将来なんて 1

 早く寝たからか、目覚まし時計が鳴る前の七時に起きた。しかし、二度寝してしまい、結局登校時間はギリギリになってしまった。

 金曜日は塾もないし、部活もランニングだけで早めに切り上げるから楽だ。それに加えて、授業に体育と技術がある。体育が楽しいのは勿論だけど、技術の時間も最近楽しい。半田ごてで金属を溶接し、ペン立てを作るのだ。

 昨日の気分の落ち込みなんて忘れて僕は登校した。しかし、一限の数学が始まって直ぐにまた気分が落ち込むことになる。

 体育着も、技術で使うための材料も家に忘れたのだ。昨日、支度もせずに寝てしまったからだろう。体育着を忘れたのは痛いけど、技術の材料を忘れたのはもっともっと痛い。技術で使う金属の材料は本来学校に置いているはずなのだ。先生も初回の授業でロッカーに置いておくように指示している。しかし僕はその金属が気に入ってしまい、家に持って帰って眺めていたのだ。家に置き忘れるはずのないものを置き忘れたとなると、先生になんと言えば良いのだろうか。しかも相手は技術の原島先生なのだ。

 原島先生は体育の先生と比べても抜群にガタイが良く、そして目つきが悪い。短い髪はボサボサで、無造作にまくられた袖からは血管の浮き出た丸太のように太い腕が露出している。教師のくせに無口で、その風貌と低音の声から、過去に人を殺したことがあるとか、はたまたアマゾンの密林でゴリラに育てられたとかとんでもない噂がたてられている。勿論、これらは素性の知れない原島先生に対する中学生のふざけた妄想に過ぎないのだけど、本当だとエライ大人が言ってきたら信じてしまうかもしれない。とにかく、原島先生に話しかけること、それも忘れるはずのないものを忘れたと言うことは度胸のいることなのだ。

 落ち込んだ気分のまま時間は過ぎて、五限の技術の授業になった。普段は五限六限に技術・体育と続くため、四限が終わると気持ちが浮つくのだが、今日に限ってはその真逆であった。

 技術室に向かう際に皆ロッカーから金属の材料を持っていくが、僕は持っていない。何も持っていないことを不審に思われたくないから、普段は持っていくことのないノートを脇に抱えて技術室に行く。

「あれ。康太、材料は?」

 話しかけてきたのは、同じクラスの西村。バスケ部のイケてるやつ筆頭。こんな時に話しかけてほしくはない。

「えっと、忘れた」

「忘れたって、どうゆうこと?」

 その質問はもっともだ。

「間違えて家に持ってかえっちゃったんだ」

 実際には間違えてじゃなく、故意に持って帰ったのだ。ただ、そんなことは言えないから、少し嘘を混ぜる。

「へぇ、災難だな。体育着も忘れたんだろ」

「とんだ災難だよ」

「しかも、技術って原島だもんな。密林にさらわれるかもな」

 西村はそう言って笑い、大げさに背中をポンポンと叩いてくる。良いやつなんだけど、どうもこういうノリには上手く反応できない。

「あぁ、何とか頑張るよ」

「ははは」

 西村はそのまま前のやつにつるみに行く。元気が無い時に元気があるやつを見ると、僕はますます元気が無くなってしまう。はぁ。

 技術室に着いた。授業が始まる前に原島先生に話さなければならない。原島先生は黒板前に既に座っていて、大きな木製のデスクの上で手を組んでいる。教室の中に大きな岩があるようだった。

 僕はそろそろと机に近づく。僕が真横に着くまで先生は気がつかなかったが、僕に気づくと巨大な体をこちらへ向け、低い声で「どうした」と言った。

「すみません、今日使う材料を家に忘れてしまいました」

 僕の声は小さい。それは原島先生に臆しているのからであり、なるべく他の生徒に聞かれないようにする為でもある。

 僕がそう言うと原島先生は眉をひそめ、怪訝な表情になった。そして言う。

「家に忘れたって、どういうことだ」

 その質問はもっともだ。

「間違えて家に持ってかえっちゃって、今日持ってくるのを忘れてしまったんです」

「家に間違えて持って帰る? ロッカーに入れているはずだろ。間違えて持って帰ることはないと思うが」

 確かに、間違えて持ってかえることなどあり得ない。先生の指摘に僕は言葉が詰まる。先生の眉間には皺が寄り、目線はじっと僕を見て動かない。冷や汗が額に滲み、目線は下に下がる。僕はもう観念して正直に言った。

「あの、実は金属板を気に入ってしまって、家に持って帰ってしまったんです。それで家に忘れてしまいました」

 何と間抜けた理由であろうか。上履きのつま先まで視線が落ちた僕に対し、原島先生は「ほう」と呟き、「一つ余っているから、今日は取り敢えずそれを使いなさい」と言って立ち上がった。準備室から新品のセットを持ってきてデスクの上に置く。

「あ、ありがとうございます」

「ああ、次回は忘れないように」

 そう言うと先生は座り、また大きな岩となった。

 僕も自分の席に座る。ちょっとしてチャイムが鳴り、何事もなく授業は始まった。身構え過ぎていたせいか、余りにも呆気ない先生の対応に拍子抜けしてしまった。怒られなかったことに対する安心はじわじわとこみ上げてきた。

 授業前にはビクビクしていたことなど忘れ、授業中は半田ごてを用いた工作に夢中になった。授業が終わるのはあっという間だった。

 授業が終わるとそのまま帰りそうになったが、工作セットを先生から借りていたことを思い出し、原島先生の元へ行った。先生も僕に貸していたことを忘れていたようで「あぁ、そうか」と言って材料を受け取る。

「次回は忘れずに持ってくるんだぞ。しかし、家に持って帰るなんて川野はこういうの好きなのか」

 先生は片付けをしながらそう言う。次の授業に向けて、僕以外の生徒は全員技術室を出ていた。

「まぁ、そうですね」

僕は適当な相槌を打つ。先生は「ほう」と言い、そのまま片付け作業を続ける。

「先生は何で技術の先生になったんですか?」

何だかそのまま去るのは申し訳ない気がして僕は口を開いたが、言ったそばから「しまった」と思った。一体何を聞いているのだろうか。

 片付けをしていた先生の手が止まり、こっちを見る。

「何だ、進路に迷っているのか」

「まぁ、そんな感じです」

 話を合わせるためにそう言ったが、僕は進路に悩んでいるというよりは漠然と未来に不安を感じているのだ。今はそれに加えて倉木のUSBが僕を悩ませているんだけど。

「そうだなぁ…」

 原島先生は手にしていた半田を置き、腕を組んで考え始めた。何となしにしてしまった質問だけど、原島先生がなぜ先生になったのか気になる。こんな人だから、先生になるまでに僕の想像を遥かに超える怒濤の人生を歩んできたのかもしれない。それこそ、ジャングルで生まれたとか。

「あんまり覚えていないな」

 少しして先生の口から出た言葉は僕の想像を遥かに超えていた。悪い意味で。

「いつの間にか先生に憧れていたんだよな」

 せめて元々不良であったけれど熱血先生に指導されて更生したとか、そういったストーリーはないのだろうか。

「すまないな、ためになんなくて」

「いや、大丈夫です」

 僕はそう言ったけど、内心がっかりしていた。強い憧れや目標が見つかってそれに向かって努力して、そうして自分の道を決めるものだと思っていたのに、覚えていないなんて。

「川野は将来やりたいこととか決まっていないのか」

 先生は僕が進路相談をしているのだと勘違いしているようだ。こんな質問をしてしまった僕が悪いのだけど。

「まだ決まっていないですね」

「そうか。まぁそうだよな」

 先生はそう言うとまた片付けに戻る。

「やりたいことが見つからなくても、焦る必要はないけどな」

 先生は片付けながらそう言う。僕が焦っているように見えたのだろうか。確かに実際ちょっと焦っている。

「いつか、自分の好きなものが見つかる日が来る。将来色々悩むだろうが、最終的に物事を決めるのはそれが好きかどうかだ」

 その『色々』と言う言葉の中には数え切れないほどの意味が含まれているような気がした。

「好きかどうか、ですか」

「ああ」

「先生は、先生の仕事は好きですか」

 またあらぬことを口にしてしまい、ハッとする。一体全体何を聞いているのだ。僕の狼狽などに全く気付かず、先生は言う。

「好きだよ。好きになったきっかけを忘れるくらいには熱中している」

「それは、すごいですね」

「まぁ、とにかく真面目に生きていれば、自ずと巡りあうよ」

 真面目に生きていれば、か。そんなことを言うくらいだから、やっぱり普通の人生を歩んできたのだろうか。

「アマゾンで育った俺が言うんだから間違いない」

 僕は呆気にとられる。まさか岩のような男が冗談を言うなんて……冗談だよな?

「本当ですか?」

「冗談に決まっているだろ。日本生まれだ」

 先生は振り返り、微かに苦笑してそう言った。

「もう次の授業が始まるけど大丈夫なのか」

 先生がそう言うから僕は壁に掛かった時計を見た。次の授業、六限の体育まであと二分だ。急いでグラウンドに向かわなければ。不幸中の幸いか、体育着を忘れたおかげで着替える必要はない。

「先生、ありがとうございました」

「ああ」

 僕は技術室を出て早足で教室に戻り、ノートや筆箱を置いた。教室にはほとんど生徒が残っていない。

 制服のまま早足でグラウンドに向かいつつ、原島先生のことを考えた。変に警戒していたせいか、先生には何回も呆気にとられた。先生は噂と違って割りと喋るし、アマゾンではなくて日本生まれだし、真面目に生きてきた。そして、冗談を言うときはその低い声が少しだけ高くなる。この噂ではない事実を、僕は広めずに自分のものにしておくことにした。

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