倉木、引っ越すの? 2
翌日、月曜日。部活から帰って、夕飯を急いで食べて、塾へ行った。倉木はいつも前の方に座っている。やっぱり、はたから見ると、いたって普通の女子だ。背筋はピンと伸びきっていて、育ちの良さがわかる。倉木家は、結構お金持ちなんだよな。家には大きなクラシックピアノがあるし、倉木はピアノだけでなくバイオリンも習っているらしいし。なんか、うちと親しいのが嘘のような一家だ。
でも、それだけじゃないよな。あの姿勢の良さは、育ちの良さだけではなくて、自分への自信の現れなのかもしれない。倉木は成績も良いし、運動もそつなくこなす。無愛想なようで、人当たりは良い。だから、倉木を嫌う人は少ない。嫉妬の対象になるような人でもないし。目立ち過ぎず、しかし誰からも一目置かれているような、中学生活を送る上でこの上ないポジションにいるのだ。
集中力が散漫してきたから、一度指をポキポキ鳴らして目の前のプリントに集中する。
穴埋め、和訳、作文、読解。倉木と同じクラスとは言っても、その中でビリの成績を誇る僕にはどれも難しすぎるものだ。もう中学三年生というのに、受験は大丈夫なのだろうかと、なぜか他人事のように自分のことが心配になる。
授業が終わった。英語の高田先生はいつも「はぁい、お疲れぇい」と言って九時ぴったりに授業を終える。高田先生の授業はつまらないが、この締めの挨拶は好きだ。
倉木はすぐに教室を出た。すぐに後ろを追いかけると周りの奴らから変に思われるから、角を曲がったコンビニのあたりで追いついた。
「倉木」
僕が少し声を張って呼びかけると、倉木は振りかえった。コンビニの明かりが横から顔を照らしている。
「何?」
「倉木、引っ越すの?」
「うん」
顔の半分をコンビニの光に照らされながら、倉木は小さく頷く。
「五月中に?」
「うん」
何だ、素直に答えるじゃないか。
「なんで、黙っていたんだよ」
「わざわざ言わなくても良いでしょ」
あまりにも真っ当な理由を言われたから、僕は言葉に困った。適当にはぐらかされることを身構えていた僕にとって、その言葉はあまりにもストレートすぎた。
「そっかぁ」と情けない声が出る。一応、幼稚園以来ずっと同じ学校に居たんだけどなぁ。そりゃあ、別に仲がよかったわけじゃあないけどさ、悪くはないじゃん。引っ越しってさぁ、もっと大事なことじゃないの。
こんな思いは口から出ることもなく、頭の中をぐるぐると回った。倉木はそんな僕に目もくれず歩き出す。僕は黙って横についていく。せっかく気を張って話かけたのに、なんだか僕、惨めじゃないか。
しばらく並んだまま黙って歩いた。沈黙が益々僕を惨めにする。車道を行く自動車のヘッドライトに合わせて、僕たちの影はシャープに生まれては消えていく。そんな様子を見ながら歩いていると、隅田川に架かる橋まで来た。
誰にも言ったことがないけど、僕はこの橋、朝潮大橋から見る景色が好きだ。ちょうど今のような、九時ごろの夜景なんて最高だ。この川には平行にいくつもの橋がかかっていて、それぞれの橋に灯された街灯が瞬いている。奥にはいくつもの大きなビルが並び、その眩しさから、多くの人が働いているのがわかる。両親は山々を見ると子供だった頃のことを思い出すらしいけど、僕が大人になった時、ビル群の夜景を見て、子供だった頃のことを思い出すのだと思う。大人になった時、今のことなんて忘れているのかもしれないけど。
そうだ、倉木は高校、どこにいくのだろうか。というかそもそも、どこに引っ越すというのだ。聞かなければならないことが沢山ある。
「倉木は、どこに引っ越すの」
僕は声に出す。せっかく声を掛けたんだ。いろんな疑問を解消しないと。
「青森」
「青森?」
思わず大声を出してしまった。
「青森って、本当?」
「わざわざ嘘をつかないでしょ」
確かに倉木は嘘をついたことがない。僕の知る限りでは。
「青森なんて、なんで」
「お父さんが転勤するから」
転勤か。母さんが言った通りだ。でも、娘が高校受験をするこんな時期に転勤で引っ越しをするのはどうなのだろうか。転勤自体は仕方のないことなのだろうが、単身赴任という選択肢もあるだろうに。まぁ倉木のことだから、この中学校で卒業式を迎えて、東京で高校生活を送りたいとか、そういうこだわりはないのかもしれないけど。
「じゃあ、高校は青森の高校に通うってこと?」
「多分ね。ほとんど秋田だから、秋田の高校かも知れないけど」
倉木はそれで良いの?
そう言いそうになったが、やめた。僕はそんなことを聞けるほど、倉木と仲が良いわけじゃないし、倉木のことを知っているわけではない。
「そっかぁ」とまた情けない声が出た。こんな言葉しか、僕は出せない。青森かぁ。そういえば、倉木の父さんは僕の父さんと同じで青森出身なんだっけ。
「いつ、引っ越すの」
「八日後」
「八日後?」
僕はまた大きな声を出してしまう。
「もう、すぐじゃないか」
「そうね」
「中学の奴にはもう言った?」
「里香にはもう言った」
里香……あぁ、小島のことか。僕と同じクラスだ。確かに倉木と小島は仲が良い。二人は違うクラスなのによく教室内で話をしている。倉木の家に小島が遊びに来ているところも見たことがある。
「他の奴には」
「里香にしか言ってない」
「そうか」と僕は漏らす。やっぱり倉木は引っ越しなんてどうでもよくて、僕に言わなかったのも何か変な意向があった訳ではないのだ。親伝いで引越しのことなんて伝わるはずだから、わざわざ僕に直接言う必要もないんだよな。
橋を渡り終えて、下り坂に入った。さっきまで遠くの夜景が見えていた右手には、背の高いマンションが並んでいる。
それにしても、今日の倉木は質問に対して素直に返事をしてくれるな。倉木の転校についての状況が整理できて、僕はそう思った。適当にはぐらかされるのを身構えていたからか、妙に拍子抜けした気分になる。以前の倉木ならもっと訳のわからない返答を返してきたのだろうけど、中学に上がってから倉木も何か変わったのだろうか。小学校を卒業して二年も経ったのだから、少しは変わっているのかもしれない。僕はここ二年で何も変わっていないけど。いや、背は結構伸びたかな。
「川野は、高校どうするの」
倉木が不意に口を開き、質問してきた。考え事をしていたから、少し驚いて返事が遅れる。
「まだ決めていない」
「そう」
「良いとこ行くには、もっと勉強しないとなぁ」
「そうね」
会話はそこで途切れ、それ以降は特に話もせず、マンションに着いた。倉木と僕が住んでいるのは四階。エレベーターのボタンを押した。エレベーターが下がってくるモーター音が聞こえる。
「そういえば、倉木と俺が塾から一緒に帰るのって結構珍しいな」
「そうだっけ」
僕は誰かと話すとき、一人称に『俺』を使う。みんなそうだし、そんな中で『僕』と言うのは、あまりにも恥ずかしいからだ。
「初めてかもしれない」
「そう?」
「いつも、倉木は一番に教室を出ているだろ」
「確かにそうかも」
エレベーターが開いた。僕たちは乗り込む。倉木は僕の斜め前に立つ。倉木と僕の背はちょうど同じくらい。僕が男子にしては小さいのと、倉木が女子にしては大きいからだ。昔は、僕の方がもっと小さかったんだよな。
四階まではほんの数秒で着く。エレベーターに乗る度、もっと上の階に住む人は大変だよなぁと思う。
「じゃあ」
僕は玄関の前で倉木にそう言った。倉木の家は廊下の突き当たりにあって、僕はその一つ手前。
「じゃあね」
倉木もそう言う。微かに笑っているようにも見えるが、殆ど無表情だった。
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