部活帰り
木曜日、昨日とは打って変わり、雲ひとつない晴天だった。でも、路面はまだしっとり濡れていて、所々水溜りが残っている。どうやら、夜中に雨が止んだらしい。
学校に着くと、小島の方から話しかけてきた。
「どう、わかった?」
「いや全然」
「そう、考えてみた?」
「まぁ、ちょっと」
小島は「はぁ」とため息をついて言う。
「ちゃんと考えないと。私だって、答えが気になるし」
「小島は答えの推測がついているんだろ。それを俺に教えるってのは、やっぱりダメなの」
「そりゃそうでしょ。本当なら川野からUSBをひったくって自分で入力したいほどよ。でも何度も言うけど、川野が渡されたのなら、川野が解かなくちゃいけない」
「そうかぁ」
小島の「はぁあ」という、さっきよりも大きなため息が聞こえる。
「やる気あるわけ?」
「いや、まぁ」
「あるの? ないの?」
あからさまに小島の語気が強くなってきたから、僕は正直に白状することにした。
「解きたいのは山々なんだよ、モヤモヤするし。でも、もう中三になったんだし受験勉強も大事だからさ、まずは勉強しないといけないなって思うんだ。だから、ずっと倉木の質問について考えていられないんだよ」
全くもって正直に白状していない。受験勉強をしなきゃいけないと思っているのは本当だが、勉強を優先したせいで倉木の質問について考えられないと言うのは嘘だ。現に昨日、勉強の途中にゴロゴロ漫画を読んでしまっている。
「川野って、意外と真面目ちゃんなの?」
「俺だって、一応勉強しているよ」
ごめん、あんまり勉強していない。
「へぇ、なんか野球ばっかりやってるイメージだったわ」
「野球ばっかりやってないよ。そんなに上手くないし」
これは本当。一応セカンドのレギュラーとして試合に出ているが、僕はそんなに上手くない。チームとしても僕が一年の時から弱く、地区大会も大体一回戦で負ける。ひと学年に十人ほどしかいない弱小野球部では、僕程度の実力でも何やかんやレギュラーになれたりするのだ。まぁ、レギュラーになれたのは三年生になってからだし、それは最高学年に対する顧問の気配りなのかもしれないけど。
「確かに受験勉強は大事かもね」
「あぁ」
会話はそこで途切れた。「じゃ、解けたら教えて」と言い、小島は席に戻っていった。
放課後、その日の部活はかなり骨が折れた。昨日の雨のせいでグラウンドは湿っていて、スポンジで水を吸うところから始まったのだけど、想像以上にグラウンドはぬかるんでいて、練習できるようにするまでにかなり時間がかかった。しかも結局一部分しか使えず、交代で使うことになったのである。グラウンドを使用している時は良いけど、それ以外は筋トレやランニングをするのだ。三年生は優先的にグラウンドを使用できたけど、下級生は殆ど練習できずに筋トレやランニングばかりで余りにも可哀想だった。
「康太、帰ろうぜ」
部活が終わり、部室で練習着からジャージに着替えていると本橋が話しかけてきた。
「まだ着替えているんだけど」
「そっか」
本橋はひどく適当なやつで、野球にもその性格が現れている。常に全力のアッパースイングで、よほどのボール球でなければ一球目からバットを振る。守備でもお粗末で、よくフライを落とす。それでもレギュラーとしてやっていけるのは、なんだかんだヒットを打てるからだろう。うちの部活では珍しくホームランを打つパワーもある。中学から野球を始めたらしいが、二年生の時から不動の四番であるのは体格の良さと運動センスによるのだと思う。
カチャカチャとベルトをとってジャージに着替えて本橋の方を見ると、もうそこには姿がなかった。
部室から出ると、背筋を伸ばして上を見ている本橋がいた。広い肩幅に百七十五センチはあろう背は、いつ見ても羨ましい。
「本橋、着替えたぞ」
本橋は夢から覚めたようにこっちを向いた。
「あ、おう」
「帰るか」
「そうだな」
僕と本橋は歩き出す。僕の家と本橋の家は同じ方向だからいつも一緒に帰っている。本橋以外は皆違う方向だから、本橋以外に一緒に帰る人がいないと言った方が正しいかもしれない。大体の人は校門を出て左に曲がるけど、僕と本橋は右に曲がる。入部当時に家が同じと言うだけでなんとなく一緒に帰るようになり、それがずっと続いているんだ。
「本橋、さっき何か考えてた?」
「え?」
「俺が部室から出た時、ぼんやり空を見ていたから」
「あぁ、何も考えてなかった」
「そうか」
本橋は、いつもそうだ。何かぼんやりすることが多い。フライをよく落とすのも、上の空になっているからなんじゃないのかと思ってしまう。
「本橋は、志望校とか決まった?」
「決まってないけど、なんで?」
「なんか、三年になったのに受験をするなんて実感わかないんだよなぁって思ってさ」
「そっか。俺もさっき同じようなことを考えていたよ」
「何も考えてなかったんじゃないのかよ」
「はは、確かにそうかもな」
「どっちなんだよ」
前の方にジャージを着た二人組が見える。僕の学校と同じジャージ。どこの部員だろうか。やけにくたびれて見えるけど、はたから見ると僕たちも同じように見えるのだろう。
「康太は決まってんの?」
「いや、全然。良いところに行きたいけど、勉強する気になんないや」
「でも、勉強しなきゃなんねぇんだよな」
「辛いなぁ、やりたいことなんて決まってないのに」
「あぁ、大変だよ」
「本橋はやりたいことあんの?」
「いや、無い」
「そんなにあっさり言うなんて、すごいな」
「無いもんは無いからな。康太は?」
「俺もよく分かんない」
「皆そんなもんだろ」
「そうかなぁ。皆小学校の卒業文集で将来の夢とか書いてるけど」
「それは、体裁だろ」
テイサイ。よく分からない言葉だが、なんとなく意味はわかる。
「テイサイかぁ」
「夢があるのを大人たちに望まれているんだから、書いてんだろ。俺だって、なるつもりもないのに大統領って書いたんだぞ」
「大統領って、国が違うじゃん」
「すごいだろ?」
本橋は何故かしたり顔でこちらを見る。まるで「なろうと思ったらなれる」とでも言っているようだ。「はぁ」と適当な相槌を打ち、前を見る。
確かに、やりたいことが決まっているやつなんて少ないのかもしれない。それでも、いつか自分のやりたいことを決めなくてはならない時がくるのでは無いのかと思う。今は就職先も入学先も何もかも決まっていないから良いけど、大人になってあらゆる可能性が削がれた時、このままやりたいことが決まっていなかったら、僕はどうなるのだろうか。そんなことを考えてしまうと、思い込みで良いから『将来の夢』なるものが欲しくなってしまう。だからこそ、卒業文集で無理矢理にでも『将来の夢』を書かせるのかもしれない。
角を曲がった。西陽が現れ、眩しさに目を細める。本橋がいきなり口を開いた。
「あ、空」
「空?」
「ほら見ろよ、空」
僕は部活で凝った首を上げて、空を見た。その空は、夕方から夜に移り変わっていくちょうどその瞬間だった。青色に暗くなってきている空に点在している雲は遠くに沈みかけている夕陽に照らされオレンジ色に輝いている。振り返って後ろを見るとちらほら星が輝き始めていた。
「こういう空を見るのが好きだな、俺は」
「え?」
また、本橋がいきなり口を開くもんだから、変な声が出た。
「やりたいことなんてないけど、強いて言うなら、この先もずっとこんな空を見て生きていきたい」
なんと言えばいいのだろうか。適当な相槌も出ずに本橋の顔を見る。
あ、同じ顔だ。
僕が今日部室から出た時、その時も本橋は空を見ていた。その時と同じ顔だ。
「なんか、本橋がよくフライを落とす理由が分かった気がする」
「え、マジ?」
「あぁ」
フライを取る時、空に見惚れているんだよな。
「教えてくれよ」
こいつ、自覚がないのか。
「やだ」
「ひでぇ」
本橋はそう言い、また空を見上げた。僕も見る。綺麗な空だと思った。そういえば、こんな空が見える時間をオウマガドキって言うのだっけ。父さんが昔、話してくれた気がする。この時間には妖怪やら魔物やらに出くわすっていう言い伝えがあるらしい。よく知らないけど、この空が見える時間にホラーな意味を与えたのはもったいないよなぁ。昔はそんな言い伝えのせいでこの空を見なかった人がたくさんいたのかもしれない。江戸時代、オウマガドキだからと言って外に出ずに籠るちょんまげ姿の人々が頭に浮かぶ。
「まぁ、結局今すべきことをやらなきゃいけないんだよなぁ」
本橋が呟く。僕はハッとして現代に戻ってきた。
「それって、勉強じゃん」
反射的に僕はそう返した。自分で言ったことだが、耳が痛い。
「マジかよ」
「マジだよ」
「勉強したくねぇよ」
「俺もしたくない。そういや俺、帰ったら塾だよ。しかも国語」
「国語はまだマシだろ」
「はぁ? 国語が一番辛いだろ」
「数学だろ」
流石の本橋も疲れているのだろう、それからはお互い黙って歩いた。背の高さが違うからか部活で疲れているからか、もしくはその両方か、僕たちの足音はまばらに響く。そうやって惰性で歩いていると、僕の家の近くまで来た。本橋はもっと進んだところに家がある。
「あ、一つ聞いて良い?」
「なんだよ」
本橋の『今すべきこと』という言葉で倉木のUSBを思い出したから、本橋に聞いてみることにした。小島は自分で考えろと言うけど、考え方を聞くくらいは良いだろう。もちろん、内容については絶対に言わない。絶対に本橋はからかってくる。言ったところで、明日には忘れられそうだけど。
「俺が好きなもの、なんだと思う?」
「はぁ? なにそれ、知らねぇよ」
「ま、そうだよな」
「なんだよ、いきなり」
「じゃあさ、知らないなりに想像してみてって言われたら、なんて答える? 設問者の意図を読み取れ、って感じで」
「は?」
「すまん、考えてくれ」
本橋は「なんだよ」と不満そうに呟いて腕を組み、黙り込んだ。目をつむりながらしばらく考え込んだ後、冬眠から覚めた熊のようにぱっちり目を開けて言った。
「新品のグローブだな」
新品のグローブ?
「なんで?」
「聞いといて『なんで』はないだろ。設問者の意図を読み取れ、なんだろ。自分の好きなものをわざわざ聞くってことは、それが欲しいものじゃないのかって思ったんだ。プレゼントしてくれって感じでさ。そんで、お前のグローブボロボロだろ。だから、新品のグローブが欲しいんじゃないかって思ったんだ」
「なるほどね」
僕は新品のグローブを欲しいとは思っていない。しかし、本橋の推理も一理あると思った。この男、意外と勘が鋭いんだな。
「なんで、そんなこと聞くんだ? 誰かに聞かれたのか、『俺の好きなもの分かるか』って」
本当に、鋭いやつだ。
「まぁ、そんな感じ」
僕が濁すようにそう言うと「へぇ」と本橋は言う。
「それで、俺ならその問いに対してどう考えるかを聞いたってことか」
「そう、その通り。本橋すごいな」
本橋は得意げに鼻を鳴らす。
「康太は結構、勘が鈍いもんな」
「え、そう?」
「他人のことに関しては鋭いところもあるのに、自分の問題に対しては結構鈍い気がする。だから、こうして俺に聞いているんだろ」
本橋はまさに自信満々といった顔で言う。鼻につく態度に褒めたことを後悔したが、本橋の言う通りな気もしてしまうから言い返せず「そうかなぁ…」と唸ってしまう。
僕は、そんなに勘が鈍いのだろうか。まぁ確かに勘が鋭かったら今こうして悩んでいないのかもしれないけれど。
「誰に言われたんだ? ん?」
「いや、まぁ」
本橋が調子に乗り始めたところでちょうど僕の住むマンションの前に着いたから、「じゃあ」と言って僕は切り上げる。
「おう。よくわからんが、相手の欲しいものを考えるんだぞ」
「あぁ、ありがとう」
マンションのエントランスの自動ドアが閉じ、僕は一息つく。助かった。なんとか倉木の名前を出さずに済んだ。揶揄われるのが嫌というのもあるが、それ以上周りの奴らに知られたくなかった。小島にはしょうがないが、流石に本橋に知られてしまえば、いくら本橋が忘れっぽいとは言えど何人かに知られそうである。
家に帰り、夕飯のカレーを食べてそのまま塾へ行った。月曜日と木曜日は部活で運動場が使えてかつ塾もある日だから忙しい。木曜日は夕飯がカレーだから良いけど、月曜は大体焼き魚だから辛い。
早足で塾に赴きながら、僕は考えた。本橋の推理の通りならば、倉木は自分の欲しいものを推理して欲しいということになる。倉木の欲しいもの……なんだろうか。
塾の授業中も僕はぼんやり倉木の欲しいものを考えていた。しかし、幾ら考えようが一向に浮かばない。本橋の推理は、相手の好きなものが分からなくても欲しいものを想像するという方法だが、欲しいものさえ想像出来ないほど相手のことを知らなければ、結局推理の仕様がない。
やっぱり僕は倉木の事をいささかも知らないのだと思い、宿題の解説を聞きながらため息が出てしまう。しかも宿題の回答も間違いだらけで気分はどんどん落ちていく。
僕が倉木の事を殆ど知らないのは確かだが、よくよく考えてみると僕に何かをプレゼントをして欲しくて倉木があんなメッセージを渡して来たとは到底思えない。倉木の性格的にもプレゼントを求めて来そうではないし、何よりも倉木はもうプレゼントを渡せないところまで行ってしまっている。
「川野、次の選択肢どれにした」
国語の講師である桑野先生に急に指され、ハッとした。
「えっと、『ウ』にしました」
「それは一番選んじゃいけないやつだな。正解は『エ』。これは前の段落の一行目に書いてある……」
いやもう、なんでいきなり指してくるんだよ。今までそんなことしなかったじゃん。はぁ〜。
桑野先生の通り魔的指名に下り基調の気分はガクッと下がってしまい、間違えた時に正しい答えを赤ペンで書くことさえもやめてしまった。桑野先生の解説は頭に入ってこない。ため息をつくための空気も肺の中に残っていない。
結局、集中できないまま塾は終わった。いつも集中しているのかと言われたら返答に困るが、少なくとも今日の何倍も集中している自負はある。
帰ると母さんだけがいた。父さんはまだ出張中らしい。心身ともに擦り切れていたから、風呂を入ってすぐに布団に潜った。
目を閉じて、思う。倉木の欲しいもの、それは一体何だろうか。僕だったら、何が欲しいか…。新作ゲームも頭の良さも特技も欲しい。でも、今は何より強い意志と目標が欲しい。霧のようにぼんやりと広がる不安を晴らし、僕を導くような意志と目標。倉木もそんな意志や目標を欲しいと思うだろうか。それとも、もう持っているのだろうか。もしも進むべき方向を教えてくれる羅針盤とか、どこかに売っているのなら、それを倉木にプレゼントしても良いな。
人が寝る直前に考えることは突飛で、そのまま夢の世界へ入っていく。疲れた日なんてなおさらだ。僕は言うまでもなく疲れ切っていた。僕はその日、旅のための羅針盤を探す旅に出る夢を見た。淡い青やピンクで塗られた、半月のような形の羅針盤。どうやらその羅針盤が僕の行く先を示してくれるらしい。それを求め、僕は砂漠を旅し、江戸時代のような街の中を駆け回った。起きた時、余りにも馬鹿馬鹿しい夢だと思ったが、なかなか悪くない夢だとも思った。
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