その出口に

 家には誰もいなかった。冷蔵庫にメモが貼ってある。『出かけているので、遅くなります。まんじゅうあるから食べといて』だそうだ。

 風呂に入り、あんこの入ったまんじゅうを食べながら机の前に座る。

 パソコンを起動させ、USBをさした。USBには倉木の手で『川野』とマジックで書かれていたのだが、かすれて消えかかっている。

 僕は立ち上がり、黒のマグカップにコーヒーを注いだ。まさか、二日連続でコーヒーを飲むことになろうとは。

 いつも通り並々のミルクを入れながら、僕は考える。

 小島はさっきヒントとしてこう言った。

 『自分の思いをわざわざ言わずとも、相手が自分の望むように行動してくれる方法があるのなら、最高じゃない?』

 これは何を意味しているのだろうか? USBを僕に渡すことで、僕を思い通りに動かせるということだろうが、その目的って一体何だというのだ。

 マグカップを持ちながら椅子に座り、一口コーヒーを啜ってカップを机に置いた。コトンという音が静かなリビングに響く。

 考えるのだ。きっと、考えれば何か手がかりをつかめるはずだ。

 小島のヒントは、正直よく分からない。ただ、小島は確かに倉木が僕にUSBを渡したことの目的を予想したのだ。倉木のことをよく知っている小島だからこそ、その目的を推測できたのだろう。

 倉木はある目的を持って僕にUSBを渡してきた。小島のヒントが正しいのならば、それは自分の意見を言わずとも相手が思うように動くためのものだという。この相手とは恐らくUSBを渡した相手、つまり僕のことだろう。

 そして、その目的は僕にパスワード入力という形で告白させることではなかった。また、小島が言うには、間違ったパスワードを入力させることで僕を失望させるといった目的でもないらしい。

 失望か。正直、倉木の目的は結局僕をからかうことではないのかと思ってしまう。自分の名前なんて入れて自惚れてんじゃないよって感じで。それが何だかんだしっくりきてしまうなぁ。でも、小島は違うって言うし……あれ、そういえば……。

 僕は小島の言葉を思い出した。

 僕が自嘲気味に『自惚れてバカみたいだよ』と言うと、小島は小島らしからぬ優しい声で言ったのだ。

『いや、自惚れじゃないよ』

 小島がこう言った、いや言ってしまったのは僕が自惚れに過ぎなかったと自虐していたからだろう。きっとこんなことを小島も言うつもりではなかったのだろうが、優しさが出てしまい、つい言ってしまったのだと思う。

 これは小島の推理を推測するためのもう一つのヒントとなるはずだ。小島は知らずのうちにもう一つのヒントを残していたのだ。

 僕が自惚れているのかそうでないのか分からないけど、倉木の一番の親友(自称だけど)である小島が自惚れでないと言うのなら、とりあえず信じてみよう。そもそも、倉木が僕のことを好きである可能性が全くないのなら、小島は僕の名がパスワードであるという予想をしなかったはずだ。それなのに一度はそう予想したということは、可能性があるということだろう。

 仮に僕のことを倉木が好きだとして、倉木の思う通りに僕を動かすのが目的だとすると、僕に告白させるというのはしっくりくる。しかし、それは違った。パスワードは僕の名前ではなかったのだ。もしパスワードが僕の名前だとしたら、僕がそれを見破れば結局倉木は僕が好きだという意見を言ったことになる。これでは自分の考えを言わない倉木が(USBという媒体を通してだけど)気持ちを言ったことになっておかしい。そして、その様なパスワードを設定しても僕が倉木のことを好きかどうかは分からない。最悪の場合、自分の思いだけ伝えて、それで終わりだ。

 じゃあ、何が目的だ?

 僕はここで一口コーヒーをすすった。ひどく冷めていた。

 ……やっぱり、倉木が僕のことを好きだなんて考えられない。どうも、倉木は僕を失望させるのが目的なんじゃないかと思ってしまう。小島は自惚れでないと言ったが、僕は自惚れだとしか思えない。

 コーヒーを飲むことによって、無理してピンと張った集中力の糸はプツンと切れてしまった。思考は振り出しに戻ってしまう。 

 慣れない推理なんてするもんじゃない。それも、『倉木が僕に好意があるとして』なんてしっくり来ない仮定の下に推理を展開しているのだ。まぁ、僕が展開できた推理なんて幼稚園児のハンカチ程度の大きさだったのだけれど。

 いつもの僕ならここで考えるのをやめ、ベッドの上で何度も読んだ漫画をまた読み始めるだろう。だが、今日の僕は違う。この問題だけは片付けたかった。

 冷め切ったコーヒーをまた口に含む。再び推理を始める。

 しかし、一向に推理は進まない。小島のヒントをあてにするなら、倉木は何か思い通りにしたいことがあるらしい。小島が漏らしたことをあてにするなら、僕は自惚れてはいないらしい。僕の直感を信じるなら、倉木は僕を揶揄いたいだけだ。倉木の目的を幾ら推測しようとも、ただ僕を悪戯に揶揄っているだけじゃないのかという結論に戻ってしまう。

 推理の停滞を招いたのは僕の思考力や集中力の欠如だけではなかった。思考中に度々小島の言ったことが頭を過ってきたのだ。

『川野は怜のこと好きなの?』

 何故かこの言葉が出てきて、ただでさえ鈍い僕の思考をさらに鈍らせてきた。色んな情報や会話や好意の有無といったことが頭の中で複雑に絡まりあい、取り返しのつかなくなったあやとりの様になっていた。好きとかどうとか、そんなの、分からない。分かるわけない。

 会話のフラッシュバックにもめげずに、何度もこんがらがった頭を捻って解答を推測した。考えて振り出しに戻ってはコーヒーを飲み、また考えて振り出しに戻ってはコーヒーを飲むのを繰り返していたら、ついにマグカップの底が見えてしまった。

 そこで一度冷静になり、僕は椅子から立ち上がって洗面台で口をゆすいだ。再びパソコンデスクの前に腰掛け、なんとなしに倉木から貰ったUSBを開く。

 倉木が残したフォルダともう一つ、僕が適当に入れた写真がある。幼い時の僕と倉木がベンチに並んでアイスキャンディーを食べている写真。そういえば、母さんにこの写真について聞いたんだっけ。ここは帰省先の田舎のバス停で、二人とも退屈していたらしい。

 この写真が撮られた時のことを少し思い出した。確か、僕はずっと文句を言っていた。つまらなくて、早く帰りたいってブーブー言っていた。でも、倉木は文句を言っていなかった気がする。顔こそ不機嫌になっても、幼い子供みたいに文句を言っていなかった。幼い子供なのに。昔から、そうだったんだな。

 僕のやり方はやはり間違っていたのかもしれない。倉木が僕を好きかどうかとか、僕が倉木を好きかどうかとか、よく分からないことを考えるのを一度やめよう。小島のヒントもよく分からないから、一度置いておこう。

 僕は頭の中のこんがらがったあやとりを丸めて捨てた。残っているのは、僕と倉木の数少ない会話の記憶。これで良い。これをもとになんとか考えるのだ。


 倉木は、幼い時から自分の意見を言わなかった。帰省の時も、今回の引っ越しの時もそうだ。両親が、単身赴任ではなく引っ越しをすると決めたのだから、それで良いのだと言った。あの時、本心はどうだったのだろうか。僕なら、引っ越しなんてしたくないと言うに決まっている。

 倉木は、常に目立たない様に動いていたと思う。確か、小学校の時何度か同じクラスになっていたが、係決めでも立候補することはなかった。いつも、余った人気の無い役職についていた。結局、生き物係をやっていたのだっけ。僕が学校から帰る時、ひとりウサギ小屋にしゃがみこんで子ウサギを撫でていた倉木を見かけたことがある。

 倉木は、両親の話を滅多にしない。僕とはそもそも会話が少ないから当たり前かもしれないけど、引っ越しの話題になっても両親の情報は最小限にしか出さなかった。小島も、倉木家に遊びに行ったことがあるのに倉木の両親のことを知らないみたいだった。

 倉木は、きっと本が好きだ。帰省の時、常に本を片手に持っていた。分厚いカバーの絵本。最近は倉木のことをあまり見かけないし、見かけた時も本を持っていることなんて無いけど、今でも本を読んでいるのだろう。川端康成なんて、昔は読んでいなかった。

 倉木は、きっとバイオリンもピアノも気に入っている。両親に言われて嫌々続けているわけではなさそうだ。音楽の話になると、ほんの僅かに目が輝く様な気がする。少しだけ話すスピードも上がる。

 倉木も、僕と同じ様にあの橋から見る景色が好きだと言った。なんで好きかは言わなかった。それは言葉にする必要がないからかもしれない。僕はあまりうまく言葉にできないし、する必要もないと思う。

 なんだ。僕だって、倉木のことを結構知っているじゃないか。

 倉木は、言った。

『明日になったら、何か変わっている気がするの。私にとって良い方に世界が傾いてくれる様な気がする。それじゃ、ダメなのかもしれないけど』

 倉木は、今の状況に多分満足していない。言いたいことがいっぱいあるけど、他人に合わせてしまっている。それは、倉木が真面目で優しくて大人だから。どこかで聞いたことがあるけど、同世代の他の人に比べて大人な人というのはいつも損するらしい。大人になれば周りも正当に評価してくれるんだけど、中学生の時なんてみんな子供だから、厄介ごとを被るばかりなんだという。僕みたいな何も考えていないコドモな子供が得して、オトナな子供が面倒なことをやっているんだ。

 だから、倉木は早く大人になりたいんじゃないのだろうか。子供だらけの世界から抜け出したいんじゃないのだろうか。だからこそ、日が登るたびに世界が良くなっていて欲しいと願っているのだと思う。

 それでも、倉木だって自分の意見を言いたいに決まっている。これは小島も言っていた。誰かに自分の意見を知って欲しいに決まっている。

 その誰かがもし、僕だとしたら。

 USBのパスワードに、その思いを乗せていたとしたら。

 一つの解答が僕の頭に思い浮かんだ。パスワードはやはり、人の名前だ。

 ジグソーパズルのピースがきっちり収まる様な感覚はない。寧ろそれとは正反対の、リンゴが頭に落ちてきて閃いた様な感覚。推理というよりは直感に近い。それでも、何故か答えであるような気がする。

 いやでも、そんなことあろうか。倉木自身の名前がパスワードだなんて、そんなことが。

 僕は『Readme.txt』をダブルクリックし、出てきたウィンドウにキーボードで『kuraki』と入力する。少し考えて、やっぱり『rei』にしてエンターキーを押した。

 ファイルが開かれる。トンネルを抜けた時の光の様に、白いテキストファイルがデスクトップに広がる。そこに書かれていたのは、余りにも短いメッセージ。

『面白かったでしょ? 自惚れてた? それとも、案外簡単だったかな』

 僕は動きを止め、何度もその文章を読み返す。「難しいに決まってるだろ、こんなの」と思わず呟いた。まさか倉木自身が答えだと思わなかった。

 結局、僕は倉木の手のひらで踊らされていたのだ。倉木は僕がパスワードを解くことを予想していて、しかも解く過程で僕自身の名を入力することも予想していたのだ。やはり、僕をからかう目的があったんだな。小学生の倉木がニヤニヤ笑う姿が頭に浮かんでくる。

 ただ、肝心の答えは倉木自身の名前だった。思いついておいて言うのもおかしなことだが、これに何の意味があるのかはよく分からない。

 あくまで僕は、これは倉木のメッセージだと思った。倉木は波風立たぬ様に周りに合わせて生きているが、本当はもっと自分の意見を、自分を大事にしたいのだ。だから『私の好きなモノ』をクイズ形式にして僕に送った。

 その答えを『rei』にすることで、ささやかな主張をしたのだ。本当は自分をもっと伝えたいって。自分が好きなんだって。

 ここまでは僕の勝手な推測だから、本当にこんなことを考えているのかは分からない。結局書かれていた文章はいかにも倉木が書きそうなことだし、それ自体に深い意味はなさそうだ。倉木に聞いても『面白いから』としか返ってこないのかもしれない。

 それに、USBに思いを乗せるにしたって、なぜ僕に渡すのだろうか。

 一度僕は目を瞑る。折角パスワードが分かったのに、何だこのモヤモヤは。

 倉木は、どこまで考えていたのだろうか。僕を揶揄っていたのは確かにしろ、答えの意味は何だというのだ。小島が言っていたヒントの意味も分からず終いだ。僕が何か倉木の思う様に行動しただろうか。いや、全くしていない。

 本当に、何が目的なんだ? ただ面白いからって理由だけなのか?

 僕は椅子に深くも凭れかかって天井を仰いだ。白い天井。低い。

 玄関のドアが開いた。「ただいま」という二つの声が聞こえる。父さんと母さんが同時に帰ってきたようだ。

 僕は時計を見た。針は午後七時半を指す。随分と長い間、僕はパソコンと向かい合っていたらしい。

「おかえり。なんで一緒なの?」

 パソコンの電源を落としながら、僕は尋ねる。

「ちょうど駅前で会ってね」

「カレー買ってきたぞ」

 そう言いながら、父さんは大きなビニール袋を机の上に置いた。母さんは惣菜を置く。

「なんでカレー?」

「康太好きだろ、カレー」

「いや、そうだけど」

「今晩はカレーを買って帰ろうって話になったの。私の帰りも遅くなっちゃたし」

「疲れた時には好きなものを食べないとな」

 どうやら、母さんだけでなく父さんまで、僕が深刻な悩みを抱えているとまだ思っているらしい。本当に今日はいろんな人に気を遣わせてしまっている。

「疲れてはいないよ」

「そうか、でも頑張り過ぎるなよ」

「だから、そんなに追い詰められていないって」

 僕は苦笑いするが、父さんは気にも留めない。

「とにかく、今日はカレーだな」

「ここのバターチキンカレー、美味しいらしいよ」

 母さんは皿を準備し始める。

「康太、お腹減ってるでしょ。買ったばかりで温かいから、もう食べちゃったら」

「うん。でも、ちょっと外行ってくる」

「え?」

 呆気にとられた母さんを余所に、僕は靴を履き、玄関の扉を開けて外に出た。

 少し、一人きりになりたかった。気分が落ち込んでいるからではない。別に落ち込んではいないし、だからと言って嬉しいわけでもない。なぜかはよくわからないけど、一人になりたかった。頭をクールダウンさせるという言い方をすれば良いのかもしれない。

 外の空気は湿っていて暖かかった。湿気をふんだんに含んだ風はシルクのように柔らかく頬を撫でる。六月になり、季節は確実に夏を迎えつつあるようだ。何も考えずに半袖で家を出たが、ちょうど良かったな。

 僕は歩く。どこに行くかは考えていない。ただ、歩く。

 道端に紫陽花が咲いている。額紫陽花だ。日本に古来からある、控えめな花。品種改良が施された、正に華々しい紫陽花とは対照的に地味で、どうもパッとしない花を咲かせる。花言葉は「謙虚」なんだっけ。確かに、謙虚な品と美しさを備える花だと思った。自己主張をせず、それでも道に彩りを与える花だ。

 道端に咲いた額紫陽花は、夜であってもその淡い青色が認識できた。倉木が引っ越してからやけに紫陽花が目につくようになったのは、六月になったからであろうか。それとも、咲いていたのに気がつかなかっただけなのだろうか。

 僕は立ち止まってしゃがみ、額紫陽花を見つめた。改めて見ると、面白い形をしている。独特な色と形なのに、見れば見るほど綺麗だと思った。

 足元に額紫陽花のガクの部分が一片落ちていた。僕はそれを拾い、立ち上がる。

 右手にガクを持ちながら、僕は歩いた。しばらく歩いていると、無意識のうちに橋に来ていた。僕の好きな景色の見える橋。倉木も、好きだと言った。

 僕は立ち止まり、夜に光るビル群を見る。こうやってビルを見るのは何度目だろうか。

 欄干に手をかける。柔らかい風がシャツの襟を揺らす。立ち止まって景色に集中すると、この町に住む人々の生活する音が微かに聞こえるようだった。

 結局、倉木の目的は分からない。目的があるのかどうかすら、わかっていない。

 倉木の問いに答えたはずなのに、スッキリしていない。解放感も、達成感もなく、むしろ何か晴れ晴れとしない、鬱屈としたモヤモヤが心に広がっている。

 全くもって気分が晴れないのは、将来への不安を感じているからというのもある。寧ろ、こっちが僕を蝕む霧状の鬱屈の主犯人かもしれない。

 僕は、この将来への不安に対して無力だ。僕は日々成長している。子供から、大人になっている。僕だけじゃなく同級生も皆、精神的にも、肉体的にも、毎日成長している。自分の成長を客観視できるようになると、時間の流れを意識するようになる。確実に終わりのある時間の流れ。実感の湧かないほど遥か彼方にあるその終末の存在に向かって、確かに僕たち進んでいることを感じるようになる。その中で、僕たちは何をして、どう生きるのだろうか。僕は知識も経験もないから、ただ流されることしかできていない。ダメだろうと思いつつ、良いだろうとも思っている。

 中には既に人生の価値を見出して、それに向かってひたすら突き進んでいる同級生もいるのかもしれない。誰かにこの不安を打ち明けても、「恵まれた環境にいるね」なんて嘲笑されるのかもしれない。不安になるだけ無駄なのかもしれない。馬鹿馬鹿しいことで悩んでいるのかもしれないけど、確かに僕の喉元は、緩い力でじわじわと締められている。

 皆はどうなのだろう。

 父さんも、原島先生も、この不安を忘れてしまったのだろうか。それとも、僕だけが抱えているのだろうか。

 倉木は。

 手に持った額紫陽花のガクを、僕は放した。

 ガクは右手からゆっくりと落ち、川面に浮かぶ。小さな波紋が揺らめき、町の明かりを反射する。

 倉木は、僕と違って強かだ。でも、僕と同じ不安を抱えているはずだ。なんとなく、そう思う。

 不安を抱えた時、倉木ならどうするのだろうか。ピアノを弾くのだろうか。バイオリンを弾くのだろうか。本を読むのだろうか。それとも僕と同じように、ただ苦しむだけなのだろうか。

 水滴が鼻に落ちた。僕は上を見上げる。街明かりで雨雲が照らされている。小雨と言うにも足りないほどの小さな水滴がポツポツと降っている。

 僕は倉木をよく知らない。倉木は僕を知っているのだろうか。

 僕が倉木の置き土産に苦戦する中、僕の苦悩なんて知りもせず、新しい学校に馴染んでいるのだろうか。

 正直、忘れられていても良い。多分、僕はちょっぴり粘着質なんだ。気にするほどではないのに、倉木の残した質問に固執していた。勝手に倉木について思索に耽っていて、今思えば、ちょっと気持ち悪い。相手の行動を深く気にせず、数日経てば忘れるくらいが普通だ。

 でも、やっぱりちょっと寂しいな。

 風はいつの間にか止んでいた。水面の揺れは収まり、代わりに雨粒の小さな波紋が点々と広がっている。

 倉木の言葉を、また思い出す。

『明日になったら、何か変わっている気がするの。私にとって良い方に世界が傾いてくれる様な気がする。それじゃ、ダメなのかもしれないけど』

 倉木もきっと、不安や不満を抱えている。周りに合わせてばかりで、辛いのだと思う。それに、小島が言っていたように倉木は表現が独特なのだ。他人と自分が異なることを知り、自分の表現に疑問を持つようになれば、自分を抑えるようになるに違いない。そしてそれは、とても辛いことだ。

 僕は目を閉じる。視界が黒に染まる。雨粒の肌に落ちる感覚と、道に跳ねる音だけが伝わってくる。

 深い闇の続く長いトンネルの中に、倉木はいるのだろうか。誰にも理解されないトンネルの中で一人凍えていると、本当に倉木は思っているのだろうか。そうだとして、日を追うごとに少しづつ出口の光が見えてくるのだろうか。

 白い夜の底。倉木がイメージした、希望の心象風景。僕はその風景に希望を感じない。『雪国』を読んだわけでは無いけど、川端康成はその描写に希望を乗せたわけでは無いのだろう。倉木もそれを知った上で、それでも希望を感じたと言った。でもやっぱり、希望を感じるべき描写では無いと思う。開けたその風景にさえ希望を見出してしまうほど、倉木の現状は辛いものなのか?

 もし僕が同じトンネルに一人いたら。その出口に希望を抱くとしたら。

 そこにある風景はきっと……。

 僕は目を開けた。雨がほんの少し強くなっている。それでも、まだまだ小雨とは言うには足りない。

 倉木と話がしたい。そう思った。

 倉木と直接話がしたい。

 僕は濡れた手でポケットのスマートフォンを取り出す。スマートフォンは濡れていないが、手が濡れているせいかタッチに対する反応が鈍い。何とか、倉木に電話をかけられた。プルルルルという、電話の発信音だけが聞こえる。

 プルルルル…。

 長い時間が経って、倉木が出る。

「はい、倉木です。電話なんかしてきてどうしたの?」

 倉木の声だ。久しぶりだからか、僕は少し緊張してしまう。

「解けたよ、倉木の問題」

 僕の声は少し震えている。

 倉木が息を飲むのが聞こえてきた。

「本当?」

「うん」

 倉木は少しばかり沈黙した。僕の側を自動車が通り過ぎる。

 やがて、倉木は口を開いた。

「そう……すごいね。どうだった?」

「上手く引っかかったよ。倉木の思う壺だ。面白かった」

「でしょ?」と倉木は言う。

また沈黙が流れる。「よかった」と、倉木は小さく言った。

倉木はいつもより喋るのが遅い。

 僕は隅田川に点々と輪を成す雨の波紋を見つめる。そして、ビルの頭に点滅する赤い誘導灯を見つめる。大丈夫だ。

「いろいろ話したいことがあるんだ。だから、電話した」

「そう」

 倉木は、息を吸った。

「私も、いろいろ話したいと思ってた」

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倉木の好きなモノ 郷田歩 @goudaayumu

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