第3話(終)「この泡が消える前に」
どちらに進めばいい。今十和子さんの思いに答えなければ、彼女が俺の思いに答えてくれることもなくなる。
しかし、この期に及んで俺は何をためらっているのだろう。この先十和子さんのような魅力的な女性に出会える保障がどこにある。並みの男ならここで彼女を選ばない道は考えない。
それなのに、俺は迷っている。本当に彼女でいいのだろうかと、俺の心の中で何かがストッパーをかける。何か大切なことを忘れているような、今手に取らなければ二度と見えなくなってしまうような大切なものが俺を悩ませる。
さっきから“何か”という言葉でしか表せられない曖昧なものであるが、それは俺の人生を大きく揺さぶる重要なものに思えるのだ。
俺は……どうすれば……。
「十和子さん……」
「うん」
「すみません……考える時間をくれませんか?」
考えた末に猶予を求めた。この選択は、恐らく俺の今後の人生を大きく左右するものだと思う。今の俺には、道を決めるための勇気も覚悟も足りなかった。天秤に乗せるには、事態が大きすぎたのだ。
「いいよ、務武君の気がすむまで悩みな」
「ほんと、すみません……」
俺はそれ以上何も言わず、夜道に十和子さんを置いて自分の家へと歩いていく。ペットボトルの中のサイダーはまだシュワシュワと泡だっていた。俺に何かを思い出させようとしているように。
その何かを俺はまだ思い出せない。
「ちゃんと食べてる? 部屋は散らかってないでしょうねぇ」
「ちゃんと食べてるって。部屋は散らかってるけど」
「こら!」
約8ヵ月振りに母さんと電話した。一人暮らしを始めてから一度も帰省していない。そのことにしびれを切らしたのか、課題がたんまりと溜まっているクソ忙しい時間帯に電話をしてきた。
初めは軽く鬱陶しく思ったが、久しぶりに耳に入れる母さんの声はとても心に染みた。即座に鬱陶しく思ったことを申し訳なく思った。
「いつ帰ってこれるの?」
「えぇ……今年の年末はバイトに専念したいんだけど」
十和子さんと一緒に働くようになってから、バイトがさらに楽しくなった。もっと彼女と一緒にいたいと思うようになった。
今思えば、それは彼女への恋心があった故に思ったのだろう。カレンダーにはバイトのシフトが月末までほぼ毎日ずらりと書き入れられている。まだ確定ではないが、これから提出しようと思っている。
「務武」
「はい?」
急に母さんの声のトーンが低くなる。経験から察するに、これは説教が来るパターンだ。でもなんでだ?
「帰ってきなさい」
「え……いや、だからバイト……」
「いいから帰ってきなさい! たまには親に顔を見せろ!!!」
鼓膜を木っ端微塵にするかのごとく声を荒げる母さん。そこまでして俺に帰ってきてほしいのかよ。
「……はぁ」
俺はカレンダーに書かれた予定に横線を入れ、提出するシフト表を修正した。冬休みは実家に帰ろう。バイトでは十和子さんとよく顔を合わせる。丁度告白の返事を待っている彼女と仕事を共にする気分になれなかったところだ。
一度彼女と距離を置いてみるのもいいかもしれない。そうすれば答えが見えてくるかもしれない。彼女と本当に付き合うべきなのかを。
「よいしょっと……」
実家に帰省する前日。俺は部屋の片付けをした。脱ぎ散らかしたシャツを畳み、山積みになった本を棚に戻す。これも心を落ち着かせるためにやっている。十和子さんに告白されてから二週間、未だに返事ができずにいる。流石に待たせ過ぎだ。
「……」
高校の卒業アルバムの入った段ボールを抱えたまま、俺は部屋の真ん中で突っ立っている。深く考え込むと作業に集中できない。結局心を落ち着かせるためって言ったって、全然落ち着けてないじゃないか。
ドサッ
「ああっ!」
うっかり手を滑らせ、段ボールの中からアルバムが滝のように零れ落ちる。アルバムは様々な部活動の集合写真のページを開いて床に落ちた。帰宅部だった俺には何の思い出もないため、眺めていてもちっとも面白くない。
カランッ
「ん?」
傾いた段ボールの中から、落ちたアルバムと共に小さい何かが床を転がっていった。小銭だろうか。俺はその行方をたどる。
「……!」
それは鈴木サイダーの王冠だった。実家のある街を出たあの日、約束を交わしたあの日、最後にアイツと別れたあの日に飲んだサイダーだ。この王冠はその時のもの。
アイツ……
「安里!」
そうだ、俺はなんで忘れてしまっていたんだ。俺を待っている人は他にいる。アイツが……安里が待っているじゃないか。俺はあの日、安里と約束をした。
「……!」
俺はその約束を確かめるように、床に転がっている王冠を手に取る。裏にはその約束がちゃんと書かれていた。
「……当たり」
王冠には赤い文字で「当たり」と書かれてあった。
そうだ、あの日……
チリリリリリリ……
「やべっ、もう出る! それじゃあな!」
発車のベルが駅に鳴り響く。俺は軽く手を降って安里に別れを告げる。そしてきびすを返して電車の中へと走っていく。
ガシッ
またもや俺はジャンパーの裾を掴まれ、引っ張られる。安里はここにきてまだ俺との別れを惜しんでいる。
「安里……」
「ねぇ、務武君……」
彼女は絞り出すように口を開いた。
「私! 実は……!」
バシャ!
「あっ……」
「おいおい……何やってんだよ」
安里が大声を出そうとした時、片手に持っていた彼女のサイダーが手から滑り落ちた。瓶は割れ、中身のサイダーはシュワシュワと炭酸を弾けさせながら、黒いホームを濡らしていく。それはまるで彼女の涙のようだった。
「ったく、お前はほんとにしょうがねぇ奴だな」
「……」
俺は瓶の破片を一つ一つ拾う。安里は問題事を起こして、俺の旅立ちを遅らせようとしているのだろうか。そんなことをされたら、俺だって余計に行きたくなくなってしまう。しかし、発車のベルは俺のことなんかお構い無しに鳴り響く。
「……務武君」
「なんだ?」
再び安里が口を開く。彼女の表情は前髪に隠れて見えなかった。しかし、その頬はザクロのように赤く染まっていた。
「戻ってきたら、伝えたいことがある」
「えっ、それって……」
彼女は何かを伝えたいようだった。このまま俺を引き留めるわけにもいかないため、次の機会に見送ることにしたのだろう。しかし、その“何か”を俺はなんとなく察した。
「だから約束して。絶対に私のところに帰ってくるって」
「……うん、わかった」
彼女の赤く染まった頬に触れる。冬の外気と注ぎ込んだサイダーで、体はひどく冷えているだろう。手袋をはめた手で温めてやる。
「務武君、絶対だからね」
「あぁ、約束するよ」
「そしたらまた、当たりの王冠集めようね。あと1個なんだから……」
「わかってる。必ず帰ってくるよ」
そして、俺は安里から手を離す。
「それじゃあ……またね」
「あぁ、またな」
「安里……」
なんで忘れてしまったんだ。どうして悩んだりしたんだ。俺は安里と約束したじゃないか。必ずアイツのところに戻ってくるって。
安里のことだ、きっとあれから暑い日も寒い日も構わず毎日サイダーを飲んでいることだろう。10個目の当たりの王冠を求めて。
俺の手にはそれが握られている。願いを叶える10個目の王冠が。安里と別れた後はひたすら悲しみに溺れていたため、王冠の裏を確かめていなかった。そのまま思い出の品を入れる段ボールにしまったままにしていた。これで願いが叶う。
ピッ ピッ ピッ
俺はスマフォを手に取り、十和子さんに電話をかける。ようやく返事は決まった。
「……十和子さん、お久しぶりです」
「ごめんなさい、十和子さん。あなたと付き合うことはできません」
「そっか、残念だなぁ」
俺は大久保駅の南口付近に十和子さんを呼び出した。重い口を開き、冷や汗を流しながら思い切って告白を断った。しかし、なぜか落ち込むことも問い詰めることもせず、十和子さんは静かに受け入れる。
「なんとなくだけどね、務武君は私を選んでくれないような気がしてた」
冬の端っこに置いてかれたような、どこか寂しげな表情で十和子さんは話し出す。俺は告白を振っておきながら、慰めてやるように話に耳を傾ける。
「あなたは私ではなく、誰か違う人を追い求める目をしていたから」
安里のことだ。出どころのわからないあの曖昧な感情の正体は、安里への恋心だったんだ。十和子さんにはお見通しだった。無意識に俺はアイツを追い求めていたんだろう。
恥ずかしいことに、俺はアイツのことも交わした約束も忘れてしまっていたが。
「ほんと、ごめんなさい……」
「ううん、いいの。早くその人のところに行ってあげて」
「え?」
「その人のところに行くんでしょ? しばらくバイト休んで」
十和子さんは教えを説く教師のように微笑みかける。そこまでわかっていたのか。わかっておきながら、俺に断られるかもしれないのに告白したというのか。申し訳なさが雨のように降り注ぐ。
通り過ぎる電車の音が、俺と彼女の時間を終わらせる鐘の音のように聞こえる。
「……はい」
「その人のこと、幸せにしてあげてね」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、またバイトでね。井原君……」
そう言って十和子さんは俺に背中を向け、弱々しい足取りで帰っていった。最後に十和子さんは俺のことを名前ではなく名字で読んだ。彼女も俺への気持ちを完全に諦めたらしい。本当にごめんなさい。
でも、これで折り合いをつけることができた。
“待ってろ……”
俺はその足で大久保駅の改札を通り過ぎた。
どれほどの駅を通り過ぎただろう。まずは新幹線で品川から名古屋まで向かう。そこから快速で俺の町へ行く。今はローカル線で故郷に近づくところだ。
窓に映される景色は、故郷に近づくにつれて白が付け足されていく。流れる建物はどれも雪を被り、白銀の世界へと俺を運んでいく。
「……」
俺は誰も乗っていない車内の中、座席に座りながらスマフォを覗き込む。母さんに頼み、安里の連絡先を送ってもらった。彼女との個別のLINEのトーク画面に、2時間前に俺が送った『務武だ』『今からそっちに行く』のメッセージだけが表示されている。
既読はまだ付いていない。電話をしようとも思ったが、彼女の都合も考えてやめた。
「……!」
メッセージに既読がついた。俺の心臓は誰かのものになってしまったかのように、制御が効かずにバクバクと音を鳴らし続ける。静寂に満ちた車内で響いてしまいそうなくらいに。
いきなり行っても迷惑だろうか。また、彼女も俺のことを覚えてくれているだろうか。
ピコンッ
『あの場所で待ってる』
安里からのメッセージだ。安里がメッセージを入力する風景が思い浮かべられる。彼女は今もまだ待ってくれている。俺はリュックから当たりの王冠を取り出し、雪がちらつく外を眺める。
サイダーは俺達の絆の証でもある。安里への愛がある限り、炭酸は抜けない。この泡が……この思いが消える前に、彼女に伝えるんだ。
シュー
電車が止まった。すっかり日が沈み、時刻は午後7時を迎えている。俺は扉が開かれた途端、一気にホームを駆け抜けた。アイツと乾杯を交わした思い出が懐かしい。
俺は改札を潜り抜け、その勢いで“あの場所”に向かう。もはや荷物を先に実家に置いていこうなんて考えは起こらない。今すぐ安里に会いたい。
ザッザッザッ
道路に積もる雪を蹴散らしながら走る。安里の言う“あの場所”、それはもうあそこしかない。俺は暗闇を全速力で駆け抜けた。
数メートル先に明かりが見える。鈴木商店の前に設置されている電灯だ。店内は既に閉まっていて真っ暗だ。彼女が待っているところなんて、もうここしか思い付かないのだ。
そして、そこには俺の追い求めていた人の影があった。
「安里……」
「務武君……」
約一年半振りに目の前にする彼女の顔、声、息づかい。しばらく会わないうちに、安里はとてつもなく美しくなっていた。分厚いコートにロングスカート、ベージュのマフラーに身を包んで俺を待っていた。なんて寒そうなんだ。
「待ってたよ、おかえりなさい……」
「あぁ、ただいま……」
安里は俺に微笑みかける。彼女のつくる笑顔はどれもたまらなく可愛くて、その度に顔に触れたくなる。磁石で引き寄せられるみたいだ。
「本当にごめんな。俺、約束のことすっかり忘れて……」
「でも、こうして思い出して戻ってきてくれたじゃん。私はすごく嬉しいよ。務武君って優しいんだね」
優しいのは安里の方だ。暑い日も寒い日も、いつ帰ってくるかわからない俺をずっと待っててくれたんだから。
カランッ
ガラスの音がした。目線を下げると、安里の手には二本の鈴木サイダーの瓶が握られていた。
「さぁ、飲もう!」
「あぁ……」
プシュッ
王冠を開けると、中から炭酸が吹き出る。おもちゃのようで何だかおかしく思える。
「それじゃあ……」
「俺達の再会を祝しまして……」
『乾杯!』
二本の瓶がぶつかり合う。金高い音が俺と安里の再会を祝福してくれる。俺達はそのままグッとサイダーを飲んだ。
「ぷはぁ~! 冷てぇ~!」
「こんな寒い日に冷たいサイダーなんか飲んでる馬鹿な人、世界中で私達だけだよね!」
「まったくだ……」
こんなに雪が降り積もる田舎で、俺達は世界と相反するようにおかしな行動をとる。でも、これが俺達の……俺達だけの特別な儀式みたいなものなんだ。これが俺達の友情の証であり、愛でもあるんだ。
「そうだ! 王冠王冠……って、ダメだ~。当たりじゃない~」
「俺のもダメだ……」
「残念。まだまだ願いは叶いそうにないね」
苦笑いで王冠をゴミ箱に捨てる安里。俺は静かにリュックから当たりの王冠を取り出す。別れたあの日、密かに手に入れていたやつだ。
「……え? 務武君、それ……」
「あぁ、これを届けにここに来たようなものだからな」
俺は安里の手を掴み、手のひらに当たりの王冠を乗せる。ここで初めて安里が手袋をしていないことに気づく。俺は手袋をはめた両手で温めてやる。
「すごい! これで10個達成だね!」
「よかったな、安里。これで願いが叶うぞ」
「うん!」
そして、俺は東京を発つ前から、頭に染み付いて離れなかったことを尋ねる。
「安里、あの時、電車が出発する直前に言ってたよな? 俺に伝えたいことがあるって……」
「うん」
俺はそのために戻ってきた。彼女が伝えたかった大切な“何か”を受け止めるため、約束を果たしてここに帰ってきた。何となく内容はわかっている。しかし、俺はそれを彼女の口から聞かせてほしい。
「何なんだ? お前の伝えたかったことって」
「そんなの……決まってるよ」
安里は冷たい手で俺の手を握り返す。飛びっきりの笑顔で俺に告げる。
「私、務武君のことが大好き」
「……うん」
「私がね、10個の王冠を集めて叶えたかった願いは、務武君と恋人になって、いつまでも一緒にいられること……」
「……うん」
「務武君、私はあなたが世界で一番大好きです。私と付き合ってください」
今まで降っていた雪が突然止んだ。まるで世界に俺達二人しか存在しないと思えるような静寂がやってくる。安里、ずっと俺のことを好きでいてくれたんだな。
「いいよ」
「……え?」
「俺も安里のことが大好きだ。これからもずっと、一緒にいような」
ポタッ
俺の手袋に小さな一つの染みができる。一つまた一つと、染みが広がっていく。安里の溢れ出す思いで。
「すごい……すごいよ……ほんとに願いが叶っちゃった……」
安里の瞳から滝のように涙が溢れ落ちてくる。俺は安里を強く抱き締める。あぁ、お前はなんて尊いんだ。涙も、笑顔も、彼女の表す感情全てがいとおしい。
「ありがとう……ほんとにありがとう!」
「俺の方こそ、好きになってくれてありがとう」
「次は務武君の願いを叶える番だね。早速もう10個集めよう!」
「まだやんのか……もう十分満たされてるのに」
「まだまだこれからだよ!」
「ははっ、仕方ない。付き合ってやるか」
冷静に考えてみれば、雪の降る真冬の夜に冷たい炭酸飲料を飲むなんて、端から見れば非常に馬鹿らしいことだ。それでもそれが俺達の愛の形であることは誰にも曲げられない。
これからも俺達は、夏や冬に関わらずサイダーを飲む。互いの愛を確かなものにするために。
「大好きだ、安里……」
「私もだよ、務武君……」
俺は安里の柔らかい唇に自分の唇を重ねる。サイダーの甘い味わいが残っている。
「務武君、本当にありがとう。これからもずっと、ずっと一緒にいようね……」
「あぁ、もちろんだ」
俺達の足元に飲みかけのサイダーが置かれ、今も瓶の中で泡立っている。その泡は決して消えることはないだろう。俺達の愛が無くならない限り。
さて、次はどんな願いを叶えようか。とても楽しみだ。
KMT『この泡が消える前に』 完
この泡が消える前に KMT @kmt1116
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