自惚れ
いつもなら、朝起きて窓を開ければ、昨夜のことなんて忘れて爽やかな気持ちになる。でも、今日はそうならなかった。窓から入ってくる風は肌を乾燥させるだけだった。
朝ごはんを食べて登校しても、授業中であっても、ずっと上の空だった。
そんなに落ち込むことではないのかもしれない。ただ、推理が間違っていなかったというだけだ。ちょっとした思い込み。ちょっとした自意識過剰。そのどれもが、中学生にありがちな、取るに足らないものであるに違いない。
そんなことは分かっている。分かっているはずだ。それでも、落ち込んだ気分が上がる様子はなかった。
一体僕は、何にこんなにも落ち込んでしまっているのだろうか。自分で自分がバカバカしく思えてくる。実際、バカなんだけど。
先生の授業ではノートを書き、友達とはちゃんと会話をし、部活ではエラーをしない。それでも、意識の底はどこか遠くに向けられていた。
そしてそのまま、部活は終わった。
「康太、帰るか」
部室で練習着からジャージに着替えながら、本橋が聞いてくる。
「あぁ」
「大丈夫か? なんかお前、今日元気ないな」
僕は振り向く。本橋がこっちを向いている。中途半端に練習着を脱いでいた。
「そう?」
「元気ないっていうか、なんかぼぉっとしているな」
こいつは本当にカンが鋭い。
「そうかなぁ」
僕はとぼける。本橋から目を逸らした。
「あぁ、プレゼンントの件か?」
プレゼント…。そういえば、本橋は僕が誰かに渡すプレゼントに悩んでいると思っているのだっけ。
「違う……いや、違くもないか」
「プレゼント、失敗したのか」
僕は思わず本橋を見た。同情しているわけでも、揶揄っているわけでもない顔だった。
「なんというか、俺の思い込みが激しかったみたいだ」
「そうか」
本橋は黙ってまた着替え始める。僕も着替える。
「そうだな、うん。頑張れ」
着替え終わった本橋は僕の肩を叩いてそう言った。頑張るってなんだよと思ったが、本橋なりに僕のことを励ましてくれているらしい。
「あれだよ、大したことじゃない」
部室を出る本橋に対し、僕は何かの言い訳のようにそう言った。言わなくてもいいことを、何言っているんだ。
「あと、今日は先に帰ってもらえる?」
僕の声は弱々しい。慰められることで、必要以上に自分が惨めなんだと錯覚してしまっているようだった。要らぬ言葉が頭を過るが、なんとか喉元でグッと堪える。僕が言葉を発すれば発するほど、僕自身を無様にしているようだし、勝手にナルシスティックな悲劇に酔ってしまう可能性があったからだ。
いや、そんな理屈も何も無い。とにかく、一人になりたかった。
「あぁ」
本橋はそう言って、部室を出た。僕は部室の扉に背を向けて帰り支度を進める。
本橋が部室を出て扉が閉まった直後、また扉が開いた。
「康太は、もっと自信を持って大丈夫だぞ」
僕が何も言えずに振り返った時には、ただ扉がボロい音を立てて閉じているだけだった。
僕は部室を後にした。
部活終わりに一人で帰ることは珍しいことではないけど、今日は初めて一人で帰るようだった。関節はぎこちなく動き、まっすぐ歩けているのか不安になる。あれだけ一人になりたかったのに、もう寂しくなっていた。
本橋を嫌な気分にさせてしまったかもしれない。とぼとぼ歩きながら、僕はそう不安になった。勝手に落ち込んで、一人で帰りたいなんて言い出して、なんて僕は身勝手なのだろうか。落ち込んでいる理由も言わないで塞ぎこんでいたのに、本橋は僕を励ましてくれた。それなのに僕は、何も言えなかった。
負のスパイラルだ。僕はいつもこうだ。気分が落ち込んでいると、周りの人に変な当たり方をしてしまう。ちょっとしてそれを後悔し、そしてその後悔がさらに気分を底へと引っ張っていくのだ。
「川野」
負のスパイラルに溺れていたら、いきなり真後ろから声がかかってきた。驚いて意識が外に向かったからか、なんとか息継ぎができた。振り向くと、すぐそこに小島がいた。相変わらず小さい。
「あぁ、小島か」
驚くほどに、僕の声は小さかった。
「気がつかなかった。歩くの速いな」
半ば無意識に僕はそう言う。
「川野が遅いんじゃない? それに、足音で気づくと思ったけど」
小島は顔色一つ変えずにそう言った。
僕と小島は並んで歩く。僕の歩調に小島が合わせてくれているようだ。
「……」
「……」
僕はもちろん、小島も何も喋らなかった。倉木のことについて話しかけてくると思っていたのだけど。
テンポの異なる足音だけが響く中、小島はおもむろに口を開く。
「野球部って、大変そうね」
「まぁ」
なんだその会話は。もしかして、僕の調子が悪いと見て、気を使ってくれているのか? 本橋だけでなく、小島にも気を使わせてしまっているのか、僕は。
続かぬ会話に、疎らな足音。つまらない街並みの中でも道端の紫陽花は鮮やかに咲いていて、僕たちが確かに梅雨の季節にいるのだという確信を与えてくれる。こんなにも気分は悪いのに、紫陽花の色を眺める余裕があるなんて。不思議なもので、人間はどんな状況であっても、心のどこかは能天気に意識を散らす。
このまま落ち込んでいるだけではダメだと、不意に思った。負のスパイラルから抜け出さないと。
「USB」
絞り出した言葉はあまりに短く、そしてかすれていた。
「え?」
小島は目を丸くして僕を見る。
「倉木のUSBについて、話したいことがあるんだけど」
喉が調子を取り戻す。
「あぁ」
小島は少しホッとしたような表情を見せる。そうだ、進捗を小島に報告しないと。言わなきゃいけないことがあるんだ。
「小島のヒントを基に、昨日考えたよ」
「へぇ」
「そして、答えを思いついたんだ」
「へぇ、やるじゃない」
小島は適当に相槌を打っている。まさか、僕自身の名前を打ったとは思ってもいないのだろう。
「きっと、小島が考えていたのと同じやつだ」
「えっ」
小島は目を大きく開き、こちらを見る。俄かに緊張感が走る。どうやら、察したらしい。
「それって…」
「俺自身の名前」
「同じだ、私が考えてたのと」
「でも、違った」
「…そう」
僕の話す雰囲気からその推測が間違っていたことに察しがついていたのだろう、小島は推理が違っていたことに大して驚かなかった。ただ、その返事は小さかった。
「結構、良い推理だったと思ったんだけどなぁ」
僕は自嘲気味に言う。小島は黙っている。僕は続ける。
「なんか、勝手に自惚れてバカみたいだよ。もしかして、俺に自分の名前を入力させるのが目的だったのかなぁ。自惚れてんじゃねぇよって」
また僕は要らぬことを言ってしまっている。いや、ずっとこのことを誰かに言いたかったのだ。言える相手は小島しかいない。
「……」
「本当に、俺は自意識過剰だよなぁ」
小島は何も言わない。沈黙を取り繕うように、僕はまた自虐を口にする。こんなことを口にすれば、楽になると思っていた。でも、全く楽にならない。
「……」
小島は相変わらず黙っている。何か、考えているようでもある。
「推理もふりだしからやり直しだなぁ」
僕が負のスパイラルに足を突っ込み始めたとき、小島はおもむろに口を開いた。
「いや、自惚れじゃないよ」
小島の声がいつもの圧力を帯びていないから、僕は驚き、口を閉じる。塞ぎ込み始めていた意識が再び小島の方へと向いた。
小島は目線を一度上に向けて一息ついた後、また普段の調子に戻って話し始めた。
「川野の推理は、私の推理も、きっと全部間違っているわけじゃない」
僕は小島の意味するところがよく分からなかった。
「どうゆうこと? 手当たり次第名前を入れたんだ。小島の名前も、倉木のクラスメートの名前だって入れた。だから、人の名前が入ることはない」
「答えが川野じゃないのなら、私は一つ思い当たるところがある」
小島は淡々と話し続ける。
「なんだよ、それ」
「これは怜が川野に出した問題だから、川野が解かないといけない」
小島と目が合い、僕はハッとした。大きくて、力強い黒の瞳。見るものの雑念を全て吹き飛ばすような力を帯びている。そういえば、小島はこんな目をしているんだよな。
「いや、そうかもしれないけど」
「怜の目的が分かったかもしれないの。最初は、川野に告白させるためにUSBを用意したと思っていたけど、それでファイルが開かれないのなら……。いや、そこまで考えるかな? でも、怜のことだし……」
小島は僕との会話から脱線し、一人で何やら考え始めた。
「おいおい、どうゆうことだよ。倉木の目的って」
「あ、ごめん。ちょっと考え込んじゃって。とにかく、怜は川野に自分の名前を入力させて、失望させるためにUSBを渡したんじゃないと思う」
「失望って…」
いや、確かに失望という言葉が似合っているのかもしれない。
「怜は、やっぱり自分から意見を言わないのよ。他人に言ってもらったりしたがるの」
「そうだな」
それは小島が前に言った『ヒント』だ。
「でも、自分の意見や気持ちだって知って欲しいじゃない? そうじゃないと、自分の思い通りにいかないもの」
「まぁ、そうだよな」
「自分の思いをわざわざ言わずとも、相手が自分の望むように行動してくれる方法があるのなら、最高じゃない?」
「はぁ」
「そうゆうこと」
「え?」
どうゆうことだ? もしかして……
「これって、ヒント?」
小島は僕の方を見てにんまり笑った。
「そう、分かっているじゃない。この推測も間違っていたらごめんね」
よく分からないが、これ以上聞かないことにした。聞いたところで、川野が答えるべきだからと言われるのだろう。
「怜の目的はなんとなく察しがつくんだけど、肝心の答えがわからないなぁ…」
「ってことは、今のは倉木の目的についてのヒントなのか」
「そう。でも合ってるかわかんない。目的の予想はついても、要の答えが全く分からないから、そもそも私の予想が的外れかもしれない」
「そうか」
「だから、話半分でお願い」
「うん」
一度推測を外しているからか、小島はかなり慎重に予防線を張ってくる。
「ただ、たとえ答えが分からなくても、川野は自分の思うままに行動すれば良いと思うよ」
「自分の、思うままに」
小島を見る。小島は小さく頷く。さっきとは打って変わって、自信があるみたいだ。
僕は幾分か歩調がいつも通りになっているのを感じる。前を歩く二人組みの年配夫婦を追い越す。
「ところで、川野は怜のこと好きなの?」
「はぁ?」
小島がなんの前触れもなく突飛なこと聞いてきたから、僕は驚いて小島を見た。ここまで暴力的な『ところで』を僕はかつて聞いたことがない。
「どうなの?」
小島は大きな目を見開き、僕の方を見る。
「どう、好きなの? 嫌いなの?」
狼狽する僕を揶揄うように、小島はニタニタしている。無邪気な邪気に僕は気圧される。
「……正直、わかんないよ。好きとかどうとか」
「何それ、つまんない」
「つまんないって、そんなのないだろ」
「じゃあさ、昨日自分の名前がパスワードじゃなかった時、ショックだった?」
「そりゃあ、ちょっとはショックを受けるだろ。誰でもショックだよ、あんなの」
「じゃあ、嫌いじゃないってことだよね」
「そりゃあ、まぁ、嫌いではないだろ」
小島は「ふぅん」と言ってニヤついた。どことなく倉木に似ている。
「それなら十分じゃない」
「十分って、何がだよ」
「さぁ?」
交差点に差し掛かる。小島は「じゃあ、頑張ってね。解けたら教えて」と言って右に曲がる。僕も「じゃあ」と言った。言った後に、「ありがとう」と付け足す。聞こえたのかわからないけど、小島はちらっとこっちを向いて小さく笑った。
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