応援コメント

第拾伍夜 オルゴールのぜんまいが切れる時」への応援コメント


  • 編集済

    工藤様

     あけましておめでとうございます。(と言いつつ、もう一月も終わりに近いですね……)
     坂本です。
     去年に引き続き、今年も変わらぬご厚誼のほどよろしくお願い申し上げます。

     はじめに、タイトルの件、まことに嬉しく思っております。一方で、答え合わせではないですが、ご提示いただいたタイトルに対して私が勝手に送ってしまった予想と、工藤さんの実際にお書きになった随筆を比較してみて、やはり余計なことをしてしまったと感じ、恐縮しております。

     お祖母さまとの週おきのご習慣、まことに微笑ましく、そして羨ましく思いつつ拝読しました。私の家族は些かコミュニケーションが希薄で(不仲なわけではないのですが)、私など今年の正月に二年ぶりに父と会話をしたくらいですから……やはり、家族との時間は大切にするべきですね。

     しかしながら、時間という観念の内省的な咀嚼の末に、ある種の食傷に陥ってしまうというのは、物を書く人間、或いは斯様な時間的進行を原理に持った諸営為に深い関心を持つ人間にとっては、避けがたいことなのかもしれませんね。自身の経験を顧み、そして工藤さんの随筆を拝読しながら、そんなことを考えていました。
     暦の巡るのに呼応して、街の草花などが、まるで神がぜんまいを巻きなおすように、毎々新しい姿で顔を出すのを見ていると、リニアであるはずの我々の生活も、オルゴールの機構に似た自然現象の機械的繰り返しの中に織り込まれていくような、そのような錯覚に囚われてしまいますね。
     年毎に転生を繰り返す花や虫のような短命なものたちが、長寿に恵まれた我々人間に対して、裏腹に永遠の印象を与えるということには、皮肉と言うべきか、それとも福音と言うべきか、なんとも判じ難いものがあります。

     私もまた、オルゴールのぜんまいを巻きながらそれの止まるときを考えて憂鬱になる質の人間ですから、いわんや人生について考えるとなると、この感も殊更に強くなります。
    年齢と言う概念は実に呪わしいものです。
     自然の輪廻の機構に便乗して人間の生み出した円環の虚構に、楔を打つように刻々と数え上げられていく数字は、いつしか死の足音の様に聞こえてきて、気が付けばいつ訪れるともしれぬその瞬間へのカウントダウンへと響きを変じている。子供の頃は誕生日が来るのが楽しみで仕方なかったのに、まるで遅効性の呪いのようです。
     年齢だけでなく、こういった、我々の生身の肉体に纏わりついて、我々を我々自身以上の何者かにしてしまう情報の垢のようなものに不図際すると、何処かへ走り出したくなるような衝動に駆られます。(スキマスイッチの「全力少年」のような感じです)
     私が言葉を操ろうとするのも、こうした諸々の強迫への反抗心が動機にあるのかもしれません。

     今回ばかりでなく、工藤さんの洞察にはいつもはっとさせられています。年の初めにこの随筆を読むことができたことは私にとって大変幸福なことでした。
     少し軽佻なことを言うようですが、工藤さんの随筆に漂うこのどこか感傷的な雰囲気も、その源を明確に捉える洞察によって力強く把持されている感じがあり、私には大変心強い気がします。

     本当はもっと早く感想をお送りしたいと思ったのですが……考えがまとまらずぐずぐずしているうちに、気付けば二月に垂んとする今頃になってようやく踏ん切りがついたという為体。とりとめもない文章を送ってしまったことと併せてお詫びさせてください。

     そして希はくは、今年も工藤さんとこのような遣り取りが続けられますように。


    追伸
     死は人生を決定された歴史に変えます。文字もまた、それの書かれていく瞬間から漸次的に決定されていく歴史的事物なのですから、文を書くというのは謂わば死の予行のようなものでしょうか?
     死はその一瞬の内に、後につづく永遠を飲み込んでしまう極めて強力な特異点的事象ですから、時間は必ずしも文字の優位にはないのかもしれませんね。

    作者からの返信

    坂本樣

    嬉しい「お年玉」を頂戴してしまいました……御礼申し上げますとともに、本年も旧年と変わらぬお付き合いを賜りますよう此方こそお願い申し上げます。

    にしましても、半年程前のご旅行の折でしたかその後でしたか、「近々に随想録にてお目に掛けられればと思います」などとお伝えしており乍ら龍頭蛇尾の為体、何とも遅くなりまして面目次第もございません……そして今しもあれ、辰年という機縁(奇縁?)のあることですから、出来得れば年初に気宇壮大なる龍のまま、残りの三タイトルも年内に平らげて随想録に収められるよう努める所存です。万一にも龍頭の舟が沈みそうになったらば、今年はもう一方の鷁首の舟に乗り移ってでも確と書き果せようと、コメントを頂戴して心新たに致しております。何時も私に活力を下さり、本当に有り難うございます。

    また「余計なこと」とはとんでもないことで、あの当時の坂本さんが「オルゴール――」のタイトルから抽出して下さったエッセンスは、私が今話に含めた想念のその先まで届いていて何処か頼もしささえ覚えておりました。私は俯く許りで、坂本さんは俯いてから顔を上げたように思えた……そこには新生への慥かなる予感がありましたし、私にとってのこの上ない福音となってくれました(後述)。ですから「或いは同タイトルで坂本さんの書かれた方が面白いのではあるまいかと、本気で思い始めてきました」という私の見立ては今以て変わっておりません。とは云え、私も私としてこれを皮切りに、次は「掌上の小さな美術館」を今度こそ近々にお目に掛けられるように支度致します。

    扨、家族、ですね。実は本日(昨日)が電話の日でした。祖母の古くからの知人で同い年の方が、住み慣れた家を離れてご子息と同居された直後に亡くなってしまったことや(年老いてから住み処を変えるべきではないとぼやいておりました)、私の従弟の恋愛事情(どうやら相談を受けているらしく、「90近い婆以外に相談する人はいないのかねェ」と気を揉みつつも、他人の心配をしているから元気なのだとも)など口の端に上せて1時間近く喋った後、矢張り「長生きしてね」とは云わずに今回も通話を終えました。このようなひと時を「当たり前」のものと思われなくなったのは恐らく、私自らの生まれ育った家族とその周縁にいる親族達の誰もが快活である裡は無限に続くやに思われた行住坐臥も、彼彼女らの「老」「病」「死」によって縮退し竟には終わりを迎えるのだと実感し始めたこと(即ち私自身にも漂うようになった老い)に加えて、私自らが親族核となる新たな家族を未だ形成していないことも少なからず影響しているように思われます。そして私はここ数年、私自身の〈子の不在〉を否応にも意識せざるを得なくなっております。

    今話では、人生を、続く限り同じ音色を反復して奏でる「オルゴール」に擬え、その「ぜんまいが切れる」ことを死の暗喩として用いました。全く以て坂本さんのご解釈の通りです。その上で悔しいかな、私はそこまでしか考え至っておりませんでした。けれども、半年前にあの4つのタイトルを私が提示した時、坂本さんは「ぜんまいが切れる」その先に「ぜんまいをもう一度巻きなおす」ことを「生の予感」「復活の契機」として見出して下さった、そのことが私には大きなヒントとなってくれました。

    人生というリニアと暦法のサーキュラーの両運動は、かたや一回性のもので、こなた回帰性のものであるという異なる性質をそれぞれに持ち乍ら、だのに恰も線路上を趨る「車輪」として違和感なく彼我の性質は止揚され両立しているようにも見える……そのことが私には不思議でなりませんでした。けれどもそれはそれとして、坂本さんが「巻き直す」ことを「生の予感」「復活の契機」として抽出して下さったことで、これは未だ煮詰まってはいないのですけれども「リニアにおける“反復”」という着想を私に与えて下さったような気がします。厳密には〈親〉の歩んだ人生の轍、軌跡を〈子〉が追体験?する、親の後ろを子が辿ることによって親の人生そのものが是認される(無論、そうでない場合もあろうものの)という意味での“反復”で、これを或いは書き止したままの『まじりけ』の一部にて作中人物に考察させたり(未だ公開できる段階にないのが残念至極です)、或いはよりその原液に近い形で、今や私の中の「幻の大作」(笑)になりつつある『父と息子の対話〈ディアローグ〉』(以前、章立てだけお目に掛けたことありましたっけ)にて、それそのものを描いてみたいと思い続けて今に時を過ごしております。お目に掛けることの出来るか心許ないこと乍ら、「予感」だけでも先ずはお届けできればと存じます。

    私も「全力少年」(この曲の爽快感、誠にスカッとしますね)には戻れぬまでも「全力中年」らしく、スポーツクラブのトレッドミルに時速8.5~9キロ程度の低速でジョギングして汗を流し乍ら、若い頃には思い巡らすことのなかった事柄について考えられるようになったことを僥倖と思い、追伸にて頂戴した又しても滋味深いご示唆に導かれつつ、本年も随想その他の書き物を続けて参ろうと思います。往復書簡、今後ともよしなにお願い致します(此方でも何やら私信のようになってしまいましたね)。

    追伸:
    但願人長久……そして年を踰えて持ち越してしまった私の方の「宿題」につきましても、今少し提出をご猶予下さいますと幸いです(未だ諦めていません!)

    編集済
  • 大切な人の死について深く考え込むのは苦しいですよね。
    私はすでに何人も身近な人の死を経験してますし、とても大切な人の死も経験していますが、いつでも苦しくて笑うことさえできずに日々が過ぎていた時期もありました。
    そうした時に子どもたちが私を笑わせようとして面白いことを言ってきて、思わずふっと笑ったら、子どもたちがとても喜んだことをふと思い出しました。

    理詰めのエッセイを書くのはこういった意識的な葛藤を乗り越えないと無理な面もあるので、ご自身のお気持ちを大切に綴られることを心から願います。

    作者からの返信

    中澤 樣

    元三のお忙しい中にもご高覧下さいまして有り難うございました。また遅れ馳せ乍ら、本年も旧年中と変わらぬご交誼の程、お願い申し上げます。

    今ある日常が日常でなくなる日のことを、ここ数年は強く意識するようになりまして、実は擱筆後に、「居なくなる人」を補ってくれる、と云うと些か語弊があるやも知れませんけれども、先人の居なくなって心細くなっている自分を、後から追い掛けて来て、恰も自分の人生を「反復」若しくは「肯定」してくれているかのような〈子供〉という存在がいれば、嘸かし頼もしかろうと思い馳せていたところでした。

    中澤さんのお子さん達はお優しい、そしてご立派な方達ですね。

    何時も何時も励ましのお言葉頂戴しまして恐縮です。今以て省エネモードではございますけれども、今年は昨年よりも色々とお目に掛けられると良いのですけれど……。