額紫陽花 2
帰り道、紫陽花が咲いているのを見つけた。青色の花を咲かせている。でも、中央はまだ蕾のようで、どうも地味だった。紫陽花といえば、もっとボリュームのある派手で綺麗なのを思い浮かべる。
「ただいま」
「おかえり」
家に帰ると、母さんが小さな植木鉢を持っていた。
「何それ」
「ちょうど今、お花屋さんで買ってきたのよ。額紫陽花」
「ガクアジサイ?」
「そう、綺麗でしょ」
母さんはベランダに出て、植木鉢を置いた。僕もベランダに出て、その花を見る。さっき帰り道で見た紫陽花と同じものだった。
「これ、さっき見たよ。六月だから、咲き始めたのかな」
「え、結構前から咲いていると思うけど」
「へぇ、気がつかなかった」
僕はガクアジサイをじっくり見る。青色の花。やっぱり、地味だ。
「ガクアジサイの『ガク』って、何なの?」
「額縁の『額』。ほら、この花弁みたいな部分あるでしょ。ここは本当は花弁じゃなくてガクっていうの」
「へぇ。こんな紫陽花もあるんだ」
「額紫陽花が元々自然にあった花で、それを品種改良したのが、いわゆる紫陽花」
「へぇ」
「ちなみに花言葉は『謙虚』。一見地味だけど、じっくり見ると愛嬌があって綺麗な花なんだよね」
「はぁ」
改めて額紫陽花を見てみると、そんな気がしなくもない。僕はベランダをでて、部屋に戻った。
「あ、母さん、ちょっと出かけるから」
「どこ行くの?」
「映画館。今日は映画が半額らしいから。夕方頃に帰ると思う」
「へぇ」
「あ、昼ごはんはチャーハン作ったから、それ食べといて。パパも今日は仕事あるみたいだし、夕方まで康太一人だから」
「分かった」
母さんは家を出て、僕一人になった。
チャーハンを食べ、宿題を済ませた。時刻は午後二時。コーヒーメーカーでマグカップにコーヒーを注ぎ、なみなみの牛乳を加える。
勉強もし終わったし、家は一人きりだし、コーヒーも用意した。これで、倉木の問いについて考えるための準備は万端だ。
デスクの前に座り、パソコンを起動する。長い起動時間の間にコーヒーを啜る。コーヒーを美味しいとは思はないが、こうやって一口飲むとやけに落ち着く。
パソコンが立ち上がり、ブルーライトが目を射す。僕は倉木のUSBをパソコンにさした。
『Hint.txt』のファイルを開く。もちろん出てきたのは『パスワードは、私の好きなモノ』の一文。何度も見つめたその文を、僕はまたじっと見る。
コーヒーをもう一口啜る。ミルクをたっぷり入れているから、そこまで苦くない。
僕は目を閉じた。回転しない頭を精一杯回転させて考える。
小島の出したヒントの意味するところは、一体何なのか。
しかし、今まで考えて分からなかったことが、いきなり分かるということは無かった。全く進捗を見せずに、ただ無為に時間だけが過ぎる。
一度トイレに行った後、椅子にかけ直す時に『パスワードは、私の好きなモノ』という文をもう一度見た。
何か、この文章にヒントはないのだろうか。不意にそう思った。倉木が婉曲的に意味を込めている部分があれば良いのだが。
まぁ、こんな短い文に、意味なんて込められないよな。違和感を感じるところもないし。
いや、待て。
僕はもう一度デスクトップに映された文を見直す。
違和感を感じる部分が、一箇所ある。
この文で違和感を感じるところ。それは、『もの』じゃなくて『モノ』だという所だ。これに何か意図があるのだろうか。
僕は再び、目を閉じる。排熱ファンの回る音がうるさいから、一度シャットダウンさせた。
わざわざカタカナで書くということは、何か特別な漢字を当てろということだろうか。もしそうなら、『モノ』は『物』ではない。他にあるとすれば、まず思い浮かぶのは『者』、つまり人ということになる。
『私の好きなモノ』……それは倉木が好きな人のことなのだろうか。そんなの分かるわけない。そもそも僕は倉木が事務以外で男子と喋る姿など、ほとんど見たことがない。
……いや、一人いる。
ここまで考えて、急に心臓がキュッと縮こまる感覚を覚える。血液の循環が一瞬凍りついたような感覚。
僕は目を開いた。
小島の言っていたことを思い出す。
『怜が川野のために作った質問かもしれない』
『出題者の意図を読み取れ』
本橋の言っていたことを思い出す。
『康太は結構、勘が鈍いもんな』
これらの言葉が、今僕が考えていることにすんなりとしみ込んでくる。きっと、小島の推測と僕の今の推測は一致しているはずだ。
僕は倉木のことを何も知らない。好きな人なんて知っているわけがない。ただ、それを倉木もわかっている上で、僕にわざわざ質問してきた。僕が解けると思ったんだ。鈍感な僕が解くべき問題。倉木が僕に解いて欲しい問題。
僕はパソコンを起動した。重い音を立ててパソコンの画面が付き、ファンが回る。
僕が見たことのある、倉木と喋ったことのある男子。それは僕自身だ。そこから自然に導き出される答えは僕自身の名前。つまり、パスワードは『kawano』ということになる。もしそうなら、これは倉木の残した僕への告白ということになる。
(本当にそうなのか?)
小島は『ヒント』としてこう言っていた。
『怜は、他人に意見を言ってもらうの。自分の意見は言わずに、他人の考えを探る』
この言葉から考えると、もしかしたら小島は僕が名前を入力してくるのを要求しているのかもしれない。つまり、これは倉木の告白ではなく、僕の告白になる。鈍感な僕に告白させるために倉木が用意したのがこのUSBということだ。
僕はパソコンに挿さったUSBを見る。倉木の丸っこい字で『川野』と書いてある。今思えば、USBに僕の名前が書いてあるのも、いかにも倉木の考えそうなことだ。実は答えはUSBに書いてあったなんて言って、ニヤニヤ笑うのだろう。
(本当にそうなのか?)
勘が鈍い僕にしてはあまりにもよく出来た推理だ。ジグソーパズルの全てのピースがぴったり枠に収まったようなスッキリとした推理。
ただ、何故か腑に落ちない。
絶対にあっているという自信があるのに、心の隙間のどこかから疑問符が投げられている。
いや、深く考えなくていい。どちらにせよ、僕がここで入力すれば、答えが分かる。やっと見つけた解答なんだ。
僕はマウスを握る。手に変な汗が湧いている。倉木のUSBを開き、フォルダ内の『Readme.txt』をダブルクリックする。パスワード入力の画面が出てくる。心臓の鼓動が速くなる。
倉木の顔が思い浮かんできた。ニヤニヤと笑う顔と、微笑む顔。全く異なるが、どちらも倉木の笑顔。
僕は『kawano』と打つ。打ち間違えがないかじっくり確認し、エンターキーを押した。
……そして、出てきたのは『パスワードが間違っています』の文字。『kouta』と打ってもファイルが開かれることはない。七文字以上入力できないから、フルネームでもない。
僕の考えは、間違っていた。
自惚れに過ぎなかったのだ。
「そっかぁ」と弱い声が出てしまう。誰にも見られていないというのにすごく恥ずかしくて惨めな気分になる。
思いついたように『kojima』や『rika』と打ってもダメだった。挙げ句の果てに僕は倉木のクラスの男子全員の苗字と名前を入力したが、どれも正解ではなかった。もう、何なんだよ。
僕は項垂れる。情けないほどに項垂れる。全身の力が抜け、椅子に深く凭れかかる。
結局、僕の推理は外れていた。きっと、小島の推理も。
僕はこの推理の上で一番大事なことを忘れていたんだ。いや、きっと心のどこかで気づいていたのに、わざと考えないようにしていた。
一番大事なのは、倉木が本当に僕のことを好きかどうかということだ。僕だってわかっていたじゃないか、倉木と僕はほとんど話してこなかったんだって。それなのに、僕のことを好きだなんて、自惚れも甚だしい。
僕は脱力しきったまま、くるくると椅子を回す。告白したわけではないのにフラれたような気分に陥ってしまう。
僕の推理は完全に間違っていたみたいだ。『モノ』は『者』でもなんでもなくて、USBに僕の名前が書いてあるのにも大した意味はなくて、倉木はなんとなしに僕にUSBを渡してきたんだ。答えはきっとウサギとかイチゴとかで、ただただ僕を悩ませては楽しんでいるだけなんだな。
くるくるくるくる椅子を回し、三半規管の弱い僕は勝手に気持ち悪くなった。
気付けに机の上のコーヒーを飲む。淹れてから時間が経ったせいか温くなっていて、ひどく不味く感じられたから、一口含んで残りは台所で流した。銀色のシンクに広がる泥色のコーヒーを見ていると、なんだかもっと気持ち悪くなってくる。僕は口を軽くゆすぎ、そのままベッドに倒れた。
カーテンの隙間に目を遣った。防火扉の隙間からは元倉木家のベランダが見える。当然、ベンチはない。勿論、ベンチの上にちょこんと乗っていたはずのサボテンも無い。
何となく、あの丸いサボテンはどこに行ったのかなと思った。青森の新しい家で、同じベンチの上にちょこんと座っているのだろうか。それとも、ベンチと共に捨てられてしまったのだろうか。もし捨てられていたら、嫌だなぁ。
いつの間にか帰っていた母さんが僕を起こした。時刻は夜の九時半。知らぬ間に五時間ほど寝ていたらしい。あまりにも僕が起きなかったから、起こしたのだという。でも、食欲がなかったから、風呂に入ってそのまま寝た。
中途半端に眠ってしまったからか、夜は中々寝付けなかった。眠れぬ僕の頭は空っぽなまま、その中をただ冷たい時間が流れていた。
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