トンネルを抜けると

 一週間はあっという間に過ぎていった。授業と部活と塾の生活サイクルの隙間で、倉木の引っ越しが頭をよぎることはなかった。倉木と会うこともなかった。

次の週の月曜日になった。倉木家が引っ越す一日前だ。

 部活が終わり、家のドアを開けると魚の匂いがした。夕飯の焼き魚が既に用意されているみたいだ。

 部活から帰って塾に行くまでは少ししかないから大変だ。焼き魚はあまり美味しくないし、それに食べるのも面倒だからあまり好きじゃない。

「あら、おかえり」

 黙って箸で焼き魚をつついていると、母さんがどこからともなく出てきた。

「明日、倉木さん家の引っ越しみたいだね」

「あれ、正確な日付知ってたの」

「倉木さんと話したから」

 母さんも夕飯を食べ始めた。テレビをつける。夕方のニュース番組ではデパ地下の特集だった。

「怜ちゃんとお話しておいたら」

 テレビを見ながら、母さんは不意にそう言った。唐突に言われたものだから、僕の箸が止まる。

「え、なんで」

「なかなか話せなくなるでしょ」

「そりゃ、そうだけど、別に友達ってわけじゃないからなぁ。今までもそんなに喋ってないし」

「もう覚えてないけど、昔はよく一緒にお出かけしてたのよ。しゃべる機会なんて大人になったらどんどん減るんだから、今の内に喋った方が良いんじゃない」

「そうかなぁ」

 仲が良いわけでもないのに、喋った方がいいのかなぁ。多分、倉木が引っ越しても僕の生活は変わらないだろう。倉木も青森に行けば生活が変わるだろうが、隣が僕の家であろうがなかろうが、大した差はないに違いない。でも、「大人になったら」なんて言葉を使われたら、僕たち中学生は反論できなくなる。ずるい言葉だ。

「あ、もうこんな時間」

 母さんがそう言ったから、時計を見ると六時半だった。そろそろ家を出ないといけない。

 僕は急いでご飯を食べ、散らかった魚の食べ残しをそのままにカバンを持って家を出た。


 塾に向かいながら、僕は考えた。正直、実感が湧かなかった。ずっと隣に住んでいて、学校も同じだった同級生が明日引っ越すのだ。冷静になれば一大事なのかもしれないが、仲が良いわけではないのだから、感傷的な気分にはならない。だから、話すべきだなんて、毛頭考えてもいなかった。

 そもそも、話すこともないんだよな。倉木の趣味も考えていることも知らないし。好きなゲームとか、漫画の話を倉木とできる訳ないし。

 強いていうなら、倉木が引っ越しを本当に許容しているのかがちょっと気になるけど、そんなことは聞けない。それに、倉木の方だって、僕と話したいのか分からない。話しかけたところでありがた迷惑なのかもしれない。

 ただ、最後だと思うと何か話した方が良いような気もする。

 ちょうど一週間前に倉木と渡った橋に来た。ふと、倉木と話したことを思い出した。

 あの時と違って、六時半だとまだ空が明るい。帰宅する人々の足音が四方から聞こえてくるようだった。

 塾から家までの十五分間。その内の半分くらいは話していたから、七分くらいかな。短い時間だけど、倉木とそこまで長く話したのは久しぶりだった。中学に入ってからはすれ違いざまにちょっと挨拶を交わす程度だったから、小学校ぶりかもしれない。いや、そういえば、中学校にあがって初めて塾に行った時、その帰り道も一緒に帰ったかもしれないな。あの時は、何を話したのだっけ。

 遥か昔の記憶を探りながら歩いていると、塾に着いた。

 よし、決めた。今日の帰りにちょっと話そう。流石に、別れの挨拶くらいはした方が良いだろう。

 決心して教室のドアを開けて中に入ると、前に倉木が座っていた。一週間ぶりに見たが、いつも通り、同じ席に座っている。明日はもう同じ学校に行かないなんて思えないほどに、その背筋は普段と変わらずピンとん伸びていた。

 七時になった。高田先生はぴったり七時に教室に入ってくる。

「はぁい、こんばんは。じゃ、授業始めます」

 授業はやはり退屈だった。相変わらず英語はちんぷんかんぷんで、まず単語の意味がわからない。基礎力というものが足りていないのだろう。

 退屈で辛い授業の中でも、先生の話は面白かった。先生は、ホンデュラスで訳の分からないフルーツを食べ、腹を下して死にかけたという話をしていた。何でそんな話をし出したのかはよく知らない。

「はぁい、お疲れぇい」

 高田先生の声を合図に、授業は九時ぴったりに終わった。

 直ぐに教室を出て行く倉木を追って、僕は教室を出た。しかし、数分歩いたところで教室にテキストを忘れたのを思い出した。

 数十メートル先を倉木は歩いている。一瞬迷ったが、急いで教室に戻ることにした。速足で歩きながら、今日という日を見逃したら二度と倉木に質問する機会はないだろうと思った。でも、走ることはなかった。

 教室の机の中にテキストはあった。僕はひとまず肩を撫で下ろし、テキストをカバンに入れた。速歩きで家へと踵を返す。

 当然、帰り道に倉木の姿は見えなかった。いつの間にか、いつもの歩調に戻っている。倉木に話かけることは、ほとんど諦めていた。そこまで固執していたわけではないし、そもそも、何を話すのかも碌に決めていなかったから、後悔はなかった。ただ、教室に入る際の僕の決心はなんだったのだろうかと、自分自身のことを少し残念に感じた。

 朝潮大橋まで来た。大きく弧を描く立派な橋。勾配のある坂を登っていくと、勾配が緩やかになるにつれて景色が開けていく。左手には大きな水門が、右手には僕の好きな夜景が現れる。

 斜度がだいぶ緩やかになったところで、橋の中腹部に人影が見えた。その人影は橋の張り出しに立っていて、欄干に手をかけていた。もしかして、あれは倉木か?

 僕は目を凝らした。確かにあれは倉木だ。長い髪を風に揺らしながら、じっと川の水面を眺めている。街明かりで曖昧な影が、橋上に浮かんでいる。

 僕は少し驚いた。まさか、倉木が突っ立っているとは思ってもいなかった。でも、ちょうど良い。折角だから、話しかけよう。

「倉木、何でこんなところに」

 僕が話かけると、倉木は驚いた様子も見せずにこっちを見た。顔の半分が街灯に照らされている。

「川野、まだ帰っていなかったんだ」

 そう言いながらも、その口調は僕がまだ家に帰っていないことをわかりきっていたようだった。

「塾に忘れ物したから。そっちも帰ってないじゃないか」

「ふふ、確かに」

 相変わらず、マイペースだな。

「何してたの?」

倉木はまた川の水面へ目を向ける。

「…景色を見ていた」

「明日、引っ越しだもんな」

「まぁ、そうね」

 空は晴れていた。雲ひとつない夜だ。でも、星はほとんど見えない。東京の夜は、黒というよりは、青色に近い。町の灯りが反射して、暗い夜空が仄かに青みがかっているんだ。そんな空が、僕は結構好きだ。街明かりを見ると人の気配を感じるのはもちろんだけど、上を見ても、空の明るさから人の気配を感じることができるのだ。

 僕は目線を下に落とし、隅田川の奥にそびえる都心のビル群を見る。今日も、都心のビルは明るかった。星の明るさを遮るほどの地上の輝きは、人間の活動的なエネルギーをそのまま表しているようでもある。

「俺さ、この景色、結構好きなんだよ」

 僕は半ば無意識に呟いた。

「そう、初めて聞いた」

 正面を見ながら、倉木は言う。

「誰にも言ったことないから」

「そう」

風が吹く。倉木は右手で長い前髪をかきあげた。

「私も、結構好きなんだよね」

「昔から住んでいるもんな」

「まぁね」

「引っ越したら、見られなくなるな」

「見ようと思ったら、いつでも見に来れるでしょ。青森から東京なんて、新幹線でも使えばすぐなんだし」

「でも、毎日のようには見なくなるだろ」

「そうね」

「そもそも、この景色を見るために来ようとも思わないし」

「そうね」

 僕も倉木も黙る。上を見上げた。目が慣れたからか、ちらほらと星が見える。僕はそんな星の数を数えていた。

「川野は『雪国』って読んだことある? 川端康成の」

 倉木はおもむろに口を開ける。予想だにしない単語が飛んできて、僕は一瞬戸惑った。

「いや、読んだことないけど」

「その冒頭の一文は知ってる?」

「あぁ、何だっけ。トンネルを抜けると雪国が広がっていた、だっけ」

 倉木は手を口に当ててフッと小さく笑う。

「まぁ、そんな感じ。正しくは『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』なんだけど」

「それがどうしたんだよ」

「私はこの書き出しが好きなの」

「へぇ」

 僕は小説の何が面白いのかよく分からない人だから、倉木の言葉に同意できない。有名だし、素晴らしい冒頭であるのだろうけど、何が良いのだろうか。

ピンときていない僕を見兼ねてか、倉木は付け足す。

「トンネルを抜けると、雪国が広がるのよ。暗いトンネルから、一気に視界が開けるの。まぁ、抜けても外は夜なんだけどね」

「へぇ、夜なのか。てっきり昼だと思ってた」

「そう。次の文は『夜の底が白くなった』で夜なのよ。冒頭の一文だけが有名だけど、私はこの二文が合わさって初めて冒頭として機能していると思う」

「なるほど」

 これほど話を理解していない『なるほど』は中々ないだろう。変に理解した素ぶりを見せる自分に我ながら恥ずかしくなる。

「何かさ、この始まりってこれから良さそうなことが起きる気がしない?」

「えぇ、そうかなぁ」

 適当な相槌しか返せない僕でも、流石にそれには同意できなかった。国境の長いトンネルを抜けると雪国が広がっていて、『夜の底が白くなった』か。トンネルを抜けると雲ひとつない晴天で、真っ白な雪国が広がっているのなら希望を感じるかもしれない。でも、トンネルを抜けて見えたのが白い夜の底って、僕にはプラスのイメージが湧かない。

 僕の不同意を想定していたように、倉木は続ける。

「作者はそんな風に読んでもらうためにこの冒頭を書いたんじゃないと思うんだけど、いや、絶対にそんなイメージを乗せていないのだろうけど、私はどうしてもワクワクしちゃう。時々、このトンネルにいるイメージが湧いてくるの」

 倉木はそう言って一息ついた。風が吹く。強くて、でも柔らかい風。太平洋の湿気をふんだんに乗せてきた風だ。

「何だかさ」

 倉木は小さい声でそう言って、一度口を閉ざした。ビルのテッペンの誘導灯に呼吸を合わせるようにして、また口を開いた。

「明日になったら、何か変わっている気がするの。私にとって良い方に世界が傾いてくれる様な気がする。それじゃ、ダメなのかもしれないけど」

 それがトンネルのイメージか。トンネルを抜けると…。

「……夜の底が白くなる、か」

「そう」

 倉木も僕も黙り込む。僕たちが今いる夜の底は白くない。そもそも、夜の底が見えない。ビルは眠ることを知らず明るく輝き、隅田川の水面は絶えず光を乱反射する。人の息がありとあらゆる所から聞こえてきて、夜の底なんて見えるわけない。

 倉木が引っ越す青森では、夜の底が見えるのだろうか。青森は東京の中心に浮かぶこの町に比べて人も明かりも格段に少ないはずだ。もし底が見えるのなら、確かに白が良い。深い闇で底が見えないよりも、白い底が見える方が絶対に良い。

 僕と倉木は家に向かって歩き始めた。どちらが先に歩き始めたわけでもなく、無言で歩き出した。

「引っ越し先は、どんな所なの?」

「分からない」

「そうか」

「悪くない場所だと思う」

 知らずのうちにマンションのエントランスに着いていた。僕がエレベーターのボタンを押したところで、倉木が口を開く。

「階段で上に登ってみない?」

「え、良いけど何で?」

「私、ここの階段上ったことないの」

 僕と倉木は一度エントランスを出て自転車置き場の裏を回り、階段を登り始めた。

 実は僕も階段を使うのは久しぶりだった。エレベーターが混んでいるときに下りで使うことは時々あるが、上りで使うのは初めてかもしれない。

 前を行く倉木はゆっくり階段を上がっていく。カツ、カツという革靴の音がよく響く。三階と四階の間の踊り場で靴音が止んだ。

「結構、ここから見える景色も綺麗なんだな」

 立ち止まって外を見る倉木に僕は言う。

「そうね」

「東京タワー、ここから見えたのか」

 ビル群の中でも際立って橙色に輝くのは東京タワーだ。巨大な幼児がピカピカ光る鉛筆を地面に突き刺したような、冗談みたいな明るさを放っている。その異様な存在感は黒くそびえる高層ビルの中で際立っていて、遠くにいても鮮烈に目に刺さる。

「東京タワーって、意外と綺麗ね」

「あぁ」

 風は吹いていないが、倉木は髪をかきあげた。

 何だか僕は今日が倉木と話す最後の機会のような気がした。明日も挨拶程度はするのだろうけど、今この瞬間が終わると、二度と話すことはない気がした。

「……倉木は、いいの?」

「何が?」

「引っ越し。受験とか控えてるし、本当はどうなんだって思って」

 聞かない方が良いかもしれないけど、僕は聞く。だって、気になるじゃないか。

 倉木はふとこっちを見た。何だろうかと思ったが、直ぐにまた前を向いた。

「別に、そんなに嫌じゃないよ。引っ越すことになったのだから、しょうがないし」

 声の調子は変わらない。

「そうか」

 さっきからずっと、僕と倉木の会話は長く続いていない。勿論、盛り上がる気なんてないし必要もないけど、交わされる会話は少しの言葉で終わってしまう。でも、居心地は案外悪くない。時々吹く風に合わせて隣り合った風車が微かに回る、そんな感覚。昔から、こんな感じだった気がする。

「ふふふ」

「え?」

 倉木がいきなり吹き出したから僕は驚いた。

「どうしたの?」

 倉木はクスクス笑いながら、僕を見て言う。

「なんか、私たち最後まで会話が弾まないなって思って。それで、昔小学校にあった空気の入ってないサッカーボールを思い出しちゃった」

「あぁ、あったな、そんなの」

 確かに僕たちのいた小学校には全く弾まないサッカーボールがあった。球の形を保てないほど空気が入っていなくて、いつも校庭の隅に寂しく転がっていた。サッカーはもちろん、世界、いや宇宙を探し回ってもあのボールを使える球技は見つからないだろう。ただ、思い出してもそんなに笑えるものではない。

「俺も今、同じことを考えていたよ」

「サッカーボール?」

「いや、会話が長続きしないなって」

「でも、悪くないじゃない。変に気を使う必要ないし」

「それもちょうど今思ってた」

「そう」

 倉木は肩を揺らしてクスクスと笑っている。僕も何だか口元が緩んでしまう。

「帰るか」

「そうね」

 踊り場から数段上がって家の前に来た。

「じゃあ」

「じゃあね。ありがと」

 倉木は微笑みながらそう言い、扉の中へ入っていった。僕も家の中に入る。

「おかえり。遅かったね」

 母さんはソファーに座りながらバラエティー番組を見ていた。父さんはもう寝ているようだ。

「ただいま」

 僕はお風呂に入った後、すぐにベッドに入った。

 部屋の灯りを消す。閉じたカーテンの隙間から、外の明るさが漏れている。

目をつむりながら僕はぼんやり考えた。倉木は最後、微笑んでいた。倉木の笑顔といえば子供みたいにニヤニヤ笑っているイメージだったが、あんな風に大人っぽく笑うんだな。小学校の時に比べたら、そりゃ成長してるか。

 倉木との会話が頭の中を流れる。夜景。雪国。弾まないサッカーボール。夢うつつの中、これらが輪郭を崩しながらゆらりと頭を巡る。

 混沌としたイメージが渦巻き、その中から、倉木の微笑みと別れ際の『ありがと』という声がポッと浮かんできた。スリープモードに入りかけた僕の脳はなぜ倉木が感謝を意味する言葉を言ったのかを考えた。しかし、その訳も分からないまま、柔らかい夢の世界に沈み込んでいった。

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