応援コメント

第漆夜 いもうと」への応援コメント

  • 行人さま

    『第漆夜 いもうと』の更新、有難うございます。拝読させて頂き、行人さまの春、妹さまの春、各々の春のカタチが一区切りして、果てしなく思い出を上書きされて、未来へ向かってゆくように感じられました。しっかり者でアスカ肌の妹さまの強さの中の弱さが、キャンプのエピソードを越えて「大人」に成られたときに意外なカタチで表れますね。兄・行人さまのカタチも見えてくる素晴らしい随想録でございました。

    memorial dayの今夜、往復書簡の開始から丁度、一年ですね。Webの時流は、早かったでしょうか。遅かったでしょうか。私には、ただひたすらに濃密な時流に感じられました。
    行人さま、本年の春は御体調、崩されていませんか。私は三寒四温と云う気候の悪戯に、ほとほと参っております。眼科医によりますと「めばちこ」の語源は、一個できたら八個できるものだから、だそうで、例にもれず「また沢山こしらえましたね」と診断されてしまった私は、引き続き、ゆうたり過ごしております。

    天井の杢目は騙し絵のように何らかの顔を浮かび上がらせることがありますよね。私にとっては箪笥です。木の模様が何かの顔に見えるのです。その何かは非常に曖昧模糊としているのですが、そうやって想像力を自然に働かせていた時間の思い出は何故だかハッキリとしていて、昔、寝かされていた窓辺で春の柔らかい陽光に包まれておりますと、必然的に懐古を軸とした自動筆記が進みます。当面、発表する予定の無い文章をつらつらと大學ノヲトに綴る時間の至福。自分の内面から湧きいずるもので至福に陥落できるなんて、たいへん安上がりで良いかもしれません。そんな内面至上主義の私、今更、『エヴァンゲリオン』の心の世界の難しさについて考えております。すみません、にわかです。劇場版『序』『破』『Q』をyoutubeで閲覧しましたのは昨年。たしかオフィーリアを連載と云う島に流していたころ。そして本年、もはや何年振りでしょう、凄く久し振りに映画館に足を運びまして、行人さまが御覧になられたものと同じ映画を鑑賞致しました。あの結末を観ますと「さよなら」の意図が分かる気もしますが、さまざまな思い出と決着をつけて成長する登場人物の姿に、安堵の反面、もの淋しさも憶えるのです。「終劇」が目出度くも悲しくも感じられた映画でした。行人さまの鑑賞後のお気持ちも気になるところです。そして、おそらく理科少年の実験室の風情のスパイス棚も気になります。行人さま手作りのボロネーゼ、とても美味しそう。丁寧な暮らし、いいですね。

    春の気紛れ(アレルギイ)が落ち着く時分に、語彙世界のほうにもコメントさせて頂きたく思っております。それぢや、また。

    嗚呼、「強い」はずの人に泣かれると一緒に泣きたくなるのは何故なんでしょうね。慰めの言葉ぢや癒やせないという気持ちから……でしょうか。

    作者からの返信

    ひいな樣

    ご養生中のところ、memorial dayに随想録へのご来駕、有り難うございます。日付を跨いでもう程なく朝明けを迎えんとする時辰ですが、眠る前にお返事をばお送りさせて下さい。

    シン・エヴァでも語られた〈realityとimaginaryの融和〉に託けてこの一年を振り返りますに、現下の侭ならぬrealityを束の間だけ離れることのできる「往復書簡」は、当然にもカクヨムというimaginaryの世界での遣り取りであり乍ら、しかし同時に紛う方なきrealそのもの、私にとって大変掛け替えのない財産となっております。畢竟、私の個人的資質に拠るところの大きいのですが、早さと速さを特性とする筈のWebの世界で「ゆうたり」と――と申し上げると聞こえ良いのですが、真実、何時もお返事の遅れていたのは私ばかりでしたね――お付き合い戴きましたこと、ひいなさんには感謝頻りでございます。
    「ただひたすらに濃密な時流」とのこの一年へのご所感、精力的なご執筆を傍目にも拝見するだに「さもあろう」と私には納得されますが、及ばず乍ら私とても「往復書簡」のお蔭でやはり同じような感慨を催さずにはいられません。時流の早く感じることと忘却の早さとは相関しているのではなかろうかと思うにつけ、また「時は流れず積み重なる」という大森荘蔵の至言を想起するにつけ、速度でなく密度で語ることの出来る時間の流れたこの一年は、そう易々とは忘れ得ぬ思い出となる予感がするとともに、そのような時間はまだまだ流れ続けてくれるような気もしておりますから、今後ともよしなにご交誼下さいますと幸甚です。

    私にとってエヴァの「終劇」は三島の言う『永すぎた春』の終わりであり、ひいなさんのお言葉を拝借すれば、まさしく「春のカタチ」が一区切りしたとも感じられる、やや大仰に申せば私の人生における重大な意味を持つ通過儀礼となったような気が致します。何より「私はまだ心の底から感動できる」ということに最後に気付かせてくれたことには感謝しかありません。「感動できなくなった時こそ、今度は自分が誰かを感動させる側になった徴だ」などと昨今嘯いていただけに、この段階で与えられた「感動」、ファイナルインパクトは私にとっての福音(Evangelium)そのものとなりました。ただ、それ故にと言うべきか、既に分かちがたく自身の思い出と結びついてしまった作品を冷静に見ることはなかなか難しいところです。登場人物達は思い出に決着を付けたというのに……今はただ「引き戻してくれた」と「これで良かった」の後に「いってしまった」という所感が輻輳しているだけですが、何度か劇場に足を運んでいく毎に徐々に冷静さも取り戻せていくでしょうか。

    そんなエヴァと妹の来訪が重なり、この三月は愈々と自身の幼少年期に思い致す時間が長くなっております。『鳩の栖』や『幽霊』を読んでいた時代を更に溯って読書の原体験まで逢着する中で、思い出の本を実家から送ってもらったり購入し直したりして、今は所謂「児童文学」の読み返しをしておりますが、現在の私の文章嗜好に直接影響を及ぼしていると解さざるを得ない、何とも意外な発見が一つありました。これは次々回あたりの随想録で書ければと考えております(次回は妹が大好きだった、不思議な「大叔父」の内容にする予定です)。にしても、出版物としての児童文学の世界というのは非常に残酷なものですね。実家から送ってもらった本は読書感想文全国コンクールの課題作にも選ばれており乍ら疾うの昔に絶版の一方、購入し直せた本は2018年の段階で153刷(!!!)なのですから……少子化の影響もありましょうが、過酷です。

    「めばちこ」のお具合、いま少しのご辛抱かと思われますので、引き続きゆうたりお過ごし下さいませ。「一個できたら八個できる」……語源のお話としては大変面白いものの、実際そうなると困りものですね。因みに「めばちこ」は鎌倉時代の語源辞書である『名語記』八に「めはちといへる、如何。答、めは目也。はちはほかちりの反、目外出の義也」とある「めはち」が古い用例のようです。「はちはほかちりの反」の意味を解し兼ねておりますが、あるいは反切か何かでしょうか? 『大言海』では「メハジケ(目罅)の転訛か」などともされておりました。

    私は今年は花粉症を薬で封じ込めておりますので、喉や気管も大禍なく、今のところ在宅でのPC作業で双瞠と腰が痛むくらいで日々過ごせております。在宅時間が長くなると暮らしに時間を掛けられるのは有り難いところですね。ボロネーゼは作り置きして冷凍し、オムライス用のケチャップライスにアレンジして流用できました。ソフリット用の香味野菜の残りは刻んでミネストローネ(「結婚できない独身男性のスパイス棚」のオレガノが一仕事も二仕事もしてくれます)に……などと、懲りずに節約レシピのお話を失礼しました。

    「自分の内面から湧きいずるもので至福に陥落できるなんて、たいへん安上がり」、同感ですね。「懐古を軸とした自動筆記」の積層する「大學ノヲト」で良い具合に醗酵した頃合いに、又しても名作が日の目を見るのでは、などと期待しても宜しいのでしょうか? そういえば二話では完結しなくなりそうなリオマのお話も一話分は近日中に上げる積もりでおります。お楽しみに、と申し上げたいところですが、まずはご自愛専一になさって下さい。それぢや。