倉木の好きなモノ
郷田歩
倉木、引っ越すの? 1
「そういえば、倉木さん家、今度引っ越すらしいね」
「え?」
耳障りな音を轟かせる掃除機をかけながら母さんが不意にそう言ったから、僕は少し驚いた。
「いつ?」
ソファにもたれて、日曜昼過ぎの退屈なバラエティ番組を眺めている僕は聞き返す。
「いつだったかしら、五月中に引っ越すって言っていた気がする」
もう五月の中旬だから、あと二週間以内に引っ越すということじゃないか。
「なんで引っ越すの?」
「ご両親の仕事上の都合なんじゃないの?」
僕の母さんはこういい加減なところがある。そんなにどうでも良い話題じゃないと思うんだけどな。これ以上聞いても何も情報を得られそうにないし、本人に聞いてみようかな。最近ろくに会話してないけど。
そう思いながら僕はソファから降り、自分の部屋に入った。掃除機の音を遮断するように部屋の扉を閉め、椅子に座る。
勉強机の側の窓からは隣の倉木家と僕の家のベランダを隔てる防火壁が見える。さらにその隙間からは倉木家のベランダに置かれたベンチと、その上にちょこんと乗った丸いサボテンの植木鉢が見える。このサボテンはずっと前から置かれていることを、僕は知っている。
僕の家族がこのマンションに引っ越してきたのは、僕が幼稚園生だった時。その時から倉木家はここのマンションに住んでいたようで、僕の家と倉木家はなんとなく馬が合い、親しくなった。倉木家も僕の家も両親が東北出身で、仕事の都合で東京に来たというのが仲良くなった理由の一つだと思う。あとは、倉木も僕も一人っ子で、かつ同い年だというのもあるのかもしれない。
とにかく、僕や倉木がよく覚えていない頃から僕たちの家族には交流があって、小学生の時には週末に公園に行ったりしていた。兄弟がいない僕たちにとってお互い兄弟のような存在だったかというと、全くそういった関係ではなかったが、他人同士の緊張感というのは一切なかった。
僕たちが中学校に上がってからはどこかへ一緒に行くとかは無くなって、それどころか会話をすることも少なくなった。元々仲が良かったという訳ではなかったから、違和感は感じなかった。
それでも、引越しのことを倉木の方から言ってこなかったのは少し意外だった。五日ほど前、帰宅途中にすれ違った時も引越しなんて言葉は一度も口にしていなかった。いや、倉木のことだからわざと言っていないのかもしれない。今の倉木のことはよく知らないが、昔の倉木を思い出すにその可能性も十分ある。
倉木は、たまになんとも理解に苦しむ行動を起こすことがあった。普段はそんな素振りを見せることがなかったから、その独特な行動に遭うたびに、僕は不思議な気分になった。
確かあれは四、五年前。倉木は突然僕に本を貸してきた。正確にいえば、僕に本を押し付けてきた。色鮮やかな海の生き物の写真が並んだ図鑑のようなものだった。僕は海の生き物に興味があるなんて一言も言ったことはなかったし、むしろ海水浴でナマコを踏んでしまった時からどちらかといえば苦手だったのに、脈絡もなく押し付けるように本を貸してきたのだ。
僕が本を抱えたまま呆然としていると、倉木は表情を一つも変えずに「これ、読んでみて」と言ったのだった。僕は頼まれたことは何も考えずにやってしまう性格だったから、家に帰ってはずっとその本に載った海の生物の写真を眺めていた。その本は案外退屈ではなかったから、順調にページはめくられていった。本の後半に差し掛かったところで、ある紙切れが挟まっていた。
『この本、面白い? それとも、偶々この紙を見つけたの?』
正方形の小さな紙に書いてあったその丸っこい文字は、明らかに倉木のものだった。
この文の意味するところは分かった。本を読んでいけば紙が挟まれたページに行き着き、そこで倉木のこのメッセージに気付く。もしくは、読まずにページをパラパラめくっていると、この紙が落ちてきて、メッセージを読むことになる。紙に書かれた倉木のこの文は、このどちらの場合に読まれても大丈夫なものだった。むしろ、どうやってメッセージにたどり着いたかを問うものだ。
ただ、問題なのはなぜそんなことをわざわざ紙に書き、本に挟んでまで聞いてくるのかということだった。本が面白かったかどうかなんて、直接聞けば良いし、パラパラページをめくっただけなのかどうかも、直接聞けば良い。
次に倉木にあった時、本を返しながら僕は聞いた。
「あの紙、どういうこと?」
倉木は少し嬉しそうに口角を上げながら答えた。
「あ、見つけたんだ。読んでいるときに見つけた? それとも偶然?」
「読んでいる時に見つけたんだけど、どういうことなの?」
「へぇ、この本、面白かった?」
倉木は僕の質問に答えることはなく、むしろ質問で返してくる。僕は小学生成りに苛立ちを抑える。
「うん、結構面白かった。でも、なんであんなのを」
「じゃあ、あの紙が挟まったページまで読んだっていうことだよね。ふふ」
倉木はさっきよりもほんの少し口角を上げてそう言った。僕の質問が耳に入っていないらしい。さすがに僕はムッとした。
「だからさ、なんでわざわざあんな紙を用意したんだよ」
「だって、面白いでしょ?」
「はぁ?」
「面白いじゃん」
倉木はそう言い、前歯を小さく見せて微かに笑った。僕はその言葉に嘘がないということを直感した。面白そうという理由だけで倉木はあの紙をわざわざ書いて本に挟んだのだ。
「もしかして、あの紙を読ませるために本を貸したの?」
「さぁ、どうでしょう」
なんでそう、楽しそうなんだ。
これ以外にも、倉木は突飛な行動をすることがあった。僕が倉木家に行った時、いきなりピアノを弾いて「どう?」とこの上なく漠然とした質問をしてきたこともあった。そういった行動は数える程しかなかったが、どれも小学生の僕にとっては理解できないことだった。今思い出しても、よくわからない。
中学校に上がってからは喋ることが少なくなったからか、こういった行動を全く見なくなった。ただ、何かを聞いても曖昧に答えたり、はぐらかしてくることは多々ある。
倉木は、こんな不可解な行動を時々する以外はどこにでもいる年相応の女子だったし、今もそうだ。人並みにオシャレは好きだし、昨日のドラマの話で盛り上がることもできる。だから、不愉快ではないんだよな。僕に対しても大体そんな感じなんだけど、時々何を考えているのか分からなくなる。
SNSで聞こうと思ったが、明日直接聞くことにした。SNSのアカウント自体は登録しているものの、それで話すほどの仲じゃないし、そこまでする必要はないと思ったからだ。それに、SNSだとテンポが悪いし、適当にはぐらかされるかもしれない。だからといって、流石に電話をするのはあり得ない。それこそ、そんな仲じゃないし、わざわざ電話をしてきくほどのことでも無い。
月曜日の塾の英語のクラスは倉木と一緒だから、直接聞くのにちょうど良い。塾から家までは歩いて十五分ほどだから、その間になんとか聞き出せれば良いのだけれど。
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