額紫陽花 1

 日曜日。水色のポスターカラーが入った缶を倒してしまったような、雲ひとつない青空だった。集合時間の五分前に橋の中央に行ったら既に小島がいた。欄干に両手をかけて遠くを見ている。黒基調の大人っぽいシックな私服を着ているから、学校で見る時と大分印象が違う。

「小島、早いな」

「あ、うん」

 小島は僕に気づくと目を擦りながらそう言った。まだ眠そうで、目をパチパチさせている。なんだか、悪いことをしちゃったな。

「今日はありがとう」

「うん。で、聞きたいことは何?」

 ぶっきらぼうな小島に急かされ、僕はポケットのメモを出した。聞きたいことをメモしてきたのだ。僕の誇れることは視力と記憶力だけだ。それでも起きた時に聞きたいことを忘れてしまったら嫌なので、一昨日の夜に書き出しておいたのだ。因みに、自慢の記憶力が勉強に生かされたことはない。

「本当に倉木の問いに答えがあるのかって思ったんだ」

 僕がこう言うと小島の眉間にシワが寄った。

「どうゆうこと?」

「正直さ、倉木の質問に大した意味はないんじゃないかって思って」

 小島の瞳に光が灯るのが見えた。

「どうして?」

 語気が強い。僕は獅子を起こしてしまったみたいだ。

 僕はたじろがずに説明した。昔、倉木から海の生き物図鑑を押し付けられた話。その本には謎のメッセージが挟まれていて、それを倉木に問い詰めると『面白いから』の一言で片付けられた話。

「こんなことがあったから、今回もただ『面白いから』ってだけで意味の無い行動じゃないかって思うんだよ」

 小島は肩を震わせて笑っていた。そこに獅子の面影はない。

「何それ、面白い」

 面白いか?

「怜、小さい頃にそんなことしたんだ」

「うん」

 小島がひたすら笑っているから調子が狂ってしまう。

「で、今回も同じような感じだと思ったわけ?」

「そう」

「小さい頃の怜については流石に良く分からないけど、今回はちゃんと意味があると思うよ」

 僕の考えがあまりにもあっさりと否定されるから、僕はたじろぐ。

「そう?」

「だってそれ、小学校中学年の時の話でしょ? 五年くらい経てば人って変わるじゃない。私が知ってる中一以降の怜は、一見よく分からないことでもちゃんと意味をもたせてるよ」

 確かに中学に入ってから倉木が僕に対して突飛な行動をとることはなくなった。

「うーん、そうなのかぁ」

「怜は結構シャイだからね。飄々とした態度で誤魔化しがちだけど、考えていることは結構普通だよ。いや、普通ではないか」

「どっちなんだよ」

「考えとか欲求とか感覚とかは至って普通なんだけど、それを行動に移すときにちょっと空回りするって言うか、怜の個性が出ちゃうんだよね。もしかしたら、その海の、フフフ、海の生き物図鑑の時も口では面白いからって言ってるだけで、本当はちゃんとした意図があるのかもよ」

 海の生き物図鑑のエピソードが小島のツボに嵌ったようだ。

「そうかなぁ」

 僕は倉木の行動原理を理解できないものだと思っていたけど、その行動原理自体はいたって普通だというのか。倉木のことを、特に中学生以降の倉木のことをよく知らない僕は反論できない。

「まぁ、安心して良いよ。今回はちゃんと意味があるから」

「自信満々だな」

「私も怜のことを完全に理解しているわけじゃないから、意味の無い可能性が無きにしもあらずって感じだけどね。それでも、九十九パーセント意味があるって断言できるよ」

「それって、断言って言えるの?」

 小島がここまで言うのだし、本当にそうなのかな? 流されているだけじゃないか?

「で、他に質問ある?」

「あぁ、えっと」

言われるまま、僕はポケットからメモを取り出した。質問する側なのに、完全に小島のペースに飲まれてしまっている。

「今の質問に関係していることなんだけど、小島の知ってる倉木の変な行動について、もしあれば聞きたくて」

「海の生き物図鑑みたいな? フフフ」

「うん」

 倉木は僕に対し何度か不可解な行動をとっていたが、それが他人に対してもそうなのかが気になっていた。もしそうなら、それを聞いてみたかった。カッコつけて言えば、ケーススタディ…であっているのかな。

「そうだなぁ。結構ありそうだけど、そんな奇抜なのはないかな。怜は表現が独特だから時々引っかかるんだけど、川野ほどの面白いやつは喰らってないね。慣れちゃってるだけかもしれないけど」

「なるほど」

「あ、ごめん。あるわ、大事なの」

 小島はにわか雨でも降ってきたかのように急にハッとなり言う。

「大事?」

「そう、大事なのを忘れるところだった」

「どんな話?」

「半年くらい前のことかな、怜の家に遊びに言ったときに怜がピアノでベートーベンの曲を弾きながらベートーベンの波瀾万丈な人生について語ったのよ。ベートーベンって結構大変な人生を歩んだみたいでね。その時は特に何の違和感も感じずに話を聞いていたんだけど、家に帰って怜が弾いていた曲を調べてみたの。

そしたらびっくり。ベートーベンが難聴で苦しんでいた時のことを語っていたときには『悲愴』を弾いて、その後の精力的な作曲活動の時には『熱情』を、そして晩年の時を語る際には『告別』を弾いていたのよ。これに私は感動しちゃった。本当にベートーベンが好きなんだって」

「それは確かにすごいな」

「でしょ? それで、つい数日前に怜の家に行ったのよ。引越し前に遊ぼうって私が誘って。そこで私はピアノを弾いたの、ベートーベンの『告別』を。私、ピアノなんて殆ど弾けなかったけど、練習したの。勿論、そんな直ぐに弾けるわけなかったんだけどね。それでも、両手の人差し指で主旋律を弾いたのよ。トン、トン、てさ。ぎこちないリズムで」

 小島は両手の人差し指でトントンと鍵盤を叩く動きをして見せた。その動きは確かにぎこちなかった。

「そしたらさ、怜は喜んでくれて、一緒に『告別』を弾いてくれたの。私の拙いテンポに合わせて、副旋律をね。私の弾いているのが『告別』だって分かったのよ。びっくりしちゃった。その後に怜は『運命』を優しく弾いて、『里香と友達になれて良かった』って言ってくれたの。『運命』なんて大げさな言い方しなくてもいいのにね。いや、言ったんじゃなくて弾いたんだけど」

 小島はそう言いながら手すりに両手をかけて遠くを見た。

「へぇ…小島もすごいな」

 小島は誰に向かってか「寂しいなぁ」と言った。やっぱり、それほどの親友が引っ越したのはショックだったのだろう。

 沈黙が流れる。小島はずっと遠くを見ているから、何かあるのかと思って僕もそっちを見た。変わったものはない。隅田川の向こうのただ遠くにビルが立ち並んでいて、じっと見ていると中で働いている人が動いているような気がしてくる。

「もう、質問はない?」

 小島がおもむろに口を開いた。僕は手元のメモを見る。

「もうないよ。ありがとう」

「じゃあ、私も質問して良い?」

「え、いいけど」

「川野は怜とどんな話をしたの?」

「ああ」

 倉木とした会話か。この前ちょうどこの橋でした会話は覚えている。

「あ、言いたくなかったら別にいいんだけど」

「いや、そんなことないよ。ただ思い出しているだけ」

「そう」

「先週の火曜日の夜、塾の帰りにちょうどこの橋の今いるところでちょっと話をしたよ」

「へぇ、どんな話?」

「倉木は、引っ越しはしょうがないって言ってた」

「怜が言いそうなこと」

「僕がこの橋から見る景色が好きだって言ったら、倉木も好きだって言ったよ」

「へぇ、結構ストレートね」

「その時は倉木、結構素直に話していた」

「怜は素直だもの。ちょっと引っ込み思案で表現が独特ってだけで」

「うん。小島の話を聞いてそう思った」

「他に話したの?」

「ああ」

 倉木の言葉がポッと頭に思い浮かぶ。

『明日になったら、何か変わっている気がするの。私にとって良い方に世界が傾いてくれる様な気がする。それじゃ、ダメなのかもしれないけど』

でも、この言葉は僕が言ってもダメな気がした。なぜか、僕が小島に言ったところで、倉木のためにも小島のためにもならないと思った。

「まぁ、それくらいかな」

「そう、ありがと」

 頭上には飛行機が飛んでいる。その重低音が聞こえるほど、辺りは静かだった。

「今日は質問に答えてくれてありがとう」

 僕がそう言うと小島は欄干を両手で「よっ」と押して立ち上がった。

「私も色々言えて良かった。それに、怜について知れたしね」

 小島は両手を上げて伸びをする。

「じゃあ、また明日」

「また明日」

 僕は帰りながら考えた。倉木のUSBの質問に込められた意味。きっとそこには何か意味があるはずだ。確証はないが、小島の話を聞いてそう思った。

 その答えを導くためのアテもツテもないが、なんとかして答えを得なければならない。それはモヤモヤするからとか、悔しさとか、そういった理由からだけではない。もっと、知らなくちゃいけないことがあるんだ。

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