此方こそ、twitter上での変わらぬご交誼に深謝申し上げます。また遊びに来て下さいますと幸いです。

    編集済
  •  そうすべきだった瞬間にそうできなかったことを後になって悔いるというのは僕もしばしば経験することで、身につまされながら拝読しました。
     どぜうの店は、言及なさっている浅草界隈の二軒や、清澄白河にあった店――今は閉店しているとか――などには入ったことがあります。
     渋谷方面にもあったのですね。存じませんでした。

    作者からの返信

    すらかき飄乎樣

    コメントを頂戴しまして有り難うございます。
    そうすべきだった瞬間にそうできなかった経験から何事か学んだ積もりで、同じような瞬間に出会した時には「適切に」振る舞えたと思っても、その時ですら、と申しますか、そうだからこそ尚更に、やはり二度と戻らぬ一度目の後悔が私などはぶり返してしまうようです。

    季節感に溢れる美味しそうなお食事のお写真、いつもtwitterで拝見しております。
    そうでしたか、清澄白河にもお店があったのですね。隅田川界隈、かつてはお店も多かったのでしょうね。
    渋谷には駒形のお店の支店がありまして、生活圏だったものですから何かのついでにふらりと気軽に立ち寄れたのですが、今や観光地で食する「特別な味」になって離れていってしまったようで残念に思っておりました。とはいえ、まだそこへ行けば味わえるだけでも有り難いことなのかも知れません。

    深夜の漫筆にお付き合い下さいまして、改めまして御礼申し上げます。今後ともお手柔らかにお願い致します。

  • 第伍夜 お別れのレッスンへの応援コメント

    段落下げは、こういうネット系ではあまり意味をなさないので、
    行を一行空けて貰えた方が読み易いです。

    内容は良いし、おっしゃってる事も納得できるのですが、
    PCで読むと凄く読み辛いのです。
    原稿用紙のルールはネットとは相性が良くない様で…。
    続きも読ませて頂きます。

    作者からの返信

    白狐姫と白狐隊 樣

    お返事が遅くなりまして大変失礼しました。
    以前にもコメント頂戴したことありましたね。また遊びに来て下さり嬉しいです。

    この度はリーダビリティについてのご指摘、頂戴しまして有り難うございます。web上における書式といいますか筆記法については侃侃諤諤、諸処に議論の惹起する問題でもあるようで、私も夙に興味を持っておりました。

    如上、一筋縄では行かない難しい問題のようですが、こと拙文に関しては、仰るように慥かに一行空けをもう少し多用した方が読み易いとのご指摘その通りかも知れません。夜の手慰みに物する漫筆であるということに加え、私などはヨムにもカクにも、とかく高密度の文章を好む性向であるため、そういった個人的な好みがそのまま拙文にも反映されているのだと改めて思い知らされた気が致しますが、ともあれ、内容というよりもレイアウト的に「読み辛い」、しかもそれが、本来であれば気楽な読み物であるはずの「エッセイ」であるというのは何やら残念に思えてきますね……。

    高密度の文章を拙文の個性として好んで下さる読者の方々もいらっしゃいますのでドラスティックにとは参りませんが、頂戴したご指摘を踏まえまして、新たにアップする際に文字密度の「按配」はいま少し工夫してみようと思います。

    逆にそのように読み辛い拙文、それでもご高覧下さっていることに改めまして御礼申し上げます。

  • 初めてした「創作」の思い出というのは此処カクヨムの書き手さんには誰もがあるのだろうな……と思いますが、こちらのエピソードでは真剣に紙芝居作りに取り組まれたご様子を思い浮かべました。

    かくいう私も小学校の頃から劇の台本や脚本を書いた記憶があります!自分が書いた台本で劇が繰り広げられる……というのは当時の私にとってはドキドキする瞬間でしたし、心秘かに武者震いしていたように思います;;楽しい思い出ですが、その頃はまだアンパンマンは流行っていなかったので、私は工藤様より年上ですね…;そして、小学校時代の友人たちは今はどうしているか、さっぱりわからないのが残念です…。

    そして、忘却に働きかけるのは時間だけでなく、距離や運命に影響された人と人との関わりの中での出来事や考え事が年月とともに蓄積される中で、意識の範疇から外れてしまう事ほど忘却に偏っていくのではないかと、そんな思いもふとよぎったりもしました。

    そんな訳で、じっくりと考えさせてくれる高尚な趣きの随想録にそっとコメント残しておきます。

    作者からの返信

    中澤樣

    随想録にも初コメントを頂戴しまして有り難うございます。夜長の秋、如何お過ごしでしょうか?

    そうなのです、紙芝居だったのです。往々にして孤独な作業となるはずの「創作」の原体験が協働作業であったことは、私にとって僥倖であったと思われてなりません。どこか温かい友情の思い出ともなっておりますもので。

    中澤さん、小学校時代からお芝居の脚本をお書きとは何とも高度ですね!小学生でそういった体験を持てるのは本当に羨ましいことです。皆が皆、味わえるものではないのですから尚更に。

    にしましても、よもやアンパンマンから足が付きましょうとは……畏れ入りました。でも私も昭和の生まれでございます。カクヨムはじめネット空間では年齢が解らない方が、長幼の序によるものとは異なる、対等な人同士としての尊重、敬意を持てるような気もしておりまして(ですからこれが無くなってしまうと不幸なことになりますね……)、それはそれで面白いことであると不遜にも考えております。

    そして、忘却を巡る中澤さんのご高察、目から鱗が落ちたような気がしております。成る程「意識の範疇」、言うなればスポットライト(これは視点、視座のようなものでしょうか)の中に照らし出されているか否かで、時経りに関係なく「忘却に偏っていく」というのは興味深いご指摘だと思われます。「心」(=意識)から「亡」くなるから「忘」却される、その要因は仰るように何も時間だけではないのですね……さすがは先達(煽ってはおりません)のご深慮、肺腑を衝かれた思いで承りました。

    また、お時間ある折にお運び下さいますと幸甚です。

    追伸:
    「〔私訳〕かざしの姫君」への応援、フォローも有り難うございます。

    編集済
  • 第玖夜 宝石商の鞄と金庫への応援コメント

    行人さま

    お散歩にはミネラル入りの麦茶をはじめとした水分必携の時季が訪れておりますね。御存知かとは思いますが、気圧変化の他、脱水も偏頭痛のトリガーになるそうです。そう云えば私は閃輝暗点に前後して、凄く咽喉が渇いたり空腹をおぼえたりするのですが、行人さまは、そんなことありませんか? 歴史上の偏頭痛患者として名高い芥川龍之介さま、そして夏目漱石さまも男性ですが、実際には男性に少なく、女性に多い頭痛の種類ですよね。男女を問わず、つらいのが偏頭痛。偏頭痛のエッセイが書けそうな私ですが、無理は禁物。今は止めておきます。
    お互いに気を付けて過ごしましょう。

    「御青」は、不変の緑、超絶の美という意味なのですね。新緑の季節に似合う単語です。葉っぱがメイラードの色を醸す時季を好む私ですが、蒸し器での燻製は繰り返さぬよう、重々気を付けます。
    時間による「濾過」が思い出を純化する……一般的に思い出が綺麗と云われる理由が此処にありそうですね。今の解釈が懐古と反応することを「メモワール反応」と名付けましょう!

    「芯の強さ」を「美学」として纏っておられた大叔母さまも魅力的なオトナですが、そのパートナーさまも、さすがと云いますか、独特のキャラクターを保持しておられたのですね。重箱のような鞄に詰まった宝石の煌めき、その鞄の軋む音、彫刻の手触りのように伝わってまいります。そして、行人さまはサードニクスの月生まれという豆知識を仕入れました。
    行人さまの少年時代の目線が光りますね。Tおじさまの所作が「大仰で子供染み(ているように私の眼には映っ)た」ところ、その表情に「能面のような澄まし顔」を見受けられるところ、凄い観察力です。と申している私も、人の本性を見抜く目は幼少時代のほうが冴えていました。母に「あのお医者さん、嫌い。絶対、悪いことしている人だと思う」と云った数ヶ月後、そのお医者さんは横領罪で新聞に載っておられましたから。以来、母に巫女扱いされ……と云うのは冗談ですが、怖いコドモだと思われていたことを、オトナになってから知りました(サルベージ、お聴しくださいませ)。Tおじさまの意味深長な御手紙、さまざまに思い巡らせることができますね。溢れるメモワール反応、本領発揮を楽しみにしております。

    関係が長くなるほど「みっともない」面を露呈してしまうのは人間の性でしょうか。私など既に尊敬する行人さまにボロボロと恥を溢し過ぎているのでは、と危惧しております。
    勝手な推察ですが、Tおじさまたちのように、あえて別れを択ばれるオトナは、これ以上、お互いの「みっともなさ」を悟られぬよう、スタイルを保持するために別れるのかもしれない……なんてことを幼い領分から失礼しました。

    オフィーリアのめざめを悦ばしく思ってくださり、ありがとうございます。予約投稿なる機能を使い、本人は不在気味ですが小説は更新されていく。不思議などと思いつつ、たゆたうように此処に居る気楽さに、ひたっております。

    NHKの「100分de名著」では今月、『金閣寺』を特集中なのですね! 数ある三島文学の中、一人称で書かれた小説が『金閣寺』と『仮面の告白』だけという事実、行人さまの御言葉で初めて知りました。永遠と束の間の共存が見えます。それは生と死の関係性に繋がりますよね。

    左目から、ひとすじの流涙かと思えば流血でした。他愛無く麦粒腫に罅が入ったのです。これは「麦秋至(むぎのときいたる)」前に「麦粒癒(むぎのつぶいえる)」の予兆でしょうね。はじけて以来、少しばかり調子が良いのですが、調子に乗り過ぎないよう気を付けなければ。

    でハ又、春永に(永遠の御青に立ち止まりたいと希う者は年中、この結びを用いても良いのではないかと思う今日このごろです)。

    作者からの返信

    ひいな樣

    この度も取り留めのない「メモワール反応」にお付き合い戴きまして恐縮です。またお返事、遅くなってしまいました。ごめんなさい。

    ここ数日は雨がちで、窓を開けても換気どころか逆に生温い空気に押し入られてしまい、ふと見遣ったハイグロメーターの数値が70%近くまで上昇しているのに気付いて慌てて除湿すること度々です。もう散歩中の人には水分補給が必須な時季だのに、逆に過ぎたる部屋の水分にはお引き取り願わねばならない時季……ただ、湿潤とのお付き合いの難しくなれば、それを暫し忘れさせてくれる麗しき「花紺青のご婦人」も追っつけお見えになることでしょう。

    偏頭痛の予兆は、私の場合、概ね台風など気圧の変化によるものが殆どなのですが、確かに先月の頭痛の前後に喉の渇きがありました。久し振りにガムを購入したくらいです。経験上、喉の渇きは私の中で花粉症やネブライザーと「親和性」が強く、偏頭痛と結びつくことがこれまで無かったのです。実は年々、偏頭痛に見舞われる機会が増えてきていることでもありますから、今回はもしや「新たな扉」を開いてしまったのかもしれません……喉の渇き、私はてっきり紅茶の飲み過ぎとばかり思って油断しておりました。最近「きつき紅茶」という美味しい大分県の紅茶を戴く機会がありまして、自宅でもつい一度に三杯くらい飲んでしまう日が続いていたのです。そんな貪婪な(笑)私ですから、「今は止めておきます」の「今は」の意味を何時も乍ら曲解しつつ、ひいなさんのお書きになる偏頭痛のエッセイで大いに啓蒙されたいな、などと思ってしまったことを此方こそお許し下さいますよう。
    「無理は禁物」といえば、無理の利くこそ「御青」の春の特権のように思えてきました……否、「無茶かも知れませんが、無理ではないと思います」というアニメ版エヴァのミサトさんの科白も聞こえて参ります。殆ど眼られず迎えた今朝は、身体の不調に反していよいよ時間の「濾過」による思い出の純化が絶好調のようです。来月初めに実写映画が完結を迎える「るろうに剣心」、JUDY AND MARYが歌ったアニメ版OPの「そばかす」にも、思い出がいつも綺麗であるとの歌詞があったことまで思い出されました。

    さて、終ぞそう呼ぶことはありませんでしたが、「Tおじ」の独特のキャラクター、読み取って下さいましたこと嬉しいです。「大仰で子供染み(ているように私の眼には映っ)た」Tおじのことを自分の「仲間」のように思っていたところに、ふと浮かべられる「能面のような澄まし顔」は、コドモの眼にどこか為体の知れぬ恐ろしさを以て迫るものがありました。この振幅が私や妹を惹き付けて已まなかったのだろうと今は思えます。
    にしましても、ひいな巫女様の予言、お美事ですね。よく「七歳までは神の子」といいますけれど、それ以降のコドモも暫くは「半神」くらいの存在ではあるのかもしれません。「記憶の集合体」になる前のコドモは「感性の集合体」として、研ぎ澄まされた感性(霊性?)だけで世界と対するからでしょうか。私がTちゃんに抱いたように、コドモがオトナを「怖い」と思うのと同様に、オトナもまたコドモのそういった部分を「怖い」と思うというのは面白いことですね。

    「私など既に尊敬する行人さまにボロボロと恥を溢し過ぎているのでは」……何と何と、何年も完結させていない雑文を陳列し続けて憚らぬ私こそお恥ずかしい、というよりもはや厚顔無恥まで逢着したずうずうしさ、今一度、省みなければなりません。畏れ入ります。それよりも、尊敬するひいなさんから頂戴しましたご高察、「みっともない」面を露呈してしまうことに開き直るか、あくまで自分のスタイルを保持する「美学」を貫くか……なるほど肺腑を突かれました(御自身の「美学」を貫かれた田村正和さんの訃報が伝えられたばかりということもありますので)。現在、約2分に一組が離婚しているというこの国で、大叔母夫妻は後者を選んだのだと思えば、私も少し慰められるような気も致します。折々にお優しいお言葉、本当に有り難うございます。

    オフィーリアが日々めざめていく度に、私が過去に御作に「投函」したお手紙も甦ってくることワクワクしております。やはり御作を一度しか読まないのは勿体なさ過ぎますね。再読に堪える文章というものを私も物したいものですが……。

    中々に強太かった麦の粒にもそろそろ「年貢の納め季」が間近く迫っているのですね。引き続きご快癒をお祈りしております。あ、リモートワーク開始まであと1時間を切りました。それぢや又、春永に(とは本当に通年で使いたい書留文言、でも使い続けていると「いつまで経っても春じゃあ、老成できないじゃない!」と「花紺青のご婦人」からお叱りを受けてしまうでしょうか……笑)。

    編集済
  • 第捌夜 大叔母の家への応援コメント

    行人さま

    お散歩コースが瑞々しい「若葉のいろ」に染まる季節です。お元気にお過ごしでしょうか。
    坂口安吾先生の「青春時代の失敗」は、少年少女の時代に限局されることなき普遍性があるように思われます。含蓄のある御話をありがとうございました。
    緊急事態宣言延長で、おうち時間が長くなり、不相変、自炊に励んでおりますが、先日、根野菜を蒸しながらキッチンの模様替えをしておりましたら、水が蒸発して蒸し器の底と野菜の一部が焦げてしまいました。これもメイラード反応と呼んでいいのでしょうか。ともあれマルチタスクも程々に……という自分への教訓を得た生活の場面でした。

    「イメージの残滓に後付け的に」少年のころに持っておられなかった「語彙を充てて復元する作業」……たしかに、此処には、あのころを再現したいと希うそばから今を生きる行人さまの「解釈」が入りますこと、納得です。私も随想らしきものを書いていた折、そのノヲトに埋まる文字が詩や童話のように感じられて不思議でした。それは今の私の「解釈」が無意識に入ってきて、懐古と反応するせいだったのでしょう。
    大叔母さまの御姿、すらりとした上背にスカートにカチューシャ。凛とした佇まいが見えるようです。スカートで徒競走に参加なさって、優雅に走り抜かれたエピソードからも、お住まいのステンドグラスからも、本をプレゼントなさる傾向からも、大叔母さまの「ファッションの技法」が垣間見えます。こどもに「みっともない」面を見せないおとなは美学を持っている……そう思うのです。美しい本の如く、行人さまが夏を過ごされた大きな家と庭も美しく在ってほしいものですが、それは確かめないほうが「倖せ」なのかもしれませんね。

    こどもの日、この子を起こせるのは作者である私しか居ないという至極、当然な事実に気付き、『オフィーリア奏鳴曲』を起こしました。此処に居るのは「死に見捨てられた人間」とは異なるベクトルの、春のめざめに瞑目する莟のままの少年少女たちで在ったでしょうか。つい先日まで『仮面の告白』を読んでおりました。片頭痛の特効薬の効果を俟つ時間、静かに過ごすための読みものとしては如何かしら、と思いつつも読んでいたのです。「死」に拒まれ、こどもからおとなに育ち、めざめる季節とは春を於いて他に考えられず、そんなめざめを凍結する方術のひとつである「死」が、かえって「生」を活き活きとさせる例もある。行人さまからの御返信を拝読して、そんなことを考えた春でした。

    行人さまも左目に閃輝暗点が現れるのですね! 私も左目なのです。何故、左目かしら? 心臓が左にあるから? 分かりませんが、光の階段を上り切り、拍動性の痛みに襲われ、それが外出先でありますと、不慮の事故に遭った気分です。片頭痛シーズン、お互いに恙無く過ごせますよう。いずれ春永に(この結びは、やはり、とても素敵ですね)。

    作者からの返信

    ひいな樣

    何時の間にか散歩の最中にも汗ばむことの増える季節となっておりますね。近くの公園では雨後など御青の芳菲いよいよ濃密となり、梅雨と偏頭痛の予感を覚える機会も増えました。「御青」=みさお、不変の緑、超絶の美という意味だそうで、季節や人生における「青春」を名指すにぴったりの言葉だな、などと思い乍らお返事認めております。

    そうでしたか、根野菜にお焦げが……香ばしいメイラード反応は大歓迎ですけれど、蒸し器での「燻製」にはご用心ですね。私も料理中に別の「タスク」をこなそうと色気を出して、結句、別の余分な「タスク」を生み出してしまうことが間々あります。「マルチタスクも程々に」、未だ脱稿を見ぬ私のカクヨムでの「書き散らし」にも投げ掛けらるべき箴言でございます……可戒々々。

    現実の「物語」を現在進行形で生きている身にとって、過去の「物語」、殊に幼少期の「物語」は、仰るように詩や童話のように「おとぎ話」的に映りますね。そこには時間による「濾過」によって思い出が純化される作用の働きもありましょうか。今の「解釈」が「懐古と反応」するとは、何やら理科の実験の如くに思われる面白い譬喩、こちらはメイラードならぬメモワール反応といったところでしょうか(笑)

    そしてなるほど「ファッションの技法」「美学」、そう名指して下さいますと確かにしっくり来ます。祖母と対していても感じるのですが、やはり戦前に生まれた人々には、こどもに「みっともない」面を見せない、そういった行儀といいますか礼儀といいますか、「武士は食わねど高楊枝」的な、痩せ我慢的な性質といいましょうか、独特の「芯の強さ」のようなものが具わっているやに思われてなりません。現代では人間関係において「みっともない」面を見せることが必ずしも否定的評価を受けず、むしろ相互理解に資するもの、親密の度を増す作用すら産むものとして肯定的に評価される向きもありますね。あるいは、この点は年齢にかかわらず個々人の気質性向によって好みが分かれるのでしょう。夏が来れば思い出す、遙かな尾瀬……ではない、あの家と庭は、頂戴したお言葉の通り、私の「おとぎ話」の中で美しく耀かせたままで補完しておくことに致します。

    さて、日毎に少しずつオフィーリアがめざめてきていること、気付いておりました。悦ばしいことです。さらぬだに黄金週間は外出自粛が叫ばれていましたから、こどもの日のオトナはおとなしく、とばかりに「省エネ」を決め込んでおりました私の眼には思わぬサプライズでした。有り難うございました。オフィーリアが完全にめざめた後、ハムレットは迎えに来てくれるのでしょうか?

    『仮面の告白』繋がりなのですが、NHKの「100分de名著」という番組で今月取り上げられている本が『金閣寺』で、平野啓一郎氏が解説を担当されているようです。テレビの無い私は書店で購入した番組テキストを読むだけでしたが……三島文学の中で一人称で書かれた小説がこの『金閣寺』と『仮面の告白』だけだというのはなかなか面白い事実のように思われませんか。空襲で金閣寺が燃えてしまうかも知れないという「死」の予感が、眼前に「生」きている金閣寺の美を増幅する一方、終戦で「死」の心配がなくなったからこそ、放火によって美を凍結して永遠ならしめるという発想は、生と死との関係性、生と死を暗喩とする様々な事物現象に敷衍できるのでしょうね。
    にしましても、偏頭痛のお薬後に読まれたとは畏れ入りました。男性の偏頭痛持ちはあまり多くないようで、健康な友人達に気の毒がられます。芥川龍之介も見た「歯車」、片眼だけに出るのは良くないらしいですが、もう慣れっこになってしまいました。こういう油断が危ないのかな……お互いに気をつけて過ごしましょう。

    来月はいよいよ小満の末候「麦秋至(むぎのときいたる)」がやって参りますが、ひいなさんにおかれては「麦粒癒(むぎのつぶいえる)」がもう迎えられていますように……、でハ又、春永に(この書留文言も今月いっぱいでしょうか)。

  • 第漆夜 いもうとへの応援コメント

    行人さま

    『第漆夜 いもうと』の更新、有難うございます。拝読させて頂き、行人さまの春、妹さまの春、各々の春のカタチが一区切りして、果てしなく思い出を上書きされて、未来へ向かってゆくように感じられました。しっかり者でアスカ肌の妹さまの強さの中の弱さが、キャンプのエピソードを越えて「大人」に成られたときに意外なカタチで表れますね。兄・行人さまのカタチも見えてくる素晴らしい随想録でございました。

    memorial dayの今夜、往復書簡の開始から丁度、一年ですね。Webの時流は、早かったでしょうか。遅かったでしょうか。私には、ただひたすらに濃密な時流に感じられました。
    行人さま、本年の春は御体調、崩されていませんか。私は三寒四温と云う気候の悪戯に、ほとほと参っております。眼科医によりますと「めばちこ」の語源は、一個できたら八個できるものだから、だそうで、例にもれず「また沢山こしらえましたね」と診断されてしまった私は、引き続き、ゆうたり過ごしております。

    天井の杢目は騙し絵のように何らかの顔を浮かび上がらせることがありますよね。私にとっては箪笥です。木の模様が何かの顔に見えるのです。その何かは非常に曖昧模糊としているのですが、そうやって想像力を自然に働かせていた時間の思い出は何故だかハッキリとしていて、昔、寝かされていた窓辺で春の柔らかい陽光に包まれておりますと、必然的に懐古を軸とした自動筆記が進みます。当面、発表する予定の無い文章をつらつらと大學ノヲトに綴る時間の至福。自分の内面から湧きいずるもので至福に陥落できるなんて、たいへん安上がりで良いかもしれません。そんな内面至上主義の私、今更、『エヴァンゲリオン』の心の世界の難しさについて考えております。すみません、にわかです。劇場版『序』『破』『Q』をyoutubeで閲覧しましたのは昨年。たしかオフィーリアを連載と云う島に流していたころ。そして本年、もはや何年振りでしょう、凄く久し振りに映画館に足を運びまして、行人さまが御覧になられたものと同じ映画を鑑賞致しました。あの結末を観ますと「さよなら」の意図が分かる気もしますが、さまざまな思い出と決着をつけて成長する登場人物の姿に、安堵の反面、もの淋しさも憶えるのです。「終劇」が目出度くも悲しくも感じられた映画でした。行人さまの鑑賞後のお気持ちも気になるところです。そして、おそらく理科少年の実験室の風情のスパイス棚も気になります。行人さま手作りのボロネーゼ、とても美味しそう。丁寧な暮らし、いいですね。

    春の気紛れ(アレルギイ)が落ち着く時分に、語彙世界のほうにもコメントさせて頂きたく思っております。それぢや、また。

    嗚呼、「強い」はずの人に泣かれると一緒に泣きたくなるのは何故なんでしょうね。慰めの言葉ぢや癒やせないという気持ちから……でしょうか。

    作者からの返信

    ひいな樣

    ご養生中のところ、memorial dayに随想録へのご来駕、有り難うございます。日付を跨いでもう程なく朝明けを迎えんとする時辰ですが、眠る前にお返事をばお送りさせて下さい。

    シン・エヴァでも語られた〈realityとimaginaryの融和〉に託けてこの一年を振り返りますに、現下の侭ならぬrealityを束の間だけ離れることのできる「往復書簡」は、当然にもカクヨムというimaginaryの世界での遣り取りであり乍ら、しかし同時に紛う方なきrealそのもの、私にとって大変掛け替えのない財産となっております。畢竟、私の個人的資質に拠るところの大きいのですが、早さと速さを特性とする筈のWebの世界で「ゆうたり」と――と申し上げると聞こえ良いのですが、真実、何時もお返事の遅れていたのは私ばかりでしたね――お付き合い戴きましたこと、ひいなさんには感謝頻りでございます。
    「ただひたすらに濃密な時流」とのこの一年へのご所感、精力的なご執筆を傍目にも拝見するだに「さもあろう」と私には納得されますが、及ばず乍ら私とても「往復書簡」のお蔭でやはり同じような感慨を催さずにはいられません。時流の早く感じることと忘却の早さとは相関しているのではなかろうかと思うにつけ、また「時は流れず積み重なる」という大森荘蔵の至言を想起するにつけ、速度でなく密度で語ることの出来る時間の流れたこの一年は、そう易々とは忘れ得ぬ思い出となる予感がするとともに、そのような時間はまだまだ流れ続けてくれるような気もしておりますから、今後ともよしなにご交誼下さいますと幸甚です。

    私にとってエヴァの「終劇」は三島の言う『永すぎた春』の終わりであり、ひいなさんのお言葉を拝借すれば、まさしく「春のカタチ」が一区切りしたとも感じられる、やや大仰に申せば私の人生における重大な意味を持つ通過儀礼となったような気が致します。何より「私はまだ心の底から感動できる」ということに最後に気付かせてくれたことには感謝しかありません。「感動できなくなった時こそ、今度は自分が誰かを感動させる側になった徴だ」などと昨今嘯いていただけに、この段階で与えられた「感動」、ファイナルインパクトは私にとっての福音(Evangelium)そのものとなりました。ただ、それ故にと言うべきか、既に分かちがたく自身の思い出と結びついてしまった作品を冷静に見ることはなかなか難しいところです。登場人物達は思い出に決着を付けたというのに……今はただ「引き戻してくれた」と「これで良かった」の後に「いってしまった」という所感が輻輳しているだけですが、何度か劇場に足を運んでいく毎に徐々に冷静さも取り戻せていくでしょうか。

    そんなエヴァと妹の来訪が重なり、この三月は愈々と自身の幼少年期に思い致す時間が長くなっております。『鳩の栖』や『幽霊』を読んでいた時代を更に溯って読書の原体験まで逢着する中で、思い出の本を実家から送ってもらったり購入し直したりして、今は所謂「児童文学」の読み返しをしておりますが、現在の私の文章嗜好に直接影響を及ぼしていると解さざるを得ない、何とも意外な発見が一つありました。これは次々回あたりの随想録で書ければと考えております(次回は妹が大好きだった、不思議な「大叔父」の内容にする予定です)。にしても、出版物としての児童文学の世界というのは非常に残酷なものですね。実家から送ってもらった本は読書感想文全国コンクールの課題作にも選ばれており乍ら疾うの昔に絶版の一方、購入し直せた本は2018年の段階で153刷(!!!)なのですから……少子化の影響もありましょうが、過酷です。

    「めばちこ」のお具合、いま少しのご辛抱かと思われますので、引き続きゆうたりお過ごし下さいませ。「一個できたら八個できる」……語源のお話としては大変面白いものの、実際そうなると困りものですね。因みに「めばちこ」は鎌倉時代の語源辞書である『名語記』八に「めはちといへる、如何。答、めは目也。はちはほかちりの反、目外出の義也」とある「めはち」が古い用例のようです。「はちはほかちりの反」の意味を解し兼ねておりますが、あるいは反切か何かでしょうか? 『大言海』では「メハジケ(目罅)の転訛か」などともされておりました。

    私は今年は花粉症を薬で封じ込めておりますので、喉や気管も大禍なく、今のところ在宅でのPC作業で双瞠と腰が痛むくらいで日々過ごせております。在宅時間が長くなると暮らしに時間を掛けられるのは有り難いところですね。ボロネーゼは作り置きして冷凍し、オムライス用のケチャップライスにアレンジして流用できました。ソフリット用の香味野菜の残りは刻んでミネストローネ(「結婚できない独身男性のスパイス棚」のオレガノが一仕事も二仕事もしてくれます)に……などと、懲りずに節約レシピのお話を失礼しました。

    「自分の内面から湧きいずるもので至福に陥落できるなんて、たいへん安上がり」、同感ですね。「懐古を軸とした自動筆記」の積層する「大學ノヲト」で良い具合に醗酵した頃合いに、又しても名作が日の目を見るのでは、などと期待しても宜しいのでしょうか? そういえば二話では完結しなくなりそうなリオマのお話も一話分は近日中に上げる積もりでおります。お楽しみに、と申し上げたいところですが、まずはご自愛専一になさって下さい。それぢや。


  • 編集済

    『第陸夜 住まいと座表軸、そして眩暈』の更新、ありがとうございます。
    モニク・アースの弾くラヴェルを聴きながら拝読しました。
    頭脳朦朧の違和感。同じ景色を違う視点から眺めた時、一種の「揺らぎ」に支配されること、あるような気がします。私など引っ越さないのに頭脳朦朧です。私の場合、目的地に辿り着く道が幾つかある時、毎回、違う路を選ぶせいで、見慣れたお店が違うお店に見えたりします。同じ路を選べばいいのに、好んで「揺らぎ」の中で朦朧としていて、眩暈の中に住んでいて、困ったものですね。

    工藤様、カクヨムに登録して二年を迎えられ、おめでとうございます。
    三島由紀夫先生が自決して五十年、工藤様の本棚には三島先生の著書も沢山、並んでいるのでしょうね。人生の縮図と言える本棚の中、フラッシュピンクの残像の少年に、うっかり想いを馳せて整頓中、N先生の「凌霄花・表記揺れ大事件」を目にしました。「のうぜんかずら」と「のうぜんかつら」、初めて気が付いた次第です。もしや植物辞書(自家製辞書)には「のうぜんかつら」と記されていて、創作の世界に蔓を延ばす段階で意識的に「のうぜんかずら」に書き換えられたのでしょうか。どちらにせよ微笑ましい大事件でございました。ちなみに私の本棚、小説と漫画が3割、楽譜が3割、残りをガラクタとおぼしき小物が占めており、はたして此れは本棚かしらと疑うような混沌の様相を呈しております。第51回文藝賞受賞作品は存じませんで、コメント、お心遣いいただき恐縮でした。結末まで同じなら取り下げようかという勢い再びですが、異なるものになりますので、このまま走り続けます。師走だけに、走ります(笑)

    ところで、工藤様もポイントを溜めておられるのですね! 意外な生活感です。親近感をおぼえてしまいました。
    よき眠りが訪れますように。おやすみなさいませ。

    作者からの返信

    宵澤樣

    今年も押し詰まって参りましたね……お返事が滞ってしまい何時も乍ら恐縮です。今回の随想も早速にご高覧下さり有り難うございます。

    先だってのホロヴィッツにしてもモニク・アースにしても、鬼籍に入ってしまったピアニストの演奏を、生ならずとも映像で見て聞いて愉しむことの出来るYouTubeは本当に「文明の利器」に他なりませんね。このYouTubeの動画などもそうですが、現代文明において愈々と全盛を迎えているやに思われるこういった多様な「複製」が私に齎す心的影響についての随想録を年内にあともう一本、書き上げようと考えております(が、詐欺事件の予感もします)。

    景色の「揺らぎ」、宵澤さんもおありですか。私も自宅への帰路や目的地への道塗を変えることは屡々あるのですが、その故は、最近、記憶力や思考力が頓に低下してきていることを実感する機会の増えてきたことですから、私の場合、その脳への刺戟やボケ防止に効果があるとの流説に発してそうしておりましたもので、宵澤さんのコメント、あるいは「揺らぎ」さえも愉しんで(?)おられるようにお見受けしますに、そういう眩暈すら愉しむ余裕、私も肖りたいと思います。

    カクヨムに登録して十一月で二年となりました。一年目より投稿量は随分と減ってしまった今年の方こそ、お陰様で楽しく意義深い時間を語彙世界にて過ごさせて戴けたような気が致しております。忘れないうちに、来たる年も宜しくご交誼の程お願い申し上げます。

    人生の縮図としての本棚、三島全集など「重」「厚」な本は早々に概ね収めてしまったものの、文庫本の整理は未だつかず、どうやら年末年始の眠られぬ夜は、過去の自分と邂逅する「年越しライヴ」になる可能性が濃厚です……未だに「凌霄花」や「フラッシュピンクの残像の少年」はじめ、新潮文庫版の三島作品なども探すのに難儀しております。
    そういった訳で「凌霄花・表記揺れ大事件」発覚当時の「調書」もまた見出せなくなってしまいましたが、私の記憶では、アリスのほうが「つ」で自家製辞書のほうが「ず」であったような気がしておりまして(脳機能……)、そのことに気付いた時の記憶を手繰り寄せますに、アリスはやはり「一番搾り」だったのだろう、だから原液のままだったのだろう、などと推し量っていたような気が致します。N先生、御作の読者の裾野が広がっていくにつれて、少し原液を薄めて「飲み」やすくして下さったかも……?

    宵澤さんの本棚はなるほど、小説と漫画と楽譜、そして小物の四重奏ですか。何より楽譜が3割とは畏れ入ります。そういえば私の本棚にも一冊だけ楽譜がありますよ。英国留学に行っていた後輩に現地で買い求めて貰った「ミカド」というオペレッタのヴォイススコアで、私は脚本部分のテクストだけしか読んでいないうえ、展覧会の図録のような大型本の棚に紛らせて並べてしまっておりますから、「お仲間」のいない楽譜には些か気の毒なことをしております。

    明日の夜半には、ご無沙汰を重ねております「アノレキシア」のコメント欄にまたお邪魔できるかと存じます。にしましても、アノレキシアの百合たちにとって、年末年始の「ご馳走」とは何になるのでしょうね。それざや。

    編集済

  • 編集済

    第伍夜 お別れのレッスンへの応援コメント

    工藤様、待望の随想録『第伍夜 お別れのレッスン』の更新、ありがとうございます。随想録カクカク詐欺事件の捜査が解決に向かわれた末、運命の月曜日の更新ですね。お疲れさまでございます。

    「モノは思い出と繋がるための回路だのに、人は総てのモノ=思い出を抱え切れない」……仰るとおりです。年末に差し掛かり、大掃除に着手しようとする私にも、抱え切れない思い出を処分する、ひとつの機会が訪れているのでしょう。
    過去崇拝者を自認する者には、過去に生き得る「モノ」の整頓、頭を悩ませるところです。「感傷」をいなす術。工藤様を見習いたいところです。化石になる前に手を打たなければいけません。
    いとおしいはずの「本」が「荷」に感じられた御心、お察しします。手離した本にうしろめたさを抱えるお気持ち、引越し業者の作業員様たちのテキパキとした生命活動を見守るお気持ちもまた、お察しします。
    「少人数で会えば心地よい食事の席が、多人数になると俄然鬱陶しくなってしまう」という喩えから、沢山の「思い(重い本)」と対峙された現場の形跡が伝わりました。
    「本棚は人生の縮図」ですね。手に取った本を読んで生きていた、あのころの自分を思い出せるのですから。

    さいごに、過去と繋がる回路としての「人」という存在、ありがたいですね。
    「思い出していたよ」という言葉の何とも、あたたかい余情が残ります。早く会えるようになるといいですね。
    素敵なレッスンをありがとうございました。おやすみなさいませ。

    作者からの返信

    宵澤樣

    運命の月曜日、お待たせしておりました「随想録カクカク詐欺事件」の中間報告に早々にお目通し下さいまして有り難うございます。後編が「来週もお楽しみに!」などとならないようにしたいものですが、何やら身辺がきな臭くなってきたような……流石は年の瀬です。

    幸いと云うべきか、私などはこの度の引越しですでに大方「お別れ」果せてしまった感がありまして、指して掃除すべき場所も見当たらないことですから、今年の大掃除は例年に比して心身共にゆうたりとできそうです。過去崇拝者の大掃除は得てして「大懐古(回顧)」の時間となりがちでしょうが、宵澤さんも呉々もお気を付け下さいますよう(笑)

    それから、引越しに係る取り留めの無い所感に心中お察し下さいまして、こちらも有り難うございます。思い出の中には、高校時代に毎日のように使っていたはずの下駄箱(今は「靴箱」と呼ぶのが主流だそうです)の位置のように、もう思い出せないし、思い出す必要も無いものが確実にあるようだと、この度の引越しを機に実感しましたが、「感傷」をいなす術を身に付けることは、やはり感性の鈍磨、鈍くなることと表裏一体のような気もして、善し悪しは相半ばするでしょうか。難しいところです……。

    新居まで「生き残った」本達ですが、使用済みの段ボールを早く業者に引き取りに来て貰いたくて、とにかく本棚に大雑把に収めてしまったせいか、今は目当ての本が直ぐに見つからないという「後遺症」に悩まされております。なまじブックカバーなどかけておりますと大変……自業自得ですね。収められている本の中身もそうですが、私の場合、既に総ての本棚を視界に収めることが出来ないという点においても、「本棚は人生の縮図」とは中々に含蓄のある言だなと首肯したくなります。何処かの本棚に眠っている、忘れられた「自分」の姿を発見する楽しみが今後は出来そうですが、とまれ先ずは行方不明本の捜索もしなければなりません。宵澤さんの本棚にはどんな本が並んでいるのでしょうか。月彦君の本棚には錚々たる文学作品が並んでいるようですが……。

    仰る通り、過去と繋がる回路としての「人」は大切にしたいもの、年の瀬など大勢で会う機会の多い時節には(今年は中々それも叶いがたいようですが)、「過去崇拝者」とは行かないまでも、多かれ少なかれ人はそのように思うものかも知れませんね。

    様子を見つつ、また御作にコメント書き込みに参上致します。ソレヂヤ。

    追伸
    行方不明「者」の中に、アナナスとイーイーがいました……。

    編集済
  • 工藤様、待望の第肆夜の更新ありがとうございます。
    初めてした「創作」の思い出……小学校一年生で初の「創作」を「紙芝居」という形で実現なさったのですね。私など……言ふ莫れ。秘すれば花なり。
    当初の出し物から軌道修正のために「おとな」を配置するというのは、担任の先生の先見の明だったでしょうか? 七歳ごろの「自由」は確かに奔放。Sくんのお母様に動かされていたのかもという節がありながら、少年ユキト様は見事な創作を成し遂げられたのですね。二人の協働作業の清々しさが伝わってまいりました。嗚呼、創作って素敵!

    「記憶は思い出される度に「時間」という槌に打たれて形を変えて歪んでしまうもの」……なんて素敵な黼黻でしょうか。
    上田敏博士の「うづまき」の引用も、また素晴らしき黼黻でございました。永遠の破壊者である「時」に分かたれぬ「束の間の記憶」を渦のように繋げていくことは、はたして不可能への挑戦でしょうか。
    敬老の日、私は焦げ目なき雛鳥色の出汁巻き卵の創作に成功致しました。そして祖母の思い出話を聴いておりました。昔語りをする祖母の記憶は、はたして「時間」という杭に、どれだけ打たれていたでしょう。それは本人にも私にも分かり得ぬことですね。
    ところで麻酔銃のお話の件、工藤様の中に生きる少年ユキト様の馨しき樹液を感じ取るばかりで、たいへん微笑ましゅうございました。私は自分の中に雛鳥🐣を飼っております故に、大笑いできませんでした。シャイで無口だから大口を開けないのではなく、何やら似通った或る種の性質を感じてしまうが故の微笑みなのです。失礼しました。麻酔銃で試し撃ちしてやってくださいませ。バイバイキン。それぢゃ、また。

    作者からの返信

    宵澤樣

    この度も夜長の漫筆にお付き合い下さいまして恐縮です。秋は一般に睡眠時間が長くなるとされますが、私の場合、いよいよ心地良い不眠が亢進しそうです。

    宵澤さんの「創作」の思い出も何時か拝読できる機会はありましょうか……紡がれる美しい物語が「今」のような姿に成型されて行くまでの過程、大いに興味をそそられてしまいますが、「秘された花」のその花蘂を廻るしつこい蜜蜂になっては不可いですね。

    御作へのコメントで「大人を観察する子ども」について書き込ませて戴いたことがあったかと思うのですが、実はあれは他でもない私自身のことでもあるのです。先生や親などは幼時の子どもにとって絶対的な存在に近いのでしょうが、自分がオトナになって改めて思い返してみると、色々と発見したり共感したりできて、中々に面白いものですね。個人の所感に普遍性がどの程度あるのかはさておき、そうやって彼彼女らを相対化していく段階的な契機を自分なりに整理する過程の中に、あるいは小説のネタとして使えるものが結構含まれているかもしれません。

    Sの母上は兎に角よく車を運転なさるバイタリティに溢れた方(夏にはキャンピングカーまで!)で、Sとともに私も随分と色々なところに連れて行って戴きました。母としてのみならず「父」の役まで務めておられたのだなと感じます。書き終えて、他の記憶も懐かしく思い出していたところです。実は昨年の夏に空港で偶然ばったりお会いしたのですが(やはりご自分の運転でいらしていました)、お変わりなくお化粧もバッチリで、不思議と年経りというものを感じませんでした。

    協働して何か一つの物を作り上げるという営為は、一人で遊ぶ快楽とはまた違った快楽を齎してくれるものですね。「みそさざいと熊」の紙芝居はもう記憶の中にしか存在しておりませんが、今も手許にある他の協働創作物を見返したり読み返したりしておりますと、一人でものした創作物よりも余計な逡巡がないような気がして、今の自分が失ってしまった「信じる強さ」のようなものを見出しては眩しくなってしまいます。こういった感慨は、やはり自分だけでなく「誰かと共に作った」という安心感の為せる業でしょうか。

    「記憶は思い出される度に「時間」という槌に打たれて形を変えて歪んでしまうもの」……上田博士の黼黻には到底及ぶべくもありませんが、恥を忍んで強いて考えてみますと、二つともどこか物悲しいところは通じているのかも知れないとも思われます(烏滸がましい!)。昨年のミシュラン・フランス版で日本人で初めて三つ星の評価を受けた小林圭シェフが、インタビューで「フランスの美はヴェルサイユ宮殿のようにもう見ただけでわかる美。日本は『泣いた寂しさの綺麗さ』のような美」と評しているのをテレビで見まして、引用した上田博士の「黼黻」の美にはそういった日本的なものを感じること、出来るのやも知れません。

    数年前に亡くなったアーサー・ダントーという思想家が、出来事が出来事そのものとしてでなく、ある出来事と別の出来事との間に因果関係を生ずればhistoryになりstoryになり、それを紡ぐ行為が「物語り」である、といったような主旨のことを言っていたような気がしますが、この「出来事」を「記憶」に置き換えられるのならば、「「束の間の記憶」を渦のように繋げていくこと」、それぞまさに「物語」なのではないでしょうか。仮にそれが「不可能への挑戦」だとしても、例えば三島やルートヴィヒ2世が試みたように、その挑戦の道程に美は溢れ出づることでしょう。

    「雛鳥色」の出汁巻き卵、色の名指しが絶妙ですね! 仰るとおり「時間」によってどれだけ打たれているか本人ですら分からない、実際にあったことと思い出せることとの間は時が経つにつれていよいよ隔たるばかりかも知れませんけれど、私などは、人にはやはり生きていく上での「物語」が必要な時があるような気がしておりますから、「記憶は思い出される度に「時間」という槌に打たれて形を変えて歪んでしまうもの」と申しておき乍ら、「歪む」というネガティヴな性質は仕方ないにしても、心地良く「形を変えて」しまうことで今が生きやすくなるという性質、一寸だけ有り難くも思っております(だから妄想癖が抜けないのかも……)。

    麻酔銃のお話、宵澤さんの中に飼われる雛鳥を驚かせる引き金とならずに善かったです。微笑みで受け止めて下さったお優しさに感謝申し上げます。にしても「何やら似通った或る種の性質」……こちらも何やらドキンと来る表現ですね。気になります。
    やはり少年ユキト(少年アリスとは異なり、ユキトは端的に「ガキ」なのかもしれませんが)は、今後も蜜蜂のように宵澤さんのご身辺をブンブンすることになるかもしれません。奏鳴曲にはまだブンブンできておりませんが、明日、未読分を纏めて拝読しに伺えればと存じます。

    コロナも早く「byeばい菌」してほしいところですね(菌じゃないですけれども……)。ぢゃ又子。

    編集済
  • コーヒーには色々な健康上の作用があり、1日3~4杯のコーヒーは、
    病気のリスクを減らし、寿命の向上に繋がるという
    医学的データは、様々な研究結果から正しい様です。但し、
    コーヒーに含まれるカフェインは、接種してから7時間強影響が継続する為、
    どんなに遅くても午後2時半を最後の一杯にする事が推奨されているそうです。
    そうしないと、良質な睡眠が取れなくなるそうですよ…。

    作者からの返信

    白狐姫と白狐隊樣

    私はコーヒーをほぼ毎朝ドリップしておりまして、先刻も1杯淹れたばかりです。1日に飲むのは2、3杯程度でしょうか。ただ、飲みたい時に飲んでしまうので夕食後に飲むことも屡々ありますし、外食した後などもお店を変えてコーヒーを飲むことが結構多い……「グスタフ3世のコーヒー実験」などもありますが、様々な効用を踏まえて嗜むべきなのでしょうね。

    編集済
  • 第壱夜 飲食店の寿命への応援コメント

    お店の雰囲気作りもその料理の一部である…。という言葉を思い出しました。
    美味しいお料理も大事だけど、この店に来ると何か落ち着く…みたいな、
    そういう要素も大事なのかもしれませんね。

    作者からの返信

    白狐姫と白狐隊樣

    初めまして、工藤行人です。
    まさに仰る通りですね。お料理のみならず、それを装う食器や設えられた調度品、照明、音楽、窓からの景色などがトータルで醸し出すお店の雰囲気、「もてなし」というものがありますね。気に入りのお店にはなるべく長く通いたいものです。

    くだくだしい漫筆にコメントを頂戴しまして恐縮です。有り難うございます。

  • 第参夜 おじさんの傘への応援コメント

    工藤様、こんばんは。酷暑ですね。第参夜の更新、ありがとうございます。
    「おじさんのかさ」を予習してから参りました。使ってこそ、使われてこそ、喜ばしい傘のお話ですね。よそ行きの衣装が草臥れるのが厭で大切に保管→やがて宝の持ち腐れになるパターンを思い出しました。
    工藤様は「ドン・キホーテが持つランスのよう」な「値の張る藍色の傘」を、観賞用ではなく愛用しておられるのですね! 傘も傘職人様もお喜びでしょう。傘に限らず、たとえば洋服もインテリアも「値の張る」ものは長持ちするように思われます。安物買いの銭失いとは、本当なのかもしれません。ところで私はタッセル(=飾り房)が大好きです。先日もユザワヤで虹色のタッセルを特に使用目的も無く買ってしまいました。陽傘の柄に付けてみようかしら。ところで「藍色の傘」は晴雨兼用にはできていないのでしょうか。陽傘として活躍できそうなフォルムに思われます。
    「無個性で安価な傘」ほど間違えられやすいというのは、そのとおりですよね。その傘を巡って対立する「いい大人」の姿は滑稽です。対立する人たちにとっては、凄く価値のある傘だったのでしょうか。そんな光景はテレビと同じぐらい暑苦しいですし、見ていて哀しい心持ちになられたでしょう(私もまた争いを好まない平和主義の人間なのです)。
    工藤様の随想録は涼しくて良いですね。おかげさまで、よく眠れそうです。おやすみなさいませ。

    作者からの返信

    宵澤樣

    わざわざ「予習」してお読み下さったとのこと、恐縮です。「おじさんのかさ」は大変印象深い作品でしたのでご紹介させて戴いた次第です。

    モノを綺麗なまま保存しておきたいと思う心性から大切に仕舞い込んでいる裡に、何時しか「宝の持ち腐れ」となってしまうパターン、あるあるですよね。しかも大切に保管しているモノの中には少なからず「どうしてこんなモノを?」と、後になって不思議に思うモノもあって、そういうモノは概ね大掃除の際に発見されて「餌食」になってしまう……もしかすると、仕舞い込んでしまったモノはモノとしての「呼吸」が出来なくなって死んでしまうのでしょうか? モノも日々使っていれば、人間と同じように傷ついたりガタが来たりして「老いて」は行きますが、なればこそ持ち主もそのことで益々と愛着を持つようになるのかもしれませんね(三吉青年が仕舞い込んだ「千羽鶴」はこの点、どうだったのでしょうか)。

    仰る通り「値の張る」ものにはそれなりの理由がありますよね。洋服、インテリア、そして「長持ち」するという点からは少し外れてしまいますが、私など最近ですと特に食事に対してそのようなことを考えます(あるいは、自分の身体を「長持ち」させるという考え方も出来ますか)。ただ同時に、浪費癖という病痾が萌してもいるようなので、よくよく自重せねばならないな、と考えております……。

    タッセル、宵澤さんもお好きなのですね! 私も大好きでして、窓掛けやテーブルランナーなどタッセル付きのものを愛用しておりますよ。何というか、房の揺れる様に優雅を感じるんですよね。意味もなく指で弾いては、揺らしてウットリしております(笑) まして傘に巻いて歩いていれば、それだけで常に視界の中で揺れていてくれますから眼福という他ありません。虹色のタッセルを陽傘に巻いてお出かけになれば屹度、揺れるその姿に癒やされて暑さを暫し忘れさせてくれるのではないでしょうか。ただ、我が愛する「藍色の傘」は頑丈である利点に反比例する「重さ」の問題と「大きさ」の問題がクリアできそうになく……やんぬるかな。

    争いの種になりそうなものはなるべく蒔かないように、「平和主義」で日々過ごしたい、殊にここ数日の酷暑を通り越した狂暑は、普段は温和な人々をも狂わせそうですから、なるべく外出せずにひんやりしていたいですね。

    何時もご高覧、蟻が十……いや有り難う御座います(そういえば「有難等御座居〼」って宵澤さんの造語でしょうか? 馬琴先生みたいです)

    追伸
    三吉先生の香水、ANNA SUIのでしたか。「海の色」とのことでしたのでちょっと調べてみましたら、多分これかな、というものがヒットしました。バッグをイミテイトした可愛らしい容器はインテリアとしての存在感がありますね。


  • 編集済

    工藤様、脳が「乗って」おられます! 滑らかな随想。幼少時代の脳が無意識下で憶えたことが、現在の意識下に浸潤して、工藤様の筆を滑らせるのでしょうね。貴重な読書体験をされた御様子。欠席日数に比例して書物を増やしていた私は、またもや共感致しました。そして私もお酒より珈琲が好きです。しかし珈琲に含まれるカフェインは、日本薬局方に劇薬として扱われており、摂り過ぎると頻脈を起こすので気を付けております。実際にフルタイム勤務中、エスプレッソで眠気を飛ばしていましたころ、脈が飛びました。無理はいけませんね。頑強な御方が羨ましい。眠らなきゃ(二回目)。

    『誰かに「健康」だとお墨付きをもらうよりも、他でもない自分自身が不調・不快を感じずに「健康」を実感できることがのほうが嬉しい』……そのとおりです。
    「幸せ」も、そうですね。周囲に「幸せそう」と言われても、自身が「幸せ」を感じていなければ「幸せ」ではないのですから。

    長々失礼しました。第参夜を楽しみに待っております。
    どうぞお大事に。おやすみなさいませ。

    追伸:私も立て続けにコメントを失礼致しました!!

    作者からの返信

    宵澤樣

    宵澤さんも欠席日数に比例して本が増えていくというご経験をお持ちなのですね。「病臥」と「読書」とは、あり得べき一つの親密関係にあるのでしょう。病床での「暇つぶし」として、原体験としての「読書」に邂逅する、そういう方は案外に多いのかも知れません。

    私はお酒も珈琲も嗜むのですが、コロナ以降はめっきりお酒を飲まなくなりまして、そのお陰でお金も貯まる一方、嬉しいのか悲しいのか、何とも言えない心境です。にしても、カフェインの過剰摂取は本当に戒めるべきですね。朝の頻脈は夜のそれより、より「命」に近接しているようにも思えますし……私もなるべく珈琲をお伴にする徹夜をしなくて済むよう段取りをつけて仕事をしたいものです。

    ただ、身体には本当に煩わされてばかりですが、もし溌剌として健康な身体を持っていたとしたら、私は果たして文章など書いていただろうかとも思うのです。もしかすると、身体を謳歌するに、書き物では物足りないのではないか、あるいは書き物が演劇・踊りなどの身体芸術に派生しても面白いかもしれない、などとも妄想しつつ、とはいえ、先ずは今日も「眠らなきゃ」ですね。第参夜(←ここ、三吉君の「三」でなく「参」にして下さって有り難うございます)は何時頃になりますか解りませんが、あまり遠くない何時かにまた。Hyposomniaにはご用心。

  • 第壱夜 飲食店の寿命への応援コメント

    工藤様、今夜は此方にお邪魔致しますm(__)m
    飲食店の寿命。閉店の予兆。
    私は職場の「小さな疵」が「滅び」ようとするときの気配を往々にして感じ取った経験がありまして、とても共感してしまいました。私が働く場所が二度、滅びまして、私こそ本当の死神ではないかしら。否、そもそも末期の職場に採用されただけでしょう。分かり易くテーブルクロスがほつれていたり、窓硝子によく見ると分かる小さい亀裂が走っていたり、ついでに人間関係にも亀裂が走っていました。

    「行こうと思ってももう行けない教室」になった途端、パソコン教室の寿命は短いと思う次第……早く眠らなきゃ。

    作者からの返信

    宵澤樣

    今朝方は通知の数に驚きました。とりとめのない拙文の真骨頂ともいうべきこちらの随想も纏めてご高覧下さって、応援、ご評価の★も頂戴し恐縮です。「豊穣—」など「私の美の世界」(!)を構築する類のものとは趣を変え、ルビなし(なるべく)、口語体で綴っていければと考えております。次夜以降も、概ね私の社会的な幼さを曝してしまう内容に終始するかと存じますが、眠られぬ夜のお暇つぶしになれば幸いです。

    「私が働く場所が二度、滅びまして」……よくよく拝読しますと、なかなかに鮮烈な表現ですね(笑)。エッセイで拝読したお話でしたでしょうか。何かの「予兆」は往々にして事後的に「そういえばあの時……」として想起されることが多いような気がします。その時には手遅れになっているという。物悲しいですね。

    にしても飲食店とパソコン教室、何れにも共通しているように思われるのは、「技術」さえしっかりしていれば何処ででもやっていけるという点なのかなとも思いました。料理人もパソコン講師の先生方も「技術」があるから、私が考えるように「場所」にそこまで固執することなくお仕事できるのかもしれないと。残念ながらパソコン教室に通った経験はないのですが、飲食店、殊に名店といわれるお店や有名な料理人のお店は、結構な頻度で場所を移っていますもんね。場所としての思い出も大切にしたい客と、場所に頓着せず飽くまで「技術」で魅せるお店……客側の「片思い」はこれからも続きそうです。

    追記
    仕事の合間にちょっとだけ。もう一つのお返事は後刻改めまして。

    編集済