ヒント

 水曜日、朝から雨が降りしきっていた。昼休みに小島が一人になるタイミングを見計らい、小島に声をかけた。

「小島、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「え、何?」

 小島は鳩が豆鉄砲を食らったような顔でこっちを見る。全くと言って良いほど今まで話してなかったから、そりゃあ驚くよな。僕だって、小島に話しかける事になるとは思わなかった。

「倉木が好きなものって何か分かる?」

「え?」

「あぁ、えっと、事情を話すとちょっと長くなるんだけど、とにかく倉木の好きなものを知る必要があるんだ」

「事情って?」

 小島は鋭く聞いてくる。何か見えない壁を僕と小島の間に構築された気分になる。これは、事情をちゃんと話さないといけないかな。

「実は俺、倉木の隣に長い間住んでいたんだよ」

「知ってる」

「あ、そうなんだ」

 知っているとは思わなかった。僕はこのことを同級生に言ったことがない。わざわざ話すことでもないし。でも、小島が知っているということは、倉木と小島の間で僕に関する話題が上がったことがあるのか。

「それで、昨日倉木が引っ越す時にUSBをもらったんだよ」

「へぇ、どれ?」

「あぁ、これ」

 ちょうどポケットの中に入っていたから、取り出して見せた。『川野』の名前が書かれた方を裏側にして、それは見られないようにした。

「へぇ、怜がUSBをねぇ」

小島の顔が少し緩む。

「それで、この中に二つファイルが入っていたんだよ。一方のファイルにはパスワードがかかっていて、もう一方は、多分そのパスワードのヒント」

「で、そのパスワードのヒントが、怜の好きなものってわけ」

「そう、その通りだよ」

「確かに、怜がやりそうなことね」

「あぁ」

 小島は少し考え込んでから、僕の方をまっすぐ見て言った。

「放課後、暇?」

「え、まぁ。今日は部活ないから」

「私もそれ見たいから、パソコンルームにそのUSBを持ってきてくれない?」

「良いけど、今言った通りだよ。見られる方のファイルに『パスワードは、私の好きなもの』って書いてあるだけだ」

「とにかく、私も見てみたいから持ってきて」

「あ、うん」

 小島の妙な気迫に気圧され、僕は承諾した。多分、小島は倉木のことをもっと知りたいのだろう。親友なんだろうし、そりゃあそうか。

 放課後、パソコンルームに集まった。僕と小島以外には誰もいない。こんな教室にわざわざくるやつなんて、いるわけないよな。ここにいるけど。

 パソコンにUSBを挿し、フォルダを開いた。小島は『Readme.txt』をダブルクリックする。

「本当だ、パスワードがかかってる」

「そう。で、下のファイルを開けてみて」

小島は『Hint.txt』を開く。

「『パスワードは、私の好きなモノ』ね……確かに川野の言う通りだ」

「だろ? で、これが恐らく上のファイルのパスワードのヒントだ」

「そうね……」

 小島はディスプレイをじっと見つめながら何やら考えている。短い髪が横顔を隠している。その髪の色は真っ黒で、わざわざ黒色に染めているのでは思えるほどだ。

「ちょっと、わかったかもしれない」

「え、本当?」

僕は大きな声で聞き返す。小島はいたって冷静に続ける。

「いや、分かってないかもしれないけど、分かったかもしれない」

「どうゆうこと?」

「私の推測が正しければ、これは私があんまり口出しするものじゃないかもってこと」

小島はこっちを向いてそう言った。結局、どうゆうことだ?

「えっと、それはつまり」

「川野が自分で考えた方が良いかも。これは、怜が川野のために作った質問なのかもしれない」

「ごめん、よくわからない」

「まぁ、そうね。私が今ふと思っただけだから、この推測があっているのかもわからないけど」

「はぁ」

「いや、でもなぁ。怜のことだしなぁ…」

小島はそう呟きながら頭をひねっている。僕が小島に尋ねたのに、完全に置き去りにされてしまっているようだ。

「やっぱり、わからないかもしれない」

「そうかぁ」

「ちょっと考えてみる。とにかく、これは川野自身で考えた方が良いかもしれない」

「わかった。もう少し考えてみる。ありがとう」

とりあえずその日は家に帰ることにした。小島もよくわからないようでは、仕方ない。

 しかし、パソコンルームを出て雨の中を帰っていると、不安になってきた。一人で考えてもわからないから小島に聞いたのだ。小島に言われるがまま『もうすこし考えてみる』とは言ったものの、これじゃあまるで進歩がないじゃないか。

そういえば、小島は『私があんまり口出しするものじゃないかも』と言った。それはどういうことなのだろうか。そりゃあ、僕がもらったUSBに入っていたファイルなのだから、僕が解くことを想定しているのだろうけど、わからなかったら他人に相談するしかないじゃないか。

 そんなことを考えつつ傘をさして歩いていると、アスファルトの歪みに溜まった水たまりを踏んでしまった。右足の靴に雨が浸水してくる。

 ついてないあなぁ。そう思い肩を落していると、後ろから声がした。

「川野」

 振り返ると、緑色の傘をさした小島がいた。傘が大きいのもあって、小さい背が益々小さく見える。

「え、小島?」

「なに鳩が豆鉄砲食らったような顔をしているの。さっきの話の続き」

 僕と小島は並んで歩く。どうやら、小島も家の方向が同じらしい。

「さっきの話の続きって」

「川野は怜のこと、どれだけ知っているのかってこと」

「え?」

 そんなこと、話していない。

「いや、USBの話だろ。とりあえず俺自身で考えろっていうことじゃないのか」

「それに関係することだから。ほら、怜の好きなモノを知りたいんでしょ?」

「いや、確かにそうだけど、そんな言い方じゃあ、まるで俺が倉木のことを全くもって知らないみたいじゃないか」

「実際、何も知らないでしょ?」

 僕は言葉一つ言い返せない。小島の言う通り、何も知らないから困っているのだ。

 図星を食らって狼狽える僕を尻目にも見ず、倉木は言う。

「今のままだと、川野がいくら考えようが、答えは絶対に見つからない」

 それにしても、ほぼ初対面なのに、言い方が少しキツくないか。

「じゃあ、どうしろと」

 僕の絞り出した返事は自分でも嫌になるほど情けない。

「だから、私がヒントをあげる」

「ヒント?」

 僕は小島の方を見た。小島はじっと見上げるようにこちらを見ている。力強い目。僕と小島の間に降る雨に隠れない、真っ直ぐな瞳。小島って、こんなに圧力のあるやつだったのか。

「怜が川野に出した質問なんだから、川野が解かなきゃダメでしょ。でも川野は見当もついていない。だから、私が少しだけヒントを出すの」

「あくまで俺が自分自身で考えろってことか。でも、小島の答えがあっているかはわからないんだろ?」

「まぁ、そうなんだよね。私も答えが分かった訳ではないし、私の言うことが見当違いかもしれない。それでも、怜について知っておくことは大事だと思うの。答えが何であれ、推理の材料になるでしょ」

「なるほど」

 確かにそうだ。僕に今足りないのは情報だ。倉木の情報がないのでは、考えようがない。ちょうどこの帰り道で、僕はそれが不安になっていたのだ。もしかしたら、小島も同じことを思ったのかもしれない。僕があまりにも倉木に対して無知だから、少し情報を与えようと思ったのだろう。

「それで、そのヒントってのは」

「怜は、自分の意見や考えを直接言わない」

「え?」

それがヒント? それくらい…

「それくらい、分かってるって?」

「いや、まぁ」

図星だ。

「じゃあ、言い方を変えるよ。怜は、他人に意見を言ってもらうの。自分の意見は言わずに、他人の考えを探る」

「他人の考えを探るって…」

「そんなの、出来るわけないって?」

「うん、まぁ」

小島は僕の心を読んでいるのだろうか。

「常に相手の反応を見ているのよ、怜は。そうして、相手の考えを知ろうとする。あわよくば、相手に自分の考えを知ってもらう」

「そんなことできるのか」

「えぇ、怜ならね」

「やけに自信満々だな」

「怜は私の一番の親友だし、私は怜の一番の親友だからね」

そう言って小島は鼻をフフンと鳴らす。余りにも子供みたいなしたり顔だから、思わず吹き出しそうになる。

「本当に仲が良いんだな」

「中学に入った時からずっと一緒だったからね。川野は、ずっと幼い時から倉木のお隣さんだったんでしょ」

「あぁ、幼稚園の時から」

「いいなぁ…」

「まぁ、ほとんど喋ってこなかったけど」

「勿体無い…」

 小島は憐れむような目でこっちを見る。小島からすれば、確かに勿体無いと思うのだろう。だが、僕ら以外にもし同じような、ずっとお隣さんである幼馴染がいたとして、いやきっといるだろうが、彼らもそこまで仲が良いわけじゃないと思う。寧ろ、僕と倉木は隣同士ってだけで良く喋っていた方だと思う。

 それにしても、小島は本当に倉木のことが好きだな。それほど、倉木と気が合うのか。

 交差点に着いた。大きな交差点で、自動車が水溜りを弾く音が断続的に聞こえてくる。

「じゃあ、私こっちだから」

小島はそう言い、右に曲がった。

「じゃあ……いや、ちょっと待って」

「ん? 何?」

「結局、ヒントってどういう意味?」

小島は斜め上を見ながらポカンと口を開け「あー」と言う。

「まぁ、要するに、出題者の意図を読み取れってこと」

「そんな、まるで国語のテストじゃないか」

「そんなものかな。それじゃあ。あ、何か進捗あったら教えて」

「…わかった。それじゃあ」

小島は振り返り、歩き始めた。緑色の傘に隠れて、歩く姿は隠れている。

交差点の信号が青になるのを待ちながら、僕は小島の言葉を反芻する。

 倉木は、自分の意見は言わずに、他人の考えを探る…。

 出題者の意図を読み取れ…。

小島が言うことが正しいとは限らないが、小島のヒントが正しいなら、ただ単に倉木の好きなものを推測するだけではダメだということになる。倉木の趣味とか、嗜好とかの問題ではないということだ。倉木のことをよく知らない僕が、質問の意図を汲むことで解ける問題。

 でも、意図って何だ?

 マンションの前でバサバサと傘を振って水を落とす。四階に上がって玄関のドアを開けた。

「おかえり。あれ、今日部活ないんだっけ」

「ただいま。雨だし、構内も場所が取れないから今日は休み」

「なるほどね。じゃあ今日はゆっくり休めるじゃん」

「そんなに大変な生活してないよ」

  部屋に入り、鞄をどさっと置いた。服を着替え、塾のテキストを取り出す。明日は部活の後、塾で国語の授業がある。これはその宿題だ。明日までに解かなくちゃならない。

 広げたテキストの上には無機質に並ぶ文章。制限時間三十分の論説文の問題。シャープペンシルを握るが、やる気が起きない。この国語という科目は僕が一番憎んでいる科目だ。作者の意図なんて作者にしか分からない。登場人物の心情なんて、作者にしか分からない。いくら文章から推測しようとしても、僕にはさっぱり分からない。それなのに、授業では碌な解法を教えてくれない。設問者の意図を読めと言われても、それが出来ないから困っているんだ。

 小島の言葉が頭をよぎる。

『要するに、出題者の意図を読み取れってこと』

 ダメだ。国語の問題も、倉木の質問も解けっこない。

 僕はペンを握ったまま、机に突っ伏せた。

 倉木の質問が解けないことが僕を悩ましているが、それ以上にまず受験勉強をどうにかしないといけないのだ。良い高校に行って、良い企業に就職して、お金に困らない生活をする。そのためには勉強しなきゃいけない。はぁ。

 頭の中に途方も無いロードマップが浮かび上がる。高校の制服を着る自分。スーツを着る自分。居酒屋でビールを飲む自分。どっかの誰かと結婚する自分。週末に息子とキャッチボールする自分。退職して、ぼんやり空を見る自分……。

何とつまらない未来予想図なんだ。ふわふわして、夢のかけらも無い予想しかできない。そんな万人の考える平凡な人生の隙間に、果たして幸せは潜んでいるのだろうか。

 僕は姿勢を正し、国語の問題と向き合った。とりあえず、解こう。きっと、将来のことを今ぼんやり考えても意味ない。

 結局、解いている途中に休憩がてらマンガを読んでしまい、その問題を完全に解き終わるまでに二時間もかかってしまった。

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