パスワードは、私の好きなモノ

 水曜日、倉木家の引っ越し日だ。父さんはいつも通りブラックコーヒーを飲みながら新聞をめくり、母さんはいつも通り少し焦げた出汁巻き卵を作っている。

 学校では進路希望調査の紙が配られた。第一希望、第二希望、第三希望の字が並んでいる。帰ってからゆっくり記入しようと思ったが、未記入の皺一つ無い調査票を見ると何だか不安になってきて、その場で適当に埋めて鞄にしまった。授業中もなんだか進路調査票のことが頭から離れず、部活の時でもあらゆる高校の名前が頭をよぎっていた。受験を意識するようになってから、こうやって将来に対して漠然とした不安を感じることが増えてきた。

部活が終わった。いつも一緒に帰る本橋はふらりと先に帰ってしまったから、一人で帰った。重いバッグと疲れが歩みを遅くさせる。

 のろのろと歩きながらマンションの入り口まで来た。朝、家を出るときに停まっていた引っ越しトラックはもういなくなっていて、その代わりに倉木がいた。真っ白のリュックを背負ってマンションの壁際に立ち、本を読んでいた。

 僕が近くに行くと倉木もこっちに気づいていたようで、本を閉じてこっちを向いた。

「倉木、何してんの?」

「お父さんを待ってる」

 引っ越し直前であっても倉木の様子は驚くほど全く変わらない。まるで、何度も引っ越しを経験してきたようでもあった。

「あぁ、車で青森まで行くのか」

「そう」

「大変だな」

「まぁね」

「もう、引っ越しのトラックは行ったの?」

「うん」

「そうか」

 当然だけど、もう隣の家には何も無いのだ。ピアノもサボテンも何もかもが、トラックに乗って青森へと移動している。もしかしたら、捨てられているものもあるのかもしれない。

「最後だな」

「何が?」

「もう、引っ越すだろ。話すのはこれが最後だなって」

「あぁ、そうね」

「…」

「…」

 倉木は黙って斜め下を見ている。サラサラとした黒髪が傾いた太陽の黄色い光を反射している。弾まない会話の中、僕の頭の中を空気の入っていないサッカーボールが転がる。コロコロ、コロコロ。

 僕が変なイメージを転がしていると、倉木は不意にリュックから何かを取り出して、僕に差し出した。

「これ、あげる」

手のひらに乗っているのは、白いUSB。僕はそれを受け取る。

「これは?」

「プレゼント」

「プレゼント?」

「そう。良いでしょ、USB」

「…ありがとう」

 何か腑に落ちないが、とりあえず僕は礼を言う。そんな僕を見て、倉木はにっこり笑う。無邪気な笑顔だ。その笑顔を僕は、ずっと前に見たことある気がした。

「USBって、なんでこれを」

「嬉しくない?」

「いや、嬉しくなくはないけど、なんで」

「USB、良いでしょ」

 相変わらず倉木は楽しそうだ。僕はなんだかデジャブのようなものを感じた。これって、海の生き物図鑑を無理やり渡してきた時と同じじゃないか? その時の笑顔と同じ笑顔だ。

「なんか、思い出した」

「何を?」

 倉木は真っ直ぐ僕を見る。深い黒色の瞳。

「小学生の時、倉木が俺に本を貸してきたじゃん。ほら、海の生き物が沢山載っているヤツ。あの時と今が、なんか似ている気がして」

「良く覚えているね」

倉木はやはりニコニコ笑っている。

「倉木も覚えているの?」

「まぁね」

「そうか」

 僕は手元のUSBを見た。裏に『川野』とマジックペンで書いてある。この丸っこい字は、倉木のものだ。

「なんで名前が書いてあるの?」

「USBって他人と混ざったら大変でしょ? それにプレゼントだからさ、名前入りの方が、特別感があるじゃない」

 「へぇ」と僕は適当な相槌を打つ。納得いくような、いかないような説明だ。プレゼントなんだったら、包装紙にくるんで、そこに名前でも書いたら良いのではないのだろうか。それに、USBに直接名前を書くにしたって、僕が書けば良いことだ。

「あ、お父さんが来た。そろそろ行かないといけないから、バイバイ。USB、ちゃんと使ってね」

 僕がそんなことを考えていると、倉木はそう言っていつの間にか停まっていた自動車へ向かった。

「あ、倉木」

 あまりにも呆気なく去ろうとするから、僕は思わず呼び止める。倉木は振り返った。

「元気で」

僕がそう言うと、倉木は微笑んだ。

「川野もね」

 僕は小さく頷く。倉木は小さく手を振りながら車の中へ入った。運転席の窓が開き、倉木の父さんが僕の方を見て手を振った。僕は小さくお辞儀をする。車はゆっくりと動き出し、交差点を曲がって、そのまま消えていった。

 もっと気の利いたことを言えばよかったかもしれないけど、まぁ言えただけ良いかな。僕はそう思い、家へと歩き出した。

 

 家に着き、リビングにあるパソコンを起動した。USBを使う必要なんかないのだけれど、「使ってね」と倉木が言ったし、折角だから写真でも入れようと思ったのだ。

 僕の家にずっと昔からある古い型のデスクトップパソコンだから、起動の際にディスクがウィーンと回る音が聞こえる。

 起動を待ちながらUSBを眺めた。倉木の書いた『川野』の文字がある。今頃、倉木はどこにいるのだろうか。いや、まだ東京だろうな、そりゃ。

 パソコンが起動した。写真のフォルダを開く。僕の母さんにはどうでも良いことすら撮影し、それを逐一パソコンに保存する趣味(癖?)がある。そのせいで、パソコンの写真フォルダには数えきれない程の写真がある。パソコンの起動が遅いのも、今こうして排熱用のファンがフル稼動しているのも、これが大きな原因なのかもしれない。

 写真のフォルダの中には、たくさんのフォルダがあった。母さんは大雑把なところがあるが、なぜか写真のフォルダ分けをきちんとしているのだ。僕は『康太(小一)』という名のフォルダを開けた。僕が小学校一年生の時の写真が百二十枚も保存されている。同じような写真もいくつかあるが、たった一年でこんなにも写真を撮っていたとは思わなかった。

 写真の中に、僕と倉木がベンチに並んで座ってソーダ味のアイスキャンディーを舐めているものがあった。僕は青色のツバ付き帽子を、倉木は白くて紺色のリボンがついた大きな帽子をかぶっている。格好からして夏に撮ったものだろう。こんな景色を僕は全く覚えていない。

 この頃は、僕と倉木はどんな風に会話していたのだっけ。多分、ほとんど会話をしていなかったな。小学校一年生でも、他人と友達の区分ははっきりとつけるものだし。

 僕はなんとなくこの写真を倉木から渡されたUSBにコピーした。そして、妙な事に気付いた。USBの中に、すでにフォルダがあるのだ。

 『フォルダ』と名付けられたそのフォルダを開けると、二つのファイルがあった。一方は『Readme.txt』と名付けられていて、もう一方は『Hint.txt』と名付けられている。とりあえず、名前に従って『Readme.txt』をダブルクリックした。だが、ファイルが開かれることはなく、代わりにウィンドウが現れた。

『このファイルにはパスワードがかけられています』

 メッセージの下には入力欄がある。どうやら、パスワードが無いとこの『Readme.txt』というファイルは開かないらしい。

 仕方なく、『Hint.txt』を開く。こっちは開くことが出来た。そのファイルには、たった一文のみ書かれていた。

『パスワードは、私の好きなモノ』

 この文を見たとき、僕は一瞬硬直した。だが、すぐにこの文の意味するところが分かった。これは倉木の僕に対する最後のからかいだ。やけにニヤニヤしながらこのUSBを渡してきたと思ったが、こういうことだったのか。『Readme.txt』を見るためにはこのメッセージを読み解き、パスワードを知らなければならならないのだ。

 ここまで考えた僕は椅子に大きくもたれかかり、天井を仰いだ。こんなの、分かる訳ないじゃないか。僕は倉木の好きなものなんて分からない。倉木の好きなもの……。なんだよ、それ。

 僕が天井を眺めていると、母さんが「ただいま」と言いながら帰ってきた。

「今日はお寿司」

 母さんは僕を見てそう言い、両手の買い物袋をどさりと床に置いて冷蔵庫に食材を入れ始める。

「お寿司って、何か良いことでもあったんだっけ?」

「別にないけど、スーパーでセールだったから。ほら、二割引」

 母さんはパックに入ったお寿司を僕に見せながら笑う。黄色い派手な『二割引』のシールが貼ってある。

「お父さんは?」

「今日は出張だからいないよ。二人だし、ちょっと贅沢しても良いでしょ」

「へぇ……あ、そうだ」

母さんはこっちを向く。

「そういえば、この写真、何か分かる?」

 母さんはこっちに来て、ウィンドウの写真を見た。ベンチに座った小学一年生の倉木と僕。二人でベンチに座ってアイスキャンディーを舐めている写真だ。僕もその写真を見る

「あーなんだっけな、これ」

「小一のフォルダにあった」

「小学一年生の時かぁ……あっ、思い出した。これ、青森で撮ったやつ」

「青森?」

思ったよりも、遠くだ。

「そうそう、倉木さん家と一緒に帰省したんだよね」

「あぁ、そういや帰省したなぁ」

小一の時に帰省をしたのはなんとなく覚えている。でも、倉木も一緒だったのだっけ。

「あんまり覚えていないけど、倉木家と一緒だったの?」

「そう。倉木さんのお父さんが青森出身で、うちのパパも青森の人だから、上手く日程があったし一緒に行く事になったのよ。まぁ一緒に行動したのは一日だけなんだけどね」

「へぇ」

 なるほど。これはその時の写真なのか。それはそうとして、父さんをパパって呼ぶのはもうやめて欲しい。

「これ、どこで撮ったの?」

「バス停で撮ったのよ。バスで移動していたんだけど、なんせ田舎だからなかなかバスが来なくてね。二人とも疲れ切っていたから可笑しくて撮ったの」

「へぇ」

 僕はもう一度写真の中の二人を見る。確かに気だるそうな、退屈そうな顔をしている。帰省なんてよく分からない年齢なのに、大人たちに振り回されてかわいそうだ。

「何、なんで今更そんな写真見ているの? 怜ちゃんが引っ越しちゃったから? 怜ちゃん可愛かったものね」

「いや、USBを貰ったから、折角だし何かデータを入れようと思って写真を漁っていたんだよ。そこで偶々この写真を見つけたから」

 母さんが子供みたいにからかってくるが、気にせず答えた。USBにある倉木の残したファイルについては面倒くさいから言わない。

「ふぅん」

 母さんは何か言いたそうにしたが、そのまま食材を冷蔵庫に入れる作業に戻った。

 僕は『Hint.txt』のファイルに書かれた『パスワードは、私の好きなモノ』の一文をじっと見つめる。勿論、じっと見ているだけでは分かるはずがない。

「康太、怜ちゃんに見惚れるのも良いけど、お風呂沸かしてもらえる」

「あ、うん」

 風呂場に向かい、ズボンの裾を捲る。スポンジで風呂を磨きながら僕は考えた。倉木の今までの行動。言っていた事。でも、いくら考えようが一向に答えらしきものは浮かばない。小学生の時に一緒に帰省したことも忘れているのだから、当たり前なのかもしれないけれど。

 風呂を十分すぎるほど磨き、十分すぎるほど丁寧にシャワーで流した。給湯のボタンを押す。

「ありがとう。夕飯の準備出来たけど、食べる?」

「まだお腹減ってないけど、食べようかな」

「魚は鮮度が命だものね」

「夕飯の時間を変えるくらいじゃあ、あんまり関係ないと思うけど」

 プラスチックのケースに入った寿司の隣には母さんが適当に作ったサラダがガラスのボウルにたんまりと盛られている。母さんはサラダを作る時、大きく切ったトマトを絶対に入れる。

 倉木の好きなもの。そもそもそれは食べ物なのだろうか、動物なのだろうか、出来事なのだろうか。ジャンルくらいは指定して欲しい。

「スーパーの寿司、十分美味しいね」

「うん」

「ほら、サラダもちゃんと食べなさい」

「わかってる」

 ジャンルを指定しないということは、わざわざ指定しなくても良いものということなのだろう。ということは、動物とかじゃあないのかな。もし動物だとしたら、『パスワードは、私の好きな動物』みたいに書くはずだ。

「今日はなんも面白いテレビがないなぁ」

「ん」

「これはちょっと面白そうね。コソボからやって来た留学生だって。コソボってどこ?」

「わかんない。南米とかじゃない?」

 いや、『パスワードは、私の好きな動物』なんて聞き方すれば、適当に動物の名前を思いつく限り入力するといつか通るはずだ。そんな解答を絞るようなこと、しないだろう。だから、答えが動物である可能性も十分ある。それでは、一体何だというのだろうか。

「康太、イカ好きでしょ。二つとも食べて良いよ」

「ん、ありがとう。ん?」

何か口の中にトゲトゲしたものがある。出してみたら、バランだった。

「どうしたの? さっきからぼーっとしてない?」

それを見かねた母さんが僕に言う。

「いや、大丈夫」

「そう?」

「うん……母さんに聞きたいんだけど」

「何?」

「母さんは、何か手のつけられそうにない問題が目の前にある時、まずどうする」

「どうゆうこと? 何か困っているの?」

「いや、困ってないんだけど、ちょっと疑問に思って」

「そうだなぁ……まずは誰かに相談するかな」

「なるほど」

 相談。確かにそうだ。倉木をよく知っている人に聞けば良いのだ。僕の周りで一番倉木を知っている人となると、小島だ。倉木は引越しのことを小島には伝えたって言っていた。

「母さんに相談できることなら、いつでも相談して良いよ」

「いや、大丈夫。ありがとう」

 明日、小島に聞いてみようか。でも、小島は決して話しかけやすいヤツではないんだよな。倉木の友人、それもおそらく一番の友人ということもあって、どこかつかみどころが無い感じがする。そもそも、喋ったこともないけど。しかし、情報を得ないとここから何も進展しない。

 よし、明日はうまく小島に聞いてみよう。きっと、小島なら知っているはずだ。

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